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一冊目――『ぐるんぱの幼稚園』
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■一冊目――『ぐるんぱの幼稚園』
本が、好きだった。
子供の頃から誰よりも不運な人生だったが、どんなにツラいことがあっても本さえあれば乗り越えることが出来た。
しかし――
「これで……大丈夫だよね?」
私はロープの結び目がほどけないことを確認すると、それをゆっくり自分の首へと掛けた。
一応、遺書は残してある。あとは、一気に体重をかけるだけ……。
もちろん、本当は死にたくなんかない。だけど今は、それ以上に心が限界だった。
「本で、誰かを幸せにしたかったな……」
私がここまで追い詰められたのは、ブラック出版社に就職したのが原因だった。
他の出版社がどうかは知らない。ただ、私の就職した出版社は前時代的なパワハラ気質で、とにかく何もかもを否定され、罵声を浴びせられ続けた。
最初は「本が好きだから」という理由で耐えていたものの、最後は生きていることすらも否定され……結局、メンタルが崩壊して退職を余儀なくされた。
出版社を辞めた今ではトラウマで本を見ることすら出来ない。
もっと言うと、本屋や図書館にも近づけない……。
つまり私には、縋るものがもう何もなかった。
「……どうしてこんなに不幸なんだろう。幸せな時期なんて、五歳の時までしかなかった」
両親が生きていた幼稚園時代を思い出し、涙が眼鏡の縁を濡らす。
あの頃は絵本ぐらいしか理解できなかったけど、色んなお話をお母さんに読んでもらえて毎日が幸せだった……。
もし天国で会えたなら、たくさん絵本を読んでもらおう。『はらぺこあおむし』や『どんどこ ももんちゃん』を読んでもらうのもいいかもしれない。
「ごめんね、お父さんお母さん。でも、ここまで頑張ったし許してくれるよね……?」
所持金ももう残り少なく、このままいけばツラい思いをしながら餓死するほかない。
なので私は、『唯一の救い』である首のロープへと、一気に全体重を掛けようとした。
しかし――
「そうだ、あのお話……」
死の直前、私は走馬灯のようによみがえるたくさんの記憶のなか、ふとある絵本のことを思いだした。
そして、一度思い出してしまうと、私の中に残ったわずかな欲望が徐々に膨らんで行く。
「ツイてない人生だったけど……最期ぐらい、幸せな気持ちで死んでもいいよね?」
私が思い出したもの――それは、母親に読んでもらった絵本で特に大好きだった一冊のことだった。
〇
「オエッ……地獄すぎて死んじゃいそう……」
バスに揺られてしばらく。目的の場所まではもう少しだが、乗り物酔いが激しい私にとってはツラい時間となった。
それでも、ここで耐えられるかどうかが惨めなまま後悔して死ぬか、それとも幸せな気分で死ねるかの分かれ目だった。
なので私は、先ほど思い出した『とある絵本』と『とある図書館』について考えることで、気持ちを強く保つことにした。
――『ぐるんぱのようちえん』という絵本が好きだった。
どこに行っても嫌われる象のぐるんぱが成功を夢見て色んな職を転々とするものの、なかなか上手くいかずに苦戦する……しかし、最後は自分で幼稚園を開き、その大きな体を活かして子供たちを笑顔にするのだ。
幼いころ、何度も母に読んでとお願いした素敵なお話。私が本を好きになったきっかけでもある。
しかし……五歳の時に両親が天国へ旅立ってからは、一回も読んでいない。それどころか、孤児院に引き取られた時に私の『ぐるんぱのようちえん』は、いつの間にか手元からなくなっていたのだ。
そんな絵本を思い出した私は、
「どうせなら、あのお話を読んでから死にたい。それぐらい許されてもいいよね……」
と考え、せめてもの願いを叶えるため首に掛けたロープを外して図書館へ向かうことにした。
――ところが。私はすぐに、それが不可能だと気づく。
今の私は、本屋にも図書館にも近づけない。なんだったら、本を見る事さえできないほど精神が病んでいた。こんな状態では、とてもじゃないが絵本を読むどころではない。
私は愕然とした。自分は死ぬ前に、幸せな思い出にすら触れることが出来ないのだ。
小中高といじめられてきたし、ツイてないことも毎日のようにあった。
だが、こんな時まで不運なのかと思うと悲しくてたまらなかった。
しかし――
「あ……でも、あの図書館ならどうだろう?」
私はふと、ある『噂』のことを思い出した。
「――日本のどこかには、違法に建てられた『九龍城寨図書館』っていう本の墓場があるらしいよ。本の管理もされてない、ひどい場所なんだって」
かつて、週刊誌を作っている同期が話してくれた眉唾ものの噂。
当時は話半分にしか聞いていなかったけど――
「墓場か……今の私に相応しい場所だな」
私は何となく、そこへならこんな自分でも受け入れてもらえそうな気がした。
そして、バスに揺られること一時間。ようやく『本の墓場』へ着いたころには、時間はすっかり夜となっていた。
しかし……驚いたことに、辺りはそう感じさせないほど明るい。
「こ、これが本当に図書館……?」
私は、自分の目を疑った。目の前に広がるのは、煌々と明かりを放つ雑居ビルの群れ。ひしめき合うように乱立したそれらの間には、大小さまざまな路地がいくつも伸びている。
そこはあたかも、一つの繁華街のような図書館だった。
これらが都市計画もなしに建てられた『違法都市』なのは私にもわかったが、元本好きからすれば嫌でも興味を惹かれる光景だ。
実際、いつもの私ならめまいや吐き気を感じているところだが……今は圧倒されてそれどころではなかったので、「ここなら本当に、死ぬ前にあの絵本が読めるかも」という期待が高まった。
そして、私はさっそく『ぐるんぱのようちえん』を探しに行くため、九龍への第一歩を踏み出したのだ。
しかし……それと同時。私はすぐにこの図書館の重大な欠陥に気づく。
「待って。いったい……どこに行けばいいの?」
同期の『噂』によれば、この建物は一つ一つが図書館ではなく、その中に入っている一部屋一部屋が図書館なのだという。その数、実に一万六千館以上。蔵書数で言うと、国立国会図書館を優に超えているらしい。
そして、辺りを見た感じ、ここには普通の図書館のような『本の検索端末』は置いてないように思える。なんだったら、司書らしき人も見当たらない。
つまり……ここでは目当ての本が見つかるまで、膨大な数の図書館を一つ一つ巡らなければならないのだ。私の運のなさなら、一生見つからない可能性だって高い……。
「そんな……せっかくここまで来たのに……」
僅かに灯った希望の光が、急速に小さくなっていくのを感じた。
「神様……どうしていつもこうなるの?」
涙声と共に、つい弱音が漏れた。
非常に惨めで悲しく……とうとう、私は自分の不運さに疲れて、その場にへたり込んでしまった。
ところが……そんな時だった――
「おい貴様、金は持っているか?」
突如聞こえてきた声に顔を上げてみる。
するとそこには、煙草をくわえた長身の男が立っていた。
「どうした? 返事ぐらいしてみせろ。そして金を出せ」
私が唖然としていると、男は再びお金を要求してきた。
歳は私より少しだけ上だろうか。スラリと伸びた長身に、高い位置で縛った深い闇色の髪。顔は恐ろしく整っていて、まるで小説の中から飛び出してきたとしか思えない容姿だった。
しかし……これは一体どういうことなのだろう? 初対面の私にお金をせびるなんて、あまりにもクズすぎる気がする。それとも、これはカツアゲなのだろうか? 私が経験してきたどのカツアゲよりも優しいけれども……へたりこんでいるのを狙われるのは初めてだ。
こんなとき、小説の主人公なら「やれやれ」と軽く彼を撃退するのだろう。しかし……私は主人公ではないし、どう逆らえばいいのかもわからない。そもそも、そんな勇気があったら学校でいじめられたり、会社でパワハラに合うこともなかった気がする。
とはいえ、私もカツアゲなら慣れっこだ。「やれやれ」と内心で呟きつつ、お財布を差し出した。
「あの……これが全財産です! だから、許してくださ――」
私の言葉が終るか終わらないかの刹那。クズ男は目にも止まらぬ速さで私の財布を奪い取った。
「ふむ、免許証に銀行のカード……渋沢栄一が三人か。しけているな。これではせいぜい、飲み代にしかならんぞ?」
遠慮、という言葉を微塵も感じさせない不躾な物言い。
なるほど、彼はクズじゃない……悪魔だ。顔がいいだけの、クズを超えし悪魔級のドクズだ。
ところが、そんなことを考えていると――
「で? 貴様は何が読みたい?」
「へ?」
突然の質問に、私は変な声を出してしまった。
なぜ、私の読みたい本が知りたいのだろう? そう思って少し混乱していると、男はややイラついた口調で「早くしろ」と言ってきた。私はその言葉に心臓がキュッとなり、「は、はい……!」と返事をした。
そして、私はついつい素直に――
「ぐ、ぐるんぱのようちえん……です」
と、答えてしまった。
まさか、彼によって自分の人生が変わるなんてことも知らずに。
〇
「どうした、喜べ。貴様が求める本を探しに来てやったのだぞ?」
「ひ、ひいい! そんなの、絶対嘘じゃないですかぁ……‼」
連れてこられたのは、暗澹とした路地裏の雑居ビルだった。
私は、これから何が起こるのかわからずガタガタ震えた。
もしかすると、このままいかがわしいお店に売り飛ばされるのではないか? という雰囲気さえある。
「まぁ、いいから入れ」
「はうっ⁉」
クズ男は面倒くさそうにそう言うと、私を雑居ビルのエレベーターにドンッと押し込んだ。それも、足で。
そして、そのまま一緒に乗り込んできたかと思うと、迷わず八階のボタンを押す。
ちなみに、ここに来るまでに知ったが彼はナナイさんというらしい。
ガコン……という不安な音を立てて、エレベーターはゆっくりと上昇し始めた。どんどん階が上がっていくにつれ、私の心臓はうるさいほどに脈を打つ。
昔から厄介ごとにばかり巻き込まれて来たが、この状況は過去最高に不安だった。
私は、クズ男……もといナナイさんに、『ここに来た経緯』と『自分の運のなさ』、そして『読みたい絵本』を教えただけだ。それなのに、こんな怪しげな場所に連れて来られるなんて、意味が分からない。
このまま私はどうなってしまうのだろう……不安でたまらないし、いかがわしいお店に売られてしまうのではないか? という思いが、階を増すごとに強くなっていく。
本当にツイていない。「運は悪いけど、顔がいいだけの男には騙されないぞ」と思って生きてきただけに、これは痛恨のミスだ。こんなことなら、あのまま自分の部屋で死んでおけばよかった……。
しばらくそんなことばかり考えていると、「チーン」という軽快な音が鳴った。とうとう、エレベーターが目的の階へ到着してしまったのだ。
しかし――
「わっ……何ここ⁉」
扉が開いた瞬間、私の胸は一瞬で高鳴った。
そこは、外の様子からではまったく想像ができないほど、素敵な空間だった。
淡い白熱灯の明かり、古めかしい板張りの内装……そして、部屋のいたる所に配置された背の高い本棚には、絵本だけがびっしりと並んでいた。
「す、すごいです……! こんなに絵本が揃っている場所、始めて見ました!」
「まぁな。ここの館長はもう六十年も絵本専門の図書館を開いている。二万三千百二十冊という絵本の蔵書数は、俺の知る限り九龍で一番だ」
今の私に、さっきまでの不安は微塵も残っていなかった。むしろ、この不思議な空間にドキドキが止まらないぐらいだ。
ただ……こうなってくると一つ疑問に思うことがある。
それは――
「あの……ナナイさんはいったい何者なんですか?」
お金を要求してきたかと思えば、ちゃんと絵本のある図書館まで連れてきてくれた。一人でたどり着けなかったのは間違いないが、ただのクズ男だと思っていたので若干混乱していた。
対してナナイさんは、私の質問に一番予想していなかった答えを返してきた。
「俺か? 俺は、見てのとおり九龍の『司書』だ。報酬と引き換えに、貴様のように本を探している人間を手伝っているのだ」
私は彼の言葉にショックを受けた。なぜなら、私にとっての司書とは、優しくて慈愛に満ちていて聡明な存在だからだ。
なのに、目の前にいる男はお金はせびるし、堂々と利用者(私)の前でタバコまで吸う。顔はいいが、こんな人が司書を名乗っていいはずがない。
私は心の中で戸惑った。しかし、目の前に広がる図書館や違法建築の群れを思い出して「九龍ならこんな司書がいてもおかしくないのかも?」と、妙に納得してしまった。
〇
図書館は、雑居ビルの中とは思えないほど広かったが、森のように乱立した本棚の間をすり抜けていくと、司書であるナナイさんはとある本棚の前で立ち止まった。そして、指で空をなぞるようにして私の読みたい絵本を探しはじめる。
「ぐるんぱ、ぐるんぱ……」
これでやっと生きる事への未練もなくなり、不運な人生から解放される……私はそう思うと、安堵感で心が満たされるのを感じた。
しかし――
「ん?」
ふと、ナナイさんの指が止まる。
「ふむ……おかしいな。三日前にはちゃんとあったのだが」
彼は不思議そうに首を傾げた。どうやら『ぐるんぱのようちえん』が見つからないらしい。
「だ、誰かに借りられちゃったとかでしょうか……?」
「……いや、ここの本は館長のコレクションでもある。ゆえに持ち出し禁止だ」
「え? と、ということはもしかして……」
「おそらく、絵本を持ち去った犯人がいるということだな」
そう言って、ナナイさんは私の顔をじっと見た。
「チッ……よくも面倒ごとを増やしてくれたな。貴様の不運は筋金入りのようだ」
「す、すみません……」
濡れ衣です! と言いたいところだったが、強く否定できない自分がいた。
それから、ナナイさんは周囲を見回す。
「なるほど。この本棚だけでも『ゆきだるまゆうびん』、それに『かいじゅうたちのいるところ』と『すてきな三にんぐみ』がなくなっているな」
「え? もしかして……全部、覚えているんですか?」
私はナナイさんの驚異的な記憶力に心から驚いた。
しかし――
「黙れ、気が散る。息を止めていろ」
と言われてしまったので、私はナナイさんが何か考えている間、周囲の絵本をチラチラと見ていることにした。
『くいしんぼうのあおむしくん』『バムとケロのおかいもの』……どれもこれも母に読んでもらった懐かしいタイトルだ。
しかし、そんなことを考えていると――
――ギシッ、ゴト……ギシッ、ゴト……。
突如、床が軋むような音と謎の規則的な音が聞こえてきた、
私はビクッとなり、恐る恐る後ろを振り返ってみる。本棚が作り出した影でよく見えないが、誰かがゆっくりこちらへ歩いて来るのが見えた。
もしかしたら……本を持ち去った犯人ではないだろうか? 私たちがここへ来るのを見ていて、犯行がバレないよう消すつもりで…………そんな悪い予感が一瞬で頭の中を駆け巡り、私はガタガタと震えた。
ところが……そこへ現れたのは――
「おや、アンタじゃったか」
怯える私の目に飛び込んできたのは、杖を突いた小柄なおじいさんだった。
ナナイさん曰く、おじいさんはこの『そうべえ絵本図書館』の館長で、九龍一の絵本マニアらしい。
だが……そんな館長は今、とある厄介ごとに巻き込まれているそうだった。
「――そうか。それは、災難だったな」
「ああ、命があっただけでもよかったものの……本当に乱暴なやつじゃった」
今から数時間前……つまり夕方ごろ。子供連れでにぎわうこの図書館に、招かれざる男がやって来たという。
その男はいくつかの本を「売れ」と言ってきたらしく、おじいさんは最初こそ「ここの本は売り物ではない」と突っぱねたらしい。
しかし、男は聞く耳を持たなかったようで、しつこく……時には脅し文句も交えながら、しつこく絵本を売れと要求してきたようだ。
「まだ利用者もいるというのに大声で恫喝するは暴れまわるはで、本当に迷惑じゃった」
そして、男の態度はだんだんとエスカレートしていき……最終的には利用者へ危害が及ぶことを心配したおじいさんは、仕方なく要求を飲んだという。
貴重な絵本を含む数十冊は、たった数千円で買いたたかれたのだった。
「あ、あのぉ……」
私は話に割って入るのもどうかと思ったが、あまりにも気になったので手を挙げてみた。
「どうして「売れ」なんですか? よこせとかじゃなくて」
普通、そんな態度の男であれば奪っていきそうな気がする。
それなのに、律儀……とまでは言えないが、わざわざ「売れ」というのは何だかちぐはぐな気がしてならなかった。
そんな私の質問に、ナナイさんは「そんなこともわからんのか」とため息を吐きつつ、
「九龍は治外法権だが、一応自警団と言うものは存在する。「よこせ」だと恐喝に当たり処罰の対象となるが、売買であれば個人の自由だ。おそらく男は、その穴をついたのだろう」
と、説明してくれた。私は素直に「なるほど」と納得したのだった。
「それで、爺さん。犯人は誰だったんだ。知った顔だったのか?」
「いや、まったく知らん奴じゃった。ここも人が多いからのう」
おじいさんが力なくうな垂れ、首を振る。
どうやら九龍には住人だけでも三万人はいて、利用者まで入れると五万人以上が常にいるらしい。
なので、全員が全員知り合いというわけでもないそうだ。
「……ちなみに、取られたのはどの絵本だ?」
「ごっそり持っていかれてのう。『カエル水泳教室』のような希少本がほとんどじゃ」
「……『こんとあき』、『きんぎょがにげた』みたいな普通の絵本はどうだった?」
「おお、そういったのも持っていかれたな。それらはまた買うこともできるが……人気の絵本だっただけに利用者が可哀そうでならん」
「ふむ……なるほどな」
ナナイさんは、おじいさんから情報をあえて引き出しているように思えた。私はその姿を見て、初めて彼を「司書っぽい」と感じた。
ナナイさんが行っているのはおそらく……『レファレンス』だ。
レファレンスとは、相手の欲しい本や見つけたい物の情報を引き出して推理する技術のことで、私が通っていた図書館の司書さんたちもよくどんな本が読みたいか親身になって聞いてくれた。そして、そこから条件に見合う本を探してきてくれたのだ。
たぶん彼は、その技術を応用して犯人を特定しようとしているのだろう。
先ほどまで微塵も思っていなかったが、なんだかナナイさんが頼もしく思えてきた。
と、そのとき――
「なぁ、アンタ。金はいくらでもはずむ。だからワシの代わりに、買いたたかれた本を取り戻してきてくれんか? 得意じゃろ、こういうの」
突如、おじいさんがズボンのポケットに手を入れたかと思うと、おもむろに札束を取り出してみせた。
私はいきなりのことで驚いてしまった。
しかし――
「金は要らん。仕舞っておけ」
ナナイさんは意外なことに、それを断った。私の想像ではサッと奪い取ると思っていたので意外だ。
しかし、彼は札束を固辞する代わりに、こう言った。
「ただ……いくつか欲しい本がある。それを成功報酬として譲ってくれ」
と。
「あ、あの……! 私にできる事なら、なんでも言ってください。協力しますっ!」
『そうべえ図書館』から出ると、私は興奮気味にナナイさんへ話しかけた。
もちろん、自分が探している絵本だって見つけて欲しい。だが、誰かから本を無理やり奪っていくなんて……今まで本によって救われてきた人間としては許せない。
たった半年間だが、出版社で働いていた経験や今まで読んできた本の知識もある。私だってきっと、何かの役にたてるはずだ。
ところが……
「貴様の協力などいらん」
ナナイさんからは、あっさり断られてしまった。
「で、でも……」
「でももクソもない。むしろ、その不運さで余計厄介ごとが増えそうだ」
正論すぎて何も言い返せない。
しかし、ナナイさんはふと何か気が付いたのか――
「いや、待てよ? そうか……貴様の不運さを利用できるかもしれん。可能性は半々だしな」
と言って、突然私の手を取り歩き出した。
「え? えっ⁉ どこに行くんですか⁉ おじいさんの絵本はどうするんですか?」
私は慌てた。もしかして、このままおじいさんのお願いを放棄するのではないだろうか? 彼のクズっぷりならあり得なくもない気がしたのだ。
ところが、彼はこちらを振り返って――
「そうギャーギャー騒ぐな。この謎は……すでに読めている」
と言った。驚くことに、どうやら犯人の目ぼしがついているらしい。だとしたら、もしかしてこれから、犯人の下へ乗り込むのだろうか?
私は「なんて頼もしいんだろう」と思い、彼の後をウキウキでついて行くことにした。
〇
一枚板のカウンターに、スツールが五脚。間接照明に照らされた室内には、静かなジャズが流れており、本棚にはマスターの厳選したお酒の本が並ぶ。
ナナイさんが向かったのは、まさかのバーだった。『図書バー ゲーティア』、それがこの図書館の名前らしい。
「マスター。ラスティ・ネイルをもう一杯お願いします」
ナナイさんがそう注文すると、館長兼マスターは流れるような動作で準備に取り掛かった。ちなみに、これが五杯目のお酒だ。
「あの……」
「ん? どうした、酒が進んでないな。遠慮せずに飲め」
ナナイさんは三枚の渋沢栄一をヒラヒラして見せる。それは先ほどまで私の物だったが……そんなことはどうでもいい。それよりも今は――
「絵本を取り返すって話は、どうなったんですか?」
こちらの話題の方が重要だった。
しかし、
「そう焦るな。貴様の不運さが本物ならば、そろそろ時間だ」
ナナイさんはわけのわからないことを言って、出てきたお酒を一口飲んだ。
私は思わず不安になった。やはりこの人は顔がいいだけの、クズなのかもしれない。こんな人に一瞬でも「頼もしい」と思った自分が嫌になる。
――だが……まさにそう思っていた、そのときだった。
「いらっしゃいませ」
キィッ……という音と共にバーの重厚な扉が開く。その瞬間、私は絶句したし、自分の不運さを呪った。
「ほぅ、来るかどうか若干賭けだったが……貴様の不運は本当に事件を呼び寄せるな」
私とは対照的に、ナナイさんは楽しそうにつぶやく。
そして、こちらを見るなり……
「さぁ、奪われたものを取り返すぞ」
と言って、悪魔的な笑みを浮かべた。
バーに現れたのは……色付きの眼鏡、短く刈り込んだ髪、質のよさそうなスーツに身を包んだ男……つまり、ヤクザだった。
どう考えても、これから厄介ごとが起きる気がしてならない。
もし仮に彼が絵本を買い叩いた犯人だとしたら、簡単に返してくれないだろう。つくづく、自分の不運が嫌になる……。
「マスター。グレンリベット十二年をロックで頼む」
ヤクザは私たちとは真反対、つまり入り口側のスツールへと座り、慣れた様子で注文する。
……お店の中には、そこはかとない緊張感が漂っていた。
たしかに、この普通ではない図書館都市なら反社会的な組織の一つや二つが存在していてもおかしくないのかもしれない。だが、だからと言ってこの空間にヤクザがいても平気かどうかは別の問題だ。
私は絵本を取り返したかったが、同じぐらい一刻も早くここから立ち去りたかった。
ところが……私が必死に逃げる算段を立てていると、突然、ナナイさんがスッと席を立つ。
嫌な予感がした。私は、慌てて彼を止めようとしたが……間に合わなかった。
「貴様、リュウトク会の滝沢だな?」
ヤクザに対して遠慮のない物言い。私は元々死ぬつもりでいたが、すでに生きた心地がしなかった。もしかして、激昂したヤクザに殺されるのでは? と震えた。
だが、ナナイさんは宣言通り絵本を取り戻すためなのか、さらにこう続ける。
「貴様が『そうべえ絵本図書館』から買い叩いたものは、いまどこにある?」
「あ? なんだてめぇ。いきなり何言ってんだ?」
ヤクザの言う通りだった。ずっと一緒にいた私ですら、なぜ彼を犯人扱いするのかがいまいち分からない。相手の立場ともなれば、なおさらだろう。
「滝沢。貴様が別の店を選ぶ可能性もあり、来るかどうかは半々だったが……ここへは、祝杯をあげにきたのだろう? 希少本を、相当の安価で入手できたのだからな」
「……なんの話だよ。デマカセ言うな」
いくら見た目が怖いからと言って、さすがに決めつけはよくないのではないのだろうか? それに、そのような証拠を見た覚えも聞いた覚えもない。
ところが……私はすっかり甘く見ていた。ナナイさんの――異常な記憶力を。
「デマカセなどではない。おれは覚えているぞ? 貴様をここで見かけたのは十五回。そのうち最初の注文でグレンリベット十二年をロックで頼んだのは七回。そして……そのいずれでもマスターや連れの女に自慢していたではないか。「デカい仕事が上手くいった」と」
「…………」
「貴様らリュウトク会の主なシノギは『本の転売』だ。高価な希少本を安価で買い叩き、マニアに向けて高値で売っているそうだな? 貴様がここへ来た翌日には、必ず九龍のどこかの図書館で希少本を買い叩かれたという噂を耳にするぞ。こんな偶然があるか?」
ナナイさんは先ほどのクズっぷりとは打って変わって、恐ろしいまでの記録力と推理力でヤクザを追い詰めていく。
対して、ヤクザはしばらく何か言おうかと口を何度か開いたが、結局「しらけた。今日は帰るぜ」と言いだし、この場から去っていこうとした。
ところが……
「逃げるな」
地の底から響くような冷ややかな声。ナナイさんは、鋭い視線でヤクザを睨みつける。それは司書としての矜持なのか、今までにないほど真剣なものだった。
「あの図書館から買い叩かれた絵本は、どれも貴様の世代が一度は読んだことのあるものだ。リュウトク会の他の構成員は四十五歳から五十代がほとんど。そいつらであれば、もう少し古い絵本を狙うはずだろう。答えろ、滝沢。あの図書館の絵本をどこへやった!」
「……ッ! わけわかんねぇこと抜かすな! そもそもてめぇは、初対面のくせになんなんだよ? なんで俺のことをそこまで知ってんだ!」
ヤクザは怒声と共に、ナナイさんの胸倉をつかもうと腕を伸ばした。
しかし……彼はどういう技を使ったのかわからないが、体を軽くひねると逆にヤクザを本棚へと吹き飛ばしてしまった。
そして、ナナイさんはゆっくりとヤクザに向かって距離を詰めていき――
「この程度で、そこまで知っているのかだと? では、こんなのはどうだ?」
不敵な笑みを浮かべ……突如、濁流のような知識の詠唱を始めた。
「滝沢信明、三十七歳。九月七日生まれ。兵庫県山野辺市大工町一の七出身。最終学歴は……山野辺工業高校機械科を二年時の十一月に中退。出身中学は山野辺第二中学校。小学校は山野辺南小学校――だったか?」
「なっ⁉」
「お望みならば、お前に関する知識をさらに披露してやってもいいぞ? さぁ、どうする?」
「や、やめろ……なんでお前、全部知って……」
ヤクザの反応は、いま出された情報が紛れもない本物であることを物語っていた。
対してナナイさんは、そんな彼の反応に悪魔のように笑いだす。
「くははは……! なんでだと? 貴様はここをどこだと思っている。九龍城寨図書館だぞ。 個人の履歴書を集めている図書館など、いくらでも存在する。俺はそれらをすべて読んで、覚えているにすぎない」
……私は、思わずゾッとした。すべて読んで……覚えている?
たしかに、先ほどから記憶力がいいとは思っていた。一瞬で本棚にない絵本を見抜いたり、ヤクザの来店回数を覚えていたり……。
だが、今のような記憶力は人間の限界を超えている。それはもはや、悪魔のなせる業だ。
「さぁ、滝沢。絵本はどこにある? それとも俺は、貴様が育った孤児院へ行ってみればいいのか? 答えろ!」
その言葉が決め手となった。ヤクザはとうとう絵本の在処を自白した。『ヤクザ』という暴力の象徴は、圧倒的な知識の前に敗北したのだった。
〇
数時間後。
ナナイさんは、買いたたかれた絵本たちを取り返してきた。ただし、希少本や絶版本以外は報酬として貰い、リュウトク会に渡してしまったそうだ。
「あいつらが、希少本以外を孤児院に寄付しているのは知っていたからな。元々身寄りのない連中なりの贖罪なのだろう。そこまで奪うほど俺も鬼ではない」
そう言うと、ナナイさんは私の隣のスツールに腰をかける。
「ほら、例のものだ」
「えっ……? これって、まさか……」
彼が渡してきたのは、長方形の絵本だった。表紙には黒い瞳のかわいらしい象のイラスト。
タイトルは……『ぐるんぱのようちえん』と書かれていた。
「その絵本自体は希少本でもなんでもなく、俺の知る限り九龍に三千二百四十冊が収蔵されている。だが、貴様が手にしているものは十六年前に入荷されたものだ」
これでようやく不運な人生から解放される。私はそう思って表紙をめくった。
ところがその瞬間……私の頬には、両親が死んでから我慢してきた辛さや悔しさ、そして悲しみが一気に涙となって流れ落ちた。
表紙の裏ページ。その左下には、油性ペンでこう書かれていた。
『おたんじょうびおめでとう、りりか。やさしく、げんきなこにそだってね』
それはまぎれもない、母の字だった。
眼鏡もかけてられないほど、私はぐしゃぐしゃに泣いた。泣いて泣いて、泣き続けた。
その間、ナナイさんは黙ったままゆっくりとお酒を飲んでくれていた。
そして、どれだけの時間が経っただろう? 私は、やっとのことで言葉を紡いだ。
「どうして、これを……?」
彼が渡してくれたのは、紛れもなく私が幼いころに手放してしまった絵本だった。これが九龍にあるだけでも奇跡なのに、なぜ私の物だとわかったのだろう。
「ふんっ、単純な話だ。貴様から聞いたここに来た理由の断片から、絵本をなくしたであろう年齢を逆算し、そこから九龍に入荷された時期が重なる『ぐるんぱのようちえん』を割り出しただけだ。名前は免許証を見た時点でわかっていたしな」
彼の記憶力と推理力には脱帽だった。ただのクズ男だと思っていたのが申し訳ない。
私がそんなことを考えていると、突然、ナナイさんは一枚のメモをひらひらしてみせた。
「ちなみに、このくだらん駄文はもう捨てていいな?」
それは、私が九龍へ来る前に財布へ入れておいた遺書だった。「いつの間に……」と思ったが、ナナイさんは私の答えも聞かず、びりびりに破いてしまう。
「……あなたは、本当に何者なんですか? なぜ、私の絵本をみつけてくれたのですか?」
私は率直な疑問をぶつけてみた。ところが、彼は「あきれた」と言わんばかりに首を振る。
「物覚えの悪い奴め。俺は、『司書』だと言ったはずだぞ。本との出会い、本との再会を求める者がいれば、それを手助けするのが仕事だ。もちろん、どんな形であれ報酬はもらうがな」
ナナイさんの答えは、「なるほど」と納得できるものだった。しかし……その答えはあまりにも綺麗すぎる。クズだったり悪魔的に人を追い詰める彼にしては、答えがまっすぐすぎた。
そこで私は、ずっと心の奥で感じていた『ある考え』をぶつけてみることにした。
「では質問を変えます。ナナイさん、あなた本当は――悪魔なんじゃないですか?」
異常なまでの記憶力、秘密を暴く手並み、そして本に関わる姿勢……これらは、出版社に勤めていた時、最後に担当した本の題材にもなっていたのでよく覚えている。
古の天才魔術師ソロモン王が使役した七十二体の悪魔。その内の、序列七十一番に列せられる地獄の侯爵……『本の悪魔――ダンタリオン』。それが彼の正体だと、私は確信していた。
「ふむ、なるほど。悪くない推理だ」
ナナイさんは私の推理を聞くと、ニヤリと笑った。だが、否定も肯定もしない。それどころか、やはり悪魔を思わせるような口ぶりでこう言った。
「仮に俺の正体がそうだったとして……その絵本を見つけてやったのは『悪魔との取引』にあたるぞ? 今回は、事件まで解決してやったのだ。到底、さきほどの金では報酬は足りん。貴様に、『そうべえ絵本図書館』の爺さんが出したような額が払えるのか?」
「うぐっ……それは、その……」
無理な要求だった。再就職もできず、ただ貯金を減らしてきた私にとって、さっき渡した渋沢栄一たちが最後の財産だ。そして彼は、それすらも見抜いているような気がしてならない。
「ふっ、その様子ではやはり無理なようだな。では、こうしよう――貴様、九龍で働け。俺の元で司書見習いとして契約し、困っている利用者を助けて報酬を得ろ」
悪魔の元で働く……それはブラック出版社で働くよりも危険な気がしてならなかった。しかし、一瞬返事に迷っていると「貴様が中学校の卒業文集に書いたポエムを朗読してやってもいいぞ? タイトルはたしか――」と言われたので、私は慌てて何度も頷いた。
「うぅ……その契約、受け入れます」
「くはは、では決まりだな」
まさに悪魔ように笑って、ナナイさんはそう言った。
元々運など無いようなものだったが、これぞまさに『運の尽き』ということだろう。私は、本当に悪魔と契約してしまったのだ。
「では、明日から見習い司書として、雑用からレファレンスの手伝いまで……馬車馬のごとく働いてもらうぞ。いいな?」
「……わかりました」
「貴様の不運は厄介ではあるが……おそらく依頼人を呼び込み、今日のように問題解決の一助となるだろう。事実は小説よりも奇なり……俺は謎を解くのが読書よりも好きなのだ」
『見習い司書』の仕事が自分に務まるのかはわからない。しかし職業が違うとは言え、もう一度『本で誰かを幸せにする』というチャンスを得られたことは純粋に嬉しかったし、この先どんな図書館や本と出会えるのか、少しワクワクもする。
――きっと、これからたくさん落ち込むことや不幸なこともあるだろう。
だけど……九龍でなら、私もなれるかもしれない。どんなに不運でも最後はみんなを笑顔にした、ぐるんぱみたいな存在に。
本が、好きだった。
子供の頃から誰よりも不運な人生だったが、どんなにツラいことがあっても本さえあれば乗り越えることが出来た。
しかし――
「これで……大丈夫だよね?」
私はロープの結び目がほどけないことを確認すると、それをゆっくり自分の首へと掛けた。
一応、遺書は残してある。あとは、一気に体重をかけるだけ……。
もちろん、本当は死にたくなんかない。だけど今は、それ以上に心が限界だった。
「本で、誰かを幸せにしたかったな……」
私がここまで追い詰められたのは、ブラック出版社に就職したのが原因だった。
他の出版社がどうかは知らない。ただ、私の就職した出版社は前時代的なパワハラ気質で、とにかく何もかもを否定され、罵声を浴びせられ続けた。
最初は「本が好きだから」という理由で耐えていたものの、最後は生きていることすらも否定され……結局、メンタルが崩壊して退職を余儀なくされた。
出版社を辞めた今ではトラウマで本を見ることすら出来ない。
もっと言うと、本屋や図書館にも近づけない……。
つまり私には、縋るものがもう何もなかった。
「……どうしてこんなに不幸なんだろう。幸せな時期なんて、五歳の時までしかなかった」
両親が生きていた幼稚園時代を思い出し、涙が眼鏡の縁を濡らす。
あの頃は絵本ぐらいしか理解できなかったけど、色んなお話をお母さんに読んでもらえて毎日が幸せだった……。
もし天国で会えたなら、たくさん絵本を読んでもらおう。『はらぺこあおむし』や『どんどこ ももんちゃん』を読んでもらうのもいいかもしれない。
「ごめんね、お父さんお母さん。でも、ここまで頑張ったし許してくれるよね……?」
所持金ももう残り少なく、このままいけばツラい思いをしながら餓死するほかない。
なので私は、『唯一の救い』である首のロープへと、一気に全体重を掛けようとした。
しかし――
「そうだ、あのお話……」
死の直前、私は走馬灯のようによみがえるたくさんの記憶のなか、ふとある絵本のことを思いだした。
そして、一度思い出してしまうと、私の中に残ったわずかな欲望が徐々に膨らんで行く。
「ツイてない人生だったけど……最期ぐらい、幸せな気持ちで死んでもいいよね?」
私が思い出したもの――それは、母親に読んでもらった絵本で特に大好きだった一冊のことだった。
〇
「オエッ……地獄すぎて死んじゃいそう……」
バスに揺られてしばらく。目的の場所まではもう少しだが、乗り物酔いが激しい私にとってはツラい時間となった。
それでも、ここで耐えられるかどうかが惨めなまま後悔して死ぬか、それとも幸せな気分で死ねるかの分かれ目だった。
なので私は、先ほど思い出した『とある絵本』と『とある図書館』について考えることで、気持ちを強く保つことにした。
――『ぐるんぱのようちえん』という絵本が好きだった。
どこに行っても嫌われる象のぐるんぱが成功を夢見て色んな職を転々とするものの、なかなか上手くいかずに苦戦する……しかし、最後は自分で幼稚園を開き、その大きな体を活かして子供たちを笑顔にするのだ。
幼いころ、何度も母に読んでとお願いした素敵なお話。私が本を好きになったきっかけでもある。
しかし……五歳の時に両親が天国へ旅立ってからは、一回も読んでいない。それどころか、孤児院に引き取られた時に私の『ぐるんぱのようちえん』は、いつの間にか手元からなくなっていたのだ。
そんな絵本を思い出した私は、
「どうせなら、あのお話を読んでから死にたい。それぐらい許されてもいいよね……」
と考え、せめてもの願いを叶えるため首に掛けたロープを外して図書館へ向かうことにした。
――ところが。私はすぐに、それが不可能だと気づく。
今の私は、本屋にも図書館にも近づけない。なんだったら、本を見る事さえできないほど精神が病んでいた。こんな状態では、とてもじゃないが絵本を読むどころではない。
私は愕然とした。自分は死ぬ前に、幸せな思い出にすら触れることが出来ないのだ。
小中高といじめられてきたし、ツイてないことも毎日のようにあった。
だが、こんな時まで不運なのかと思うと悲しくてたまらなかった。
しかし――
「あ……でも、あの図書館ならどうだろう?」
私はふと、ある『噂』のことを思い出した。
「――日本のどこかには、違法に建てられた『九龍城寨図書館』っていう本の墓場があるらしいよ。本の管理もされてない、ひどい場所なんだって」
かつて、週刊誌を作っている同期が話してくれた眉唾ものの噂。
当時は話半分にしか聞いていなかったけど――
「墓場か……今の私に相応しい場所だな」
私は何となく、そこへならこんな自分でも受け入れてもらえそうな気がした。
そして、バスに揺られること一時間。ようやく『本の墓場』へ着いたころには、時間はすっかり夜となっていた。
しかし……驚いたことに、辺りはそう感じさせないほど明るい。
「こ、これが本当に図書館……?」
私は、自分の目を疑った。目の前に広がるのは、煌々と明かりを放つ雑居ビルの群れ。ひしめき合うように乱立したそれらの間には、大小さまざまな路地がいくつも伸びている。
そこはあたかも、一つの繁華街のような図書館だった。
これらが都市計画もなしに建てられた『違法都市』なのは私にもわかったが、元本好きからすれば嫌でも興味を惹かれる光景だ。
実際、いつもの私ならめまいや吐き気を感じているところだが……今は圧倒されてそれどころではなかったので、「ここなら本当に、死ぬ前にあの絵本が読めるかも」という期待が高まった。
そして、私はさっそく『ぐるんぱのようちえん』を探しに行くため、九龍への第一歩を踏み出したのだ。
しかし……それと同時。私はすぐにこの図書館の重大な欠陥に気づく。
「待って。いったい……どこに行けばいいの?」
同期の『噂』によれば、この建物は一つ一つが図書館ではなく、その中に入っている一部屋一部屋が図書館なのだという。その数、実に一万六千館以上。蔵書数で言うと、国立国会図書館を優に超えているらしい。
そして、辺りを見た感じ、ここには普通の図書館のような『本の検索端末』は置いてないように思える。なんだったら、司書らしき人も見当たらない。
つまり……ここでは目当ての本が見つかるまで、膨大な数の図書館を一つ一つ巡らなければならないのだ。私の運のなさなら、一生見つからない可能性だって高い……。
「そんな……せっかくここまで来たのに……」
僅かに灯った希望の光が、急速に小さくなっていくのを感じた。
「神様……どうしていつもこうなるの?」
涙声と共に、つい弱音が漏れた。
非常に惨めで悲しく……とうとう、私は自分の不運さに疲れて、その場にへたり込んでしまった。
ところが……そんな時だった――
「おい貴様、金は持っているか?」
突如聞こえてきた声に顔を上げてみる。
するとそこには、煙草をくわえた長身の男が立っていた。
「どうした? 返事ぐらいしてみせろ。そして金を出せ」
私が唖然としていると、男は再びお金を要求してきた。
歳は私より少しだけ上だろうか。スラリと伸びた長身に、高い位置で縛った深い闇色の髪。顔は恐ろしく整っていて、まるで小説の中から飛び出してきたとしか思えない容姿だった。
しかし……これは一体どういうことなのだろう? 初対面の私にお金をせびるなんて、あまりにもクズすぎる気がする。それとも、これはカツアゲなのだろうか? 私が経験してきたどのカツアゲよりも優しいけれども……へたりこんでいるのを狙われるのは初めてだ。
こんなとき、小説の主人公なら「やれやれ」と軽く彼を撃退するのだろう。しかし……私は主人公ではないし、どう逆らえばいいのかもわからない。そもそも、そんな勇気があったら学校でいじめられたり、会社でパワハラに合うこともなかった気がする。
とはいえ、私もカツアゲなら慣れっこだ。「やれやれ」と内心で呟きつつ、お財布を差し出した。
「あの……これが全財産です! だから、許してくださ――」
私の言葉が終るか終わらないかの刹那。クズ男は目にも止まらぬ速さで私の財布を奪い取った。
「ふむ、免許証に銀行のカード……渋沢栄一が三人か。しけているな。これではせいぜい、飲み代にしかならんぞ?」
遠慮、という言葉を微塵も感じさせない不躾な物言い。
なるほど、彼はクズじゃない……悪魔だ。顔がいいだけの、クズを超えし悪魔級のドクズだ。
ところが、そんなことを考えていると――
「で? 貴様は何が読みたい?」
「へ?」
突然の質問に、私は変な声を出してしまった。
なぜ、私の読みたい本が知りたいのだろう? そう思って少し混乱していると、男はややイラついた口調で「早くしろ」と言ってきた。私はその言葉に心臓がキュッとなり、「は、はい……!」と返事をした。
そして、私はついつい素直に――
「ぐ、ぐるんぱのようちえん……です」
と、答えてしまった。
まさか、彼によって自分の人生が変わるなんてことも知らずに。
〇
「どうした、喜べ。貴様が求める本を探しに来てやったのだぞ?」
「ひ、ひいい! そんなの、絶対嘘じゃないですかぁ……‼」
連れてこられたのは、暗澹とした路地裏の雑居ビルだった。
私は、これから何が起こるのかわからずガタガタ震えた。
もしかすると、このままいかがわしいお店に売り飛ばされるのではないか? という雰囲気さえある。
「まぁ、いいから入れ」
「はうっ⁉」
クズ男は面倒くさそうにそう言うと、私を雑居ビルのエレベーターにドンッと押し込んだ。それも、足で。
そして、そのまま一緒に乗り込んできたかと思うと、迷わず八階のボタンを押す。
ちなみに、ここに来るまでに知ったが彼はナナイさんというらしい。
ガコン……という不安な音を立てて、エレベーターはゆっくりと上昇し始めた。どんどん階が上がっていくにつれ、私の心臓はうるさいほどに脈を打つ。
昔から厄介ごとにばかり巻き込まれて来たが、この状況は過去最高に不安だった。
私は、クズ男……もといナナイさんに、『ここに来た経緯』と『自分の運のなさ』、そして『読みたい絵本』を教えただけだ。それなのに、こんな怪しげな場所に連れて来られるなんて、意味が分からない。
このまま私はどうなってしまうのだろう……不安でたまらないし、いかがわしいお店に売られてしまうのではないか? という思いが、階を増すごとに強くなっていく。
本当にツイていない。「運は悪いけど、顔がいいだけの男には騙されないぞ」と思って生きてきただけに、これは痛恨のミスだ。こんなことなら、あのまま自分の部屋で死んでおけばよかった……。
しばらくそんなことばかり考えていると、「チーン」という軽快な音が鳴った。とうとう、エレベーターが目的の階へ到着してしまったのだ。
しかし――
「わっ……何ここ⁉」
扉が開いた瞬間、私の胸は一瞬で高鳴った。
そこは、外の様子からではまったく想像ができないほど、素敵な空間だった。
淡い白熱灯の明かり、古めかしい板張りの内装……そして、部屋のいたる所に配置された背の高い本棚には、絵本だけがびっしりと並んでいた。
「す、すごいです……! こんなに絵本が揃っている場所、始めて見ました!」
「まぁな。ここの館長はもう六十年も絵本専門の図書館を開いている。二万三千百二十冊という絵本の蔵書数は、俺の知る限り九龍で一番だ」
今の私に、さっきまでの不安は微塵も残っていなかった。むしろ、この不思議な空間にドキドキが止まらないぐらいだ。
ただ……こうなってくると一つ疑問に思うことがある。
それは――
「あの……ナナイさんはいったい何者なんですか?」
お金を要求してきたかと思えば、ちゃんと絵本のある図書館まで連れてきてくれた。一人でたどり着けなかったのは間違いないが、ただのクズ男だと思っていたので若干混乱していた。
対してナナイさんは、私の質問に一番予想していなかった答えを返してきた。
「俺か? 俺は、見てのとおり九龍の『司書』だ。報酬と引き換えに、貴様のように本を探している人間を手伝っているのだ」
私は彼の言葉にショックを受けた。なぜなら、私にとっての司書とは、優しくて慈愛に満ちていて聡明な存在だからだ。
なのに、目の前にいる男はお金はせびるし、堂々と利用者(私)の前でタバコまで吸う。顔はいいが、こんな人が司書を名乗っていいはずがない。
私は心の中で戸惑った。しかし、目の前に広がる図書館や違法建築の群れを思い出して「九龍ならこんな司書がいてもおかしくないのかも?」と、妙に納得してしまった。
〇
図書館は、雑居ビルの中とは思えないほど広かったが、森のように乱立した本棚の間をすり抜けていくと、司書であるナナイさんはとある本棚の前で立ち止まった。そして、指で空をなぞるようにして私の読みたい絵本を探しはじめる。
「ぐるんぱ、ぐるんぱ……」
これでやっと生きる事への未練もなくなり、不運な人生から解放される……私はそう思うと、安堵感で心が満たされるのを感じた。
しかし――
「ん?」
ふと、ナナイさんの指が止まる。
「ふむ……おかしいな。三日前にはちゃんとあったのだが」
彼は不思議そうに首を傾げた。どうやら『ぐるんぱのようちえん』が見つからないらしい。
「だ、誰かに借りられちゃったとかでしょうか……?」
「……いや、ここの本は館長のコレクションでもある。ゆえに持ち出し禁止だ」
「え? と、ということはもしかして……」
「おそらく、絵本を持ち去った犯人がいるということだな」
そう言って、ナナイさんは私の顔をじっと見た。
「チッ……よくも面倒ごとを増やしてくれたな。貴様の不運は筋金入りのようだ」
「す、すみません……」
濡れ衣です! と言いたいところだったが、強く否定できない自分がいた。
それから、ナナイさんは周囲を見回す。
「なるほど。この本棚だけでも『ゆきだるまゆうびん』、それに『かいじゅうたちのいるところ』と『すてきな三にんぐみ』がなくなっているな」
「え? もしかして……全部、覚えているんですか?」
私はナナイさんの驚異的な記憶力に心から驚いた。
しかし――
「黙れ、気が散る。息を止めていろ」
と言われてしまったので、私はナナイさんが何か考えている間、周囲の絵本をチラチラと見ていることにした。
『くいしんぼうのあおむしくん』『バムとケロのおかいもの』……どれもこれも母に読んでもらった懐かしいタイトルだ。
しかし、そんなことを考えていると――
――ギシッ、ゴト……ギシッ、ゴト……。
突如、床が軋むような音と謎の規則的な音が聞こえてきた、
私はビクッとなり、恐る恐る後ろを振り返ってみる。本棚が作り出した影でよく見えないが、誰かがゆっくりこちらへ歩いて来るのが見えた。
もしかしたら……本を持ち去った犯人ではないだろうか? 私たちがここへ来るのを見ていて、犯行がバレないよう消すつもりで…………そんな悪い予感が一瞬で頭の中を駆け巡り、私はガタガタと震えた。
ところが……そこへ現れたのは――
「おや、アンタじゃったか」
怯える私の目に飛び込んできたのは、杖を突いた小柄なおじいさんだった。
ナナイさん曰く、おじいさんはこの『そうべえ絵本図書館』の館長で、九龍一の絵本マニアらしい。
だが……そんな館長は今、とある厄介ごとに巻き込まれているそうだった。
「――そうか。それは、災難だったな」
「ああ、命があっただけでもよかったものの……本当に乱暴なやつじゃった」
今から数時間前……つまり夕方ごろ。子供連れでにぎわうこの図書館に、招かれざる男がやって来たという。
その男はいくつかの本を「売れ」と言ってきたらしく、おじいさんは最初こそ「ここの本は売り物ではない」と突っぱねたらしい。
しかし、男は聞く耳を持たなかったようで、しつこく……時には脅し文句も交えながら、しつこく絵本を売れと要求してきたようだ。
「まだ利用者もいるというのに大声で恫喝するは暴れまわるはで、本当に迷惑じゃった」
そして、男の態度はだんだんとエスカレートしていき……最終的には利用者へ危害が及ぶことを心配したおじいさんは、仕方なく要求を飲んだという。
貴重な絵本を含む数十冊は、たった数千円で買いたたかれたのだった。
「あ、あのぉ……」
私は話に割って入るのもどうかと思ったが、あまりにも気になったので手を挙げてみた。
「どうして「売れ」なんですか? よこせとかじゃなくて」
普通、そんな態度の男であれば奪っていきそうな気がする。
それなのに、律儀……とまでは言えないが、わざわざ「売れ」というのは何だかちぐはぐな気がしてならなかった。
そんな私の質問に、ナナイさんは「そんなこともわからんのか」とため息を吐きつつ、
「九龍は治外法権だが、一応自警団と言うものは存在する。「よこせ」だと恐喝に当たり処罰の対象となるが、売買であれば個人の自由だ。おそらく男は、その穴をついたのだろう」
と、説明してくれた。私は素直に「なるほど」と納得したのだった。
「それで、爺さん。犯人は誰だったんだ。知った顔だったのか?」
「いや、まったく知らん奴じゃった。ここも人が多いからのう」
おじいさんが力なくうな垂れ、首を振る。
どうやら九龍には住人だけでも三万人はいて、利用者まで入れると五万人以上が常にいるらしい。
なので、全員が全員知り合いというわけでもないそうだ。
「……ちなみに、取られたのはどの絵本だ?」
「ごっそり持っていかれてのう。『カエル水泳教室』のような希少本がほとんどじゃ」
「……『こんとあき』、『きんぎょがにげた』みたいな普通の絵本はどうだった?」
「おお、そういったのも持っていかれたな。それらはまた買うこともできるが……人気の絵本だっただけに利用者が可哀そうでならん」
「ふむ……なるほどな」
ナナイさんは、おじいさんから情報をあえて引き出しているように思えた。私はその姿を見て、初めて彼を「司書っぽい」と感じた。
ナナイさんが行っているのはおそらく……『レファレンス』だ。
レファレンスとは、相手の欲しい本や見つけたい物の情報を引き出して推理する技術のことで、私が通っていた図書館の司書さんたちもよくどんな本が読みたいか親身になって聞いてくれた。そして、そこから条件に見合う本を探してきてくれたのだ。
たぶん彼は、その技術を応用して犯人を特定しようとしているのだろう。
先ほどまで微塵も思っていなかったが、なんだかナナイさんが頼もしく思えてきた。
と、そのとき――
「なぁ、アンタ。金はいくらでもはずむ。だからワシの代わりに、買いたたかれた本を取り戻してきてくれんか? 得意じゃろ、こういうの」
突如、おじいさんがズボンのポケットに手を入れたかと思うと、おもむろに札束を取り出してみせた。
私はいきなりのことで驚いてしまった。
しかし――
「金は要らん。仕舞っておけ」
ナナイさんは意外なことに、それを断った。私の想像ではサッと奪い取ると思っていたので意外だ。
しかし、彼は札束を固辞する代わりに、こう言った。
「ただ……いくつか欲しい本がある。それを成功報酬として譲ってくれ」
と。
「あ、あの……! 私にできる事なら、なんでも言ってください。協力しますっ!」
『そうべえ図書館』から出ると、私は興奮気味にナナイさんへ話しかけた。
もちろん、自分が探している絵本だって見つけて欲しい。だが、誰かから本を無理やり奪っていくなんて……今まで本によって救われてきた人間としては許せない。
たった半年間だが、出版社で働いていた経験や今まで読んできた本の知識もある。私だってきっと、何かの役にたてるはずだ。
ところが……
「貴様の協力などいらん」
ナナイさんからは、あっさり断られてしまった。
「で、でも……」
「でももクソもない。むしろ、その不運さで余計厄介ごとが増えそうだ」
正論すぎて何も言い返せない。
しかし、ナナイさんはふと何か気が付いたのか――
「いや、待てよ? そうか……貴様の不運さを利用できるかもしれん。可能性は半々だしな」
と言って、突然私の手を取り歩き出した。
「え? えっ⁉ どこに行くんですか⁉ おじいさんの絵本はどうするんですか?」
私は慌てた。もしかして、このままおじいさんのお願いを放棄するのではないだろうか? 彼のクズっぷりならあり得なくもない気がしたのだ。
ところが、彼はこちらを振り返って――
「そうギャーギャー騒ぐな。この謎は……すでに読めている」
と言った。驚くことに、どうやら犯人の目ぼしがついているらしい。だとしたら、もしかしてこれから、犯人の下へ乗り込むのだろうか?
私は「なんて頼もしいんだろう」と思い、彼の後をウキウキでついて行くことにした。
〇
一枚板のカウンターに、スツールが五脚。間接照明に照らされた室内には、静かなジャズが流れており、本棚にはマスターの厳選したお酒の本が並ぶ。
ナナイさんが向かったのは、まさかのバーだった。『図書バー ゲーティア』、それがこの図書館の名前らしい。
「マスター。ラスティ・ネイルをもう一杯お願いします」
ナナイさんがそう注文すると、館長兼マスターは流れるような動作で準備に取り掛かった。ちなみに、これが五杯目のお酒だ。
「あの……」
「ん? どうした、酒が進んでないな。遠慮せずに飲め」
ナナイさんは三枚の渋沢栄一をヒラヒラして見せる。それは先ほどまで私の物だったが……そんなことはどうでもいい。それよりも今は――
「絵本を取り返すって話は、どうなったんですか?」
こちらの話題の方が重要だった。
しかし、
「そう焦るな。貴様の不運さが本物ならば、そろそろ時間だ」
ナナイさんはわけのわからないことを言って、出てきたお酒を一口飲んだ。
私は思わず不安になった。やはりこの人は顔がいいだけの、クズなのかもしれない。こんな人に一瞬でも「頼もしい」と思った自分が嫌になる。
――だが……まさにそう思っていた、そのときだった。
「いらっしゃいませ」
キィッ……という音と共にバーの重厚な扉が開く。その瞬間、私は絶句したし、自分の不運さを呪った。
「ほぅ、来るかどうか若干賭けだったが……貴様の不運は本当に事件を呼び寄せるな」
私とは対照的に、ナナイさんは楽しそうにつぶやく。
そして、こちらを見るなり……
「さぁ、奪われたものを取り返すぞ」
と言って、悪魔的な笑みを浮かべた。
バーに現れたのは……色付きの眼鏡、短く刈り込んだ髪、質のよさそうなスーツに身を包んだ男……つまり、ヤクザだった。
どう考えても、これから厄介ごとが起きる気がしてならない。
もし仮に彼が絵本を買い叩いた犯人だとしたら、簡単に返してくれないだろう。つくづく、自分の不運が嫌になる……。
「マスター。グレンリベット十二年をロックで頼む」
ヤクザは私たちとは真反対、つまり入り口側のスツールへと座り、慣れた様子で注文する。
……お店の中には、そこはかとない緊張感が漂っていた。
たしかに、この普通ではない図書館都市なら反社会的な組織の一つや二つが存在していてもおかしくないのかもしれない。だが、だからと言ってこの空間にヤクザがいても平気かどうかは別の問題だ。
私は絵本を取り返したかったが、同じぐらい一刻も早くここから立ち去りたかった。
ところが……私が必死に逃げる算段を立てていると、突然、ナナイさんがスッと席を立つ。
嫌な予感がした。私は、慌てて彼を止めようとしたが……間に合わなかった。
「貴様、リュウトク会の滝沢だな?」
ヤクザに対して遠慮のない物言い。私は元々死ぬつもりでいたが、すでに生きた心地がしなかった。もしかして、激昂したヤクザに殺されるのでは? と震えた。
だが、ナナイさんは宣言通り絵本を取り戻すためなのか、さらにこう続ける。
「貴様が『そうべえ絵本図書館』から買い叩いたものは、いまどこにある?」
「あ? なんだてめぇ。いきなり何言ってんだ?」
ヤクザの言う通りだった。ずっと一緒にいた私ですら、なぜ彼を犯人扱いするのかがいまいち分からない。相手の立場ともなれば、なおさらだろう。
「滝沢。貴様が別の店を選ぶ可能性もあり、来るかどうかは半々だったが……ここへは、祝杯をあげにきたのだろう? 希少本を、相当の安価で入手できたのだからな」
「……なんの話だよ。デマカセ言うな」
いくら見た目が怖いからと言って、さすがに決めつけはよくないのではないのだろうか? それに、そのような証拠を見た覚えも聞いた覚えもない。
ところが……私はすっかり甘く見ていた。ナナイさんの――異常な記憶力を。
「デマカセなどではない。おれは覚えているぞ? 貴様をここで見かけたのは十五回。そのうち最初の注文でグレンリベット十二年をロックで頼んだのは七回。そして……そのいずれでもマスターや連れの女に自慢していたではないか。「デカい仕事が上手くいった」と」
「…………」
「貴様らリュウトク会の主なシノギは『本の転売』だ。高価な希少本を安価で買い叩き、マニアに向けて高値で売っているそうだな? 貴様がここへ来た翌日には、必ず九龍のどこかの図書館で希少本を買い叩かれたという噂を耳にするぞ。こんな偶然があるか?」
ナナイさんは先ほどのクズっぷりとは打って変わって、恐ろしいまでの記録力と推理力でヤクザを追い詰めていく。
対して、ヤクザはしばらく何か言おうかと口を何度か開いたが、結局「しらけた。今日は帰るぜ」と言いだし、この場から去っていこうとした。
ところが……
「逃げるな」
地の底から響くような冷ややかな声。ナナイさんは、鋭い視線でヤクザを睨みつける。それは司書としての矜持なのか、今までにないほど真剣なものだった。
「あの図書館から買い叩かれた絵本は、どれも貴様の世代が一度は読んだことのあるものだ。リュウトク会の他の構成員は四十五歳から五十代がほとんど。そいつらであれば、もう少し古い絵本を狙うはずだろう。答えろ、滝沢。あの図書館の絵本をどこへやった!」
「……ッ! わけわかんねぇこと抜かすな! そもそもてめぇは、初対面のくせになんなんだよ? なんで俺のことをそこまで知ってんだ!」
ヤクザは怒声と共に、ナナイさんの胸倉をつかもうと腕を伸ばした。
しかし……彼はどういう技を使ったのかわからないが、体を軽くひねると逆にヤクザを本棚へと吹き飛ばしてしまった。
そして、ナナイさんはゆっくりとヤクザに向かって距離を詰めていき――
「この程度で、そこまで知っているのかだと? では、こんなのはどうだ?」
不敵な笑みを浮かべ……突如、濁流のような知識の詠唱を始めた。
「滝沢信明、三十七歳。九月七日生まれ。兵庫県山野辺市大工町一の七出身。最終学歴は……山野辺工業高校機械科を二年時の十一月に中退。出身中学は山野辺第二中学校。小学校は山野辺南小学校――だったか?」
「なっ⁉」
「お望みならば、お前に関する知識をさらに披露してやってもいいぞ? さぁ、どうする?」
「や、やめろ……なんでお前、全部知って……」
ヤクザの反応は、いま出された情報が紛れもない本物であることを物語っていた。
対してナナイさんは、そんな彼の反応に悪魔のように笑いだす。
「くははは……! なんでだと? 貴様はここをどこだと思っている。九龍城寨図書館だぞ。 個人の履歴書を集めている図書館など、いくらでも存在する。俺はそれらをすべて読んで、覚えているにすぎない」
……私は、思わずゾッとした。すべて読んで……覚えている?
たしかに、先ほどから記憶力がいいとは思っていた。一瞬で本棚にない絵本を見抜いたり、ヤクザの来店回数を覚えていたり……。
だが、今のような記憶力は人間の限界を超えている。それはもはや、悪魔のなせる業だ。
「さぁ、滝沢。絵本はどこにある? それとも俺は、貴様が育った孤児院へ行ってみればいいのか? 答えろ!」
その言葉が決め手となった。ヤクザはとうとう絵本の在処を自白した。『ヤクザ』という暴力の象徴は、圧倒的な知識の前に敗北したのだった。
〇
数時間後。
ナナイさんは、買いたたかれた絵本たちを取り返してきた。ただし、希少本や絶版本以外は報酬として貰い、リュウトク会に渡してしまったそうだ。
「あいつらが、希少本以外を孤児院に寄付しているのは知っていたからな。元々身寄りのない連中なりの贖罪なのだろう。そこまで奪うほど俺も鬼ではない」
そう言うと、ナナイさんは私の隣のスツールに腰をかける。
「ほら、例のものだ」
「えっ……? これって、まさか……」
彼が渡してきたのは、長方形の絵本だった。表紙には黒い瞳のかわいらしい象のイラスト。
タイトルは……『ぐるんぱのようちえん』と書かれていた。
「その絵本自体は希少本でもなんでもなく、俺の知る限り九龍に三千二百四十冊が収蔵されている。だが、貴様が手にしているものは十六年前に入荷されたものだ」
これでようやく不運な人生から解放される。私はそう思って表紙をめくった。
ところがその瞬間……私の頬には、両親が死んでから我慢してきた辛さや悔しさ、そして悲しみが一気に涙となって流れ落ちた。
表紙の裏ページ。その左下には、油性ペンでこう書かれていた。
『おたんじょうびおめでとう、りりか。やさしく、げんきなこにそだってね』
それはまぎれもない、母の字だった。
眼鏡もかけてられないほど、私はぐしゃぐしゃに泣いた。泣いて泣いて、泣き続けた。
その間、ナナイさんは黙ったままゆっくりとお酒を飲んでくれていた。
そして、どれだけの時間が経っただろう? 私は、やっとのことで言葉を紡いだ。
「どうして、これを……?」
彼が渡してくれたのは、紛れもなく私が幼いころに手放してしまった絵本だった。これが九龍にあるだけでも奇跡なのに、なぜ私の物だとわかったのだろう。
「ふんっ、単純な話だ。貴様から聞いたここに来た理由の断片から、絵本をなくしたであろう年齢を逆算し、そこから九龍に入荷された時期が重なる『ぐるんぱのようちえん』を割り出しただけだ。名前は免許証を見た時点でわかっていたしな」
彼の記憶力と推理力には脱帽だった。ただのクズ男だと思っていたのが申し訳ない。
私がそんなことを考えていると、突然、ナナイさんは一枚のメモをひらひらしてみせた。
「ちなみに、このくだらん駄文はもう捨てていいな?」
それは、私が九龍へ来る前に財布へ入れておいた遺書だった。「いつの間に……」と思ったが、ナナイさんは私の答えも聞かず、びりびりに破いてしまう。
「……あなたは、本当に何者なんですか? なぜ、私の絵本をみつけてくれたのですか?」
私は率直な疑問をぶつけてみた。ところが、彼は「あきれた」と言わんばかりに首を振る。
「物覚えの悪い奴め。俺は、『司書』だと言ったはずだぞ。本との出会い、本との再会を求める者がいれば、それを手助けするのが仕事だ。もちろん、どんな形であれ報酬はもらうがな」
ナナイさんの答えは、「なるほど」と納得できるものだった。しかし……その答えはあまりにも綺麗すぎる。クズだったり悪魔的に人を追い詰める彼にしては、答えがまっすぐすぎた。
そこで私は、ずっと心の奥で感じていた『ある考え』をぶつけてみることにした。
「では質問を変えます。ナナイさん、あなた本当は――悪魔なんじゃないですか?」
異常なまでの記憶力、秘密を暴く手並み、そして本に関わる姿勢……これらは、出版社に勤めていた時、最後に担当した本の題材にもなっていたのでよく覚えている。
古の天才魔術師ソロモン王が使役した七十二体の悪魔。その内の、序列七十一番に列せられる地獄の侯爵……『本の悪魔――ダンタリオン』。それが彼の正体だと、私は確信していた。
「ふむ、なるほど。悪くない推理だ」
ナナイさんは私の推理を聞くと、ニヤリと笑った。だが、否定も肯定もしない。それどころか、やはり悪魔を思わせるような口ぶりでこう言った。
「仮に俺の正体がそうだったとして……その絵本を見つけてやったのは『悪魔との取引』にあたるぞ? 今回は、事件まで解決してやったのだ。到底、さきほどの金では報酬は足りん。貴様に、『そうべえ絵本図書館』の爺さんが出したような額が払えるのか?」
「うぐっ……それは、その……」
無理な要求だった。再就職もできず、ただ貯金を減らしてきた私にとって、さっき渡した渋沢栄一たちが最後の財産だ。そして彼は、それすらも見抜いているような気がしてならない。
「ふっ、その様子ではやはり無理なようだな。では、こうしよう――貴様、九龍で働け。俺の元で司書見習いとして契約し、困っている利用者を助けて報酬を得ろ」
悪魔の元で働く……それはブラック出版社で働くよりも危険な気がしてならなかった。しかし、一瞬返事に迷っていると「貴様が中学校の卒業文集に書いたポエムを朗読してやってもいいぞ? タイトルはたしか――」と言われたので、私は慌てて何度も頷いた。
「うぅ……その契約、受け入れます」
「くはは、では決まりだな」
まさに悪魔ように笑って、ナナイさんはそう言った。
元々運など無いようなものだったが、これぞまさに『運の尽き』ということだろう。私は、本当に悪魔と契約してしまったのだ。
「では、明日から見習い司書として、雑用からレファレンスの手伝いまで……馬車馬のごとく働いてもらうぞ。いいな?」
「……わかりました」
「貴様の不運は厄介ではあるが……おそらく依頼人を呼び込み、今日のように問題解決の一助となるだろう。事実は小説よりも奇なり……俺は謎を解くのが読書よりも好きなのだ」
『見習い司書』の仕事が自分に務まるのかはわからない。しかし職業が違うとは言え、もう一度『本で誰かを幸せにする』というチャンスを得られたことは純粋に嬉しかったし、この先どんな図書館や本と出会えるのか、少しワクワクもする。
――きっと、これからたくさん落ち込むことや不幸なこともあるだろう。
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