月闇の扉

瑞原チヒロ

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番外編

ほほえみ――1

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 ……笑顔というものは、どうやって作るのだろうか。
 
 シグリィは今日も、そんなことを考えていた。
 両手でもにもにと自分の頬を引っぱったり揉んだり。鏡のない部屋で、自分には見えない強制百面相を続ける。
 目を覚まし、ベッドの上で起こした体。薄暗い部屋には一人きり。窓は閉め切っていて、ただうっすらと肌に触れる空気だけが、彼に朝であることを教えてくれる。
 ――この村で運よく民家の一室を借りられた彼ら三人は、その一部屋を全員で使っていた。
 ベッドをシグリィとセレンが使い、カミルは床に布を敷いて眠る。ベッドのある部屋で三人のときは、いつもそうだ。
 彼らが今いるのは大陸北方のとある地域。宿屋がないこの辺りでは、一室を借りられるだけでありがたい。
 そのため三人一緒の部屋で眠るのはいつものことだが、シグリィが目覚めたときに他の二人が部屋にいることは稀だ。
 村について三日目の今日も、やっぱりそうだった。
「………」
 ベッドに腰かけたまま、ぎゅうと自分の頬をつねっていたシグリィは、最後に軽く顔を叩いて手を下ろした。
 ふう、とひとつため息。
 ――やっぱり、よく分からない。
 ベッドから下り、閉め切ってある木窓へと歩み寄る。寒いこの地域では、中々寝室の窓を開け放すことはない。代わりに明かり取りや換気に使われる縦長の小窓がすぐそばにある。
 シグリィは小窓を開けた。
 冷たい空気が、ひゅうと吹き込んできた。
 同時に射し込んだのは、限りなく白い陽射し。線となって床に突き進む不思議な光を、目を細めて眺める。
 もう三月マルティスも終わりに近い。大陸には“春”がやってくる時期だが、まだ寒い。腕を服の上から擦りながら、ふと連れたちの言葉を思い出した。
 ――寒い地域では、その分空気がきれいだと。
 二人はそう言った。
 外に出て、セレンが深呼吸をして。冷たい空気を思い切り吸い込んで「寒いっ!」と震えあがる彼女に、「当たり前でしょうが」とカミルがつっこむ。寒いのがいやなら吸い込むなと呆れ声で言う彼に、「でも気持ちがいいのよ!」と言い返す彼女――
 そんなささいな日常の風景が、シグリィにはとても不思議なものに思える。
(……二人はどこから来たのだったかな……)
 何とはなしにそんなことを思った。
 カミルとセレン。この二人と出会ったのは、年の初めの真冬のことだ。
 まだ三か月。もう三か月。
 セレンは今年二十歳になり、カミルはその二つ上だという。自分にとってはとても大人に思える二人。
 実のところ、シグリィは二人のことをほとんど何も知らない。
 正しく言うなら、何も分からないのは主にカミルの方だ。セレンについては、彼女自身が積極的にあれこれと暴露してくる。自分は北の生まれだが、ずっと父とともに旅をしていたから、大陸全土が故郷のようなものだとか、その旅に目的はないとか、父が亡くなってからは一人旅だったとか。
 訊いてもいないのに、彼女はよく喋る。
 逆にカミルは、自分の素性については何も話さない。セレンがしつこく訊いて、ようやく渋々と自分が西部の生まれだと白状したくらいなものだ。
 もっとも言われなくても、カミルは見かけから言動からすべてが西国生まれ然としていた――シグリィは他に西国生まれの人間を知らないが、“知識”として彼の中に刷り込まれている。
 ……人間には色々なタイプがいる。この二人を見ているだけでも、それが分かるような気がする。
 セレンにしたって、彼女が話すことだけを聞いていると、随分と楽しい旅路を送ってきたのだな――と思ってしまうのだが。冷静に考えて、二十年近くも旅をしているのに“楽しいこと”しかなかったはずがないのだ。少なくとも、この大陸には旅人がほとんどいないのだとシグリィは聞いている。それは旅が過酷なものだからに他ならない。
 それでも、セレンの話は“楽しかった記憶”に終始する。
 だからシグリィは思う。自分は彼女のことを何も知らないのだ、と。
 しかし、彼女が自分から話した内容が嘘だとも思わない。
 彼にしてみれば、あれこれ自分から話すセレンが鬱陶しいわけもないし、何も話そうとしないカミルに苛立つわけでもない。
 二人はそれが自然なのだろうと、そう思う。
 部屋は静まり返っていた。
 シグリィは少し考え、木窓を開けた。
 空気がさらに冷え、明るさが一気に増した。
 抜けるような青空。今朝は雲がなく、鳥さえもいない。悠然とそこにある空の下、朝から忙しい村の人々の活気がわずかに伝わってくる。
 ひとしきり外を眺めてから――
(………)
 視線を落とす。自分の足元には濃い色の床があるだけで、他には何もない。
 落ちつかない気分で、今度は半身ごと振り返って部屋を見渡した。
 誰もいない。
 自分の呼吸だけが、部屋にぽつんと置き去りにされているような。
 しかし彼は分かっていた。カミルもセレンも、やることがあるから部屋から出て行っているだけで――決して自分を置き去りにしているわけではない。
 自分から部屋を出ていけば、二人ともきっと容易く見つかる。
 あるいは待ち続けていれば、二人は必ず姿を見せる。
 たった三か月。されど三か月。二人の存在感は、シグリィの中で絶対的なものとなっていた。
 それを思うだけで、すべての不安は消える。
「―――」
 もう一度、頬をつねってみた。
 このところ、やたら自分の顔を触るのが癖になっていた。ずっと考えているのだ――“笑顔”というものは、どうやって作るのだろうか、と。
「おはようございまーす、シグリィ様!」
 ノックとともに、廊下から元気のいい声がして、次いでドアが開いた。
 ひょっこりと顔を出したのはセレンだった。きれいに整った顔立ち、猫のようないたずらっこの瞳。にこにこと朝から機嫌のよさそうな顔が、こちらを見てますますにっこりとした。
「起きてらっしゃったんですね。今朝はご機嫌いかがですかー?」
 彼女はシグリィが目覚めると、必ず何かしら挨拶をする。彼がそれに返事をしようがしまいが、お構いなしに話しかけてくる。おはようございます、今日はいい天気ですよ、昨日はいい夜でしたね、今日は何をしましょうか――
 シグリィはためらった。機嫌。機嫌……。
「……機嫌、は、いいと、思う」
 ぽつりとそう応えると、セレンはふふっと微笑んだ。
「それなら良かった。よく眠れました?」
「……ああ。今日は、大丈夫」
 こんな単純な言葉を、口にするのがとても難しい。
 いちいち詰まりながら喋るために、時にはとても時間がかかる彼の返事を、しかしセレンはいつもにこにこと待っている。
 シグリィはセレンの微笑みを見つめて、眩しい気持ちになる。彼女は太陽のような女性ひとだ。日によって明るさは違うが、輝きだすと目がくらむほどにまばゆく美しい。
 彼がそんな風に思っているとは思ってもいないだろう、セレンは戸口でちょいちょいと手招きした。
「なら今日は動けますよね? 下に行きましょう、今朝はカミルも朝食を作るのを手伝ったんですって! 彼が待ってますよ」
「そうなのか」
 うなずいて、戸口の彼女の方へ歩み寄った。
「今日もいい日になるといいですね~」
 シグリィの肩に手を添えながら、彼女は歌うようなリズムでそう言った。
 
 朝食は厚めに焼いたクレープとスープだった。クレープにはハムチーズ、または挽肉を包んで食べる。スープは芋を中心に野菜がたっぷり入って、味は濃いめで温かい。それをさっぱりさせるのが、添えられた茸のピクルス。飲み物はこの村で栽培した薬草のお茶だった。大方、北でよく見る食事だ。
 カミルが手伝ったのはスープであるらしい。元々西国料理しか知らなかったカミルだが、この三か月あちこちの宿や民家で厨房を手伝い、大分慣れたようだ。元々家事が得意な彼は、呑み込みも早い。
 セレンに言わせると、「北国のスープは材料ぶちこんで煮込むだけです!」とのことだったが、それでも手馴れている者とそうでない者では差が出る。少なくとも、「ぶち込むだけ」の料理をセレンにやらせると、何か……何か、とんでもないものが出来るような気がする。
 食事の時間はにぎやかだった。
 宿を貸してくれた陽気な婦人は、セレンとやたら気が合うらしい。女性たちのおしゃべりは尽きることがない。
 亭主と三人の息子は、朝早くから酪農の仕事に行っているそうだ。
 「後で手伝いに行きます」とカミルが婦人に言った。
 食事が終わると、まだ喋っている女性二人を尻目に、カミルは淡々と片づけを始めた。
 シグリィは彼の傍に行き、
「手伝う」
 と手を出した。
 カミルもセレンもシグリィに何かを手伝わせようとすることはあまりない。何しろ彼は幼い上に、経験がろくにないのだ。それでも何もしないでいるのは落ち着かない――だから最近では、自分から手を出すようにしていた。
 カミルはこちらを見て、微笑した。
「ありがとうございます」
 シグリィはふとカミルの顔を見つめた。……笑顔。
 この三か月、この青年はよく怒っていたが――主にセレンのせいで――それと同じくらい、よくこういう顔をする。
 彼の視線に気づいて、カミルは怪訝そうな表情をした。
「どうかしましたか?」
「……いや」
 何でもない。そうつぶやいて、視線を食器に戻す。
 カミルはそれ以上訊こうとはしなかった。
 食器洗いをカミルが行い、その隣でシグリィが食器を拭いて、カミルの指示通り戸棚に戻す。そんなことをのんびりとくり返している最中に、カミルが「今日はどうなさいますか?」と尋ねてくる。
「……うん」
 シグリィは意味もなくうなずいてから、少し考え、「……お前と一緒に、手伝いに行こうかな」
 とつぶやいた。 
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