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十三『嵐の前の』②
しおりを挟む部屋の中まで雨の匂いがして、なんとなく気が休まらなかった。
灯皿の小さな火さえ消えてしまうと不安で、先程から何度も油を継ぎ足している。
夜遅くになって帰ってきた龍神の顔を見た時には、自分でも驚くほどほっとした。
「まだ起きていたのか」
「……おかえり」
「ああ」
頼りない火の気で、龍神の髪に宿った雫が光る。
「濡れてる」
彼が纏うと雨粒さえ真珠のようだ。
「雨が、降っているからな」
そんな言うまでもないことを口にする龍神は、いつも以上に感情の読めない顔色をしていて。
「ちょっと待てって」
龍神をその場に座らせると、清高は急いで部屋を出た。
「はい」
清高が戻ってくるまで、律儀にも座らせられたそのままの場所待っていた龍神は、床に置かれた盆の上の椀に目を落とす。
「これは?」
「俺が作った」
「君が?」
「まぁ、作ったって言えるほど、大したものじゃないけど」
なんということはない、料理というのもおこがましい、ただの粥だ。
「突然、どうした?」
「菊里に、少しは働けって言われたから……」
そんなつもりもないのに、言いわけじみた口ぶりになってしまう。
「私が食べていいのか?」
「うん」
龍神が椀に添えられた匙を手に取り、躊躇いがちに、掬った粥を口に運んだ。
丁寧に咀嚼した後、ゆっくりと嚥下して、息を吐く。
「……旨い」
「なんか、あんまり旨そうな反応じゃないなぁ」
「そんなことはない。旨い」
何をむきになっているのか、龍神は清高に見せつけるように、もう一口、粥を食べた。
「……昔、さ。俺が風邪ひいたりするとさ、母上が作ってくれたんだ」
「母君が?」
「うん。あ、母って言っても、本当の母親じゃない方。育ての――義理の、母親。
本当の母親は、俺がまだ小さいうちに死んじゃったから」
つまり、明高とあさぎの母親だ。
「俺、ちびの時は体も弱くて、しょっちゅう寝こんでたんだよ。
そうすると、母上がわざわざ自分で作ってくれるんだ。
あの頃はよくわかってなかったけど、領主の正室が自ら厨に立つなんて、すごいことだったんだなって」
優しい人だった。本当の母を亡くした幼子へ対する、哀れみだったとしても。
大切にされていると、感じられた瞬間。
なんでもない粥が、清高にとっては労りの象徴だった。
だからだろうか?
それを彼に振舞おうと思い立ったのは。
「……ありがとう」
言葉は自然と口から零れていた。
「なぜ、君がそれを言う?」
「いいだろ。言いたくなったんだよ」
清高はふいっと顔を背け、背中を丸めて膝を抱える。
龍神はしばらく黙って粥を食べていたが、やがて、
「……すまなかった」
と言った。
「何が?」
「出掛けにきつく当たってしまった」
「ああ。いや、別に。大体、そんなのいつものことだろ」
龍神の言葉が柔らかくないのはいつものこと。今更謝られるほどでもない。
そう言ってやると、龍神は少し心外そうだった。
「私は……いつも君に対して、そんなにきつく当たっているだろうか?」
「……いや、そうでもない、か」
そうだ。彼の言葉はいつもそっけないが、清高はそれに傷つけられたことはない。
静かで落ち着いた、凪の水面のような彼の声は、存外、心地いい。
「雨が続くと、私は、どうも気が立ってしまうようだ」
龍神は恥じ入った様子で打ち明けた。
結界の力が弱まって、あちこちで綻びが生じるせいで、彼もその対処のために動き回らなければならないらしい。
この雨の中ずっと出掛けていたのはそのためだったのだ。
「そっか」
清高はただ頷いた。
(……うん。神様だって、疲れるよな)
一口ずつ噛み締めながらじっくり匙を進める龍神は、今までで一番、人の温度を持つ存在に見える。
二人の間の沈黙を繋ぐように、遠くでは雨の音が鳴り続けていた。
たっぷり時間をかけて空にされた椀が、龍神の手で盆の上に戻される。
「ごちそうさま」
「お粗末様」
不思議と、今までになく満ち足りた気分だ。
自分が食べたわけでもないのに、腹の奥がぽかぽかと温かい。
「すまないが、片付けも頼んで構わないだろうか?」
「いいけど……また出かけるのか? 今から? もう真夜中だぞ?」
食事を終えてすぐ立ち上がった龍神に、清高は感心も心配も通り越して呆れてしまった。
仕事熱心にもほどがあるだろう。
「朝になってからでいいんじゃないのか?」
「問題ない。君に力を貰った」
「ただの粥だぞ」
「神と呼ばれる存在にとって、人の想いが込められた供物は何よりの力になる」
「そうなのか?」
「ああ」
ここで暮らすようになってそれなりに経つが、そんな話は初めて聞く。
「それこそが神たるもの根源と言ってもいい」
「早く教えろよ。そしたら、いつでも作ってやったのに」
「強要するものではないからな」
自ら求めるものではないからと、龍神は清高に教えずにいたのか。
奥ゆかしいと言うか、律儀と言うか。
そんな気を遣うくらいなら、扱き使ってくれていいのに。
――ああ、俺は。
「清高――ありがとう」
そう言われて、嬉しいなんて。
「行ってくる」
「ん。いってらっしゃい。気をつけてな」
出掛けていく背中を見て、寂しいと思うなんて。
俺は、もう、こいつのことを――
きっと、殺せないんだろうな。
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