庵の中の壊れ人

秋雨薫

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坂本あんな(21)

美しい男

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  私は扉を閉めて、奥へと入る。辺りは真っ暗だった。何も見えない、黒い世界。視界には黒以外の情報が入ってこない。肌寒い気がして、私は一つ身震いをした。
  やはりこの扉は民家の庭なんかに繋がっていない。ここは何処なのだろう。……異世界とか?いやいや、そんな非現実的な物があるわけが……うん、この空間があるからして非現実的な物か。

「すみませーん」

  私は一応呼び掛けてみた。しかし、反応は返って来ない。……誰もいないのかな。引き返そうかな、と後ろを振り返った時、突然世界が真っ白になった。ちなみに私の意識が無くなったわけではない。世界が黒から白に変わったのだ。
  真っ白なのは一瞬で、徐々にぼんやりと色を帯び、古びた和室のような場所へと変わった。

「えっ何!?」

  私は思わず後退る。日本人には馴染みのある和室。だけど、一面に張られた障子が何処か違和感があり変に不安を煽られる。入る事が出来ないはずの塀のドア。民家の庭では無く、居心地の悪さを感じさせる庵。私が入ったはずのドアは何処にも無くなっていた。もしかしたら、この障子を開ければ外へ出られるのだろうか。そう思って障子に手を伸ばした時――

「その先へ行ってもいいけれど、君の望む場所には行けないよ」

  背後から低くて滑らかな声が聞こえて、私は無意識に振り返った。
  そこには男の人がいた。見たことも無いほど綺麗な顔をした男が。金髪に琥珀色の瞳はこの和室に似合わない異国の雰囲気を出している。少し癖毛の頭の上にはシルクハット。黒いコートは膝下までの長さがある。その男は一言で言うと異様だった。しかし、それを薄めてしまうほど、彼の容姿は魅力的だった。今まで――いや、これから会うであろう男にも彼に適う人はいないのだろう。男は口角を上げてお辞儀をした。

「ようこそ、坂本あんなさん…」
「……!」

  私の名前を知っている。今ここに来た時に自分の情報は何も言っていないのに。……やはり、ただ者じゃない。

「そうだね。俺、魔法使いだからさ」

  男はサラリとメルヘンチックな事を言った。普通だったらドン引きしている所だが、この空間と私の名前を知っていたし、そして今心の中を読まれた為、信じざるを得なかった。

「魔法使いのイオリと申します」

  どうぞよろしく、とイオリはまたお辞儀をした。イオリの一挙一動に、私は見惚れた。何をやっても様になる。

「……ここは、何処なの…?」

  高鳴る鼓動を手で押さえながら、私は聞く。この高鳴りは、きっと恐怖や不安からではない。

「ここは、欲望が集まる場所だよ」
「……欲望?」
「ここに来たという事は、君には叶えたい欲望があるはずだ」
「坂本あんなさん。あなたの願い、お聞きします」

  その言葉は、とても誘惑的で、私の心に響いた。私の願い。それは――私は目の前のイオリを熱のこもった目で見つめる。視線に気付いたイオリはきょとんとして首を傾げた。

「……あんな?」

  呼び捨てされた瞬間、私は耐えきれずにイオリの黒い手袋がはめられた手を両手で握った。私の突然の行動を予測できなかったのか、イオリは綺麗に描く二重の両目を丸くさせる。

「えーと……」

  イオリは開いている手で頬を掻いた。その表情は困惑している。

「俺はあんなの願いを聞いたんだけど……これは何?」
「私の願いは…私の欲望は――」

  私は上目遣いで彼を見る。私の心の中は読めているはずなのにイオリは訳が分からないといった表情で私を見つめ返した。琥珀色の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥りながら、私は言った。

「あなたが、欲しい」
「……俺が、欲しい?」
「そう。あなたは今まで会った男の中で一番魅力的」

  私はうっとりした表情でイオリに言う。イオリは笑みを浮かべているものの、戸惑っている。

「今まで色んな人の願いを聞いてきたけどそんな願いは初めてだなぁ…」
「……ねぇ、いいでしょ?」

  私の一番の甘え顔を見せる。そこらへんの男なら、きっと頷くのに、イオリは笑んだだけで頷かない。……やはり頷かないか。だけど、私はどうしてもイオリを諦められなかった。こんないい男何処を探してもいない。例え普通の人間じゃなくても、この容姿の前じゃ、どうでもよくなる――

「……君は俺の容姿が欲しいのかな?」

  心を読んだイオリが、私の両手を丁寧に外してから言う。正直ドキリとした。私が欲しいのはイオリの――

「……やだなぁ。私はイオリが欲しいの。彼氏になって欲しいの。この願い、叶えてよ」

  平静を装いながら、笑みを見せる私。正直顔は引きつっていたに違いない。それにイオリに誤魔化そうとしてもすぐにバレてしまうのは――

「君が欲しいのは、羨まれる自分なんだよ」

  分かっていた。私はイオリの顔を見る事が出来ず、俯いてしまう。きっとイオリは私を軽蔑している。何て汚い女だろうって。分かっている。分かっているけれど――この欲望は止まらないの。留まる事を知らない欲望は私を醜く変貌させていく。それでも、私は醜くなる心の蝕むのを止められない。どんどん浸食されて私は造られていく。
  格好いい彼氏が欲しいと。利恵に負けたくないと。人に羨まれたいと――
  汚いと思うなら、突き放せばいい。だけど。イオリの口から出た言葉は侮蔑ではなく、

「綺麗だね、あんな…」

  とろけるような甘い言葉だった。予想外の言葉に、私は顔を上げる。イオリと目が合う。綺麗に光る赤い瞳と――
  あれ、イオリってこんな瞳をしていたっけ。その瞳から目を離せない。イオリが私の手を取って、微笑む。

「とても人間らしい欲望だよ、あんな」

  何だか、頭の中がふわふわする。何も考えられない。

「欲望を抱えているからこそ、人間は人間らしくいられるのさ。……俺は人間らしいのは好きだよ」

  イオリの言葉だけが、すらすらと頭の中に入っていく。
  イオリ。私の欲望が好きだというのなら。私の物になって。私の願いを、叶えてよ。

「残念だけど、俺は俺をあげられないな」
「でもっ」
「あげられないけど、これはあげられるよ」

  私の言葉を遮ってイオリが手を叩く。すると、イオリの手元に突然黒い仮面が現れた。それはふわり私の方に浮かんできて、恐怖を覚える暇も無く思わずキャッチをしてしまう。
  随分とのっぺりとした仮面だ。目と鼻の穴と口が開いているだけて装飾は一切されていない。裏返して見ると、額の所に金色の字で何かが書かれている。だけど、それが何て書いてあるのかは分からなかった。

「これは……?」
「君の理想の顔を作ってくれる仮面さ。それを付けると、思い通りの顔に変身する」

  イオリは私の手から仮面を取って自分の顔にそれをかざす。すると、仮面が淡い光を放ち、みるみるとその姿を変えていく。

「――!」

  私は目の前の光景に、思わずあんぐりと口を開けた。
  イオリの顔が、私になっていた。姿はイオリのままなのに、顔だけは私。仮面だった面影もない。瞬きもするし、作り物だなんてとても思えないほどだ。まるでイオリが私だったように、そこに私が存在していた。

「これを付ければ、どんな人にもなれる。……もちろん俺にも」

  『私』は私が浮かべた事のないような薄い笑みを浮かべながら、言葉を続ける。その声色も、私のものと同じだ。私は少し気持ちが悪くなった。

「そして、どんな人にも“させられる”力がある」
「……させられる?」
「そう、誰かを俺にする事ができる。……例えば」
「………例えば?」

  気持ち悪さを我慢しながら尋ねると、『私』は目を細めた。

「君の、彼氏とかさ」

  ドクンと心臓が響く。脳裏にニコニコ馬鹿みたいに笑っている達喜が浮かんだ。
  あの男が、イオリになる?あの男が、イオリの代わりになる?あの男が、利恵を思い知らせてくれる?利恵が馬鹿にしたあの男で、利恵を馬鹿にできるんだ。
  ――ああ、何て。私は目眩がした。何て、魅力的な仮面なのだろう。

「だけど、一つ問題がある」

  いつの間にか仮面を外したイオリが、私の目線と仮面を合わせながら人差し指を立てる。

「問題……?」
「この仮面は、普通の人間が使うと、二度と外れない。一生、その顔で生き続けるんだ」

「……一生」

  達喜は一生元の顔に戻れない―?あの、えくぼのある愛嬌のある顔が二度と見られない?
  何だ、そんな事か。そんなのどうでもいい。達喜の顔が無くなろうと。達喜はイオリになるの。達喜だってあの綺麗な顔になりたいに決まっている。

「…分かった」

  私は、イオリの手から仮面を受け取った。

「いいの?」

  イオリがわざとらしく首を傾げながら聞く。私は仮面を包み込むように持ちながら頷いた。

「いいの。達喜なら、私のお願いきちんと聞いてくれる」

  だって、私の言うことは何でも聞くから。私の為なら、顔だって捨ててくれる――

「ふふっ…」

  イオリが含み笑いを漏らす。私の言葉を聞いてなのか、私の心を読んでの笑みなのかは分からなかった。

「楽しくなってきたじゃないか……ねぇ、あんな?」

  イオリが私に向けて手をかざす。何となく元の世界に戻されるような気がした私は、仮面をぎゅっと抱き締めながらにこりと笑う。

「私の願いを叶えてくれてありがとう」

  イオリも赤い目を細めて笑うと、黒い手袋をした手から眩い光が放たれ、私は思わず目を閉じた――



「俺は誰の願いも叶えてなんかいないよ。……ただ、聞いているだけさ…」

  光が消え、私がいなくなった空間で、イオリが妖艶に微笑みながら言ったのを、もちろん聞くはずはなかった――


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