送り伏

くわととろ

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送り伏

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送り伏

 狗は独りだった。
 狗が己を狗だと自覚した時からそれは変わらない。狗は今までの人生の全てをその山で過ごした。
 仲間や同類といった存在と遭遇することは一度たりともなく、孤独を孤独だと認識することもままならなかった。
 だが、狗は一人で生きることに対して悪感情を抱くことはなかった。幸いなことに狗は餌を獲るための能力に長けていた。だから一人で生きていくことはなんでもなかった。

 ある日、狗が山を散策をしていた時、一人の人間が荒い山道を歩いているのを見つけた。人間を見るのは初めてではない。何度か直接対面したこともあった。狗はかなりの巨体を有していたので、狗を目にした人間は総じて腰を抜かし逃げていくのである。狗にとって人間は野兎と大して差が無かった。
 それは若い娘であることが狗にはわかった。人間自体が肉付きがそこまで良いわけではない上に、その女となると殆ど食う場所など存在しない。
 だから、狗はそれを無視して、もっと良い餌を見つけようと思い、その場を離れようとした。
 刹那、狗の耳に劈くような悲鳴が刺さった。
 
 それは先程の娘が発したものである。狗は娘の方に視線を戻すと、娘が荒々しい様子の猪と対面していた。その猪はここらを支配しているヌシの子分であることを狗は知っていた。
 どうやら娘は運の悪いことにその猪に惚れられたようで、猪の口からは涎が滝のように垂れている。
 娘は恐怖から腰を砕いたようで、土に坐したまま、動くことが出来ないようだ。

 狗は薮に隠れてその経緯をじっと眺めていた。猪はじわじわと娘に近づいていく。娘は震えるばかりで叫ぶことすら出来ない。
 別に珍しい光景でもない。これが自然の摂理、これが弱肉強食。か弱い娘が一人で山に入ったこと自体が無謀だったのだ。
 どうでもいい、さっさとここから離れてしまおう。狗はそう思ったが、なぜだか娘と猪から視線を離すことが出来ずにいた。

 そしてとうとう猪が、娘に飛びかかった。娘は短い悲鳴を挙げ、目を瞑る。
 娘は来たる激痛と死を覚悟した、が一向にそれらが娘に到達することはなかった。
 娘は不思議に思い、目を開けると先程まで健在だった猪が無様に横たわっていた。
 そして、その喉元に食らいつく巨大な銀色の山犬。

 狗は猪から口を離し、怯える娘を見据える。娘は新たな捕食者の出現に絶望していることが窺い知れた。
 仕留めた猪は呻き声をあげながらしばらく痙攣していたが、それも猪が息絶えたことにより直ぐに止んでしまった。静寂が狗と娘の間を支配する。

 やがて、狗は娘に興味を失いその場を立ち去った。娘は暫く動けずにいたが、どうにか立ち上がり山からすぐに降りていった。

 それからは狗にとってのいつもの日常が続いた。一人で殺し、一人で食う。
 同じことの繰り返しであったが、狗は特に変化を求めることはなかった。
 ある日、またいつものように山を渡り歩いていた。すると、また件の娘がおっかなびっくりに山道を歩いているのが見えた。

──懲りないものじゃ。

 狗はそう思った。
 娘はどこか思い詰めた表情をしていた。なんとなく、狗は戯れに脅かしてやろうと思い、山道に飛び出た。
 娘は狗を見るなり、悲鳴をあげた、がそこから逃げ出すような真似はしなかった。
 寧ろ娘は逃げ出すどころかそこに跪いてしまったのだ。
 娘は震えながらたどたどしく言う。

「どうか私を腹に収め、気をお鎮めください。 どうか村の他の者たちだけはご勘弁を」

 狗は困惑した。
 まさかこんなことになるとは思いもしていなかった。だが、狗の戸惑いを他所に娘は先述の言葉を何度も何度も、まるで経の如く繰り返している。
 狗はどうすればいいかわからなかった。
 そもそも近辺に村があることすら知らなかった狗にとって、娘の言っていることは的外れもいいところであった。

──面倒な、喰ろうてしまおうか

 そんな考えが狗の頭に浮かぶ。
 だが、生憎狗の腹は膨れており、目の前のやせ細った娘を食べる気にはとてもなれそうになかった。
 暫く、思案してみたが、やはりどうすればいいかわからない。

 無理矢理にでも山から追い出そう。
 狗はそう思い、娘の着物の裾を引っ張った。娘はやはり怯えた目で狗を見つめている。

「ひぃっ!! あ、あぁ……どうか……」

 狗は懇願する娘を無視し、娘がやってきた道を歩いていく。娘は怯えながらも狗の後をついて行く。
 どうやら狗の住処にでも連れていかれると勘違いしているようで、その面持ちはある種の覚悟が刻まれていた。
 狗はたまに振り向き娘の様子を確認しながら、娘の足跡を辿っていく。
 そして、山の出口までやって来た。それは狗にとって生まれて初めての外界との対面であった。

 本来の予定ならばここで娘を放して、自分はさっさと帰るつもりであった。だが、ふとある好奇心が湧いた、湧いてしまった。

──山の外はどうなっているのだろう。

 狗はそう思ってしまったのだ。後ろの娘を見据える。娘は状況を飲み込めずに戸惑ったような顔をしている。
 道を見るとやはり娘の足跡が続いている。つまりこれを辿りさえすれば娘の言う『村』に行ける。
 狗はやはり何も言わずにそれを辿る。娘の顔は段々と青ざめていった。
 狗が村の人間を食ってしまう気だと勘違いしたのだ。

「どうか、どうかっ、私だけでご勘弁を!お願いします!お願いします!」
 
 娘は泣き叫んだ。だが狗の好奇心の前ではとってそんなことは些末なことに過ぎない。
 狗は特に気にせず、村へと着々と足を進めた。そして、狗の目に沢山の建築物が飛び込む。家々を囲む田圃では様々な人間たちが作業をこなしていた。
 初めて見るそれらの光景は狗の目に酷く新鮮に映った。小童らがなにやら楽しげに走っている。壮年の男がつまらなそうに牛の手網を引いている。
 
──なんじゃこれは。

 自然と息が荒くなる。まるで雷に心臓を貫かれたかのような衝撃に震えが止まらない。 
 絶えず目に飛び込んでくる、様々な営み。なんと騒がしいことか。なんと忙しないことか。なんと愉快そうなことか。なんと羨ましいことか。

 狗はそこで初めて喧騒というものを知った。初めて群れというものを知った。初めて食う食われる以外の関係を知った。

 初めて孤独という状況を、それに伴う淋しさという感情を知った。知ってしまった。

 暫くそこで呆然としていると、一人の若者が狗と娘を見つけてしまう。
 若者はすぐに叫びを上げると、他の村人たちも狗を見て声を上げる。
 皆一様に怯えの色を浮かべる。

 狗はそれによってようやく我に返った。娘を見るとやはり狗に許しを乞うていた。村の若い衆は鎌や鍬を持ち出し狗から村を守るように立ち塞がった。
 狗はすぐさま後ろに飛び下がり、村人達と娘を一瞥すると山に帰っていった。

 それからというものの、狗の日常は変貌してしまった。なんてことのなかった孤独は地獄の業火のように狗の心を焦がした。
 自分もあのように生きたい。叶わぬ望みと無意識に悟っていながらも、そう願わずには居られなかった。
 獲物を狩りながらも、頭に浮かぶのは楽しそうに駆ける子供たちの顔。
 肉を屠りながらも、口が欲するは食ったことも無い稲の味。

 憧れに身を焦がしながら狗は生きた。なんど村に降りてしまおうかと思ったことか。獣としての本能と、ケダモノとしては類稀な理性によってそれらを自制はしていたが、それも時間の問題であった。
 
 そんなある日、狗の身に大きな変化が訪れた。朝起きると、猩々さえ真っ二つにする鋭い爪が無くなっていた。猪の牙さえ噛み砕ける牙が無くなっていた。遥か彼方の物音さえ聞き分けることのできる耳が無くなっていた。全身の毛が無くなっていた。

 狗はすぐさま、水場に走った。狗は未だ気がついていなかった。己が二足で立っていることに。手を使わずに走っていることに。

 水面に浮かぶ見慣れない己の顔を見た時、全てを悟った。

──人間になれたのだ!

 狗は溢れ出る歓喜に身が張り裂けそうになる。なんという僥倖か。狗はすぐさま山を駆け下りた。
 顔はこれまでにない程に悦びに歪んでいる。

 忘れたくとも忘れられなかった村までの道筋を風のように走り抜ける。
 ようやくこの苦しみから抜け出させる。そう思うと、際限なく走る速度が上がっていく。

 気がつけば、そこは以前やって来た村の前だった。狗の口から初めて発する類の声が漏れる。それが笑みであることを狗はまだ知らなかった。
 一人の男が狗に気がつく。男は狗を見るなり驚愕し、近づいてきた。

「だれだてめぇ。娘が裸でらそれも山の方から」

 男は訝しげに狗を見つめる。だが、その目には警戒の色以上に劣情から生まれたものが含まれていることに狗は気づくことが出来ない。

「儂は人じゃ。 村に入れさせてくれ」

 狗は人間の言葉を使い、そういった。嬉しさに溢れたその綺麗な声色と、なにより狗のあまりにも端正な容貌を前に、男は思わず息を飲む。

「ど、どこの村から来た」

「山から来た。 あそこの暮らしは飽きたんでな。 どうかこの村で暮らさせて欲しいじゃ」

「あの山に人が住んでいるなど聞いたことも無い。 本当はどこから来た? 」

「山じゃ」

 ただならぬ様子に男はどうすべきか迷った。まだ明け方早く、自分以外に外に出ている人間はいなかった。
 目の前の女は明らかに只人ではない。だが、それ以上に女の並外れた美しさが男の正気を惑わせたのだ。

「とりあえず、俺の家へと来い。 若娘が真っ裸で、みっともない。 俺の家に妹がいるから着物を貸してやろう」

 男は顔を紅潮させながらそういった。狗は男の言葉に大きく頷いた。自分が村に受け入れられたと思ったからだ。

 男の家はかなりのボロ屋だった。男の名を儀兵衛と言った。儀兵衛は幼い頃に流行病で両親を亡くしており、以降は妹のきよとともに二人で力を合わせで生きてきた。

「少し待て、着物を持ってきてやる。 それと妹も連れてくる」

 儀兵衛は狗を居間に置くと、そのまま奥の部屋へと行ってしまった。狗はそわそわと辺りを見渡す。土以外で構成された地面の上で坐すのは初めての経験だった。
 目の前では竈がぱちぱちと音をたてて燃えており、それもまた面白かった。

「待たせたな」

 狗が火をじっと見つめてにこにこしていると儀兵衛が着物を携えて戻ってきた。

「変なやつだな。そんなに竈が物珍しいか」

 儀兵衛が可笑しそうに笑いながら着物を渡してきたので、狗はよくわからぬまま着物を受け取った。暫く、狗は受け取った着物を不思議そうに色々な角度から観察する。

「おいおい、遊んでないで早く着ろよ」

「男、これはなんじゃ?」

「はぁ?」

「兄さん、お客さんに着物は合いそう?」

 儀兵衛が顔を顰めると、今度は奥の部屋から娘が出てきた。
 驚くことに狗にとってその娘は初対面ではなかった。件の変な娘だ。

「えっ!?本当に真っ裸じゃない!! それにとても別嬪さんね!」

「言っただろう? それにしてもこいつ変なんだよ、きよ」

 戸惑う狗を余所に二人はやんややんやと騒いでいる。

「娘、これはなんじゃ?」

「えっ? なにって、着物よ」

「きもの? もしや、お主らが見に纏っとる、変な毛のことか?」

 きよと儀兵衛は一瞬、顔を見合わせた後、大笑いをはじめた。狗は益々不思議そうに首を傾げる。

「なんじゃ?」

「あんた、本当に変なんだねぇ。 どうやって着るか教えてあげるからこっちに来て」

「教えてやれ教えてやれ」

 狗はきよにされるがまま、着物を見に纏わされた。着物は上等なものとはとても言えない古く、汚れたものではあったが、狗の美しさによりボロ衣がまるで十二単かのように錯覚させられた。

「ほぉ…」

「はぁあ…」

 二人は思わず息を呑む。狗は着物による不自由さを不快に思いながらも、目の前の二人と同じような装いになれたことに嬉しさを感じてやはり笑っていた。
 
「これで貴様らの仲間か、仲間かっ?」

「あぁ? いや違うが」

「なんじゃと? じゃあどうやったら仲間になれる」

「そもそも私たち、貴方の名前も知らないわ。 とりあえずお互い自己紹介しましょうよ」

 狗はまた首を傾げたが、二人はそれを気にせずに自分たちの名前を狗に告げる。

「俺は儀兵衛。 こいつはきよ。 二人で細々と暮らしてる」

「よろくしくね。 それで貴方の名前は?」

「名などもっておらぬ」

 狗はきっぱりと告げた。二人は間の抜けた表情を浮かべる。

「はぁ? 本当に変なやつだなお前」

「名前ないの? 」

「うむ」

 二人は訝しげに狗を見据えた。ここにきて狗の怪しさへの警戒がまた強まってきたのだろう。

「ようわからんが、名というのはどうすれば手に入る? それがあればお主らの仲間に入れるのじゃろ?」

 だが、狗のそんな無垢な様子に警戒もすぐに絆されてしまった。二人はすぐに微笑むと、優しく狗に告げる。

「名が無いというのなら、俺たちがお前の名前を決めてもいいか?」

「ほう、お主らが名をくれるのか」

「えぇ、貴方が良いというのなら是非、名付けさせて?」
 
 狗が大きく何度も頷くと、兄妹はこしょこしょと小さな声で話し合い始めた。
 そわそわと狗は二人から名付けられるのを待つ。もし、無くなってしまったはずの尻尾が健在であるのならば、さぞ大仰に振られていたことであろう。

「あの子、物凄く犬ぽいわよね」

「確かに、仔犬みたいな表情してるしな」

「じゃあこんなのはどお?……」

「おぉ、そりゃいい。 俺もあれ好きだしな…よしっ」

 儀兵衛が己の膝を叩いたの合図に、二人は狗の前で居直った。

「なんじゃなんじゃ、もう決まったのか?」

 狗は笑みを浮かべながら、いまかいまかと物欲しそうに二人を見つめる。

「おう、決まったぞ!」

「貴方は今日から」

───伏姫。

 狗はその日から、人間になった。



 とある国の、これまたとある山の麓に小さな村があった。村は豊かではなかったが、特別貧困に苦しむこともなく、飢饉に襲われることも当時としては珍しく殆ど無かった。
 村に住む百姓達もみな、勤勉な者ばかりで藩の役人たちの覚えも良かった。

 だが最近、村ではある噂が流れていた。なんでも、山に住む大きな山犬が村を付け狙っているという噂だった。
 元々、村人たちから疎まれていた儀兵衛の妹が山犬を連れてきてしまい、そのせいで他の村人も危険に苛まれている。
 そんな根も葉もない噂が村に蔓延していた。実際、その山犬が村までやってきたのは事実であったので、元々村八分気味であった兄妹の扱いもより一層露骨に酷くなっていた。
 
 そんな折である、得体の知れない余所者の娘が兄妹と共に暮らし始めたのは。
 その娘はとても美しく、ある種の妖艶ささえ周囲に感じさせるほどであった。ある日、突然娘は村にやってきた。そして嫌われ者の兄妹と暮らし始めたのである。兄妹からは伏姫と呼ばれて親しげであった。
 村人の中では物の怪の類ではないかという声もあがっていた。少なくとも、並々なるものではない。その考えは皆、一致していた。

「おい、儀兵衛よ。 稲刈りというのはこれでいいのか?」
 
 伏姫が何十束もの稲穂を肩に負いながら儀兵衛に声をかけた。

「これまた随分と。 お前は本当に力持ちだなぁ」

 儀兵衛は感心したように言った。褒められた伏姫は嬉しそうに胸を張る。

「儂はすごいか? 仲間にしたいか?」

「おうおう、すごいすごい。 是非ともずっと仲間で居て欲しいよ」

 実際、伏姫が儀兵衛の仕事を手伝うようになってから、格段と儀兵衛の負担も軽くなったのだ。
 伏姫は見た目は歳若い娘なのだが、その実、若い男である儀兵衛よりも何倍も力持ちだった。
 さらに物覚えも良く、一度教えればすぐに物にすることが出来たのだ。

「ふふふ、そうか、そうじゃろう」

 伏姫が鼻を鳴らす。
 儀兵衛は思わず笑みを零す。見た目は妹のきよと同じくらいなのに、その振る舞いはとても幼いのだ。伏姫と接しているとまるで子供をあやしているような気分になる。

「じゃあ今日はこの辺にして帰ろうや。 伏姫のおかげで早く終われた」

「ふむ、そうじゃな! きよも待っとるだろうしの!」

 伏姫は稲穂を背負ったまま、家に向かって走り出した。儀兵衛はその無邪気な背中をみて、笑みを浮かべる。

「妹がもう一人増えた気分だなこりゃ」

 儀兵衛は小さく呟くと、伏姫の後をゆっくりと歩いていった。

「儀兵衛、儀兵衛」

 途中、村人の一人から声を掛けられた。
 儀兵衛は立ち止まり、村人の方へと顔を向ける。

「なんだ、どうした。お前らが俺たちに声を掛けるなんぞ珍しいこともあったもんだ 」

 儀兵衛は嫌味の気持ちを存分に込めて物を言ったが、声を掛けてきた村人は特に気にした様子もなかった。

「お前、最近何か妙なことは起こらなかったか?」

「あぁ? 特にはねぇな。 それこそ伏姫がうちに来たことくらいか」

 それを聞いた村人は神妙そうな表情を儀兵衛に向ける。

「その伏姫ってのは、どこからやってきた?」

「知らん。 山とは言ってたが」

「山? 本当にか?」

「あぁ。 まぁ多分ホラだとは思うが」

 村人は疑念を深めたように儀兵衛を見据える。 儀兵衛は何が何だかわからなかったが、自分たちを散々遠ざけてきた村人たちをよく思っていなかったので、こんなやつは無視してさっさと帰っしまおうと思い歩き出した。

「おい儀兵衛、待て」

「なんだ」

 声を掛けられたのでしょうがなく儀兵衛は立ち止まり振り返る。村人はまるで親の仇を見るかのような目で儀兵衛を睨んだ。

「お前ら兄妹はこの村に恩義があるだろう。 それを忘れて、村や俺たちに仇を成そうとしている、なんてことはねぇよな?」

「あぁ?ねぇよ」

──恩義なんて、あるわけねぇだろうが。

 思わずそんな悪態をつきそうになったが、ぐっと堪えて歩き出す。
 先の村人の言動に内心、激しく腹を立てながらも二人の妹が待つボロ屋へと足を急かした。

「ただいま」

「儀兵衛、遅いぞ! なにをしておったんじゃ! きよの飯がもうできとると言うのに!」

「お兄ちゃん、おかえり。 伏姫ったら、飯をはやく食わせろってうるさいのよぉ?」

「ははは、そりゃ悪かったな。 飯にするとするか」

 こんなに幸せな日々は生まれて初めてだった。それは儀兵衛にとっても、きよにとっても、そしてなにより伏姫にとってもそうだった。

「きよの飯は相変わらず美味いのお! 山の鹿どもよりもよっぽど美味じゃ」

「そお?ありがと」

 伏姫が来る前まで、きよが笑うことはほとんど無かった。それは儀兵衛も似たようなものだった。
 両親がはやくに死んでから、頼れるものなんてひとつもなく、いつ口減らしに追い出されるか気が気でなかった。

 何か起これば一番に切り捨てられる位置に兄妹は居たのだ。そしてそれは、この間の山犬の騒動で改めて思い知らされた。
 ある日、きよが恐怖に染まった目で山から降りてきた。理由を聞いてみると、なんでもとんでもない大きさの山犬が出たというのだ。それはきよの二回りくらいある猪を噛み殺した、と。

 すぐにその報せは村に広まり、それは物の怪であるとか、山の神であるとか各々が勝手に話を進めた。
 そしてその結果、村を危険にさらさないように生贄を出すことが取り決められた。勿論、その生贄というのは山犬の目撃者であるきよだった。

 儀兵衛は必死に懇願した。どうか、きよを生贄にするのはやめてくれ、と。俺が代わりに生贄になろうと。

───腐ってもお前は働き手だろう。そう易々と死なせることは出来ない。 それならばきよが死んでも困ることは無いだろう。

 村人たちは一様にそう言った。なんと心無いことか。どこまで俺たちを貶めれば気が済むのだ。

 殺してしまいたいとすら思った。だが、出来なかった。どうしようもない理性が枷となり、儀兵衛を捉えて離さなかった。
 
 死にに行く妹を見送ることしか出来ない自分が憎くてたまらなかった。きよは気丈に笑って見せたのだ。普段から笑わないきよが。
 儀兵衛は村人たちに見張られていた。ついて行くことさえも許されないのだ。

──きよが戻らなかったら俺も死のう。

 儀兵衛は内心、そう決心して家へと籠った。それから暫くして、外が騒がしくなったことに気がついた。
 外に出てみると、女子供は逃げ惑い、村の若い衆が山の方向へ向かって走っていってるではないか。
 もしやと思い、儀兵衛もついて行ってみると、山に面している田圃の向こうに大きな山犬が佇んでいるのが見えた。美しい、灰色の毛並みを携えた立派な山犬だ。

 山犬は殺気立つ村人たちをじっと見つめていた。儀兵衛はふと、その傍らに人影があることに気がついた。それはきよだった。
 きよは顔面蒼白で、しりもちをついていた。儀兵衛の胸にかってないほどの喜びの念が湧き出る。だがそれと同時に、目の前できよを喪うことになるかもしれないことに気がつき、また恐怖心が湧き出した。

 しばらく、そんな光景が続いたが、山犬が後ろに飛び退きそのまま山へ帰っていったことにより、一気に村人たちの緊張が解かれた。
 すぐさま、儀兵衛はきよの所へと駆け寄る。

「大丈夫か!? なにがあった!」

 きよはなにがなんだかわからないが、とにかく喰われることはなかったという旨のことを儀兵衛と村人たちに説明した。
 だが、村人たちはきよの無事よりも、山犬の存在の方が重要なようで、憔悴しきってるきよにもお構い無しに大人数で質問攻めをしていた。

 それからというものの、儀兵衛ら兄妹は完全に村八分にされるようになった。なんでも儀兵衛たちが山犬に村が狙われるように企てたのだと。

 益々、肩身が狭くなり兄妹の表情もどんどん暗くなってきた頃、儀兵衛は心労からかよく眠れずにいた。
 その日も本来よりもかなり早い時間に起きてしまい、外に出ていた。
 肌寒い風に当たりながら、物思いに耽っていると、ふと後ろから足音がした。
 振り返ると、裸の女が立っていた。美しい、銀色の髪を携えた娘。
 まさか、この異様な娘が自分たちに幸を与える存在になるとはこの時は思ってもいなかった。

「どうしたんじゃ儀兵衛、腹でも痛いのか? 儂が代わりに飯食ってやろうか?」

 気がつくと、伏姫が心配そうに儀兵衛の顔を覗き込んでいた。

「いや、ちょっと考え事があってな。 あと、飯はやんねぇ」

「むぅ、それは残念じゃ。 ならはよ食え!」

「言われなくてもわかってら」

「ふふふ、まだおかわりはあるから伏姫も食べて食べて」

「おうおう!もっと食べてやるわ!」

 薄暗い雰囲気を纏わせていた兄妹の家からは、今では笑いが絶えなくなっていた。今まで知らなかったものを三人は沢山知ることが出来た。家族の温かみ、幸せの味、分かち合うことの歓び。
 だが、まだ知らないこともあった。

───全ての人間が、他人の幸せを祝える訳では無いということを。



 実った稲を粗方刈り終えたころ、儀兵衛らは冬へと向けて準備を着々と積み重ねていた。
 比較的温暖な地域とは言え、無防備で過ごせるほど冬は甘くない。そしてなにより、今年は家族が一人増えたため、より一層気合を入れて冬越しの準備をしなければならなかった。
 儀兵衛は冬前になると遠くの町に売りに行く為に草履を作るのが恒例行事となっていた。きよも普段の仕事をあまり手伝えない分、毎年儀兵衛の草履作りに一日中付き合っていた。

「儀兵衛よ、草履作りとは中々奥が深いのぉ」

「そうか? ただただ面倒くさいだけだと思うが」

 伏姫もまた草履作りに精をあげていた。物覚えがいい彼女はやはり、草履作りもあっさりと上達してしまった。
 今では作る速度も草履の質も儀兵衛のそれを完全に上回っていた。

「伏姫は本当に手先が器用ね。 私なんて半日に十個くらいが限界なのに、伏姫ったら三山くらい草履の山を積み上げてるもの」

「ふっふっふっ、もっと褒めてよいぞ? 」

「おい、きよ。あんまり褒めんなよ。 すぐ調子に乗っちまう」

「嫉妬するでない、儀兵衛よ」

「してねぇわ阿呆」

 いつものやり取り、だがそれは何よりも掛け替えのないものであることを皆、知っていた。

「それにしても今年はかなり出来たな。 潮時だな、そろそろ売りに行くかね」

 儀兵衛は立ち上がり、作った草履を袋に入れ始める。伏姫は不思議そうにそれを眺めていた。

「む? なにをしておる儀兵衛。 それは儂らの草履じゃろう?」

「馬鹿言え、草履はこんなに要らねぇよ。 これは町に売りに行くためのもんだ」

「まち? なんじゃそれ」

 また始まった、と儀兵衛はため息をつく。 
 伏姫の世間知らずは度を越していた。ついこの間など、年貢を取り立てに来ていた侍を見て、あの巻き寿司を頭に乗っけた禿はなんじゃ、などと言っていたのだから。

「伏姫が住んでたっていう山があるでしょ?あそこの向こうの山のまた向こうに大きな町があるのよ。 そこに冬の間の日銭稼ぎに毎年、お兄ちゃんが草履を売りに行ってるの」

「ほぉー」

 伏姫が興味深そうに唸った。
 実際のところ儀兵衛は伏姫はその町からやってきたのではないかと考えていた。伏姫の容貌はとてもじゃないが下々のものとは思えなかった。もしかしたら、どこぞの名家の娘がその不自由な暮らしに耐えかねて、抜け出してきたのではないか、と。
 しかし、目の前の野生児一歩手前にいるような娘の仕草を見ていると、どう考えても有り得ないとすぐに結論づけた。

「伏姫は伏姫ってことだ、な」

「なんじゃ儀兵衛。 急に儂の名を呼びおって」

「いやなんでもない」

「なにかあるのか! 飯か! 大人しく教えろ!」
 
 儀兵衛は照れくさそうに伏姫の追求を誤魔化す。きよは微笑ましそうにその光景を見ている。

「むぅ、まぁよい。 そんなことより儀兵衛」

「ん? なんだよ」

「儂もその町とやらに連れて行け! 」

「はぁ?」

 突拍子もない提案に儀兵衛は間の抜けた声をあげる。

「やだよ。 お前絶対騒ぎまくるじゃん」

「騒がん!約束する! だから儂も町に連れてけ! 」

「遊びに行くわけじゃないんだぞ? 」

「私はいいと思うわ、兄さん。 伏姫、稲刈りでも草履作りでも頑張ってたし。
ご褒美ってことで、連れて行ってあげて?」

「そうじゃそうじゃ! 儂は頑張った! ご褒美寄越せ!」

「……きよが言うのなら、まぁいいか。 しょうがない、連れて行ってやろう」

「まことか! よくぞ言ってくれた、きよよ!」

 そんなんこんなで、儀兵衛と伏姫の二人で町に行くことが決定された。儀兵衛も建前では渋りながらも、内心は旅の道ずれが増えたことにある種の楽しみを感じていた。

 翌日の早朝、三人は家の玄関に立っていた。

「兄さん、伏姫、どうか気をつけて、無事に帰ってきてね?」

 きよが、二人の背中に切り火を切った。

「ちょっと町に行くのに大袈裟な。 今日中に帰るし心配は無用だ」

「そうじゃ、儂がついてるから安心せぇ!」

「ご馳走様用意して待ってるから、できるだけ早く帰ってきてよ」

「おうよ」

「儀兵衛を引き摺りながらでも早く帰る!」

 そう言って二人はきよの見送りとともに家を後にした。伏姫にとって久しぶりの山であったが、何故だが儀兵衛と歩く山道は、歩き慣れているはずなのにとても新鮮なものに見えた。

「そう言えば、この山には山犬が最近住み着いているらしい」

 何気なしに儀兵衛がそう言った。

「山犬? なんじゃそれ」

「でっかい犬だよ。 一応気をつけておけよ」

「儂にとっては恐れるに足らんじゃろうが、お主は弱いからの! まぁ気をつけておいてやろう!」

 結局、山道は鹿一匹とすら遭遇することなく、抜けることが出来た。
 しばらく田圃に囲まれた道を歩いていくと、ぽつぽつとすれ違う人間が増えていく。町に近づいてきた証拠である。

「そろそろ着くぞ。 いいか?あんまり騒ぐんじゃないぞ」

 そう言われた伏姫は口に手を当ててコクコクと何も言わずに頷いた。自分は騒がないという意思表示なのであろう。

 やがて、ある種の人だかりへと到達する。
 町に辿り着いたのである。村とは比べ物にならない喧騒に、様々な建物。
 伏姫の好奇心は益々増大していった。視線が定まらない。あちらへこちらへ、興味の対象が右往左往している。

「うおぉ……」

「あんまりキョロキョロすんな。 人にぶつかるぞ」

 儀兵衛の忠告も虚しく、前をしっかり見ていなかった伏姫は正面からやってきていた女とぶつかってしまった。

「おうっふ!」

「っと、ほら言わんこっちゃない! 大丈夫か!?」

「ぬおお!女、すまぬ!」

 伏姫にぶつかられた女は、どこか上品な雰囲気を身にまとった娘であった。

「ええよええよ、ちょっと軽くぶつかっただけやさかい。 気にせんといてやー」

 そう言うと、女は狐のようなつり目で二人を見つめて微笑んだ。そして、伏姫を見て何かに気がついたかのような声を漏らした。

「あら、これまた珍しいこともあるもんやわぁ。お山のワンちゃんが人里に降りて暮らしとるなんて」

 女は二人に聞こえるか聞こえないかというような声量で呟いた。

「? なんじゃ?」

「ふふ、こっちの話や、こっちのな。 そんなことよりもお二人とも、ここの人とちゃうやろ?」

 女は話を逸らすように二人に質問を投げかけた。

「あ、あぁまあそうだが」

「せやろせやろ。 私もここに来たのは最近やってなぁ。余所者どうしなんか困ったことが助け合おうや。 私はあそこの角曲がったとのろで『龍宮屋』って店やってん。
暇があったら是非来てや~」

 女はずっと儀兵衛を見ずに、伏姫だけを見据えながらそう言った。まるで、興味があるのは伏姫だけであると伝えているかのように。

「ほなら、またなぁ、伏姫ちゃん」

 女はそう言うと、人集りに溶けてしまった。

「なんじゃ、変なやつじゃったな」

 伏姫が訝しげに目を細める。

「あぁ、お前と同じくらい変なやつだった」

「なんじゃと!?」

 そんなやり取りをしながらも、儀兵衛の胸の中では言いようのない嫌な感触が渦巻いていた。

 草履はそこそこに売れた。いや、例年に比べればかなりの飛躍と言えるだろう。やはり、一番売れたのは伏姫の作った草履だった。
 例年以上に潤った懐を撫でながら、儀兵衛と伏姫は適当に買い物をして帰ることにした。

「おい、伏姫、これなんかきよに似合うんじゃないか?」

「うむ! 儂も良いと思うぞ!」

 綺麗な細工が施された簪を見ながら、二人できよへの土産を見繕っていた。
 買うことに決めたのは白い撫子の飾りが着いた簪だった。そこそこに値は張ったが、草履のおかげで余裕もあったため、それに決めた。

「伏姫、お前はどれが欲しい?」

「む?別に儂は要らんぞ? きよの分だけでも高かったのであろう。 儂は町に来れただけでも満足じゃし」

「こんな時だけ遠慮するんじゃねぇよ。 なんでもいいから買わせろ」

 儀兵衛は耳を真っ赤にさせながらぶっきらぼうにそう言った。照れを隠すのに必死である。

「むぅ…そこまで言うのであれば。 ならこれがいいの」

 伏姫が選んだのは鈴蘭の簪だった。儀兵衛は金を払い、改めて伏姫に渡す。

「ほら、大切にしろよ」

「うむ! 大切にしてやろう!」

 伏姫は嬉しそうにそれを受け取った。それを傍目に見ていた店主の女性がくすくすと笑った。

「きっと似合うわよ? なんだったらここで結んであげようか? 髪も綺麗だしきっともっと別嬪になるわ」

「そりゃいい、伏姫、ちょっと結んでもらえ」

「なんと!お願いしよう!」

 店主の手馴れた技によってみるみるうちに伏姫の綺麗な銀髪が纏められていった。
 髪を纏め、簪を差した伏姫の姿はとてもじゃないがこの世のものとは思えなかった。

「本当に綺麗ねぇ……まるで天女様みたい…」

 店主の言葉に儀兵衛も心の中で頷いた。元から美しかったが、ほんの少し整えただけで、これ程までになるとは予想外だった。

「何を惚けておる儀兵衛! 早く帰るぞ! きよの飯が待っておる!」

 伏姫のいつもの調子の一言で儀兵衛は我に返る。

「あ、あぁ…そうだな」

「早く帰るのじゃ!帰るんじゃ!うおおお!」

「お、おい待て!走るな、馬鹿!」

 一人で突っ走る伏姫を見て焦る儀兵衛。そしてまたクスクスと笑う店主。

「あの子は中々、茨の道よ? 大丈夫?」

「な、何の話だ」

「もっと素直にならなくちゃ。 うかうかしてると誰かに取られちゃうかも」

「わけわからん! じゃなあ!」

「えぇ、頑張ってね」

 微笑ましい光景を見た店主は去っていく儀兵衛の背中をにこやかに送り出した。

 赤くなった空の下、伏姫と儀兵衛は行きよりも少し足早に山道を歩いていた。
 早く家に帰りたいという気持ちもあったが、日が暮れると山道も相応に危険になってくる。だから自然と足も忙しなくなるのだ。

「土産をみたらきよはどんな顔をするじゃろうな? 喜ぶかの? 」

「あぁ、きっと今までに見た事のない笑顔を見せてくれるさ。 だから早く帰ろう」

 行きよりもさらに伏姫はソワソワしていた。我が家ときよが恋しくなったのであろう。本当に稚児のような奴だと儀兵衛は心の中で笑った。
 見た目がいくら麗しくても伏姫は伏姫なのだと、何故だが安堵していたのだ。、
 
 暫く山道を歩いていると、道の脇に数人の村人が立っているのが見えた。
 こんな時間に何事だろう、と儀兵衛は嫌な予感がした。そしてそれは的中する。
 
 儀兵衛が村人たちの脇を通ろうとした時、村人の一人から声を掛けられる。声を掛けてきたのは先日因縁をつけてきた男であった。

「待て、儀兵衛」

「……なんだ? 急いんでいるんだが」

「そんなに時間はとらせない。 とにかく止まれ」

 どこか男たちの様子は殺気立っていた。その目は一様にまるで忌々しいものを見るかのように儀兵衛と伏姫を睨みつけている。

「お前、今日はどこで何してた?」

「町で草履を売ってた。 今は帰るところだ」

「ほぉ」

 よく見れば、男たちの手には皆、何らかの道具が握られていた。鎌や鍬、金槌など山に持ってくる必要など見当たらないものばかりだ。

「今朝な、お前の家の向かいに住んでる七郎が殺されていた」

 男たちの一人が言う。

「なんだと? 誰がやった」

「誰がやった? ハッ」

 何故か男たちの殺意が増していく。伏姫はなにがなんだかわからないようで、戸惑ったような視線を儀兵衛に送っていた。

「お前しかなかろう。 お前がその物の怪の女を使って七郎を殺したのだ」

「なんだと? 」

 身に覚えのない容疑をかけられ、怒りを表に出す儀兵衛だが、男たちはそれを一切気にかけない。

「七郎の懐から金が抜き出されてた。 大方、その女がしてる簪も七郎から分捕った金で手に入れたもんだろう。 まったく穢らわしい」

「なっ、これは儀兵衛は働いて…!」

「やめろ伏姫」

 耐えかねた伏姫が男たちの言葉に反発したが、儀兵衛はそれを諌める。
 この男たちにとってそれは火に油を注ぐだけだとわかっていたからである。

「悪いがお前たちの言っていることはまったく身に覚えがない。 何かの勘違いだろう。
これは草履を売った金で買った。 七郎が死んだことは今知った。
家できよが待っている、通してくれ」

 溢れ出しそうな怒りを噛み殺しながら、儀兵衛はそう言った。できる限り男たちを視線に入れないようにしながら 、視線は虚空を眺めていた。

「安心しろ、きよは家で他のやつが世話してる」

 刹那、儀兵衛の拳が言葉を発した男の鼻に突き刺さる。
 それとほぼ同時に、もう1人の男が持っていた金槌が儀兵衛の頭に激突した。

「がっ!?」

「儀兵衛!!お主ら、ただでは済まさぬぞ!!」

「うるせぇ、大人しくしてろクソアマ! おい、正吉大丈夫か!?」

 激昂する伏姫を二人の男が背後から取り押さえる。鼻柱を折られた男は地面に伏して悶えている。儀兵衛は地面に沈んだまま動かない。

「いでぇ!! ぐぞ! 鼻おれだ!!」

「おい! 儀兵衛!起きろ!ぶち殺されてぇか!」

 男たちは気絶している儀兵衛を無理やり立たせて何度も殴打する。儀兵衛の額からはかなりの量の鮮血が流れており、どうやら裂傷が生じたようだった。

「離せ!!!」

 刹那、伏姫を取り押さえていた二人が伏姫の人間離れした臂力により吹き飛ばされる。

「ぐぁ!」

「なんだこいつ、やっぱり人間じゃねぇ!」

「貴様ら、一人残らず喰い殺してくれよう!!」

 もう無いはずの牙を男たちに向けて剥く。忘れていたはずの獣性が心の底から湧き出てくるのを伏姫は肌で感じていた。

「やめろっ伏姫……大人しくしてろ!頼む…」

 だが、それも儀兵衛の懇願ともとれる声で掻き消える。
 
「な、なぜじゃ儀兵衛! こやつらは…!」

「俺のことは大丈夫だ……先に帰っててくれないか……」

 今まで見た事のない、痛ましい儀兵衛の姿にかつて人間への憧れに身を焦がした時以上の苦しみが伏姫を襲った。

「おっと、このクソアマも通す訳には行かねぇ。 お家に帰るには俺らの言うことを聞いてもらわなきゃな」

 気がつけば先程、鼻を折られ悶えていた正吉という男が鼻を押さえながら儀兵衛と伏姫をニタニタと厭らしい笑みを浮かべながら見据えていた。

「言うこと……?」

「あぁ、俺たちの言う通りに出来たらのなら愛しの妹と合わせてやるよ」

「それは本当か……?」

「あぁ本当だ。お前らと違って俺たちはそんなに嘘が上手くない」

 男たちの間で下卑た笑みが発せられた。伏姫はその様に酷い不快感を抱いていた。

「それで何をすれば」

「なんてことは無い。ガキでも出来る事さ」

「早く言え…」

「ここから一度も転けずに村まで辿り着けばいい。 たったそれだけだ。 な?簡単だろ?」

 正吉はそう言うと、道を開けた。

「本当にそれだけでいいのか…?」

「何度も言わせるなよ。 早く行け」

 儀兵衛を取り押さえていた男たちが乱暴に儀兵衛の背中を押す。儀兵衛はふらふらと前に歩き始めた。

「儀兵衛!やめろ!儂がこんなやつらすぐに噛み殺してっ!」

「おいおい、お前は黙ってろよ。 儀兵衛はやりたがってんだからさ」

 気がつけば伏姫は男たちによって囲まれていた。だが、もしここで伏姫が本気を出せばこの程度の雑魚相手ならば刹那の時もかからずに八つ裂きにすることは出来る。
 だが、儀兵衛の姿を見ているととてもそんなことを出来る気がしなかった。

「さて、と」

 儀兵衛がある程度の距離を歩いたのを見計らって正吉が男たちに相槌を打った。

 ────次の瞬間、儀兵衛に向かって拳大の石が投げつけられた。

「がっ──!!」

「よっしゃ命中ゥ!」

 石は儀兵衛の背中に命中した。儀兵衛は少しよろめいたものの、なんとか倒れずに前に進む。

「き、貴様ら!!どこまで外道に堕ちれば気が済む!? 」

 伏姫は鋭い殺意を込めた目線で男たちを睨みつける。男たちは獣のような殺意を前に一瞬たじろぐが伏姫が何も出来ないでいることを察すると、すぐに下卑た笑みを浮かべた。

「うるせぇんだよ化け物。 こいつは罪人なんだ。 だから何をしてもいい。 お天道様も許してくれるさ」

 その男はそう言うと、地面から石を拾い儀兵衛に投げつける。今度は後頭部に命中する。
 儀兵衛は正面によろめくが、どうにか持ち直し、また足を進める。

「ちっ、倒れねぇか」

「下手だなぁ。 次は俺が投げるぜ」

「その次は俺な」

 目の前の光景に怒りが溢れる。生まれて初めて伏姫は憤怒した。人間とはここまで醜くなれるのか。そう思うと、今度は胸の底から悲しみが溢れてくる。
 気がつけば伏姫は泣いていた。溢れ出る涙を止めることが出来ない。憤怒も悲嘆もどちらも生まれて初めて味わうものだった。
 だが、出来ることならばこんなもの知りたくなかったと、伏姫は心の底から思った。

 何度も何度も儀兵衛に石が投げつけられる。その度に儀兵衛は呻き声を上げるが、決して足を止めることはしなかった。
 伏姫は今すぐにでもこの下衆共を殺してしまおうと思った。だが、どうやっても力が湧いてこない。
 まるで鎖をつけられているかのように、身体の自由が効かないのだ。

 やがて、儀兵衛は村が見えるところまで辿り着いた。もはや、その顔はアザだらけで元の顔からはかけ離れていた。青く腫れ上がった瞼からは一筋の涙が流れていた。口元は絶えず誰かの名前を呼んでいる。だが、唇が腫れ上がっているせいで上手く発音できていない。

「おら!死ねや!」

 正吉が今までにないほどの勢いで儀兵衛に向かって石を投げつけた。石は儀兵衛のうなじに直撃した。
 儀兵衛は前のめりに倒れかかった。

──が、寸でのところで右足で身体を支えた。

 もはや、意識はないに等しかった。それを為せるのは執念によるものだろうか。
 儀兵衛はふらふらになりながらも村に辿り着いたのだ。村の男たちの間でざわめきが起こる。どうやら儀兵衛がここまで辿り着くというのは完全に想定外だったようだ。

「どうじゃ!儀兵衛は辿り着いた!これで満足したろう!! 早く儀兵衛ときよを解放しろ!」

 伏姫が男たちに向けて怒鳴りつける。だが、内心はこれ以上ないほどに安堵によって満たされていた。
 これできっと元の日常に戻れる。いや、こんな村なんて出ていってしまって、あの町で三人で住もう。きっとそれがいい。そうすればきよも儀兵衛も、伏姫もずっと幸せにくらせる。

「ちっ、しょうがねぇ。 妹と会わせてやれ」

 正吉がそう言うと、儀兵衛たちが住んでいる家から二人の男がボロ袋を引き摺りながら出てきた。

「……?       っ!!!??」

 否、ボロ袋ではない。

「ぶ、ぶじびめ…よがっだ……ぶじだっだんだ……」

 それは、儀兵衛と同じように痛めつけられた、儀兵衛と伏姫が心から会いたがっていた最愛の家族である、きよその人だったのだ。

「あ…ぁあ……」

 もはや、怒りすら通り過ぎてしまった。伏姫はただただ呆然とするしかなかった。
 希望的観測でしかなかったのだ。元の日常に戻れる?笑わせるな。 もっと早く、儂がこの外道共を殺してここに駆けつけていれば。
 もっと早く、この兄妹を助けることが出来ていれば。

 何もかも己のせいだ。

 沸き上がる憎悪は決して他者に向けられたものではなかった。それは軟弱な己に向けられたもの。それは臆病な己に向けられたもの。それはここに至っても未だに人間への幻想を捨てずに居られなかった己に向けられたもの。

───そして、獣は解き放たれる。

 刹那、きよを引き摺っていた二人の男の首が宙に跳ぶ。 真っ赤な鮮血が辺りを飾り付けた。

「ひっ…!」

 そこに居たのは獣だ。ケダモノだ。
 まるで象のような巨体、万物を切り裂く爪、岩盤をも砕く牙、この世の全てを射殺すほどの憎悪に溢れた眼光、ここにいる生物全てを喰いつくすための口、月光に照らされる妖艶な銀色の毛並み。
 そのケダモノはとめどのない殺意によって構成されていた。

「ば、ばけもの………」

 恐怖に震え上がる外道を後目に、ケダモノは打ち捨てられている己の唯一無二の家族を見つめる。
 ケダモノは二人を咥えて背中に乗せると、風のようにそこから消え去った。

 駆けるケダモノの脳裏に、今までの幸せだった日常の光景が走馬灯のように浮かび上がる。
 稲刈りは楽しかった。沢山刈ると、普段そこまで褒めてくれなかった儀兵衛も沢山褒めてくれた。
 きよのご飯は絶品だ。あれほどのものは食べたことがなかった。きっとこれからも忘れることはないだろう。
 着物を身につけるのは動きにくくなるが、中々嫌いではなかった。儀兵衛や、きよと同じになれた気がしたから。
 草履作りは本当に奥が深いと思った。もしできることならば来年もまた三人で他愛もないことを話しながら作りたかった。

 気がつけばケダモノは山の頂上にまで登りつめていた。頂上は原っぱになっていて、遠くの町まで見渡せた。
 
 ケダモノは気付かぬうちに伏姫に戻っていた。

 町が目に入った時、土産を思い出した。地面に横たわらせた儀兵衛の懐から簪が顔を覗かせていた。

「儀兵衛……」

 儀兵衛は返事をしない。息をしているかどうか、確かめることは酷く恐ろしくてとてもじゃないが出来なかった。
 伏姫はそっと儀兵衛の懐から簪を取り出して、隣に伏しているきよの傍らに跪いた。

「……きよ」

「……なぁに、ふせひめ」

 気がつけば、きよが伏姫の顔を見つめていた。

「……きよ、儂な? 儀兵衛と一緒に町で土産を買うたんじゃ。 きよのために、きっとこれが似合うじゃろうなって」

 伏姫は必死に微笑みながら、きよが見えるように簪を持った。飾りの撫子が寂しげに揺れた。

「……すごくすてき、でもたかそう」

「それがの? 思いの外草履が売れたようでな。 儀兵衛が奮発したんじゃよ。 しかも儂の分まで買うてくれたんじゃぞ?」

「……もう、おにいちゃんたったら、またかっこつけて」

「儀兵衛も困ったもんじゃよな、これら叱ってやらんとなるまい。 だから、きよ、起きて一緒に儀兵衛を叩き起してくれんか?」

「……ふふっ、そうね。 そうしなきゃね」

「あぁ、そうじゃ、せねば」

「………ねぇ、伏姫」

「なんじゃ?きよ」

「………ありがと、幸せだった」

「何を言っておる、きよ。 ………きよ」

 返事はない。

「きよ、儀兵衛」

 返事は、ない。
 
「儂を独りにするのか? これほどの幸せを味あわせておきながら、また儂を孤独に置いていくのか?」

 伏姫にすら誰に言っているのかわからない恨み言が口から次から次へと溢れ出てくる。
 恨み言だけでは無い。まるで濁流のように目から涙が流れてくる。

「なぁ、これまで通り一緒に暮らそう。 頼む。 儂を置いて行かんでくれ。 一人にせんでくれ、頼む、なぁ」

 伏姫は鳴いた。ただ一人、暗闇の中で、一晩中、ずっと泣き叫んだ。喉が張り裂けるほどに、二人の元に声が届くように。
 ひとりぼっちの狗は吼え続けた。
 
 
 そして、夜が明け、また日が暮れる。



「なぜ山に入る必要がある? 危ないだけじゃ」

 男の一人が正吉に向かって不満を明らかにした。

「うるせぇ、あの化け物はまだ生きてるだろうが。 二人、いや正吉を入れて三人も村のもんが殺られてんだぞ? 黙ってられるかよ」

 ひん曲がってしまった鼻を鳴らしながら正吉は言う。だが、それは建前だ。
 正吉はどうにも自尊心が高かった。己はこんな田舎の小さな村に収まる器ではないと、信じていた。
 だからこそ、あの山犬の首を討ち取り、藩やら幕府やらに献上すればきっといい御役職に就かせてもらえる。名字だって貰えるはずだ。

 だからこそ、この小物どもには役に立ってもらわないといけない。正吉は先祖が隠し持っていた小太刀を腰に携えながら、山を進軍していた。
 暫くすると、辺りの木々がざわめきはじめた。

「ひぃっ!」

「喧しい、これぐらいでビビってんじゃねぇよ!」

 子分の一人が情けない声を上げたので、思いっきり殴りつけてやった。それは半ば八つ当たりだった。

「たくっ」

 悪態をつこうとした瞬間、とてつもない暴風が正吉たちの間を通り過ぎた。
 
───そして、なにもいなかったはずの目の前にケダモノが一匹。

 月夜の下に来たるは銀の獣。殺意に溢れた眼光は獲物をじっと見据えている。
 伝播する恐怖の感情。先程まで威勢の良かった正吉でさえ、失禁寸前だった。

「どうした、外道ども。 儂を狩りにきたんじゃろう?」

 ケダモノはその姿に似つかわしくない、美しい女の声で嘲た。

「はよう、はよう殺しにかかれや。 待っておったんじゃぞ。 貴様らが来るのを」

 ケダモノはけたけたと嗤う。勇ましい前口上を用意していた正吉は何も言えずにただ、動けずにいた。

「なんじゃ、殺しにこんのか?まさか」

───逃げ帰るつもりではあるまい?

 ケダモノがそう嘲笑った刹那、男たちの一人が泣き叫びながら村の方向へと全力疾走していった。
 それが切っ掛けとなり、一斉に男たちがケダモノから逃げ始めた。正吉も例に漏れず男たちの中に含まれていた。

「ふ、フハハハハ!!! なんと滑稽か!!なんという間抜けな様か!! 見ておるか儀兵衛!!見ておるかきよ!!  あやつらの無様な顔を!!」

 それは笑い声なのか怒声なのか判別もつかなかった。

「良いだろう、許そう! 精々逃げるが良い!だが、村に着くまでに一度でも転けてみろ!   その瞬間にそやつのそっ首は跳ぶことになると思え!!!!」

 男たちは背後から聞こえてくるおどろおどろしいその声に震えながら必死に走る。だが、男たちが行くは整備されているとはいえ荒い山道。それを覚束無い足で走ろうものなら転けるも必然であろう。
 
 正吉の隣を走っていた男がつまづき、転んでしまった。次の瞬間、男の腰から上が消えてなくなってしまった。

 正吉の前を走る男がいた。前を走る男は恐怖からか腰が砕けてしまい、まるで糸が切れたかのようにへたりこんだ。刹那、首が後ろへと転がっていた。それに転んだ男も居たようで、背後から断末魔が聞こえた。

 次々に鮮血が暗闇を染めた。弾けては消える、外道の生命ども。
 気がつけば、走者は正吉一人のみとなっていた。

「ひぃっ…!ひぃっ…!」

 汗も涙も止まらない。股は冷たく湿っていた。だが、最早そんなことはどうでもよかった。走らなければ、転けてはならぬ。
 帰りたい、帰りたい。
 侍なんてどうでもいい、一生水呑でも構わない。死にたくない。
 
 七郎を殺すべきではなかった。あの程度の金など、生命に比べればなんと安いものか。
 欲に目がくらんでしまった。町で夜鷹に使ってしまったのが悪かった。
 いや、そもそも悪いのはあんな化け物を村に招き入れたあの嫌われ者の兄妹ではないか。

 いや、今考えてもしょうがない。走らなければ、逃げなければ。
 ケダモノ嗤い声が絶えず耳元で響いている。怖い、恐い、こわい。

 気がつけば、村が見えてきた。

「ほうれ、あと少しじゃ。 安心しろ、貴様らと違って嘘は得意じゃなくての、無事に着けば生かしておいてやろう」

 あと少しだ。ほんの少し。頼む頼む。
 もはや、足は反射的に動いていた。自分の家が見える。やった。あと少し。

「ぁ───」

 思わず力が抜ける。抜けてしまった。
 正吉の足は地面を地面と認識することが出来ずに変な踏み方をしてしまった。

 スローモーションで地面と顔が接近するように感じる。嫌だ嫌だ嫌だ。
 転けてはダメだ。転けたら死んでしまう、殺されてしまう。
 
───儀兵衛は、最後まで転けなかったぞ

 憎悪に溢れた声が耳元で響き、そして正吉の意識は刈り取られた。




 照り着くような朝日の下、伏姫は山の頂上にぽつんとふたつだけ作られた墓の前に座り込んでいた。

「儀兵衛、きよ、儂は初めて墓というものを作ってみたぞ。 あんまり楽しくないな、これ」

 涙は、もう流れなかった。

「儂はこれから町で暫く暮らそうと思っておる。 まぁすぐに別の所に移ることになるじゃろうが、それも面白かろう」

 伏姫は微かに見える町を一瞥した。

「儀兵衛、ここは誰にも邪魔されんから安心してよいぞ。 お主は本当に根性がある男じゃった。 優しくて、ぶっきらぼうで、儂は絶対にお主のことを忘れない」

 伏姫は静かに立ち上がる。

「きよ、町での土産はここにおいておく。 きっと似合うと思うから、儀兵衛にでも披露してやれ。 儂もこの簪は肌身離さず身につけておくことにする」

 墓に置かれた撫子の簪に呼応するように、伏姫の鈴蘭の簪が揺れた。

「二人とも、ここで仲良く暮らすんじゃぞ。 たまに儂も帰ってくるつもりじゃから、待っておいておくれ。
きっといつか、儂もそっちに行く時が来るじゃろうが、その時はよろしく頼むぞ」

 伏姫は寂しげに笑い、別れの挨拶を済ませて、山を降りた。

「これからどうしようかのう」

 これからの生活に思いを馳せると、ほんの少しだけ心が軽くなった。
 これから色んなものを見よう。色んなものを経験しよう。色んな食べ物を味わおう。
 
「とりあえず、あの胡散臭い女がやっとる龍宮屋とやらに顔を出してみてもいいかもしれんのぉ」

 そして、いつか二人に会った時に、色々自慢してやるのだ。

「………またの、儀兵衛、きよ」

 きっといつかやってくる、楽しくて、可笑しくて、そんな温かい日常に思いを馳せながら伏姫は転ばないように足を進めた。
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