月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

29 魔女

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『今はもう誰も知らぬのです、あの子のことは――。神の声を聞く、ただ一人の子だったのに。あの日――』

 声がきしんだ。憤りがほとばしった。

『あの日、マザーヒルズから派遣された兵に。!』

「……」

『……そして同じ日に、私も火に巻かれました。ただ、私は即死ではなかった。しばらく生きていて――みなが死んでいくのを、見ていました』

 ラナーニャはただ、空にたゆたう透明な女を見つめる。
 女の姿が、涙の塊に見えた。

 ――でも。女の声が暗く笑う。

『神は私をお見捨てにはならなかった。私に、力をくださった。私はこの地を守ることにした。いつか、マリアの生まれ変わりが現れるまで――』

「それが、私だと?」

 ラナーニャは唇をなめた。ちっとも湿らない。

『ええ。先ほどの神の姿を見たならば、明らかなことです』

 女は艶然えんぜんとそう告げる。自信にあふれ、白を黒とも言いくるめてしまえそうな力がある。

 自分が当事者でなかったら、ラナーニャも納得してしまったかもしれない。だが――

 その言葉を向けられているのはあくまでラナーニャで、そしてラナーニャには、そんな自覚など欠片もないのだ。

「か、神の姿というのなら……先ほどの神は、カミルとオルヴァさんを助けてくれた。神は人を殺すことなど望んでいないのではないのか? だから――」

『そんなことはありません』

 女は断言した。『昔、私に教えてくれた者がいました。神は忌まわしい者どもを滅することを望んでいると。そして神も、決して私を止めはしなかった。こたびのことは――あなたがいるからかもしれませんね』

「――」

 私がいるから、カミルとオルヴァさんは助かった?
 神がそんな配慮をしたと?

 混乱するラナーニャの背後で、ぼそりとユードがつぶやく。

「……神にはお前が必要だ。お前のためなら、多少のことはしようさ」
「……」

『さあ、娘よ』

 おいでなさい――大きな手がラナーニャへと向けられる。

『私の夢の中へ……。そこでゆっくりと、あなたが目覚めるのを待ちましょう。きっと神がお助けくださいます。さあ』

「――」

 ラナーニャは両足を踏みしめた。

 ……この女性に、何かを感じる。無視は決してできない強い衝動。理由は分からない。拒絶してはいけないと、訴える自分もいる。

 それでも。

 何と言われようと、浮かぶ答えはひとつきりだった。だから、迷わなかった。空に浮かぶ女をまっすぐに見つめ、強く。

「行かない。私は、“こちら側”の人間でいたいんだ」



『何故なのです! 娘よ!』

 女の甲高い声が空を裂く。

 同時、背後から詠唱が聞こえた。シグリィとセレン、二人分の。

「業火を縒りて唸れ炎の刃!」
「躍れ燎原りょうげんの火!」

 剣の形にも似た炎の矢がラナーニャの頭上を通り過ぎ、女の像を貫いた。

 直後に炎が波のように広がり、輪郭を揺るがせた女の姿を焼き払う。

 ラナーニャは頭を抱えてしゃがみこんだ。熱気と火の粉が降ってくる。女の金切り声が降ってくる。

『火! 火ぃ……!!!』

 けれどそれは致命打とはならない。揺らぎ、四散しかけた女は、再び空で像を結ぶ。

『おのれ愚か者どもめ! あくまで私の邪魔をするか!』

「でしょ? シグリィ様。あそこにはあの女の核はないんですよぅ」
「そうらしい」

 呑気な会話が聞こえる。ラナーニャは立ち上がり、彼らの方を見る。

「どうしましょうか?」
「うん。まあ、戦い方はひとつだけ決めてある」

 動こうとするセレンを手で制し、シグリィはゆっくりとこちらに向かって、踏み出した。

「――あそこに行くのは、私一人でいい」

 でもシグリィ様、と言いかけたセレンが何を思ったのか口をつぐむ。

「セレン、転移術でカミルと一緒にアルメイアに戻れ。オルヴァさんの手当を。それから全ての報告をバルナバーシュさんに」
「はい。シグリィ様は?」
「私は全て終わってから帰る。ラナと二人で」

 できるだけすぐ終わらせる――と、彼の声はどこか冗談のように。

 空の女の気配が、憎悪にざわめいた。離れたところでクルッカを囲む木々が不穏な音を立てる。鳥はいない。とうの昔に逃げてしまったのだろうか。

 シグリィはただ歩いてくる。

「――っ、来るな!」

 ユードがその前に立ちふさがろうとする。しかしシグリィは歩みを止めず、ふっと片手を持ち上げた。
 そのまま、指先をユードの額に向ける。

「あなたにも話は山ほどあるが、今は邪魔なんです。眠ってください」

 シグリィの指先が青く発光する。次いでユードの頭を、細く輝く青い光がとりまいた。朱雀の術の気配はない。たぶん彼の持つ他の力――

「――」

 糸が切れたようにユードが倒れようとする。その体を受け止め、シグリィは肩越しに後ろを見る。

 視線を受けてセレンが走ってくると、ユードの体を受け取り、転移術を発動させようとしている場所へと戻っていく。

「ラナ。君もここから離れた方がいい」
「私はセレンたちとは――」
「いや」

 、と彼は言った。

「君は成り行きを見ていた方がいい。……何も見ずにはいられないだろう?」

 ラナーニャはうなずき、シグリィの横を通り過ぎてクルッカを離れる。できるだけ遠くへ。

 背後から女の、いつも通りの金切り声が追いかけてくる。

『なぜです! 娘よ、どうして……! 我らの大義が理解できないのですか!』

(――理解、できないわけじゃない)

 彼らの言い分。地租四神と英雄神の立場の違い。
 知ったばかりの、四神の由縁ゆえん

(英雄四神が地租四神の力を奪った。それが事実なら)

 女たちのやろうとしていることが、まったくの筋違いだと思っているわけじゃない。否定できない。

 同時に自分が英雄四神を心から敬愛しているのかと言われると、即答できなかった。何しろ――自分には《印》がない。

 神に見捨てられた子と、呼ばれてきた。
 神よ何故、と問うたことなら何度もあった。
 何より――自分は父の魂を、イリス神の御許みもとへ送れなかったのだ。

 でも。

 だからといって地租四神につくのかと言われると、うなずけない。

(今の私はどちらにもつけない。つく資格がない)

 そんな私が今、自分の行動を決めるためにたったひとつ、よすがにできるものがあるとすれば、それは――。

『娘よ、マリアの生まれ変わりよ、戻りなさい……!』

 ヒステリックな女の叫び声を、静かなシグリィの声が遮った。

「彼女の名前は『娘』じゃない」

『……何ですって?』

「あなたはただの一度も彼女の名を知ろうとしない。ただ妹の生まれ変わりだと、そればかりを語る」

 ラナーニャは途中から後ずさるようにじりじり位置を変えていた。戦いの場となろうとしているクルッカ跡地からできるだけ遠く。

 離れるにつれて、シグリィの声がだんだん聞き取れなくなっていく。

 最後に聞こえたのは、まさにラナーニャも抱いていた思いそのものだった。

「あなたが求めているのはマリアであって、?」



『それがどうしたというのです』

 ……女は少し落ち着きを取り戻したようだ。

 シグリィは少し意外に思った。動揺させるつもりだったのだが――逆に彼女の信念に触れたらしい。

『我が妹はまぎれもなく生き神でした。あの子の起こした奇跡は数知れません――。あの子こそが神の申し子だった。奪われてはならない子だった』

 ラナーニャは十分遠くまで避難した。女の金切り声はともかく、大半の声はもう聞こえまい。

 シグリィの足は、クルッカの森であった範囲に踏み込んだ。

 とたん周囲の景色が変わった。陽炎かげろうのように、辺り一面を森の幻影が覆う。

 人がいた。数人の子どもに囲まれた若い女が。
 腕から血を流す子どもの手を、女がそっと握る。怪我はみるみる治り、子どもたちが歓喜しているのが分かる。

 奇跡はこんなものでは終わらなかった――。森の幻影と重なるように空に広がったままの女が、懐かしそうな声で囁いた。

『怪我も病も治し、天候を読み、予言もした。あの子は村のための何でもできた。四神本来の力を持つまさしく生き神』

 そんな人物がたしかにいたのなら――
 生き神とも呼ばれよう。しかし疑問も残る。

「そんな人物がいたのなら、なぜ『あの日』の災厄から逃れられなかったんだ?」

『――』

 女の顔が憤りで赤く染まる。半透明なのにそういった血の気は見えるのが不思議だ。

『……それこそが我が妹の哀れな失態。あの子は……ひとりの男に心を奪われ、力を乱してしまった』
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