36 / 141
第一章 その日、青い光が飛んだ。
27 彼の決断
しおりを挟む
ダッドレイの目つきはいつ見ても〝冷ややか〟だ。見ようによっては他人を見下しても見える。事実、チェッタ辺りにはそう見えているに違いない。
だがシグリィは彼の視線に出会うたびに思う。――彼はなぜこんな目で人を見るのだろう?
マーサを先頭にして、シグリィたちは居間に向かった。
この時間帯ともなると、わずかな灯火しかない居間はとても暗い。ひんやりとした夜の暗がりが居間で待っていた人々の頭上に落ち、どんよりと曇っている。
若い村人たちは椅子や窓際に腰かけていた。怒鳴りこんできたというが、見たところ憔悴してうなだれている。
座っていないのはただ一人、ダッドレイだけだ。
眼鏡をかけた灰色の髪の青年は、居間の中央に立って腕を組み、シグリィたちがやってきた気配に視線を上げた。
その目はいつもの通り冷ややかさと険悪さが同居した、何とも刺々しいものだった。
だが――シグリィは意外に思う。
どうやら彼は、苛立っているのではないらしい。何かを決意しているかのように、視線に微塵の揺れもない。
何を決意している?
そんなものは考えるまでもない。
「出ていってもらうぞ」
開口一番、青年はそう言った。
「お前たちがいると村の安全が損なわれる。もう否定もできないだろう」
彼はラナーニャに支えられた――彼女が頑として離れようとしなかったので――シグリィの姿にも、眉ひとつ動かすことはなかった。
レイ――と、マーサは多分あえて、ダッドレイをそう呼んだ。
「もう少し考えて。それは早計というものでしょう? 見ての通りシグリィさんは大怪我をしているし、彼女は――ラナーニャは私たちの仲間よ。追い出せるはずがありません」
記憶のなかった少女を名前で呼んだ、そのことがさすがに意外だったのだろう、ダッドレイが初めて驚くような気配を見せる。
名前を呼ぶ。それは仲間と認めた証だ。その決断の余韻が消える前に、マーサは言葉を重ねる。
「今あなたが言っていることを聞いて、ユキナとユドクリフが喜ぶと思っているの? 危険を全て排除するのが最善の解決策とは言えません。それでは常に逃げているのと変わらないのよ。その場は凌げても、いつか力尽きるわ」
「じゃあ今まさに迫っている危険に耐えられるとでも?」
ダッドレイは皮肉に唇の端を上げた。「この大陸でもっとも無力な俺たちに、それができるとでも?」
「無力だなんてまだ決まっていない」
「どうせお前の策なんざ、ユドクリフが帰ってくるまで避難するくらいのことだろう。そんな姑息な手がいつまで通用すると思ってる」
シグリィたちの後ろでチェッタが激昂しかけて、セレンに抱き留められている気配がした。肩越しにちらりと様子を確認すると、チェッタの隣に立つハヤナも、口は開かないまでも顔を真っ赤にして、ぶるぶると握り拳を震わせている。
そしてシグリィを支えるラナーニャはと言えば、顔色は悪く唇を噛みしめ――それでも、視線をダッドレイから外すことはない。
(いや……この子は)
シグリィはふと気づいた。
この少女は確かにそう簡単に相手から目を逸らすことはないらしい。だが、相手を〝まっすぐ〟見ているのとは少し違う。
どことなく、その目には下から窺っているかのような、微妙な光がある。
目は顔の中でも特に感情を映す。あるいはその人の性格を。シグリィは相手を知ろうと思うとき、特に相手の目を観察したらいいということを長い旅の中で知った。
何より、そこから知れることがある。――その人が過去に辿ってきた道。
シグリィはダッドレイに視線を戻した。
痩躯の青年は腕組みを解き、その体からは信じられないほど強い語調で、まくしたてた。
「マーサ、お前は確かに優しいんだろう。情があると認めてもいい。だが優しいだけの長はいらないんだよ、きれいごとだけで村が存続できるのか? 今は小さいこの村も、この先大きくなる一方だ。大きくなればなるほど、清濁合わせ呑まなけりゃやっていけなくなる。村の人間を全員守ろうと思ったら他は切り捨てる、それくらいの覚悟がなくてどうする!」
「そうやって周り全てを切り捨てて私たちだけで、一体どうやってこの先を生きていくつもりなの? そうやって私たちの味方を自分から切り捨てることこそ愚かなことよ。私たちは決して、私たちだけでは生きていけない――レイ、あなたはジオにどう顔向けするつもりなの? こんなときにわざわざこの村に来てくれた、彼に」
居間の人々をひやっとした大きな手が撫でた。自分に話題が及ぶと思っていなかったのか、ジオがたじろいだ顔をする。
「いや俺はあんま役に立ってねぇけどよ」とぼそぼそと呟くその声は彼らしくなかった。どうやらジオ自身、この村で役に立っている自信がないことが負い目であるらしい。
マーサはジオを見て微笑んだ。
「いてくれるだけで十分なのよ。私たちが外の人たちに見捨てられていないという証拠をくれるだけで――。そしてシグリィさんたちも。外の人たちでありながら、私たちのために動いてくれようとした。それが何より私たちに必要なこと。世界から切り離されているわけではないという確証。私たちがこの世界に居ることの自信」
再びダッドレイに戻った視線。
強く鮮やかな、まじろぎさえしないかのような瞳。
「今ここでラナーニャを追い出し、シグリィさんたちの手を払いのけることこそ私には恐ろしい。それと共にジオと培ってきた縁が切れることも――。ねえレイ」
すう、とひとつ息を吸う音。
わずかに緊張をはらんだのは、次に紡ぐ言葉が相手の急所に触れることを知っていたからだろうか。
「あなたは、一体何をそんなに恐れているの?」
青年の眼鏡の奥、決然としていた暗い色の目に、弾けるような光が走った。
初めて、ダッドレイの体に苛立ちが表れた。指先がわななき、次にはそれを隠すように拳を握る。
絞り出された声には、生々しいほどの苦さが込められていた。
「何かが起こってからじゃ遅いんだ。――遅いんだよ!」
暗い灰色の目に宿っていたのは怒りではなかった。マーサの言葉は彼の抱えている何かを正しく言い当てたのだ。
――何を恐れているの?
ああ、とシグリィの傍らから声が零れた。
ラナーニャの顔には血の気がなかった。張りつめていた緊張がぬけたようにうなだれ、片手で顔を覆う。
――そうだ、何かが起こってからじゃ遅いんだ。
消え入りそうにか細い声は、確かにそう言った。
シグリィは居間を見渡す。ダッドレイが連れてきた村人たちも、所詮は形だけだったらしい。うつむき、もはやマーサとダッドレイの会話に耳を傾けているのかどうかも定かではない。
だがそれは村人たちが怯え、そして疲れていることの証拠だった。これ以上危機や争いがあるのなら耐えられないかもしれないほどに。
シグリィは静かに目を閉じた。
ひとつ吐息。そして、開いた目でしっかりとダッドレイを見すえた。
「分かりました。私たちは出て行きます」
居間の空気が急変した。
おい!? と真っ先に声を上げたのはチェッタだ。ハヤナが息を呑み、マーサさえ虚を突かれた顔でシグリィを振り返る。
ダッドレイの顔色は変わらない。シグリィを見つめ、真意を探ろうとしている。
シグリィはゆっくりと言葉を続けた。
「本当は〝何があっても我々が助けます〟と言いたかったんですが……あいにく私は怪我をしてしまった。私の連れ二人だけで十分戦力ではありますが、そう言ったところで説得力がないでしょう。何と言っても人数が少ないですからね。それに例の〝迷い子〟がもし我々を狙って現れるのなら、むしろ村から離れさせてもらう方が対処しやすい」
「シグリィさん」
マーサが何かを言いかけるのを手で制し、
「ただし村からは離れますが、すぐには海を渡れません。我々は野宿には慣れていますが、残念ながら海には慣れていない。できる限り村から離れることはお約束します。もちろん今すぐ」
君もこっちについてくるだろう? とラナーニャに問いかけると、彼女は戸惑いを滲ませながらもうなずいた。
「おいおい、おめぇら本気か?」
ジオが渋い顔で口を挟んでくる。
「本気です」とシグリィは笑った。
「すみませんがジオさん、舟を出すために付き合って頂けますか。数日間はこの島にいるとは思いますが」
「分ァってるよ。ったく、しゃーねーな」
ばりばりと頭の後ろを掻くジオ。思い切り不服そうではあるものの、引き留めるつもりはないようだった。ダッドレイの性格を、シグリィ以上に知っているからなのかもしれない。
「じゃあ決まりだ。ダッドレイさん、他に何かありますか?」
「……いいや」
ダッドレイは何とも言い難い表情をしている。こんなに早くシグリィたちが引くとは思っていなかったのだろう。
不審そうな様子は消えそうになかったが、それは別によかった。重要なのは……
シグリィは少しばかり、意地の悪い目をした。
「念のため言っておきますが、今回の〝迷い子〟が我々のせいではなかった場合、もう助けられませんよ。そのリスクはお分かりですね?」
「……ああ」
「そうなってから泣きつかれても困ります」
「しつこいぞ。最初から《印》持ちに頼るつもりなんざない」
勘に障ったように顔をしかめるダッドレイ。
シグリィは表情を和らげた。――少しばかりやり返したくなったのは、青年の強情さが彼には好ましかったからだ。もう少し、それを見ていたかった。
「冗談ですよ。我々の力が必要ならいつでも呼んでください――呼んでくださるなら、〝必ず駆けつけます〟」
ダッドレイだけに告げたわけではない。
ここにきてようやく顔を上げた村人たち、一人一人を見つめていく。
憔悴しきった彼ら。シグリィと歳が変わらないように見える彼ら。今シグリィを見返す顔は、一様に不安と安堵と申し訳なさが同居している。
彼らにだって意思はあるのだ。ダッドレイやマーサとはまた違う言葉を持っているのかもしれない。
もう少し彼らと打ち解けるための時間があったなら――。
だが、今それを思っても詮無いことだ。
ハヤナとチェッタは、全く納得してはいなさそうだった。「何でだよ!」とセレンの腕で暴れるチェッタの素直さが微笑ましい。シグリィたちを信用できないとあれほど反抗していた数日前が嘘のように。
最後に目が合ったのはマーサだった。
彼女と無言で言葉を交わし、シグリィはひとつうなずいた。
「それじゃあ荷物をまとめに行こうか、カミル、セレン。皆さん、本当にお世話になりました」
*
初春の夜はまだ少し寒い。
外気が身に染みてわずかに顔をしかめたシグリィに、ラナーニャが慌てて「大丈夫か?」と手を伸ばす。
「大丈夫。怪我での野宿くらい慣れてるよ」
玄関まで出てきてくれたのは、マーサたち姉弟と、シグリィたちに同行する予定のジオだった。
ハヤナは何か言いたげに暗い目をシグリィたちに投げていて、その隣のチェッタはと言えば、しきりに目を擦っている。どうやら泣くのをこらえているらしい。
ははン、とジオがチェッタを見て愉快気に鼻を鳴らした。
「チェッタおめェ、『なくなんてオトコのすることじゃねえ!』とか前に言ってなかったか」
「ば……っ! な、ないてなんかねーぞっ! これはアセだっ!」
チェッタは真っ赤になって怒鳴った。ジオは噴き出し、満足そうに少年の頭を撫でた。
「ハヤナとマーサを護ってやれよ? チェッタ」
「わかってらっ!」
両手を振り回すチェッタ。しかしその元気が尻すぼみに小さくなり、やがてうつむいてしまう。
一度は引っこんだ涙がもう一度溢れそうになって、チェッタはすんと鼻をすすった。
シグリィは姉弟の肩ごしに家の中を見る。
村人たちは一足先に帰ったが、ダッドレイはまだ居間に残っている。この後マーサと更に話し合う予定らしい。もう深夜なのだが、彼にもマーサにも全く疲れは見えない。
「お気をつけて……。本当にありがとうございました」
マーサがシグリィの手を、両手でぎゅっと握った。
「……ダッドレイさんが何を恐れているのか、あなたはご存じですか」
握り返しながら、シグリィは訊いた。
かの青年の目。常に相手を敵視するかのような目。
ああいう目をしている人間に出会うのは初めてのことではない。だからシグリィは知っている。――あれは何かを護ろうとするあまりの、防御の目だと。
マーサは哀しげに微笑んで、首を横に振った。
「詳しくは知りません。ですが……この村に来た頃から一貫しているので、予想はついています」
軽く目を伏せ、優しい村の長は続ける。
「レイは清濁合わせ呑むと表現しましたが、私が呑むべきものは清でも濁でもありません。村の皆が経験してきた事実、それに綺麗も汚いもありませんから」
シグリィは無言でうなずく。
隣に立つラナーニャが、目を細めてマーサを見る。まるで眩しい何かを見るように。
「ハヤナちゃんチェッタくん、元気でね」
セレンが朗らかにハヤナの頭を撫で、チェッタを抱きしめた。
チェッタはとうとう、ぽろぽろと涙で頬を濡らした。
それは悲しみの涙ではない、悔し涙だ。
別れを促すように、丘を吹き下ろす風が吹く。
草の陰では虫たちがどこかしんみりとした音色を奏で、この一幕を見守っている。
シグリィはラナーニャの手を取り、カミルとセレンを促して丘を下り始めた。
背後から、チェッタの大声が追ってきた。
「ぜってーぜってー、みとめねーかんなっ! お前らもどってこいよっっ! おれはこんなの、ぜっったい、ぜったいみとめない……っっっ!!」
威勢のいい声はきっと村中に聞こえただろう。それは村に何を思わせるのか――
村はひんやりとした空気に包まれ、ひっそりと静まり返っている。村全体が呼吸を押し殺しているかのようだ。嵐が過ぎ去るのをじっと待つ小動物のように。
中には家の窓のカーテンをほんの少し動かして、こちらを窺う村人もいた。
何気なく目をやるとさっと隠れてしまう、そのことにシグリィは微苦笑する。
村は小さかった。あっという間に、彼らは敷地外へと出てしまった。
無言で歩く薬草の平野は、ひどく寒々しかった。
「シグリィ様、これからどちらへ?」
尋ねてくるカミルに「そうだな」と答えかけたシグリィは、ふとラナーニャを見た。
少女はいつの間にか足を止め、村の方を見つめていた。
「どうした? ラナーニャ」
「あ……」
我に返ったラナーニャは慌てて「何でもない」と言いかけた。だがシグリィの気がかりそうな目を見て、言葉を切った。
「……私が、おかしいのかな」
やがて、彼女は呟いた。
「これで良かったと……思う気持ちは本当なのに」
なぜ納得できないのだろう。彼女はそう言った。頭をしきりに振り、頭痛が襲ってきたかのようにこめかみに手を当てる。
「こんな中途半端な気持ちで――決断しても良かったのかな。村に残っていれば何かができたのかな。それともやっぱり……これが最善だったのかな。私はこれが自分のせいだと、認めたくないだけなの……かな」
あんまり思い詰めちゃダメよーとセレンがラナーニャの頭を優しく撫でた。
「そうさな。少なくとも嬢ちゃんのせいじゃねェ」
ジオがセレンに重ねて励まそうとする。
それでも顔色の晴れない少女に、シグリィは微笑みかけた。
「どうやら結論は、まだ出さなくていいらしいよ」
「………?」
怪訝な顔を向けてくるラナーニャの前で、彼は掌を開いて見せる。
――マーサが最後に握った手。
そこには折りたたまれた紙があった。
開くと、地図だということがすぐに分かった。村から少し離れた場所に印が打たれている。
「この位置にはあまり険しくない岩山があるんだ。私も一度散歩ついでに見たんだが、天然の洞穴がある。ここに行けとマーサさんが言ってる。村と私たちとは、まだ完全に縁が切れていないんだよ、ラナーニャ。だからまだ――考える時間はある」
だがシグリィは彼の視線に出会うたびに思う。――彼はなぜこんな目で人を見るのだろう?
マーサを先頭にして、シグリィたちは居間に向かった。
この時間帯ともなると、わずかな灯火しかない居間はとても暗い。ひんやりとした夜の暗がりが居間で待っていた人々の頭上に落ち、どんよりと曇っている。
若い村人たちは椅子や窓際に腰かけていた。怒鳴りこんできたというが、見たところ憔悴してうなだれている。
座っていないのはただ一人、ダッドレイだけだ。
眼鏡をかけた灰色の髪の青年は、居間の中央に立って腕を組み、シグリィたちがやってきた気配に視線を上げた。
その目はいつもの通り冷ややかさと険悪さが同居した、何とも刺々しいものだった。
だが――シグリィは意外に思う。
どうやら彼は、苛立っているのではないらしい。何かを決意しているかのように、視線に微塵の揺れもない。
何を決意している?
そんなものは考えるまでもない。
「出ていってもらうぞ」
開口一番、青年はそう言った。
「お前たちがいると村の安全が損なわれる。もう否定もできないだろう」
彼はラナーニャに支えられた――彼女が頑として離れようとしなかったので――シグリィの姿にも、眉ひとつ動かすことはなかった。
レイ――と、マーサは多分あえて、ダッドレイをそう呼んだ。
「もう少し考えて。それは早計というものでしょう? 見ての通りシグリィさんは大怪我をしているし、彼女は――ラナーニャは私たちの仲間よ。追い出せるはずがありません」
記憶のなかった少女を名前で呼んだ、そのことがさすがに意外だったのだろう、ダッドレイが初めて驚くような気配を見せる。
名前を呼ぶ。それは仲間と認めた証だ。その決断の余韻が消える前に、マーサは言葉を重ねる。
「今あなたが言っていることを聞いて、ユキナとユドクリフが喜ぶと思っているの? 危険を全て排除するのが最善の解決策とは言えません。それでは常に逃げているのと変わらないのよ。その場は凌げても、いつか力尽きるわ」
「じゃあ今まさに迫っている危険に耐えられるとでも?」
ダッドレイは皮肉に唇の端を上げた。「この大陸でもっとも無力な俺たちに、それができるとでも?」
「無力だなんてまだ決まっていない」
「どうせお前の策なんざ、ユドクリフが帰ってくるまで避難するくらいのことだろう。そんな姑息な手がいつまで通用すると思ってる」
シグリィたちの後ろでチェッタが激昂しかけて、セレンに抱き留められている気配がした。肩越しにちらりと様子を確認すると、チェッタの隣に立つハヤナも、口は開かないまでも顔を真っ赤にして、ぶるぶると握り拳を震わせている。
そしてシグリィを支えるラナーニャはと言えば、顔色は悪く唇を噛みしめ――それでも、視線をダッドレイから外すことはない。
(いや……この子は)
シグリィはふと気づいた。
この少女は確かにそう簡単に相手から目を逸らすことはないらしい。だが、相手を〝まっすぐ〟見ているのとは少し違う。
どことなく、その目には下から窺っているかのような、微妙な光がある。
目は顔の中でも特に感情を映す。あるいはその人の性格を。シグリィは相手を知ろうと思うとき、特に相手の目を観察したらいいということを長い旅の中で知った。
何より、そこから知れることがある。――その人が過去に辿ってきた道。
シグリィはダッドレイに視線を戻した。
痩躯の青年は腕組みを解き、その体からは信じられないほど強い語調で、まくしたてた。
「マーサ、お前は確かに優しいんだろう。情があると認めてもいい。だが優しいだけの長はいらないんだよ、きれいごとだけで村が存続できるのか? 今は小さいこの村も、この先大きくなる一方だ。大きくなればなるほど、清濁合わせ呑まなけりゃやっていけなくなる。村の人間を全員守ろうと思ったら他は切り捨てる、それくらいの覚悟がなくてどうする!」
「そうやって周り全てを切り捨てて私たちだけで、一体どうやってこの先を生きていくつもりなの? そうやって私たちの味方を自分から切り捨てることこそ愚かなことよ。私たちは決して、私たちだけでは生きていけない――レイ、あなたはジオにどう顔向けするつもりなの? こんなときにわざわざこの村に来てくれた、彼に」
居間の人々をひやっとした大きな手が撫でた。自分に話題が及ぶと思っていなかったのか、ジオがたじろいだ顔をする。
「いや俺はあんま役に立ってねぇけどよ」とぼそぼそと呟くその声は彼らしくなかった。どうやらジオ自身、この村で役に立っている自信がないことが負い目であるらしい。
マーサはジオを見て微笑んだ。
「いてくれるだけで十分なのよ。私たちが外の人たちに見捨てられていないという証拠をくれるだけで――。そしてシグリィさんたちも。外の人たちでありながら、私たちのために動いてくれようとした。それが何より私たちに必要なこと。世界から切り離されているわけではないという確証。私たちがこの世界に居ることの自信」
再びダッドレイに戻った視線。
強く鮮やかな、まじろぎさえしないかのような瞳。
「今ここでラナーニャを追い出し、シグリィさんたちの手を払いのけることこそ私には恐ろしい。それと共にジオと培ってきた縁が切れることも――。ねえレイ」
すう、とひとつ息を吸う音。
わずかに緊張をはらんだのは、次に紡ぐ言葉が相手の急所に触れることを知っていたからだろうか。
「あなたは、一体何をそんなに恐れているの?」
青年の眼鏡の奥、決然としていた暗い色の目に、弾けるような光が走った。
初めて、ダッドレイの体に苛立ちが表れた。指先がわななき、次にはそれを隠すように拳を握る。
絞り出された声には、生々しいほどの苦さが込められていた。
「何かが起こってからじゃ遅いんだ。――遅いんだよ!」
暗い灰色の目に宿っていたのは怒りではなかった。マーサの言葉は彼の抱えている何かを正しく言い当てたのだ。
――何を恐れているの?
ああ、とシグリィの傍らから声が零れた。
ラナーニャの顔には血の気がなかった。張りつめていた緊張がぬけたようにうなだれ、片手で顔を覆う。
――そうだ、何かが起こってからじゃ遅いんだ。
消え入りそうにか細い声は、確かにそう言った。
シグリィは居間を見渡す。ダッドレイが連れてきた村人たちも、所詮は形だけだったらしい。うつむき、もはやマーサとダッドレイの会話に耳を傾けているのかどうかも定かではない。
だがそれは村人たちが怯え、そして疲れていることの証拠だった。これ以上危機や争いがあるのなら耐えられないかもしれないほどに。
シグリィは静かに目を閉じた。
ひとつ吐息。そして、開いた目でしっかりとダッドレイを見すえた。
「分かりました。私たちは出て行きます」
居間の空気が急変した。
おい!? と真っ先に声を上げたのはチェッタだ。ハヤナが息を呑み、マーサさえ虚を突かれた顔でシグリィを振り返る。
ダッドレイの顔色は変わらない。シグリィを見つめ、真意を探ろうとしている。
シグリィはゆっくりと言葉を続けた。
「本当は〝何があっても我々が助けます〟と言いたかったんですが……あいにく私は怪我をしてしまった。私の連れ二人だけで十分戦力ではありますが、そう言ったところで説得力がないでしょう。何と言っても人数が少ないですからね。それに例の〝迷い子〟がもし我々を狙って現れるのなら、むしろ村から離れさせてもらう方が対処しやすい」
「シグリィさん」
マーサが何かを言いかけるのを手で制し、
「ただし村からは離れますが、すぐには海を渡れません。我々は野宿には慣れていますが、残念ながら海には慣れていない。できる限り村から離れることはお約束します。もちろん今すぐ」
君もこっちについてくるだろう? とラナーニャに問いかけると、彼女は戸惑いを滲ませながらもうなずいた。
「おいおい、おめぇら本気か?」
ジオが渋い顔で口を挟んでくる。
「本気です」とシグリィは笑った。
「すみませんがジオさん、舟を出すために付き合って頂けますか。数日間はこの島にいるとは思いますが」
「分ァってるよ。ったく、しゃーねーな」
ばりばりと頭の後ろを掻くジオ。思い切り不服そうではあるものの、引き留めるつもりはないようだった。ダッドレイの性格を、シグリィ以上に知っているからなのかもしれない。
「じゃあ決まりだ。ダッドレイさん、他に何かありますか?」
「……いいや」
ダッドレイは何とも言い難い表情をしている。こんなに早くシグリィたちが引くとは思っていなかったのだろう。
不審そうな様子は消えそうになかったが、それは別によかった。重要なのは……
シグリィは少しばかり、意地の悪い目をした。
「念のため言っておきますが、今回の〝迷い子〟が我々のせいではなかった場合、もう助けられませんよ。そのリスクはお分かりですね?」
「……ああ」
「そうなってから泣きつかれても困ります」
「しつこいぞ。最初から《印》持ちに頼るつもりなんざない」
勘に障ったように顔をしかめるダッドレイ。
シグリィは表情を和らげた。――少しばかりやり返したくなったのは、青年の強情さが彼には好ましかったからだ。もう少し、それを見ていたかった。
「冗談ですよ。我々の力が必要ならいつでも呼んでください――呼んでくださるなら、〝必ず駆けつけます〟」
ダッドレイだけに告げたわけではない。
ここにきてようやく顔を上げた村人たち、一人一人を見つめていく。
憔悴しきった彼ら。シグリィと歳が変わらないように見える彼ら。今シグリィを見返す顔は、一様に不安と安堵と申し訳なさが同居している。
彼らにだって意思はあるのだ。ダッドレイやマーサとはまた違う言葉を持っているのかもしれない。
もう少し彼らと打ち解けるための時間があったなら――。
だが、今それを思っても詮無いことだ。
ハヤナとチェッタは、全く納得してはいなさそうだった。「何でだよ!」とセレンの腕で暴れるチェッタの素直さが微笑ましい。シグリィたちを信用できないとあれほど反抗していた数日前が嘘のように。
最後に目が合ったのはマーサだった。
彼女と無言で言葉を交わし、シグリィはひとつうなずいた。
「それじゃあ荷物をまとめに行こうか、カミル、セレン。皆さん、本当にお世話になりました」
*
初春の夜はまだ少し寒い。
外気が身に染みてわずかに顔をしかめたシグリィに、ラナーニャが慌てて「大丈夫か?」と手を伸ばす。
「大丈夫。怪我での野宿くらい慣れてるよ」
玄関まで出てきてくれたのは、マーサたち姉弟と、シグリィたちに同行する予定のジオだった。
ハヤナは何か言いたげに暗い目をシグリィたちに投げていて、その隣のチェッタはと言えば、しきりに目を擦っている。どうやら泣くのをこらえているらしい。
ははン、とジオがチェッタを見て愉快気に鼻を鳴らした。
「チェッタおめェ、『なくなんてオトコのすることじゃねえ!』とか前に言ってなかったか」
「ば……っ! な、ないてなんかねーぞっ! これはアセだっ!」
チェッタは真っ赤になって怒鳴った。ジオは噴き出し、満足そうに少年の頭を撫でた。
「ハヤナとマーサを護ってやれよ? チェッタ」
「わかってらっ!」
両手を振り回すチェッタ。しかしその元気が尻すぼみに小さくなり、やがてうつむいてしまう。
一度は引っこんだ涙がもう一度溢れそうになって、チェッタはすんと鼻をすすった。
シグリィは姉弟の肩ごしに家の中を見る。
村人たちは一足先に帰ったが、ダッドレイはまだ居間に残っている。この後マーサと更に話し合う予定らしい。もう深夜なのだが、彼にもマーサにも全く疲れは見えない。
「お気をつけて……。本当にありがとうございました」
マーサがシグリィの手を、両手でぎゅっと握った。
「……ダッドレイさんが何を恐れているのか、あなたはご存じですか」
握り返しながら、シグリィは訊いた。
かの青年の目。常に相手を敵視するかのような目。
ああいう目をしている人間に出会うのは初めてのことではない。だからシグリィは知っている。――あれは何かを護ろうとするあまりの、防御の目だと。
マーサは哀しげに微笑んで、首を横に振った。
「詳しくは知りません。ですが……この村に来た頃から一貫しているので、予想はついています」
軽く目を伏せ、優しい村の長は続ける。
「レイは清濁合わせ呑むと表現しましたが、私が呑むべきものは清でも濁でもありません。村の皆が経験してきた事実、それに綺麗も汚いもありませんから」
シグリィは無言でうなずく。
隣に立つラナーニャが、目を細めてマーサを見る。まるで眩しい何かを見るように。
「ハヤナちゃんチェッタくん、元気でね」
セレンが朗らかにハヤナの頭を撫で、チェッタを抱きしめた。
チェッタはとうとう、ぽろぽろと涙で頬を濡らした。
それは悲しみの涙ではない、悔し涙だ。
別れを促すように、丘を吹き下ろす風が吹く。
草の陰では虫たちがどこかしんみりとした音色を奏で、この一幕を見守っている。
シグリィはラナーニャの手を取り、カミルとセレンを促して丘を下り始めた。
背後から、チェッタの大声が追ってきた。
「ぜってーぜってー、みとめねーかんなっ! お前らもどってこいよっっ! おれはこんなの、ぜっったい、ぜったいみとめない……っっっ!!」
威勢のいい声はきっと村中に聞こえただろう。それは村に何を思わせるのか――
村はひんやりとした空気に包まれ、ひっそりと静まり返っている。村全体が呼吸を押し殺しているかのようだ。嵐が過ぎ去るのをじっと待つ小動物のように。
中には家の窓のカーテンをほんの少し動かして、こちらを窺う村人もいた。
何気なく目をやるとさっと隠れてしまう、そのことにシグリィは微苦笑する。
村は小さかった。あっという間に、彼らは敷地外へと出てしまった。
無言で歩く薬草の平野は、ひどく寒々しかった。
「シグリィ様、これからどちらへ?」
尋ねてくるカミルに「そうだな」と答えかけたシグリィは、ふとラナーニャを見た。
少女はいつの間にか足を止め、村の方を見つめていた。
「どうした? ラナーニャ」
「あ……」
我に返ったラナーニャは慌てて「何でもない」と言いかけた。だがシグリィの気がかりそうな目を見て、言葉を切った。
「……私が、おかしいのかな」
やがて、彼女は呟いた。
「これで良かったと……思う気持ちは本当なのに」
なぜ納得できないのだろう。彼女はそう言った。頭をしきりに振り、頭痛が襲ってきたかのようにこめかみに手を当てる。
「こんな中途半端な気持ちで――決断しても良かったのかな。村に残っていれば何かができたのかな。それともやっぱり……これが最善だったのかな。私はこれが自分のせいだと、認めたくないだけなの……かな」
あんまり思い詰めちゃダメよーとセレンがラナーニャの頭を優しく撫でた。
「そうさな。少なくとも嬢ちゃんのせいじゃねェ」
ジオがセレンに重ねて励まそうとする。
それでも顔色の晴れない少女に、シグリィは微笑みかけた。
「どうやら結論は、まだ出さなくていいらしいよ」
「………?」
怪訝な顔を向けてくるラナーニャの前で、彼は掌を開いて見せる。
――マーサが最後に握った手。
そこには折りたたまれた紙があった。
開くと、地図だということがすぐに分かった。村から少し離れた場所に印が打たれている。
「この位置にはあまり険しくない岩山があるんだ。私も一度散歩ついでに見たんだが、天然の洞穴がある。ここに行けとマーサさんが言ってる。村と私たちとは、まだ完全に縁が切れていないんだよ、ラナーニャ。だからまだ――考える時間はある」
0
あなたにおすすめの小説
百合ランジェリーカフェにようこそ!
楠富 つかさ
青春
主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?
ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!!
※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。
表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
クラス転移したけど、皆さん勘違いしてません?
青いウーパーと山椒魚
ファンタジー
加藤あいは高校2年生。
最近ネット小説にハマりまくっているごく普通の高校生である。
普通に過ごしていたら異世界転移に巻き込まれた?
しかも弱いからと森に捨てられた。
いやちょっとまてよ?
皆さん勘違いしてません?
これはあいの不思議な日常を書いた物語である。
本編完結しました!
相変わらず話ごちゃごちゃしていると思いますが、楽しんでいただけると嬉しいです!
1話は1000字くらいなのでササッと読めるはず…
ちょっと大人な体験談はこちらです
神崎未緒里
恋愛
本当にあった!?かもしれない
ちょっと大人な体験談です。
日常に突然訪れる刺激的な体験。
少し非日常を覗いてみませんか?
あなたにもこんな瞬間が訪れるかもしれませんよ?
※本作品ではGemini PRO、Pixai.artで作成した生成AI画像ならびに
Pixabay並びにUnsplshのロイヤリティフリーの画像を使用しています。
※不定期更新です。
※文章中の人物名・地名・年代・建物名・商品名・設定などはすべて架空のものです。
神は激怒した
まる
ファンタジー
おのれえええぇえぇぇぇ……人間どもめぇ。
めっちゃ面倒な事ばっかりして余計な仕事を増やしてくる人間に神様がキレました。
ふわっとした設定ですのでご了承下さいm(_ _)m
世界の設定やら背景はふわふわですので、ん?と思う部分が出てくるかもしれませんがいい感じに個人で補完していただけると幸いです。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる