月闇の扉

瑞原チヒロ

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第一章 その日、青い光が飛んだ。

10 パレットの中の孤独

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 ……自分がどこに向かって走っているのかを、分かっていたわけではなかった。
 風にただよう匂いに惹かれた。
 それが何の匂いなのか、考えるより先に体が動いて。
 
「……うみ……」

 視界に広がった青。
 澄みきった碧。

 ――どこかで見た色だ――

「………っ」

 頭に突き刺すような痛みが走った。

 ――自分はこの色を知っている
 ――この場所を、ではなく、――

 胸にこみあげてくるのはどうしようもない懐かしさ。
 そしてその裏側に、息がつまるほどの切なさ。

「……どうして……?」

 両手で胸元をわしづかんで、吐き出すようにつぶやいた。どうして? こんなに美しい色なのに。
 こんなにも哀しい――
 
 その色は
 その雫は
 だれが流した涙なのか
 
 まだ陽は高い。
 空には雲ひとつなく、世界はこんなにも明るい。

 まぶしいほどのその蒼の中で、自分だけ取り残されているかのように、心が暗く沈んでいる。あざやかな色を載せたパレットの上、ぽとりと落ちた一滴の黒い墨のように。

 まわりの美しさに触れるのが怖くて、心が内側を向く。
 哀しいだけならもう何も考えたくないと、拒絶する自分がいる。

 ――気がついたら何も思い出せなくなっていた。ここはどこなのか。自分は誰なのか、どうしてここにいるのか、どうして何も思い出せないのか、

 それでも取り残されたかのようなこの世界のどこかで、
 誰かが、呼んでいるような、――

「歌が……」

 聴こえている。

 ずっと、胸の奥に流れている。

 とてもとても寂しい響きをはらんだその歌を、それでも抱きしめた。その旋律をも手放してしまえば、もう自分は消えてしまうかのような、そんな不安に突き動かされて――

  
  それは昔のものがたり
  小さな島に うつくしき女神おりたって
  太陽の光あびながら やさしい声で ことばをつむぐ
  聴いていたのは島の花々 そして動物


**********

 私が歌えば、貴女は必ず微笑わらってくれた。
 ふんわりと、うれしそうに。

「お上手ですね、姫様」

 私と大きく歳が離れているわけではない貴女は、私とちがって城になくてはならない人だった。

 貴女がなぜ私の世話を引き受けてくれたのか、私は知らない。
 父上の命令? 本当にそれだけ?

 ――貴女が私のそばにいてくれるのは、義務?

「姫様?」

 ふしぎそうに首をかしげる貴女の前で、私は思い切り息を吸った。

「――この歌は、どうしてこんなに切ないのだろう?」

 たった今まで自分が歌っていたのは、この国でもっとも有名なフォルクスリート。

 これは“愛”の歌だという。
 “愛”とは、なに? それはどこにあるの? どうして目に見えないの?
 何度もそうたずねては、貴女を困らせた。

 それでも、貴女はいつも私の言葉を聞いてくれる。

 どんな他愛のない言葉も、すべて聞いてくれる。だから私は、心に生まれた形の分からないものたちを、苦心しながらも貴女に伝えようとしてきた。

 風がさやかに吹いている。
 貴女のスカートが、ほんの少し揺れる。

 私をじっと見つめる貴女の前で、私はごまかすように辺りを見渡す。

 私のお気に入りの場所。高台に造られた城の裏庭の片隅。ここからは城下は見えないけれど、代わりに空と海が一望できる。

 私のお気に入りの場所。私と貴女ふたりきりで、城の束縛からひととき逃れられるような気がする場所。
 それがどれだけ儚い時間であっても。

「この、歌詞もだけれど。それ以上に旋律が……とても切ないんだ。このあいだ楽師がリュートで奏でていたとき、とても最後まで聴いていられずに席をはずしてしまった」

 楽師に申しわけなかった、と消沈した私の肩を、貴女はやさしくなでてくれた。

「うまく言えないけれど……」

 私はちいさな吐息とともに、つぶやく。

「……かなしい」

 貴女は、そっとうなずいた。

「この歌のメロディは、学者や音楽家の間では、“女神の旋律”と呼ばれているのですよ」

 言いながら、空を見上げる。
 仰ぐ方向は南――

 我が国の守護神のおわす方角。

 太陽はいつも、そちら側に寄り添いながら空を横切っていく。
 夕暮れ、空がもっとも朱に染まるその時間は、“神の時間”だ。日中働いていた大人たちも、はしゃいでいた子供たちも、皆が心を休めて南の神を想う。

 貴女も、そして私も。

「このメロディは、元々この詞のために作ったものではない……と、言われているんです」

 貴女は額に手をかざし、夕焼けを見つめてまぶしそうに目を細めた。

「このメロディは詞より先にあったそうです。女神ご自身が、この国を――我が国の始祖王を想って、紡いでおられた音だとか。それを聴いていたひとりの旅人が、やがてその女神の旋律に詞をつけたと言われています」

 私は黙って、貴女と同じ方角に顔を向けていた。

 たたずむ私たちの頭上を、日暮れの鳥たちが飛びすぎる。強いはばたきに負けて、一枚の羽根が空中を舞った。私は思わず手を伸ばした――けれど届くことなく、風にさらわれた羽根はひらりひらりと海の方角へ消えた。

「……姫様、想像してみてください。自分にとって大切な人が、自分のことを忘れてしまったところを」

 貴女の手は、静かに私の背中に触れる。
 ちいさな私の体を支えるように。

「この旋律は、自分のことを忘れてしまった愛する人に向けて紡がれたもの……。そのことを、どうぞ心の片隅においておいてください。今は意味が分からなくとも」

 “愛”とはなに、と何度もたずねた私に、それでも貴女は、

「いつか、あなたにも分かる日がきます。だから忘れないで」

「―――」

 何も言えなかった。何かたくさんの形にならないものが胸の奥に湧き出た気がしたけれど、何ひとつ私には掴めなかった。
 だから代わりに、私はもう一度歌を歌った。この、たまらなく心を揺さぶる女神の歌を。

 
  女神のこぼした涙 真珠のように輝く青
  女神は島のまわりに散りばめた


 二人で見つめる先、途方もなく広がる永遠なる空に、女神の姿はない。

 そんなことは分かっていても、私たちは想わずにはいられない。その先にかの人はいる。かの人に、聞いてほしい言葉がたくさんある。

(――違う)

 海の向こうなんかじゃない。

 心を届けたい人はここにいる。

 私は貴女の名を胸に刻む。“愛”は分からないけれど、私は貴女を大切と思う。空虚なほど広い城の中で、どこに行けばいいのか分からず立ちすくむ私の、たしかな道標となってくれる貴女。貴女が私を忘れてしまったなら、それはきっと私の世界が終わったも同じだ。

 だから、その名を心に刻む。
 女神を想うためのこの時間に、貴女だけを想う。

 貴女に忘れられたくない、そして私も、貴女を忘れたくない。
 女神の紡いだこの哀しみの歌を、貴女に向かって紡ぐ日などこないように。

   
**********

 
 足跡は、眼前に立ちふさがる岩場の前で途切れていた。それきり右にも左にも、もちろん後ろにも他の跡はない。

「ひょっとしてここを登っていったのか……?」

 シグリィは岩場を見上げた。

 でこぼこと隆起しているそのまだら色の壁は、彼の身長より高い。この場にいる者の中で一番背の高いカミルよりも、さらに高い。それが、左右見渡す限り続いている。

「運動が得意な者なら、登れないこともないでしょう。掴める場所が多いですから」
 カミルが拳で岩壁を軽く叩いた。「まあ女性が登ったと聞けば多少は驚きますが、無理でもないと思いますよ」

「この子裸足よね? 窓から飛び降りたことといい、ずいぶんと活発な子ね」

 セレンが続けた言葉に、「大したもんだ」とジオがぼやく。

 大陸西部には、基本的に活発な人間が多い。人間の肉体に大きな影響を及ぼす白虎の《印》の持ち主が大半であるためだ。男女問わず西部には体の丈夫な人間が多いというわけで、ジオも当然“強い女性”には慣れている。

 だが、それでも“大したものだ”と思わずにいられないのは――

「けがしちまうよ……」
 しょげ返った声でつぶやいたのは、チェッタだった。「元々けがしてたんだぜ。ぜってーよわってんのに……」

 目的の少女は、足に怪我をしているらしい。
 それなのに、走っていく足跡には乱れもなかった。

(……ひょっとすると、戦いを知っている子かもしれないな)

 怪我の程度にもよるが、怪我に慣れている者ならこんな走りかたもできるだろう。
 ハヤナが、「まさか」と独り言のようにつぶやいた。

「海に向かってるのか……?」
「海?」

 シグリィは振り向いて、ハヤナとマーサを交互に見る。
 説明してくれたのは、マーサだった。

「こちらの方角は、海に一番早く行ける方角です。この岩場を越えたら、もうそれほど距離はありません。……ふつうは迂回していきますけど、たしかにここを越えるのが最短距離です」
「なるほど」

 シグリィはうなずいた。
 そして、岩場に手をかけた。

「シグリィ様?」
「私はここを越えてみる」

 片手をでっぱりに引っかけたまま、背後の人々に告げる。「マーサさんたちは、怪我があってはいけませんから迂回を。カミル、セレン、お前たちは念のためそちらの護衛につけ」
「護衛ったって……“迷い子”の気配はありませんよー?」

 セレンが心配そうに主を見る。

「何があるか分からないだろう? 一番身軽なのは私だから私がここを行く。任せたぞ」

 言うなり、岩場に取りつき軽々と上へ登っていく。そして、あっという間に上に到着した。予想以上に登りやすい壁だ。

 空気に混じる潮の匂いが、一気に増した。

 向こう側はなだらかな斜面になっていた。目指す足跡はすぐに彼の目に留まった。やはりまっすぐに東へ――海のほうへ向かっている。

「気をつけて、シグリィ様!」

 セレンの声を最後に、残りの面々が岩場にそって迂回の道を行く。
 シグリィは彼らのことを気にすることをやめ、ひたすら足跡を追いかけた。
 
 マーサの言葉のとおり、海が見えるまで時間はかからなかった。

 ここらには人がほとんど来ないらしく、道らしい道はない。平らな土地とは言いがたく、あちこちぼこぼこと隆起している。背の高い岩がそこかしこにあるため、海は見えても水平線はなかなか見えない。

 靴底に触る砂が、さらさらとした海辺の砂へと変化していく。
 それにともなって薄くなっていく足跡は、やはり迷いなく岩の間を縫っている。

 不意の潮風が、思い切り顔に吹きかかった。

 思わず足を止め、目を閉じたシグリィの耳に――ふと、聴こえたのは。

「歌……?」

 風にまぎれて届いたその響きは、消え入りそうにちいさく、
 ひどく哀しそうな調子で――

 
  それは昔のものがたり
  小さな島に うつくしき女神おりたって
  太陽の光あびながら やさしい声で ことばをつむぐ
  聴いていたのは島の花々 そして動物

  
 高い岩をひとつすぎて、
 初めて一面に広がった水平線、空と海の境界を臨みながら、
 風に流れる長い黒髪は、頼りなく宙を舞い、

 まるで完成された風景画に、後からつけ加えられた点のように。

 たったひとりきり、歌う少女の後ろ姿は、孤独に世界から浮いていた。
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