月闇の扉

瑞原チヒロ

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第一章 その日、青い光が飛んだ。

24 夜闇の襲撃者

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 魔力の灯火が、滞空し続ける物の姿を怪しく照らし出す。

 昏冥の中に紛れていたのは漆黒の体を持った、怪鳥とでもいうべきものたちだった。纏う気配がただの鳥ではない――この島に着いてから一度も見ることのなかった、〝迷い子〟。

 それぞれ全長1メートルほどはあるであろう巨鳥だ。だが数は十に満たない。大陸で見かけるこの体格の〝迷い子〟の群れとしては、むしろ少ないと言える。

 だが――そんなことでは安心できないほど、それらは異様だった。

 群れはシグリィとラナーニャを取り囲み、絶えず上空を旋回しながらこちらを窺っている。

(術で吹き飛ばすことは可能か――)

 シグリィはそれらの動きを慎重に探り取り、じりじりと立ち位置を変えた。

(彼女と二人で切り抜けるとなると)

 ラナーニャは彼の腕から離れ、彼女自身で体勢を立て直した。それを横目で見たシグリィは、彼女の構えに不思議と納得した。――やはり彼女は戦いを経験したことがある人間なのだ。低く重心を保っている姿勢と、どことなく手持無沙汰な様子の手元。

 熟達した者とまではいわないまでも、護身くらいなら可能に見える。

(……武器を持っていれば、だが)

 視界の端で怪鳥の影が動いた。

 二人は同時に後方へ飛んだ。一瞬前まで二人がいた場所を、重い衝撃が襲った。しかし飛散する草と土くれを確認する間もない。地面を襲った鳥は急激に方向転換をして、真っ直ぐとラナーニャを狙う。

 避ける間もなかった。ラナーニャが受け身の体勢のまま、声にならない声を上げた。嘴どころか全身を凶器と変えた黒塊が少女と重なる――しかし、

 シグリィの手が動くほうが早かった。無造作に横ざまへ振るった手先から、鋼糸が繰り出される。寸分たがわずラナーニャの目の前の鳥を絡め捕り、その首と翼を容赦なくぶち切る――

 同時にシグリィは、もう片方の手で短剣を放り投げた。ラナーニャのほうへと。

「使え、ラナーニャ!」

 少女が飛びつくようにそれを空中で受け止める。短剣を手に取り即座に構えた彼女へと、三羽の怪鳥が三方向から急降下する。

 彼女は半身を後方へ傾け、右手に腰布を握りこんだまま、短剣を後ろに振るった。背後を取った怪鳥の嘴を打ち据え、ぎりぎりで払いのける。

 シグリィは彼女の前方二方向から来ていた二羽を狙い、素早く詠唱した。

「我が意のままにはし征箭そや!」

 空間を矢のように走った熱線が、二羽の怪鳥をまとめて貫き燃やし尽くす。
 ひらひらと、炎をまとった欠片が虚空に舞った。

 その頃にはラナーニャが、自分が払いのけた怪鳥に向けて一歩踏み込んでいた。低空で体勢を立て直し再びこちらを見た怪鳥の嘴は、あくまでも彼女を狙っている。眼前に迫った鋭い凶器をたいさばきで避け、下から突き出した短剣が鳥の喉元を抉る。そして動きを乱した怪鳥を足で思い切り蹴り飛ばした。

(腕力に頼らない代わりに足を使うことに慣れているらしい)

 シグリィはラナーニャの動きに感心した。体格に恵まれているとは言えない分、それなりの戦い方をどこかで学んだようだ。

 同時に、疑問もあった。

(……なぜ短剣を? 彼女は右利きだと思っていたが)

 だがもちろんそれを気にしている場合ではない。

 〝迷い子〟の群れは――瞬く間に数を半分に減らしていたが――明らかに、ラナーニャを狙っていた。

 人間の肉体を狙うのが〝迷い子〟という存在だが、その対象に好みなどない。少なくとも、禽獣の形を保っている〝迷い子〟は老若男女問わず襲うものだ。シグリィも旅をして数年、前線に出ない分狙われることは少なかったが、さりとて〝迷い子〟に完全無視された経験もない。

 さらに、異様さは重ねて表れ彼の思考を悩ませる。

「シグリィ! こいつらは……」

 ラナーニャが、わずかに距離の開いたこちらに踏み込もうとする。しかしその足元を狙って再び〝迷い子〟が襲いくる。彼女は身軽に跳躍してそれをかわしたものの、着地したその足にまた別の鳥が降下する。

 幸いというべきか、〝迷い子〟に完全無視されたシグリィはその分全く動きに困らなかった。
 ラナーニャの足元を掬おうとする鳥の嘴を鋼糸で絡め捕り、その矛先を曲げる。あまり彼女と接近されると術は使えない――だがこの形の〝迷い子〟は翼をもつ性質上、突撃しては離れるを繰り返す。

 敵が狙いをはずして空へ戻っていく合間に、ラナーニャはシグリィの隣におさまっていた。

 残りは四羽。相変わらず二人を取り囲むようにしているそれらを警戒して、彼らは背中合わせになる。

 ラナーニャの呼吸いきが心なし上がっていた。

「なんで私を――それに、……?」

 囲まれるまで全く気付かなかった。それが彼女にとってはひどく驚きであるらしい。それはシグリィにしても同じだ。肩越しに冷静な言葉を返す。

「本当に空を飛んで近づいてきたならもっと早くに気づいてる。おそらく途中までは術で転移してきたんだろう」
「術……」

 息を呑む気配。「だ、だとしたら誰かが送り込んできたということに――」

 やはり彼女の〝知識〟は正常だ。
 歴史上、〝迷い子〟が術を使ったという記録はない。

 だがそれは、ラナーニャにとって嬉しくない推論だったろう。覚えのない自分の身上。名前さえおぼつかない。それなのに今、命を狙われている。

 〝迷い子〟ではなく、

 彼女の息遣いに怯えが混じったことに、シグリィは気づいていた。それでも、事実は事実だ。

「――あの鳥たちは統率がとれている。あくまでも君を目的としていて、私の存在は意に介していない。逆に言えば、状況によって動きを変えるような融通はきかないんだろう。つまりこの場を命令者が見ているということはなさそうだ」

 早口にそう言ってから、それ以上その問題を追究することを避けて話を変える。

「その短剣は使いにくくないか?」
「え? あ、うん――」

 すぐには頭がついていかなかったのか、ラナーニャは混乱したような声を出した。

 翼持つ獣は近づいて来なかった。二人が背中合わせになったことで、襲う隙を見い出せないのだ。
 しかし、諦める様子もない。

(〝迷い子〟に知能は必要最低限しかない……はずだ。あるとすれば人を食らうために必要な知恵のみ。それなのに、明確に彼女を狙っている)

 一体どうやって個体を判別している?

 ラナーニャが誰かに狙われているとして。その誰かが〝迷い子〟を手なずけ、襲わせているとして。

 一体どうやって〝目標はこの娘だ〟と確定させているのだ。

 今ここが暗闇であることを考えれば、視覚で判別しているとは考えにくい。特別視力を増幅させている様子はないし、少なくとも、わざわざ襲撃を夜にするほどのメリットはない。

 では嗅覚か? しかし、一般的に鳥類のその感覚は人並みという。鳥類の姿を模している〝迷い子〟も同様に。

(そういったものではないとするなら……彼女にすでに印をつけているか。――いや、

 思い至った考えに、シグリィは舌打ちしたい気分になった。

(――≪印≫がない。それが一番の目印だ。ということは)

 ここでやつらを一匹でも逃したら危険だ。この島には≪印≫なしが幾人もいるのだから。

 それにそもそも、刺客が今彼らの目の前にいる怪鳥だけではなかったとしたら――?

 シグリィ、と背中からラナーニャの呼ぶ声がした。

「あの、もうひとつ武器を持っていたり、しないか?」

 思いがけない問いに虚を突かれ、シグリィは軽くまたたいた。「使いづらいのか?」と問い返すと、慌てて否定する気配が返ってくる。

「その、この短剣を右に持つと、落ち着かなくて。か、軽くて」
「だから左で使っているのか?」
「いや、何だか――あっ」

 二人が会話を始めたのを隙と見たのだろう。二羽の猛禽が両側から突っ込んでくる。

 動いたのはシグリィが先だった。右の手を振りぬき鋼の糸を走らせ、鳥の目玉を突く。そして左へ――と意識を傾けようとしたそのとき、背後の少女が姿勢を変えた。シグリィが残した方の敵と向き合うように。

 そのまま、突っ込んできた鳥をぎりぎりでかわし、短剣を突き出す。羽毛の隙間を縫って首辺りに刺さった刃を、抜き放つ動作でさらに深く抉った。

 それだけの動作を機敏にやりこなしたラナーニャは、終えるとすぐにシグリィの背後へと戻ってくる。彼女が仕留めた鳥が、のたうちながら塵と消えていく。

 シグリィは目玉を片方失って狂乱する鳥を、さらに鋼糸で絡め捕って引き裂いた。そして感嘆の声音でラナーニャを呼んだ。

「すごいな君は。利き手じゃないのによくそれだけ動けるものだ」
「そ、そう――なの、かな」
「それにどうやら私の動きに合わせてくれているようだし――」

 視線を空に向ける。

 油断をするわけではない。だが話しかけるのをやめられなかったのは、それが彼にとって滅多にない経験だったからだ。いつもはシグリィのほうがカミルやセレンの動きを補助する立場だったから。

 だから彼は、確信した。

「きっと君は元から他人の動きを読んで戦ってきていたんだろうな」

 複数での乱戦となる場合、そういう戦い方のできる人間は重要だ。いくら個々の力は優れていても、お互いがお互いを邪魔するのでは意味がない。

 辺りには、まるで空気が呼吸しているかのような不思議な気配が満ちていた。

 シグリィの視線の先、残り二羽の大きな影。まだ次の行動をとる気配はない。それどころかシグリィたちからやや距離を取ろうとしている。

 しかしこの程度の距離ならば、

ほのおくらき力を焼き尽くせ!」

 術であればさほどのこともない。詠唱とともに薙ぐ左腕が空中に弧を描き、そこから放射線状に炎の波が発生する。

 視界が赤く染まった。

 大波のようなうねりが、局地的に空に襲いかかる。それはそのまま残りの二羽を呑みこんだかのように見えた。

 否、丸ごと灼熱に沈んだのは一羽だけだ。もう一羽は命からがら範囲外に逃げ出している。

 翼の先や尾にまとわりついた火の粉が、場違いに美しく散り広がっていく。

 あと一体。シグリィは口に出してつぶやいた。

「次で決める。ラナーニャ」
「あ、ああ」

 ぎこちない返答。背後でラナーニャが姿勢を整えるのが分かる。
 だが。

 呼吸が――合わない。
 二人の間に、唐突なずれが生まれていた。

 どうしたんだ? 原因を探ろうとして、シグリィは直前までのやりとりをたどった。自分らは一体何を話していた? 戦闘にある程度慣れているらしい彼女の動き。そのことについて自分は――

 そうだ、自分が言ったのだ。〝〟。

 失言の可能性を悟って息をつめる、それが何よりも大きな動きの乱れ。

 怪鳥は見逃してはくれなかった。即座に翼を翻し、まさに決死の勢いでラナーニャへと飛び込んでくる。ほんの一拍の遅れが致命的だった。詠唱が間に合う速度ではなく、鋼糸で捕えられる動きでもない。そして短剣は今、彼の手にない。

 それを持っているのはラナーニャだ。彼女が反応できているのなら、防ぐことは可能なはずだ――

 そう思って振り向いた彼の目に、狙われた娘が凍りついたように硬直しているのが見えた。

「ラナーニャ!」

 叫ぶ。自分のすぐ傍にいるはずの少女に向かって。

 なぜかその瞬間、手も届かないほど遠くにいるように見えた、淡い存在に向かって。

 声だけでは駄目だと、理性より先に体が反応する。爪先が地面を蹴る。踏み込む。手を伸ばす。

 張りつめた指先が、――



 ―――



 少年のささいな一言が、ラナーニャを混乱の渦に落とし込んだ。

 〝他人の動きを読んで戦う〟。

(そうだ……何の疑いもなくそうしている、私は)

 そんな戦い方が身についている。それはつまり、〝他人と共に戦っていた〟ということではないのか?

 そうだ、誰かと――



 生まれてしまった疑問が脳裏を支配していく。

 それは今までずっと抱えてきた不安と同じ種をはらんでいた。胸の奥、一番重い場所から、混ざり合い膨れ上がった何かが這い上がってくる。戦いのさなかである危機感さえも、たやすく凌駕していく。

 その凝りの中に、何かが見えている。人の顔――が。

 思い出せない。思い出したい。よく見なければ。見たくない。見えない知らない覚えていない――

 ――思い出したいのに!

(駄目――そんな場合じゃ)

 せめぎあう声が頭の中で何重にも鳴り響く。

 心がいくつにも分裂する。狭苦しい〝自分〟の中に、いくつもの虚像が生まれる――相反する言葉を一斉に訴える、同じ顔の自分。

 気がつくと、視界を巨大な黒い鳥が覆っていた。

 鋭い凶器が自分を狙っている。自分の中の一人がそれを察する。動けと体に命令する。しかし足は凍りついたまま、地面に根を張ったように動かない。

 殺気は目の前まで来ている。

 逃げろと警鐘が鳴る。

 ラナーニャ、と呼ばれたのは名前。叫んでいる――誰が?

 横から強い衝撃が襲った。突き飛ばされた――自分の中の一人が、あくまで冷静にそう囁いた。

 ラナーニャはまともに地面を転がった。腕や足に無数の傷を作りながらも必死に顔を上げる。

 たくさんの〝自分〟が掻き消え、世界が冴え渡った。
 代わりに聞こえたのは、誰かのうめき声。

 その声が誰のものか、不思議と悟るのが早かった。当然かもしれない、今の今まで背中を合わせて戦っていたのは、他ならない彼、ひとりきり。


「シグリィ――!」

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