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第一章 その日、青い光が飛んだ。
Side:Sigrye 06
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風は穏やかに吹き、海を渡る小さな船を導いていく。
辺りにはすっかり夜のとばりが降りた。
月は扉を閉じて、いつも通りに煌々と輝いている。その周囲には星も出ていた。けれど暗く闇に沈む海面は、空の輝きを吸い込んで消してしまうようだ。
船上には沈黙だけが落ちていた。
時々、進む方向を調整するために動かされるオールが、水面に水しぶきを生む。永遠に続くような海のど真ん中で、風を受ける帆の音と、水の音だけが刻が進むのを知らせている。
大陸にいては感じることもなさそうな、静寂。
しかし、決して憂鬱な時間ではなかった。
波間の所々に、巨大な岩がせり出している。ここらが一番危険だな、とジオはカミルと共に慎重にオールを操り、船は見上げるほどに高く隆起した岩の傍をぎりぎりで通り過ぎようとしていた。
シグリィは月の位置を見て、それからジオに視線を移した。
「いつもは、何時間くらいで島に着くんですか?」
ジオは油断なくオールを動かしながら、
「順調に行って半日ってところだな」
「今回は順調ですか?」
「まあまあだ」
「それは良かった」
傍らで、セレンが欠伸をした。
「寝ないで下さいね、セレン」
黙々とオールを漕いでいたカミルが、気配だけで気づいて言葉を向ける。
セレンはむうとカミルをにらんで、
「分かってるわよぅ。でも波の音って眠くなるでしょー?」
「確かにな」
とシグリィは軽く笑ってうなずいた。
「お前ら呑気なこと言ってんじゃねえぞ。これからが本番なんだからな」
ジオが険しい声を出す。「そもそもここまで“迷い子”が出なかったことの方が奇跡だ――よし、いったんオール止めろ。流すぞ」
ガナシュの街を出港してから数時間。“迷い子”の影はなく、だからこそ海の静けさは不愉快ではなかった。
食事は摂っていない。時々、水を口に含むだけ。旅人である三人はそういう時間にも慣れているし、海の男であるジオにとっても、さほど苦になることではないようだ。
シグリィは体が固まらないよう、姿勢を直した。
体を動かした拍子に、ふと思考が動いた。
「そう言えば。ジオさんはいつも島へお一人で行かれてるんですか?」
「いいや」
ジオはいかめしい顔を、不機嫌そうにゆがめた。「いつも二人だ」
「その相手の方は?」
「今回はガナシュに来てなかったんだよ」
「来ていなかった?」
言い方に引っかかりを覚えて、シグリィはおうむ返しに問う。
ジオはがりがりと後頭部を乱雑に掻いた。
「やつぁ島の人間なんだよ。島で唯一、島から出て大陸であれこれやってんだ。で、やつが島へ帰る時の船を俺が出してた」
今も多分――とジオは顔を大陸の方向へ向けた。
「どっかで何かやってらぁな。……無事でいればな」
その声音ににじむ苛立ちは、おそらく不安の表れだ。
――月闇の扉が開いたこの非常時、友人の安否はおぼつかない。
「その方の帰りを待たなくてよかったんですか?」
「島に何かしら重大なことが起きそうな時は、やつぁ船を使わずに飛ぶっつってたぜ。転移のアイテムを持ってるとかで。でもありゃ、都合があって滅多に使えないらしいからな」
えーっ! とセレンが素っ頓狂な声を上げた。
「転移装置? それは凄い」
シグリィも感心した。ずい分と貴重な物を持っているらしい。
カミルもその顔に軽く驚きの色を見せていた。そんな彼らの反応を見て、ジオは訝しそうな顔をした。
「なんだぁ? そんなに凄ぇもんなのか?」
「凄いですよ。数もそれほどない上に、値が張ります」
シグリィは説明した。具現士によって造られた、俗に転移装置と呼ばれる物にも種類はたくさんある。比較的数が多いのが転移魔法陣の描かれたアイテムだが、一番安いものでも一般の人間はそうそう手が出せない。その地域にいる具現士の人数や、そもそも転移装置の需要があるかどうかで違ってくるものの――少なくとも、海を越えた先の島に行くことができるような高性能の物は、値段以前に数が少ないはずだ。
転移装置とは、国や地域単位、及び大金持ちが必要とするもの。
それ以外で、個人で持っているとなると、余程のことだ――
そんな話が進むにつれ、闇夜にぼんやり浮かぶばかりだったジオの表情が、傍目にも分かるほど暗く沈んでいく。
シグリィは説明を切り上げた。
心に浮かんでいる疑問があった。
――“島の住人”とは、すなわち“《印》がない者”だ。
それでどうやって、転移装置を手に入れるほどのお金を稼げたのだろうか?
《印》なき者を受け入れてくれる働き口があったのか。
あるいは、金銭以外の方法があったのか。
しかしそれをジオに言うのはためらわれた。口をつぐんでしまった男の表情から察するに、おそらく彼にも分からないのだ。
そこを詮索して、ジオの機嫌を損ねるのはうまくない。
途切れた会話を埋めるかのように、波が一際大きな音を立てた。
ふ、と――
シグリィは、今まさに通り過ぎようとしていた岩山へと目を向けた。
「……あいつぁ」
ジオが呟いた、その言葉の先を待たずに、
「来る!」
叫んだ。カミルが剣の柄に手をかけ、セレンが杖を持ち直した。
見上げるほどに高かった岩の陰から、次々と黒い物体が姿を現した。空からだけではない、海面にも――ぼこぼことあぶく立つように不気味な物体が顔を出す。
船底に何かがぶつかったかのような衝撃が走った。何者かが、体当たりを仕掛けてきた――
とっさにカミルが手を伸ばし、ジオの腕を掴んだ。船が大きく揺れ、シグリィとセレンは身を低くして耐えた。
ジオが短く裏返った声を上げた。
「大丈夫!」
シグリィはジオに向けて鋭く言った。
――転覆するほどの衝撃はない。
「船は私が護る! 大丈夫だ!」
防護壁を張ると共に、船体硬度を一時的に上げていた。元々この船は対“迷い子”用に見た目より頑丈にできているようで、それがシグリィの術によって十分に強化された今、相当な守備力がある。
カミルが剣を鞘から抜きざまに一閃。船の横からのっそりと現れたタコのような“迷い子”を斬り飛ばす。どす黒い色の巨体はそのまま海に沈んだ。
セレンが杖を振りかざし、鋭い声を上げる。
「我の邪魔をするもの微塵にして空なり! 破爆!」
高く上空で爆発が起こった。鼓膜を震わす音の後に、ぼとぼとと黒い塊が降っては海に落ちた。
シグリィは、唖然としているジオの傍に立った。
攻撃は二人に任せて、自分は守りに徹する。感覚を研ぎ澄まして戦況を探る。
この暗い海上であってもカミルとセレンの攻撃は全くひるまず、速く、そして正確だった。
ろくな攻撃もできず消えていく“迷い子”。その気配が確実に消えるのを確認していくのも彼の役割。視覚よりもむしろ、肌で感じる“迷い子”の気配の変化を掴み取ろうとしていたシグリィは――
はっと視線を上空へと向けた。
夜空に、一条の光が走った、気がした。
青い青い光――
「流れ星……?」
ほんの一瞬、戦いの最中であることを忘れて空を見つめる。
「鋭き風に裂かれぬもの、なし!」
セレンの高らかな声が響き、シグリィは我に返り視線を下ろした。
幸いなことに、その一瞬の隙をつかれるようなことはなかった。彼の二人の連れは順調に“迷い子”の数を減らしている。
衝撃で海面に起こる波が、船を揺らし続ける。低い体勢で身構えながら、
(何をやっているんだ、私は)
シグリィは胸中で自分を叱咤した。
自分ら三人だけの時ならある程度の融通は利くとは言え、今はジオの身も預かっているのだ。ささいな油断も許されない。
分かっている。
分かっているのに。
落ち着かない何かが、自分の中に残ったまま。意識の隅で転がる小さな石のように。
流れ星が珍しいわけではない。
――否、あれは本当に流れ星だったのか?
そして、そうだ、あの“流れ星”が落ちた先は、
「―――!」
シグリィは南へと視線を向けた。
その先には広大なる海が続くばかり。目的の島は影も見えない。
そのことを確認した時、
ふいに胸の奥がざわめいた。
底冷えするような、奇妙な感覚だった。
それはほんの一瞬のこと。気づけば意識は周囲の戦いの喧噪で埋まり、戦いの場特有の濁った空気が鼻先を流れる。
カミルとセレンの攻撃の合間を縫って飛び込んできた鳥を、反射的にシグリィは鋼糸でからめ捕りそのまま分断した。
全ての感覚を戦闘に向けながら、しかし頭の片隅の小石が消えない。
流れ星。
未だかつて、それが大陸に墜ちたという記録はない。
しかし大陸の者たちは、流れ星は大陸に降り立つのだと信じている。
――人間の姿となって。
辺りにはすっかり夜のとばりが降りた。
月は扉を閉じて、いつも通りに煌々と輝いている。その周囲には星も出ていた。けれど暗く闇に沈む海面は、空の輝きを吸い込んで消してしまうようだ。
船上には沈黙だけが落ちていた。
時々、進む方向を調整するために動かされるオールが、水面に水しぶきを生む。永遠に続くような海のど真ん中で、風を受ける帆の音と、水の音だけが刻が進むのを知らせている。
大陸にいては感じることもなさそうな、静寂。
しかし、決して憂鬱な時間ではなかった。
波間の所々に、巨大な岩がせり出している。ここらが一番危険だな、とジオはカミルと共に慎重にオールを操り、船は見上げるほどに高く隆起した岩の傍をぎりぎりで通り過ぎようとしていた。
シグリィは月の位置を見て、それからジオに視線を移した。
「いつもは、何時間くらいで島に着くんですか?」
ジオは油断なくオールを動かしながら、
「順調に行って半日ってところだな」
「今回は順調ですか?」
「まあまあだ」
「それは良かった」
傍らで、セレンが欠伸をした。
「寝ないで下さいね、セレン」
黙々とオールを漕いでいたカミルが、気配だけで気づいて言葉を向ける。
セレンはむうとカミルをにらんで、
「分かってるわよぅ。でも波の音って眠くなるでしょー?」
「確かにな」
とシグリィは軽く笑ってうなずいた。
「お前ら呑気なこと言ってんじゃねえぞ。これからが本番なんだからな」
ジオが険しい声を出す。「そもそもここまで“迷い子”が出なかったことの方が奇跡だ――よし、いったんオール止めろ。流すぞ」
ガナシュの街を出港してから数時間。“迷い子”の影はなく、だからこそ海の静けさは不愉快ではなかった。
食事は摂っていない。時々、水を口に含むだけ。旅人である三人はそういう時間にも慣れているし、海の男であるジオにとっても、さほど苦になることではないようだ。
シグリィは体が固まらないよう、姿勢を直した。
体を動かした拍子に、ふと思考が動いた。
「そう言えば。ジオさんはいつも島へお一人で行かれてるんですか?」
「いいや」
ジオはいかめしい顔を、不機嫌そうにゆがめた。「いつも二人だ」
「その相手の方は?」
「今回はガナシュに来てなかったんだよ」
「来ていなかった?」
言い方に引っかかりを覚えて、シグリィはおうむ返しに問う。
ジオはがりがりと後頭部を乱雑に掻いた。
「やつぁ島の人間なんだよ。島で唯一、島から出て大陸であれこれやってんだ。で、やつが島へ帰る時の船を俺が出してた」
今も多分――とジオは顔を大陸の方向へ向けた。
「どっかで何かやってらぁな。……無事でいればな」
その声音ににじむ苛立ちは、おそらく不安の表れだ。
――月闇の扉が開いたこの非常時、友人の安否はおぼつかない。
「その方の帰りを待たなくてよかったんですか?」
「島に何かしら重大なことが起きそうな時は、やつぁ船を使わずに飛ぶっつってたぜ。転移のアイテムを持ってるとかで。でもありゃ、都合があって滅多に使えないらしいからな」
えーっ! とセレンが素っ頓狂な声を上げた。
「転移装置? それは凄い」
シグリィも感心した。ずい分と貴重な物を持っているらしい。
カミルもその顔に軽く驚きの色を見せていた。そんな彼らの反応を見て、ジオは訝しそうな顔をした。
「なんだぁ? そんなに凄ぇもんなのか?」
「凄いですよ。数もそれほどない上に、値が張ります」
シグリィは説明した。具現士によって造られた、俗に転移装置と呼ばれる物にも種類はたくさんある。比較的数が多いのが転移魔法陣の描かれたアイテムだが、一番安いものでも一般の人間はそうそう手が出せない。その地域にいる具現士の人数や、そもそも転移装置の需要があるかどうかで違ってくるものの――少なくとも、海を越えた先の島に行くことができるような高性能の物は、値段以前に数が少ないはずだ。
転移装置とは、国や地域単位、及び大金持ちが必要とするもの。
それ以外で、個人で持っているとなると、余程のことだ――
そんな話が進むにつれ、闇夜にぼんやり浮かぶばかりだったジオの表情が、傍目にも分かるほど暗く沈んでいく。
シグリィは説明を切り上げた。
心に浮かんでいる疑問があった。
――“島の住人”とは、すなわち“《印》がない者”だ。
それでどうやって、転移装置を手に入れるほどのお金を稼げたのだろうか?
《印》なき者を受け入れてくれる働き口があったのか。
あるいは、金銭以外の方法があったのか。
しかしそれをジオに言うのはためらわれた。口をつぐんでしまった男の表情から察するに、おそらく彼にも分からないのだ。
そこを詮索して、ジオの機嫌を損ねるのはうまくない。
途切れた会話を埋めるかのように、波が一際大きな音を立てた。
ふ、と――
シグリィは、今まさに通り過ぎようとしていた岩山へと目を向けた。
「……あいつぁ」
ジオが呟いた、その言葉の先を待たずに、
「来る!」
叫んだ。カミルが剣の柄に手をかけ、セレンが杖を持ち直した。
見上げるほどに高かった岩の陰から、次々と黒い物体が姿を現した。空からだけではない、海面にも――ぼこぼことあぶく立つように不気味な物体が顔を出す。
船底に何かがぶつかったかのような衝撃が走った。何者かが、体当たりを仕掛けてきた――
とっさにカミルが手を伸ばし、ジオの腕を掴んだ。船が大きく揺れ、シグリィとセレンは身を低くして耐えた。
ジオが短く裏返った声を上げた。
「大丈夫!」
シグリィはジオに向けて鋭く言った。
――転覆するほどの衝撃はない。
「船は私が護る! 大丈夫だ!」
防護壁を張ると共に、船体硬度を一時的に上げていた。元々この船は対“迷い子”用に見た目より頑丈にできているようで、それがシグリィの術によって十分に強化された今、相当な守備力がある。
カミルが剣を鞘から抜きざまに一閃。船の横からのっそりと現れたタコのような“迷い子”を斬り飛ばす。どす黒い色の巨体はそのまま海に沈んだ。
セレンが杖を振りかざし、鋭い声を上げる。
「我の邪魔をするもの微塵にして空なり! 破爆!」
高く上空で爆発が起こった。鼓膜を震わす音の後に、ぼとぼとと黒い塊が降っては海に落ちた。
シグリィは、唖然としているジオの傍に立った。
攻撃は二人に任せて、自分は守りに徹する。感覚を研ぎ澄まして戦況を探る。
この暗い海上であってもカミルとセレンの攻撃は全くひるまず、速く、そして正確だった。
ろくな攻撃もできず消えていく“迷い子”。その気配が確実に消えるのを確認していくのも彼の役割。視覚よりもむしろ、肌で感じる“迷い子”の気配の変化を掴み取ろうとしていたシグリィは――
はっと視線を上空へと向けた。
夜空に、一条の光が走った、気がした。
青い青い光――
「流れ星……?」
ほんの一瞬、戦いの最中であることを忘れて空を見つめる。
「鋭き風に裂かれぬもの、なし!」
セレンの高らかな声が響き、シグリィは我に返り視線を下ろした。
幸いなことに、その一瞬の隙をつかれるようなことはなかった。彼の二人の連れは順調に“迷い子”の数を減らしている。
衝撃で海面に起こる波が、船を揺らし続ける。低い体勢で身構えながら、
(何をやっているんだ、私は)
シグリィは胸中で自分を叱咤した。
自分ら三人だけの時ならある程度の融通は利くとは言え、今はジオの身も預かっているのだ。ささいな油断も許されない。
分かっている。
分かっているのに。
落ち着かない何かが、自分の中に残ったまま。意識の隅で転がる小さな石のように。
流れ星が珍しいわけではない。
――否、あれは本当に流れ星だったのか?
そして、そうだ、あの“流れ星”が落ちた先は、
「―――!」
シグリィは南へと視線を向けた。
その先には広大なる海が続くばかり。目的の島は影も見えない。
そのことを確認した時、
ふいに胸の奥がざわめいた。
底冷えするような、奇妙な感覚だった。
それはほんの一瞬のこと。気づけば意識は周囲の戦いの喧噪で埋まり、戦いの場特有の濁った空気が鼻先を流れる。
カミルとセレンの攻撃の合間を縫って飛び込んできた鳥を、反射的にシグリィは鋼糸でからめ捕りそのまま分断した。
全ての感覚を戦闘に向けながら、しかし頭の片隅の小石が消えない。
流れ星。
未だかつて、それが大陸に墜ちたという記録はない。
しかし大陸の者たちは、流れ星は大陸に降り立つのだと信じている。
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