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第二章 誰がための罪。
3 再会した旅人
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「この辺りか……?」
呟き、オルヴァは足を止めた。
吐息とともに周囲を見渡す。この辺りは右を見ても左を見ても、少し先に豊かな森が見える。その若々しく瑞々しい緑の色は、斜めに差す陽光に輝き、時間が経つにつれさまざまに表情を変える。
視線を下に落とせば、こちらには手入れのされていない草原が続く。
明るい陽射しは、草々を金色に照らしていた。今日は随分と太陽が力強い。
オルヴァは目をすがめる。
さほど探す必要もなく、彼の求めるものはすぐに見つかった。
――できれば見つからなければ良かった。そんなことを思いながら、地面に見つけたそれに歩み寄る。
花のあるなしを問わず、この時期の野草はのびのびと生長して目に楽しいものだ――だがそれが草原の片隅で、無残に踏み荒らされていた。足跡と、爪痕。土ごと草を引っ掻き、跳ね飛ばしている。
どう見ても人間のものではない。
――オルヴァはもう一度、ため息をついた。
(まあ、あっさり見つかって良かったとも言えるか)
足跡は森に続いている。背の低い木々の密集する、さほど深くない森だ。人の足でも半時かけずに向こう側に出られる規模の森は、南部にはごく普通にある。
つまりここは、土地柄的には南部なわけだが。
(……今更だな)
頭上を仰いで太陽の位置を確かめる。
太陽はまだ空半ばほどにある。それでこれだけ眩しいとなると、昼を過ぎれば春とは思えない暑さとなるかもしれない。
もっとも《扉》が開いた年の春は、例年より天候が落ち着かないものだ。だから気温が高いくらい大したことではない――ごく自然にそう思い、そんな自分に苦笑する。
大きな異常のさなかでは、小さな異常には目がいかなくなっていく。そのことが、彼には少し恐ろしい。
――さて。
(森の中が住処らしいが……)
改めて、森の中へと視線を投げる。
さほど深くないとは言うものの、人のための道はない。視線はすぐに逞しい樹に遮られ、向こうを見通すことはできない。おまけに蛇のように伸びた樹の枝が横向きに走り、奥はいっそう遮断されている。
人はもちろん、大型の動物にも住みよい場所とは思えないが。
(一時的な宿り場としては、ありか)
人里を狩場とするあいつら・・・・にも住処はある。しかし他の動物が必要とする住処とは、意味合いが違うだろう――何しろ他の動物のように、“生活する”必要がやつらにはない。その生涯をただ食欲のみに費やし、寝ることも生殖するこもない。それが、かの生物の特異な点だ。
人でもなく、動物でもない。
それが、“迷い子”と呼ばれる魔物。
腰にある得物に軽く手を触れる。指先の感触を確かめながら、先刻街で聞かされた話を思い返した――否、わざわざ思い出さずとも街を出る前からしつこく脳裏にこびりついていたのだが。
『数日前に主人が怪我を致しましたの。ええ、“迷い子”ですわ。主人ったら霧のカーテンの配置に自ら出向いて、うっかり“迷い子”と遭遇してしまったらしいんですの。ええ、本当に間が抜けていること。その上その“迷い子”は《半獣人型ハーフビースト》でしたのよ。ええ、命があって儲けものでしたわね――』
とても特徴的な喋り方をする夫人の声を頭から追い出して、オルヴァは右手で剣を抜いた。
短剣ではないが、一般的な剣よりもやや短い剣だ。剣首には濃い青の宝石がはまり、強すぎる陽光を弾いていつになく陰影を濃くしている。
その宝石部分を前にかざし、口を開く。鋭く放つは魔術の詠唱。
「喚べよ我が友、いざ戯れの刻!」
瞬時に体内を魔力が駆け巡った――血液のように。噴き出したその力は彼の傍らに収斂し、彼の意思に応じて形を取る。
灰色の狼のような形へ。
その輪郭を炎のように揺らす、生き物の形をした魔力は、一声遠吠えを上げ森へと躍りこむ。
森がざわめいた。
不穏に梢が鳴り、鳥が飛び立つ。耳を澄ませば動物の鳴き声も聞こえるようだ。意外に生命に溢れた森らしい。
オルヴァは目を伏せ、きわめて浅い瞑想状態に入った。
魔力による力は本来長時間保てない。だが彼の得手とする術は、比較的長持ちする力だ。
それを可能としているのが、いつでもどこでも精神を眠りに近い状態まで鎮めることのできるという、国でも類を見ない能力だった。
術の最大威力はさほど強くない。ただひとつその特技においてのみ彼は特出しており、それゆえに二十九歳という若さで現在の地位にいる。
――マザーヒルズ王国特殊派遣部隊隊長。
彼らは俗に遊覧兵と呼ばれる――
森へ駆け込んだ灰色の狼が、オルヴァの目も届かぬ奥でひとしきり騒ぐ音がする。
あの狼には殺傷力を込めていないから、動物がいても怪我をするものはほぼないだろう。それでいい。あの狼には魔力の気配を撒き散らしてもらえば、それで。
やがて――
ものの数分とかからなかった。オルヴァは目を強く見開いた。
己の生み出した魔力の気配が、森の中で消滅したのを感じた。ただ消えたのではない、爆ぜるような消え方だった。間違いなく外から何かしらの刺激が加えられたのだ。
(来る)
オルヴァは森から距離を取った。剣を構え、森の奥を睨み付ける。
耳の奥にはあのけたたましい夫人がたいそう自慢げに語る声が続いていた。
『でも主人はただやられっぱなしではありませんでしたのよ。ええ、わたくしが選んだ人ですもの! 護身用の魔術具は必ず持ち歩いておりますので、それを叩き付けてやったそうです。ええ、ええ、それで“迷い子”は逃げ帰ったそうですのよ。今頃傷を癒しているのでしょう。完全に癒えてしまう前に、今度こそ息の根を止めてやらなくてはと思って!』
森の奥から、影が。
樹々の間を縫って、猛烈な勢いで近づいて来る。地面を駆けているのではない。縦横に走る樹の幹や枝を蹴り、跳躍を繰り返してこちらへ向かってくる。
一直線に、オルヴァを目指して。
(速い――)
その後ろ脚が最後の樹の幹を蹴った。爪先が木肌をえぐる音が聞こえ、樹が揺れ、葉が舞い散った。
強すぎる陽光の下に飛び出した獣は――
長すぎる手足を伸ばし、一息にオルヴァへと肉薄した。むき出しの牙が見えた。まるで錆びついたように見えるくすんだ牙。まぎれもない、人の血の痕跡。
オルヴァは剣で、その牙を受けた。
牙はがっちりと剣身を捕らえた。同時に振り下ろされた二本の手、その先の鋭い爪が、オルヴァの頬をかすめていく。オルヴァは足を振り上げる。ブーツの先を、敵の腹へと叩き込む。
牙が金属をかじる、嫌な音が聞こえた。
下半身を蹴り飛ばされても吹っ飛ばない。ただ顎の力のみで剣にかじりついている。
オルヴァの目前、ふたつの目がぎょろりとその虹彩を回転させた。
その形といい、血走り方といい、目は限りなく人間のそれに近い――
だが、まばたきをしない。虹彩の動き方も異常だ。その眼から下へと視線をずらせば、高くとがった鼻と異様に横に広がり、かつ前にせり出した口。人に似ていながら、どう見ても人ではない。
視界を広げて敵の全身を見る。
貌だけではない、全身の輪郭はとても人間に近くなっている。体毛に包まれたその体は二足歩行ができそうな型をしていた――だが実際には、このケダモノは四足で森を抜けてきたのだ。
何より手足それぞれの形状が、人のものではなかった。
あえて似ている動物をあげるなら、猿だろう。もっとも猿はこんなにイカれた表情を決してしないだろうが。
力での押し合いとなったのは、ほんの数秒のことだ。オルヴァは全力で剣身を下へと滑らせ、猿もどきは――《半獣人型》“迷い子”は引っ張られるように、くん、と頭を低く沈める。後頭部が見えた。その首の後ろに狙いを定め、オルヴァは短く詠唱する。
「刃よ!」
瞬時に彼の魔力が練り上がり、言葉通り細刃となってうなじに突き立った。
“迷い子”の体勢がさらに崩れる。それに合わせて姿勢を後ろに流しながら、オルヴァは剣を引く。噛みついていた“迷い子”の顎の力が抜け、剣身が解放された。少しの腕の振りと手首の返しを利用して、オルヴァは剣で、“迷い子”の喉元を斬り上げた。
猿のような首が――宙を舞う。
そのまま地表に落ちて転がる首をよそに、胴体は四足で地面に踏ん張り続ける。もう一度オルヴァに跳びかかろうと、バネを利かせようとしている。
オルヴァはその胴体の胸元を容赦なく蹴り飛ばした。
後ろへひっくり返る首なし胴体に狙いを定め、炎の魔術を放つ。
“迷い子”は人と違い、心臓や頭が生命の源と決まってはいない。どこが急所なのかは試してみないと分からないことが多い。ゆえに、魔術師たちは好んで炎術を使いたがるのだ――もっとも簡単に、全身まとめて攻撃するために。
燃え上がりながら、胴体は地表に落ちていく。
少し離れたところに転がった首はそのまま動かない。間違いなく、核は胴体の方にある。しかし、
術による炎が尽きても――胴体は燃え尽きなかった。
ひっくり返った姿勢で不気味に四足を動かしている。本当はすぐに跳ね起きることができるのに、わざと愚図ついているようにも見える。
(体毛が邪魔だ)
しかし二度目の炎ならどうか。詠唱しかけた彼の目に、突如キラリと輝く小さな光が飛び込み、
「……ッ!」
オルヴァは反射的に、顔をそらして避けた。しかし光は二つ三つ、次々と彼の顔を狙う。やむなく“迷い子”の胴体から飛び退きながら、彼は胸中で驚嘆する。
(爪だけ飛ばすってなあ……小細工を覚えやがったか。さすが《半獣人型》)
通常の“迷い子”《獣型》よりも、より知恵をつけた存在。単純な身体能力だけなら《獣型》とさほど変わらないのに、戦うのは格段に厄介になる。
寝転がったままだった胴体がようやく跳ね起きた。
首のないまま当たり前のように二足で立つその異様さに、見ている方は胃のあたりが重くなる。
(やれやれ――)
嘆息はひとつだけ。剣の柄を確かめるように握り直す、直後に地面を蹴った。同時に“迷い子”の胴体が彼に向かって襲い来る。真正面からの衝突――
右に構えた剣で振り下ろされる“迷い子”の腕を食い止めながら、オルヴァは左の手で腰からもうひとつの得物を抜いた。それを左手に握りこんだまま、右の剣の動きで“迷い子”を誘う。後ろに体をそらしながら、“迷い子”胴体がより自分に肉薄するように。
そして十分近づいた刹那に、
左手に握りこんでいた投擲用ナイフ――《葉飛刃》の先端を、“迷い子”のうなじ下部へと突き刺した。
背後背後を狙うのは“迷い子”を相手にするときの基本だ。目に見えない背中側への攻撃は、“迷い子”を混乱させる。隙が多くなる。見えない背後へ意識を散らし、胴体だけの“迷い子”は動きを乱した。今だ。今度こそ最大威力の炎術を、
「踊れ燎原之火!」
激しく爆ぜる火の色が、束の間、周囲ののどかな若草色を薙ぎ払った。
瞬く間に“迷い子”の生命力を奪っていく。
己の作った炎の熱さが、オルヴァの肌にじっとりとした汗を流させる。
オルヴァは慣れた手で左手のナイフをしまい、燃え上がる火から数歩分飛びのいた。
――正しく生命あるものであれば、彼の生み出す炎程度で灰にまでなるはずはない。しかし、“迷い子”は跡形もなく燃え尽きる――消し炭さえ遺すことなく。
やがて炎が尽きた頃、もうそこに“迷い子”の姿はなかった。踏み荒らされた草地だけが、しんと静まり返っている。
否、
全身が総毛立った。オルヴァは即座に構えを取り直した。違う、まだいる。“迷い子”の気配自体は消えていない――
(――頭か!)
反射的に振り返った先、地面に転がったままの“迷い子”の頭部はいまだそこにあった。ぎょろりと血走った眼をオルヴァに向けるその貌に、オルヴァはぞっと寒気を覚える。
(馬鹿な。核は胴体にあったはずだ)
まさか核が二カ所にあったというのか? 今までかつてない経験に軽い混乱が起こる。それでも次の一瞬、新たな攻撃をすんでのところで避け切ったのは紛れもない、彼の戦士としての経験値だ。
“迷い子”の頭部は動いていない。しかし、オルヴァの顔目がけて小さな何かが飛んでくる。次々と襲いかかってくるその光をかわしながら、オルヴァはその正体を見極めようとした。
そして、それに気づいた瞬間、再びの驚愕――
(爪も残ってたのかよ……!)
しかもどうやって操っているものか、爪たちはオルヴァを捕らえ損ねても地面に落ちず再び戻ってくる。その軌道、ただやみくもにオルヴァを狙うのではなく、目や首といった、かすめただけで深手となりかねない部位を、明確に狙っているのだ。
(おいおい)
オルヴァは引きつった。(冗談だろ、こんな“迷い子”見たことも聞いたこともないっつの……!)
とにかくあの頭部を始末しなくては。魔術を放とうにも詠唱の間が取れない。こうなれば剣首の制御具を頼りに、いちかばちかの詠唱なしでやるしかない。多少力を暴走させたとしても、――
「罪の子よ!」
突如、高らかな女の声が草原を渡った。「――浄火の腕に眠れ!」
同時。オルヴァの目の前で、“迷い子”の頭部が炎に包まれた。
彼の炎よりも強く、彩度の高い赤。戦いのさなかでなければ見とれてしまいたくなるほど美しい炎が、まるで蒸発させるように塊を焼却した。塵も残さず、あっけないほどに。
――この、魔力の気配は。
以前にも感じた覚えがある。思わず立ちすくんだオルヴァは、すぐにはっと構えを取った。飛び交っていた爪の追撃があるかもしれないと、辺りに視線を走らせる。
しかし、どうやらその心配もないようだ。追撃はいつまで経っても来ることなく――
代わりに、人の声が。
「もう大丈夫だと思いますよ、オルヴァさん」
ちょうどオルヴァの背後となる方向から、複数の人間の気配が近づいてきている。四人。
覚えのある声だと気づき、オルヴァは二重に驚いた。ひとつは、その人物――その人物たち――がここにいることへの驚き。そしてもうひとつは――
振り向き、オルヴァは苦笑で返した。
「……名前を覚えているとは思わなかったな。まともに名乗った覚えもないんだが」
「あのときフリオさんが貴方の名前を呼んでいましたよ。一度聞けば忘れません」
ごく当然のことのようにそう言って、中央にいた少年が優しげに微笑んだ。
「大きなお怪我がないようで何よりです。さすがですね――顔を拭くものはお持ちですか?」
「顔? ……ああ、気にしないでいい」
“迷い子”の爪がかすめた頬から血が出ているようだ。無造作に手の甲で拭いながら、オルヴァはひそかにその少年を観察する。
年は十代半ばを少し過ぎた頃だろう。男の割には華奢な体躯を軽装に包み、一見しただけではとても旅を生業とする人間には思えない。しかしこの少年の異様さはそういった部分ではなく、どうしても目立つもうひとつの特徴に集約するだろう――その整った顔立ちの玲瓏さは、南国に多い美しさとは少し雰囲気が違う。
それ以外にも色々あるのだが、言葉では説明できない。一言で言えばこの少年は、どうにも捉えどころがないのだ。
そんな少年を中心に据えて――
少し後ろに、少年より大分年長の男女。こちらの二人も際立って容姿はいいのだが、何となくそれが目につかないという不思議な人物たちである。おそらく、
「ん~炎より雷光とかの方が演出効果あったかしら? やっぱりこう、派手に登場したかった気がするわ!」
「子供ですか貴女は」
「何よう人間印象が大事なんだから演出は必要よっ? 例えば私たちが知り合ったときもうちょっと演出できてたら、あなたもいまだに私にこんなに冷たくなかったと思うのよね。ねえちょっと最初から出会い直さない?」
「貴女ともう一度知り合い直すような労力は使いたくないのでお断りします」
ひどーいこの朴念仁! とか何とか、以前に彼らと会ったときもこの二人は終始こんな感じだったので……外見などどうでもよくなってくる。オルヴァの中で彼らは常に痴話げんか中の夫婦のようなものだ。
つい昨日。グィネ関所でフリオと話したばかりだった。
――数か月前に関所を通った三人の旅人。
その折には、ほとんどまともに会話しなかった。しかし印象だけは強く残っていたのだ。
彼らがまだこの辺りにいたらいいと確かに思っていたが、まさかこんなところで再会できるとは思わなかった。記憶と変わらない面々を一通り眺めたあと、オルヴァはようやく最後の一人に視線を移した。中心の少年の隣にいる、一人だけオルヴァの記憶になかった人物――
(ひとり増えたのか)
若い娘だ。年齢なら、少年とほとんど変わらなそうに見える。線は細いものの、それほど体が弱そうにも思えない、健康的な肌をした少女。まあそんな子どもが旅人の中にいることにも驚きだが、オルヴァが気になったのはそこではない。
(――何だか)
浮いているな、と。
第一印象はそこだった。
その少女もやはり際立った美少女ではあった。隣に立つ少年の雰囲気に紛れてあまり目立たないが、改めて見るとその目鼻立ちに感嘆する。髪が短く切られているため色気のようなものは皆無だが、長ければさぞかし瑞々しい乙女となることだろう。だがそんなことは取り立てて注目することではない。むしろ面立ちは彼のよく知る南国人に通じるものがあるから、隣の少年に比べたらずっと親近感が湧くのだが。
この違和感の……
原因はどこだと、探すまでもなく。
「この人はマザーヒルズの兵士のオルヴァさんだ、ラナ」
少年が少女にオルヴァを紹介する。
少女はおずおずと微笑んで、オルヴァに向かって胸に手を当てた。
「はじめまして……ラナと言います」
はにかむようなその微笑に、こちらも名乗り返しながら、オルヴァは納得していた。なるほど――
(浮いているわけだ。他の三人と違って)
どうやらこの少女には決定的に欠けているものがある。
――自己の存在を主張するための“自信”の軸が、その背中にないのだ。
呟き、オルヴァは足を止めた。
吐息とともに周囲を見渡す。この辺りは右を見ても左を見ても、少し先に豊かな森が見える。その若々しく瑞々しい緑の色は、斜めに差す陽光に輝き、時間が経つにつれさまざまに表情を変える。
視線を下に落とせば、こちらには手入れのされていない草原が続く。
明るい陽射しは、草々を金色に照らしていた。今日は随分と太陽が力強い。
オルヴァは目をすがめる。
さほど探す必要もなく、彼の求めるものはすぐに見つかった。
――できれば見つからなければ良かった。そんなことを思いながら、地面に見つけたそれに歩み寄る。
花のあるなしを問わず、この時期の野草はのびのびと生長して目に楽しいものだ――だがそれが草原の片隅で、無残に踏み荒らされていた。足跡と、爪痕。土ごと草を引っ掻き、跳ね飛ばしている。
どう見ても人間のものではない。
――オルヴァはもう一度、ため息をついた。
(まあ、あっさり見つかって良かったとも言えるか)
足跡は森に続いている。背の低い木々の密集する、さほど深くない森だ。人の足でも半時かけずに向こう側に出られる規模の森は、南部にはごく普通にある。
つまりここは、土地柄的には南部なわけだが。
(……今更だな)
頭上を仰いで太陽の位置を確かめる。
太陽はまだ空半ばほどにある。それでこれだけ眩しいとなると、昼を過ぎれば春とは思えない暑さとなるかもしれない。
もっとも《扉》が開いた年の春は、例年より天候が落ち着かないものだ。だから気温が高いくらい大したことではない――ごく自然にそう思い、そんな自分に苦笑する。
大きな異常のさなかでは、小さな異常には目がいかなくなっていく。そのことが、彼には少し恐ろしい。
――さて。
(森の中が住処らしいが……)
改めて、森の中へと視線を投げる。
さほど深くないとは言うものの、人のための道はない。視線はすぐに逞しい樹に遮られ、向こうを見通すことはできない。おまけに蛇のように伸びた樹の枝が横向きに走り、奥はいっそう遮断されている。
人はもちろん、大型の動物にも住みよい場所とは思えないが。
(一時的な宿り場としては、ありか)
人里を狩場とするあいつら・・・・にも住処はある。しかし他の動物が必要とする住処とは、意味合いが違うだろう――何しろ他の動物のように、“生活する”必要がやつらにはない。その生涯をただ食欲のみに費やし、寝ることも生殖するこもない。それが、かの生物の特異な点だ。
人でもなく、動物でもない。
それが、“迷い子”と呼ばれる魔物。
腰にある得物に軽く手を触れる。指先の感触を確かめながら、先刻街で聞かされた話を思い返した――否、わざわざ思い出さずとも街を出る前からしつこく脳裏にこびりついていたのだが。
『数日前に主人が怪我を致しましたの。ええ、“迷い子”ですわ。主人ったら霧のカーテンの配置に自ら出向いて、うっかり“迷い子”と遭遇してしまったらしいんですの。ええ、本当に間が抜けていること。その上その“迷い子”は《半獣人型ハーフビースト》でしたのよ。ええ、命があって儲けものでしたわね――』
とても特徴的な喋り方をする夫人の声を頭から追い出して、オルヴァは右手で剣を抜いた。
短剣ではないが、一般的な剣よりもやや短い剣だ。剣首には濃い青の宝石がはまり、強すぎる陽光を弾いていつになく陰影を濃くしている。
その宝石部分を前にかざし、口を開く。鋭く放つは魔術の詠唱。
「喚べよ我が友、いざ戯れの刻!」
瞬時に体内を魔力が駆け巡った――血液のように。噴き出したその力は彼の傍らに収斂し、彼の意思に応じて形を取る。
灰色の狼のような形へ。
その輪郭を炎のように揺らす、生き物の形をした魔力は、一声遠吠えを上げ森へと躍りこむ。
森がざわめいた。
不穏に梢が鳴り、鳥が飛び立つ。耳を澄ませば動物の鳴き声も聞こえるようだ。意外に生命に溢れた森らしい。
オルヴァは目を伏せ、きわめて浅い瞑想状態に入った。
魔力による力は本来長時間保てない。だが彼の得手とする術は、比較的長持ちする力だ。
それを可能としているのが、いつでもどこでも精神を眠りに近い状態まで鎮めることのできるという、国でも類を見ない能力だった。
術の最大威力はさほど強くない。ただひとつその特技においてのみ彼は特出しており、それゆえに二十九歳という若さで現在の地位にいる。
――マザーヒルズ王国特殊派遣部隊隊長。
彼らは俗に遊覧兵と呼ばれる――
森へ駆け込んだ灰色の狼が、オルヴァの目も届かぬ奥でひとしきり騒ぐ音がする。
あの狼には殺傷力を込めていないから、動物がいても怪我をするものはほぼないだろう。それでいい。あの狼には魔力の気配を撒き散らしてもらえば、それで。
やがて――
ものの数分とかからなかった。オルヴァは目を強く見開いた。
己の生み出した魔力の気配が、森の中で消滅したのを感じた。ただ消えたのではない、爆ぜるような消え方だった。間違いなく外から何かしらの刺激が加えられたのだ。
(来る)
オルヴァは森から距離を取った。剣を構え、森の奥を睨み付ける。
耳の奥にはあのけたたましい夫人がたいそう自慢げに語る声が続いていた。
『でも主人はただやられっぱなしではありませんでしたのよ。ええ、わたくしが選んだ人ですもの! 護身用の魔術具は必ず持ち歩いておりますので、それを叩き付けてやったそうです。ええ、ええ、それで“迷い子”は逃げ帰ったそうですのよ。今頃傷を癒しているのでしょう。完全に癒えてしまう前に、今度こそ息の根を止めてやらなくてはと思って!』
森の奥から、影が。
樹々の間を縫って、猛烈な勢いで近づいて来る。地面を駆けているのではない。縦横に走る樹の幹や枝を蹴り、跳躍を繰り返してこちらへ向かってくる。
一直線に、オルヴァを目指して。
(速い――)
その後ろ脚が最後の樹の幹を蹴った。爪先が木肌をえぐる音が聞こえ、樹が揺れ、葉が舞い散った。
強すぎる陽光の下に飛び出した獣は――
長すぎる手足を伸ばし、一息にオルヴァへと肉薄した。むき出しの牙が見えた。まるで錆びついたように見えるくすんだ牙。まぎれもない、人の血の痕跡。
オルヴァは剣で、その牙を受けた。
牙はがっちりと剣身を捕らえた。同時に振り下ろされた二本の手、その先の鋭い爪が、オルヴァの頬をかすめていく。オルヴァは足を振り上げる。ブーツの先を、敵の腹へと叩き込む。
牙が金属をかじる、嫌な音が聞こえた。
下半身を蹴り飛ばされても吹っ飛ばない。ただ顎の力のみで剣にかじりついている。
オルヴァの目前、ふたつの目がぎょろりとその虹彩を回転させた。
その形といい、血走り方といい、目は限りなく人間のそれに近い――
だが、まばたきをしない。虹彩の動き方も異常だ。その眼から下へと視線をずらせば、高くとがった鼻と異様に横に広がり、かつ前にせり出した口。人に似ていながら、どう見ても人ではない。
視界を広げて敵の全身を見る。
貌だけではない、全身の輪郭はとても人間に近くなっている。体毛に包まれたその体は二足歩行ができそうな型をしていた――だが実際には、このケダモノは四足で森を抜けてきたのだ。
何より手足それぞれの形状が、人のものではなかった。
あえて似ている動物をあげるなら、猿だろう。もっとも猿はこんなにイカれた表情を決してしないだろうが。
力での押し合いとなったのは、ほんの数秒のことだ。オルヴァは全力で剣身を下へと滑らせ、猿もどきは――《半獣人型》“迷い子”は引っ張られるように、くん、と頭を低く沈める。後頭部が見えた。その首の後ろに狙いを定め、オルヴァは短く詠唱する。
「刃よ!」
瞬時に彼の魔力が練り上がり、言葉通り細刃となってうなじに突き立った。
“迷い子”の体勢がさらに崩れる。それに合わせて姿勢を後ろに流しながら、オルヴァは剣を引く。噛みついていた“迷い子”の顎の力が抜け、剣身が解放された。少しの腕の振りと手首の返しを利用して、オルヴァは剣で、“迷い子”の喉元を斬り上げた。
猿のような首が――宙を舞う。
そのまま地表に落ちて転がる首をよそに、胴体は四足で地面に踏ん張り続ける。もう一度オルヴァに跳びかかろうと、バネを利かせようとしている。
オルヴァはその胴体の胸元を容赦なく蹴り飛ばした。
後ろへひっくり返る首なし胴体に狙いを定め、炎の魔術を放つ。
“迷い子”は人と違い、心臓や頭が生命の源と決まってはいない。どこが急所なのかは試してみないと分からないことが多い。ゆえに、魔術師たちは好んで炎術を使いたがるのだ――もっとも簡単に、全身まとめて攻撃するために。
燃え上がりながら、胴体は地表に落ちていく。
少し離れたところに転がった首はそのまま動かない。間違いなく、核は胴体の方にある。しかし、
術による炎が尽きても――胴体は燃え尽きなかった。
ひっくり返った姿勢で不気味に四足を動かしている。本当はすぐに跳ね起きることができるのに、わざと愚図ついているようにも見える。
(体毛が邪魔だ)
しかし二度目の炎ならどうか。詠唱しかけた彼の目に、突如キラリと輝く小さな光が飛び込み、
「……ッ!」
オルヴァは反射的に、顔をそらして避けた。しかし光は二つ三つ、次々と彼の顔を狙う。やむなく“迷い子”の胴体から飛び退きながら、彼は胸中で驚嘆する。
(爪だけ飛ばすってなあ……小細工を覚えやがったか。さすが《半獣人型》)
通常の“迷い子”《獣型》よりも、より知恵をつけた存在。単純な身体能力だけなら《獣型》とさほど変わらないのに、戦うのは格段に厄介になる。
寝転がったままだった胴体がようやく跳ね起きた。
首のないまま当たり前のように二足で立つその異様さに、見ている方は胃のあたりが重くなる。
(やれやれ――)
嘆息はひとつだけ。剣の柄を確かめるように握り直す、直後に地面を蹴った。同時に“迷い子”の胴体が彼に向かって襲い来る。真正面からの衝突――
右に構えた剣で振り下ろされる“迷い子”の腕を食い止めながら、オルヴァは左の手で腰からもうひとつの得物を抜いた。それを左手に握りこんだまま、右の剣の動きで“迷い子”を誘う。後ろに体をそらしながら、“迷い子”胴体がより自分に肉薄するように。
そして十分近づいた刹那に、
左手に握りこんでいた投擲用ナイフ――《葉飛刃》の先端を、“迷い子”のうなじ下部へと突き刺した。
背後背後を狙うのは“迷い子”を相手にするときの基本だ。目に見えない背中側への攻撃は、“迷い子”を混乱させる。隙が多くなる。見えない背後へ意識を散らし、胴体だけの“迷い子”は動きを乱した。今だ。今度こそ最大威力の炎術を、
「踊れ燎原之火!」
激しく爆ぜる火の色が、束の間、周囲ののどかな若草色を薙ぎ払った。
瞬く間に“迷い子”の生命力を奪っていく。
己の作った炎の熱さが、オルヴァの肌にじっとりとした汗を流させる。
オルヴァは慣れた手で左手のナイフをしまい、燃え上がる火から数歩分飛びのいた。
――正しく生命あるものであれば、彼の生み出す炎程度で灰にまでなるはずはない。しかし、“迷い子”は跡形もなく燃え尽きる――消し炭さえ遺すことなく。
やがて炎が尽きた頃、もうそこに“迷い子”の姿はなかった。踏み荒らされた草地だけが、しんと静まり返っている。
否、
全身が総毛立った。オルヴァは即座に構えを取り直した。違う、まだいる。“迷い子”の気配自体は消えていない――
(――頭か!)
反射的に振り返った先、地面に転がったままの“迷い子”の頭部はいまだそこにあった。ぎょろりと血走った眼をオルヴァに向けるその貌に、オルヴァはぞっと寒気を覚える。
(馬鹿な。核は胴体にあったはずだ)
まさか核が二カ所にあったというのか? 今までかつてない経験に軽い混乱が起こる。それでも次の一瞬、新たな攻撃をすんでのところで避け切ったのは紛れもない、彼の戦士としての経験値だ。
“迷い子”の頭部は動いていない。しかし、オルヴァの顔目がけて小さな何かが飛んでくる。次々と襲いかかってくるその光をかわしながら、オルヴァはその正体を見極めようとした。
そして、それに気づいた瞬間、再びの驚愕――
(爪も残ってたのかよ……!)
しかもどうやって操っているものか、爪たちはオルヴァを捕らえ損ねても地面に落ちず再び戻ってくる。その軌道、ただやみくもにオルヴァを狙うのではなく、目や首といった、かすめただけで深手となりかねない部位を、明確に狙っているのだ。
(おいおい)
オルヴァは引きつった。(冗談だろ、こんな“迷い子”見たことも聞いたこともないっつの……!)
とにかくあの頭部を始末しなくては。魔術を放とうにも詠唱の間が取れない。こうなれば剣首の制御具を頼りに、いちかばちかの詠唱なしでやるしかない。多少力を暴走させたとしても、――
「罪の子よ!」
突如、高らかな女の声が草原を渡った。「――浄火の腕に眠れ!」
同時。オルヴァの目の前で、“迷い子”の頭部が炎に包まれた。
彼の炎よりも強く、彩度の高い赤。戦いのさなかでなければ見とれてしまいたくなるほど美しい炎が、まるで蒸発させるように塊を焼却した。塵も残さず、あっけないほどに。
――この、魔力の気配は。
以前にも感じた覚えがある。思わず立ちすくんだオルヴァは、すぐにはっと構えを取った。飛び交っていた爪の追撃があるかもしれないと、辺りに視線を走らせる。
しかし、どうやらその心配もないようだ。追撃はいつまで経っても来ることなく――
代わりに、人の声が。
「もう大丈夫だと思いますよ、オルヴァさん」
ちょうどオルヴァの背後となる方向から、複数の人間の気配が近づいてきている。四人。
覚えのある声だと気づき、オルヴァは二重に驚いた。ひとつは、その人物――その人物たち――がここにいることへの驚き。そしてもうひとつは――
振り向き、オルヴァは苦笑で返した。
「……名前を覚えているとは思わなかったな。まともに名乗った覚えもないんだが」
「あのときフリオさんが貴方の名前を呼んでいましたよ。一度聞けば忘れません」
ごく当然のことのようにそう言って、中央にいた少年が優しげに微笑んだ。
「大きなお怪我がないようで何よりです。さすがですね――顔を拭くものはお持ちですか?」
「顔? ……ああ、気にしないでいい」
“迷い子”の爪がかすめた頬から血が出ているようだ。無造作に手の甲で拭いながら、オルヴァはひそかにその少年を観察する。
年は十代半ばを少し過ぎた頃だろう。男の割には華奢な体躯を軽装に包み、一見しただけではとても旅を生業とする人間には思えない。しかしこの少年の異様さはそういった部分ではなく、どうしても目立つもうひとつの特徴に集約するだろう――その整った顔立ちの玲瓏さは、南国に多い美しさとは少し雰囲気が違う。
それ以外にも色々あるのだが、言葉では説明できない。一言で言えばこの少年は、どうにも捉えどころがないのだ。
そんな少年を中心に据えて――
少し後ろに、少年より大分年長の男女。こちらの二人も際立って容姿はいいのだが、何となくそれが目につかないという不思議な人物たちである。おそらく、
「ん~炎より雷光とかの方が演出効果あったかしら? やっぱりこう、派手に登場したかった気がするわ!」
「子供ですか貴女は」
「何よう人間印象が大事なんだから演出は必要よっ? 例えば私たちが知り合ったときもうちょっと演出できてたら、あなたもいまだに私にこんなに冷たくなかったと思うのよね。ねえちょっと最初から出会い直さない?」
「貴女ともう一度知り合い直すような労力は使いたくないのでお断りします」
ひどーいこの朴念仁! とか何とか、以前に彼らと会ったときもこの二人は終始こんな感じだったので……外見などどうでもよくなってくる。オルヴァの中で彼らは常に痴話げんか中の夫婦のようなものだ。
つい昨日。グィネ関所でフリオと話したばかりだった。
――数か月前に関所を通った三人の旅人。
その折には、ほとんどまともに会話しなかった。しかし印象だけは強く残っていたのだ。
彼らがまだこの辺りにいたらいいと確かに思っていたが、まさかこんなところで再会できるとは思わなかった。記憶と変わらない面々を一通り眺めたあと、オルヴァはようやく最後の一人に視線を移した。中心の少年の隣にいる、一人だけオルヴァの記憶になかった人物――
(ひとり増えたのか)
若い娘だ。年齢なら、少年とほとんど変わらなそうに見える。線は細いものの、それほど体が弱そうにも思えない、健康的な肌をした少女。まあそんな子どもが旅人の中にいることにも驚きだが、オルヴァが気になったのはそこではない。
(――何だか)
浮いているな、と。
第一印象はそこだった。
その少女もやはり際立った美少女ではあった。隣に立つ少年の雰囲気に紛れてあまり目立たないが、改めて見るとその目鼻立ちに感嘆する。髪が短く切られているため色気のようなものは皆無だが、長ければさぞかし瑞々しい乙女となることだろう。だがそんなことは取り立てて注目することではない。むしろ面立ちは彼のよく知る南国人に通じるものがあるから、隣の少年に比べたらずっと親近感が湧くのだが。
この違和感の……
原因はどこだと、探すまでもなく。
「この人はマザーヒルズの兵士のオルヴァさんだ、ラナ」
少年が少女にオルヴァを紹介する。
少女はおずおずと微笑んで、オルヴァに向かって胸に手を当てた。
「はじめまして……ラナと言います」
はにかむようなその微笑に、こちらも名乗り返しながら、オルヴァは納得していた。なるほど――
(浮いているわけだ。他の三人と違って)
どうやらこの少女には決定的に欠けているものがある。
――自己の存在を主張するための“自信”の軸が、その背中にないのだ。
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