月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

冬の贈り物 [ほのぼの]

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*シグリィ十歳頃のお話。

 ――冬は、苦手だ。

 吐く息が白く染まり、眼前をゆらゆらと立ち昇りながら空に溶けていく。
 冬も深まった今宵、月も星も、寒さに身を縮めるかのような大人しい灯りで下界を照らしている。
「冷えるわねえ」
 セレンは両手に温かい息を吹きかけながら、目の前でぱちぱちと燃える焚火の火を眺めていた。
 目を焼く炎の色は、この季節どんなものよりも力強い。この広大な大地の片隅で燃える赤の色が、凍えそうな心を慰めてくれる。
(寒いのはあまり好きじゃないのよね)
 彼女は胸中でつぶやき、そっと肩をすくめた。
 何となく隠れるようなしぐさになったのは、焚火を挟んで向こう側に人がいるからだ。――自分より二つほど年上の青年。
 セレンの心のぼやきが聞こえたわけではないだろうが。カミルという名の男は炎の向こうで顔を上げた。
「もう眠ったらどうですか、セレン。毛布なら後ろにありますよ」
「んー」
 言われなくても知っている。セレンは自分がもたれていた荷物を、自分の横に引っ張り出した。
 彼らはすでに、一番寒さの厳しい北方を抜けていた。だが、この東部も冬は冷え込むのだ。毛布や防寒具の類を持って旅をするのは色々と難儀するため、冬はそもそもそういった旅程を計画しない――最低でも野宿にはならないようにする――のが普通である。
 セレンは一年ほど前まで、気ままな一人旅だった。
 彼女は大荷物が大嫌いだ。だから間違ってもかさばる毛布だの防寒具だのを買い込むことはなかった。寒い時期は無理に遠出をせず人里に留まり、どうしても一日以上かかるような行程では一晩中火を絶やさず、眠らずに過ごす――まあ一人旅をしていれば、昼間に仮眠を取りながらの数晩の徹夜には慣れるものである。
 だが今の彼女は、もう一人旅ではない。
 焚火の向こうにいる男と、そしてもう一人。
(……そういえば、シグリィ様とカミルと知り合ってからもうそろそろ一年かしらね)
 荷物を解きながらふと思い出し、彼女は空を見上げた。
 ここ東部は、北部に負けず星が美しい。冬の澄み切った空気の中で見える光は、相変わらず控えめなちらちらとした風情だったが。
 ――二人と知り合ったのも、冬の真っただ中だったのだ。
「シグリィ様の分も用意してもらえますか」
「分かってるー」
 視線を荷物に下ろし、手早く寝床をしつらえる。
 毛布は二人分あった。三人旅だが、常に一人は寝ずの番だからだ。今夜はカミルがそれを担うことになっている。明日次の町に着けなければ、明日の番は自分。それを思うと正直憂鬱だ。
 はあ、とセレンはため息をつく。
(寒いのよねー)
 いかに北国生まれで、どこからどう見ても北国人の容貌を持ち合わせているとはいえ、寒さに強いわけでは決してない。
 むしろ寒さはどうしても苦手だった。生まれて二十年経った今でも。
 もっとも、彼女はそれを連れの二人に口にしたことは一度もなかった。
 ――言えば二人は驚くだろう。セレンは北への愛着を隠したことがない。それなのに寒さが嫌いだと言えば、驚いたのち彼らは必ず心配する。
 だから、言いたくなかった。
 心配されたところで、どうにかなるものではない。だったら、最初から心配されないのがいい。
(シグリィ様は優しいから、なんかあれこれ手立てを考えてくれようとするわね。カミルは……『そんなことじゃこの先どうするんですか』とかくどくど言いだすわ、きっと)
 そしてくどくど言いながら、やたらと自分を寒さからかばうようになるだろう。彼はそういう人だ。ほんの一年しか共に過ごしていないが、その確信がある。
 シグリィとカミル、二人の反応を想像して、セレンはくすっと笑った。
 漏れた息はやはり白く染まって、あっという間に消えた。
 セレンは唇を引き結ぶ。そして毛布を敷く作業を終えてしまうと、仕切り直すように大きな声を出した。
「できたわよ! シグリィ様はー?」
「まだお戻りになっていませんが――」
 彼女の問いに反応して、カミルが辺りを見回した。
 少年シグリィは、先ほど「ちょっと歩いてくる」と荷物を持ってどこかへ行ってしまった。
 まだ十歳と幼い彼が、一人でこの夜の下をふらふらほっつき回るなど、本来とんでもない話だ。
 カミルもセレンも止めようとしたのだが。まるでそれを避けるかのような素早さで少年は逃げて――そう表現したくなるような足取りで――行ってしまった。
(まさかこのまま帰ってこないつもりじゃ)
 ふとそんな考えが頭をよぎる。
 そしてすぐそれを打ち消した。心の中で苦笑する。
(だめね。まだそんな考えが抜けてない)
 ――少年と出会ってから、もうすぐ一年。
 かつての彼はとても反抗的だった。世話をしようとするセレンたちを疎ましがっているのは明らかだったから、彼が姿を消すのではないかといつも心配していた。
 後から聞いたところによると、意外にもシグリィは連れの二人を疎んじてはいても、離れようと考えたことはなかったらしい。ただしそれは彼の≪親≫が二人から離れないように“命令”していたからという、ただそれだけの理由だったのだが。
 今ではそんな話もできるようになった。
 その一方で、彼ら三人はまだまだお互いを知らないまま。
 知らなくても旅はできる――知る必要があるのは“この先の自分ら”であり、過去などどうでもいいと、思うこともある。
 けれどセレンは、話せるのなら過去の話をしたいと思う。
 自分が辿ってきた道。二人が辿ってきた道。話を聞けばそれで相手のことが分かるわけではないのだけれど、全く無意味だとも思わない。
(でもカミルは話しそうにないわよね。どこかできっかけがあればいいんだけど、ただ聞いただけじゃ絶対答えないわねあの人は。シグリィ様は……あー)
 考えて、ほんの少し肩をすくめた。
(……シグリィ様は、話せなくても仕方がないか)
 ほうとつく息。両腕で立てた膝を抱え、顎を埋めた。小さく縮こまるように。
 指先で引っぱり深く被ったフードの隙間に、風が忍びこむ。
 耳が痛みを訴えている。
 この分では、今夜のうちに雪が降るかもしれない。豪雪地帯はとっくに抜けているとは言え、降りだしたらまず間違いなく積もる。明日の旅路は難儀するに違いない。それを思い、ますます憂鬱になった。
 足音が聞こえたのはそのとき。
「シグリィ様」
 カミルが背後に顔を向けた。
 炎が、ようやく帰ってきた少年の姿を照らし出す。
「お帰りなさい~」
 セレンは呑気な声音で彼を迎えた。「ご無事ですねえ。よかった……」
 吐息のようにつぶやく。「ああ」と少年は少しばかり困ったような声を出した。
「心配……させた。すまなかった」
 ……なんだかぎこちない。
 訝しく思って、セレンは少年を見つめた。
 出会ったばかりの一年前ならともかく、ここ最近は会話もずっと打ち解けていたはずだ。一体どうしたことだろうか。
 同じことを感じたのだろう、どうかしましたかとカミルが尋ねる。
「いや」
 少年はますます不可解に、妙な仕種を見せた。躊躇っているような――あるいは、恥ずかしがっているような。
 セレンはひそかにカミルを見る。カミルも一瞬こちらを見て、怪訝そうな表情を見せた。
「どこへ行ってらしたんですかー? シグリィ様」
「ちょっと近くの……適当な場所に」
 近くにと言う割りに、セレンやカミルからは完全に分からない場所まで行っていたようだが。
「何しに?」
 セレンはさらに問う。「そんな荷物を持って、何してたんですか?」
 少年の手にある荷袋。身軽さを優先するため積極的には荷物を持たない彼が、何も説明することなく持っているもの。それを指摘されて、まだ幼い少年はますます眉を曇らせる。
 別に少年を困らせる気はなかったが、いつもと違う様子の彼を見るのが少し面白かった。
 同時に、胸の奥にほんの少しの寂しさが生まれる。――とうとうこの少年も、自分たちに秘密ごとを作るようになったのか。
 それは成長した証とも言える。それでも――むしろ、だからこそ――切ない。
 自分の胸の内をごまかすように、セレンはにっこり笑って隣の地面を叩いて見せた。
「とにかくこっちへ来ませんか。寒いですよー。あったまりましょーよ」
 ああ、と少年は素直に歩いてきた。セレンは布を出して敷き、彼が座るのを待った。
 カミルが焚火に枝を放り込む。
 ぱちりと爆ぜて、赤い色が揺れる。
 ――セレンの隣に腰を下ろした少年が、ふとセレンを見上げた。
「寒いか?」
 セレンは彼を見返して、ぱちぱちと目をしばたいた。
「そりゃ寒いですよーシグリィ様」
「お前寒いの嫌いだろう?」
「―――」
 思わず絶句した。それを言った覚えはなかったのに。
 その思いが表情で伝わってしまったのだろう、少年は苦笑した。
「見ていれば分かる。お前が寒いのを嫌がってることくらいは」
 言いながら、傍らに置いていた袋に手を入れる。先ほどまで持ち歩いていた、あの袋だ。
 やがて彼の手が掴み出したのは――
「……これで、少しは防寒できる、と思う」
 セレンに差し出されたのは、手編みの肩掛けと手袋だった。
 受け取ったセレンはまじまじとそれを見る。あたたかい臙脂色の布。肩掛けの網目はきれいに整っている――かと思えば、ある一端には乱れもある。多分そこが編み始めで、編み続けている内に慣れていったのだ。
 肩掛けと同じ色の手袋はミトン型に作られていた。網目がふっくらしていて、とても柔らかい。
「これ、まさかシグリィ様が?」
 編物から視線を上げ、今度は少年を凝視する。
 少年はとても珍しく、眉尻を下げていた。
「……迷惑だったか?」
 さらに彼は袋からもう一つの物を取り出した。そちらは大きめの手袋のようだ。セレンのものとは違い指が一本一本独立している。
「こっちはカミルに」
 炎の向こうでカミルが固まっていた。彼にしても予想外の展開だったらしい。
 この少年がモノ作りを得意としていることなら、よく知っている。普段は装身具の類にばかり手を出しているのだが、その気になれば裁縫もできるに違いないと思っていた。器用さは人一倍の彼にしてみれば、同じように手先と目を使う編物はさほど難しいことではなかったのかもしれない。
 立ち上がってカミルに手袋を渡しに行った少年は、戻ってくると頬を引っ掻きながら腰を下ろした。
 照れているように――見えた。
「思ったより時間がかかった。本当はもっと早くに完成させるつもりだったんだ。冷え込むのも早かった……東部の冬はこうやって始まるんだな」
「ずっと編み物してたんですか?」
 思わず問うセレンに目を向けて、少年は不安そうに答える。
「北では、冬が始まるころには母親が新しい防寒具を夫と子供に作って渡す。元気で冬を越してほしいという祈りを込める……そうだ。だから」
 ぱちり。
 相槌を打つように、焚火が小さな音を立てる。
 たっぷりとした呼吸の後、少年は言った。
「……いつもありがとう。この冬も、二人に元気でいてほしい」

 ――冬は、苦手だ。
 寒さが肌を締め付ける。誰の体も――自分自身の体も、己を守るために勝手に壁を作る。
 それに気づくたび、“孤独”という言葉を思い知るのだ。目の前に人がいてさえも。

 けれど。

「シグリィ様……!」
 セレンは少年に抱きついた。
「セレン?」
 驚く彼を力いっぱい抱きしめる。少年が腕の中にいることを、確かめるために。
 防寒具の奥の奥にあるぬくもりを見つけるために。
「ありがとう、シグリィ様」
 頬をくっつけて、セレンは囁いた。
 少年が疑問符を浮かべるのが分かる。構わない。理解はしてもらえなくても気にしない。
 ただ、自分がこんなにもあったかいことさえ、伝わればいい。
 空気の流れが変わったかのように、焚火がいっそう激しく揺れた。ゆらゆらと動く赤い色は、まるで自分も混ざりたいとうずうずしているかのようで。
「……そのまま寝ますか。寝袋がそばにありますし」
 炎の向こうにいる青年がそう言うのが聞こえて、セレンはようやく顔を上げた。
「じゃああなたもこっちいらっしゃいよー。三人のほうがあったかいわよ」
「……っ、私まで寝たら誰が見張りをするんです……!」
「んー、でも傍にいるくらいいいじゃない?」
「ですから……っ」
「何怒ってんのよカミル。あ、シグリィ様。あの人ガンコだから私たちがあっちに行きましょーか」
「……いや、何となくそれはしちゃいけない気が……するんだが」
「えー? 何でですかー?」
 セレンは嬉しかった。
 一つ言葉を発するたびに、一つ言葉が返ってくるたびに、その場が温まっていくような気がするのだ。こんなことはきっと、冬にしか味わえない。
 だから。
 だから苦手な冬も、嫌いにはなれない――

 月は徐々に位置を変えていく。
 見上げた夜空に輝く星はいっそう輝きを増して、地上を見下ろしている。
 明日になれば、冬はさらに深まる。しばらくは寒くなる一方だ。
 でも、そんな旅路もいいだろう。
 冬が愛しいのはその先に春があるからではなく、冬を越えていくその日々に意味があるからだ。それを教えてくれる人がいるから、この先の自分は絶対寒さに負けたりしないとセレンは強く胸に宣言する。そう――
 彼らがいる限り、ずっと。


(終)
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