月闇の扉

瑞原チヒロ

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第二章 誰がための罪。

40:彼の罪

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 ユドクリフ・ウォレスターは足早にアルメイアを出ようとしていた。
(魔法陣布を使えば一瞬で事足りる――)
 人気のない場所に出さえすればいいのだ。郊外にでよう。アティスティポラの目の届かないところへ。
 アティスティポラの魔術具を勝手に持ち出したことは今さらだった。今までだってお目こぼししてもらっていたのだ。今回だって少しくらいいい。
 そう、どうせ最後なら。

 アティスティポラから見捨てられた彼だったが、生きる道がなくなったわけではなかった。
 むしろこれからは、もうひとつの道のほうが重要だ。戦争が起きようとしている今の趨勢すうせいでは。

 郊外に出ると林しかない場所がある。
 そこで、ユドクリフは急ぎ魔法陣布を広げようとした。

「どこへ行く気だ?」
 突然の声にぎくりと動きを止める。
 呼吸を落ち着け、ゆっくりと振り向いた。いつの間につけられていたのか――
 そこには、オルヴァ・オストレムがいた。
 ユドクリフは驚いた。あれほど大怪我をして寝込んでいたのに、もう立ち上がれるのか。アティスティポラの招集した医師どもはそれほどに有能だったのか――
 オルヴァは笑おうとして失敗したかのような笑みを片頬に刻む。
「どこへ行く気だ」
 彼は再度聞いた。
 ユドクリフには答える気はなかった。有識者ならば魔法陣の形態で行き先も分かるらしいが、いくらオルヴァが南の術者でもそれができるとはとうてい思えない。
 しかし――
「答えないなら俺が言ってやろうか。お前が行くのは、西のアンデストロだ」
「……!」
 初めてユドクリフは警戒をみなぎらせた。
 なぜそれを知っている。なぜそれが分かった。心の中は疑問でいっぱいになり、身動きが取れない。
 オルヴァはゆっくりと近づいてくる。少し歩き方に違和感があった。怪我の治りが万全ではないのだろう。
 それなら逃げられる――
 そう思った瞬間、ユドクリフに別方向からの絶望がやってくる。
 いつの間にか林の中には、何人もの兵士がいた。明らかにオルヴァの仲間――マザーヒルズの兵士たちだ。
「俺たち遊覧兵をなめるなよ。お前がしていることを知らないとでも思っていたのか」
 『遊覧兵』とは俗称。正式名称は特殊派遣部隊。彼らの真の仕事は、各地に散り情報を集めることである。国内、国外を問わずに、だ。
 オルヴァがユドクリフの目の前で止まり、魔法陣布の端を踏みつける。布がぐしゃりと歪んだ。
 駄目だ。魔法陣布はしっかりと伸ばされた状態でないと、効果が発揮できないのだ。
 逃げられない――
 ユドクリフの焦りを知ってか知らずか、オルヴァは静かな声で語り始める。
「――ユドクリフ・ウォレスター。≪印≫なき子どもの集まるエルヴァー島に物資を送るために動く人間。アティスティポラの手先。そして――アンデストロのウッドロウ卿の手先」
 なぜそれを――!
 声にならない悲鳴が起きた。けれどユドクリフは平静を装った。ここでみっともなく騒ぐのは本意じゃない。そんなことは姉が許さない。
 あの、いつでも泰然としていた姉が許さない。
 ――西のアンデストロ。他ならない、西国グランウォルグの大都市だ。そこを支配するウッドロウ候爵。
 ユドクリフの――もう一人の雇い主。
 オルヴァはひどく億劫そうな声で、通告をする。
「つまりお前は二重スパイ。西の情報をアティスティポラに流し、南の情報をウッドロウに流す――」
 動悸が激しくなってきた。ユドクリフはぎりと奥歯を噛み締める。
 姉ならこんなときどうしただろう。やはり悠然として笑うだろうか?
 いや――そもそも姉ならば、こんな危ない橋は渡らないのだ。あの人は、いつでも正々堂々と。

 でも、それは僕には無理だった。
 無理だったんだ、ユキナ姉さん。

 島に物資を流さなくてはならなかった。
 最初は盗みで物を手に入れていた。そうしていたら、アティスティポラに拾われた。お前は面白い、手先となれと言われた。願ってもいない申し出だった――吟遊詩人として、人に取り入るのは得意なほうだったから。
 アティスティポラで働く内に知った。情報が金になることを。
 そうして南を歩き回っているうちに、島へ案内すべき≪印≫なき子どもたちをどんどんと見つけた。
 姉の言う通りだった。≪印≫なき子どもたちは増える一方なのだ。たぶん、この先ずっと。
 自分たちは、彼らを救わなくてはいけない。
 もっと稼がなくてはいけない。島のためにもっと。
 そのためにはどうしたらいい――
 悩んでいるときに外から声がかかるのはユドクリフの人生のふしぎな縁と言っていい。ウッドロウ家から声がかかったのはまさにそのときだったのだ。
 二重スパイの何が悪い? 自分は生きる道を求めただけだ。
 増える一方の島の者全員を、養うだけの金が欲しかった。
 それを悪だとどうして言える? お前たちは、僕らの何を知っている?

「お前を本国へ連れて帰る。そして裁判にかける」
 オルヴァはそう言った。「お前の流した情報の中に、今回の戦争に関わる情報があったはずだ。お前はとんでもないことをしたんだ、ユード」
「――僕は間違ったことはしていない」
 ユドクリフは噛み締めた歯の間から言葉を絞り出した。
「目の前に情報があって、ほしがっている人間がいた。だから売った。商売の定石だ。何も間違っちゃいない」
「いいや、お前は間違っている。この国が戦火に包まれてもいいのか?」
「こんな国、知ったことか!」
 そう、南国マザーヒルズだって、西国グランウォルグだって、どうなろうが知ったことか。
 彼らは自分たちを追った。数多くの≪印≫なき子どもたちが『国に』ひどい目に遭わされた。そんな国、なくなったところで自分たちには関係がない。
 ――島で生きる自分たちには、関係がない――
 オルヴァの目に悲しみが満ちた。やめろ、僕らを哀れむな!
「……マザーヒルズで、“エルヴァー島”の処遇を巡って論議が交わされている。この国だって、お前たちを放置するつもりはない」
「……! やめろ、僕らの島に触るな!」
「何も悪いようにするって言うんじゃない。お前たちだけで生きる必要はないんだ――」
「嘘をつくな!!!」
 大人は嘘ばかりだ。優しい顔をしていつも裏切る。≪印≫なき子どもを受け入れた大人がどれほどいた? 島の 島にはダッドレイという男がいる。とある事情でユドクリフはダッドレイとは大喧嘩をしているため表向きは不仲だが、あの件以外なら彼の言うことには大抵賛成できた。エルヴァー島は自分たちだけでいい。他の人間の介在なんかいらない。
 他の人間の助けなんか、いらない。
 オルヴァの目に火がついた。もう、会話は通用しないと悟ったのだろう。
「お前を本国に連れて行く。抵抗すれば刑は重くなると思え」
 彼の手が挙がり、それを合図に周りの兵士たちが動いた。輪を縮め、ユドクリフを追い込むように。
 ユドクリフは一歩退いた。魔法陣布から足が外れた。
 ああ姉さん。心の中で、唯一絶対の存在に語りかける。
 僕は、こんなところで終わってはならない。そうでしょうユキナ姉さん。
 だからユドクリフは、体の中に仕込んであった魔術具を手に取った。
「! お前」
 オルヴァが兵たちの動きを制止する。ユドクリフが手にしていたのは爆薬だった。彼は、それを迷わずオルヴァに向かって投げつけようとした。相手が怪我人だろうがどうでもよかった。
 しかし――
「待ちなさいユードさん!」
 また新たな声が、ユドクリフの邪魔をする。
 ザザザ、と近くの岩場から滑り落ちてくる音。四人の男女がその場に現われた。
 あの、意味の分からない旅人たち――
「その爆弾を下ろして、ユードさん」
 中心の黒髪の少年が言う。ユドクリフが一番嫌いな少年だ。いつも冷静な目をして、その黒水晶のような瞳が何があっても揺らがない。本当に石なんじゃないかと思うほどに。
 少年は――シグリィはまずオルヴァに「失礼します」と声をかけた。
「少し、彼と話させてください。大事な話なんです」
「……ユードを逃がすことは、俺の仕事の失態になるんだが」
「そういうことではありませんよ」
 かすかに笑ってシグリィはオルヴァを安心させる。
 逃がす――つもりじゃない?
 だったらこいつらも敵だ。まごうことなき敵だ。
 ユドクリフはさらに一歩退く。シグリィは、彼の連れの三人の男女にも動かないように言うと、こちらへ向かってきた。
 ゆっくりと。
「ユードさん――私たちは、エルヴァー島へ行ってきました」
 なんだと。
 ユドクリフの動きが止まる。それは聞き捨てならない話だった。
「色々ありまして、エルヴァー島で彼女とも出会いました。あなたなら分かるでしょう、彼女も≪印≫なき子です」
 背後の少女を示す。
 美しい少女だ。クルッカにもいたのだが、そのときにはまるで存在感がなかったので大して気にも留めなかった。
 それが今、決然とした視線でユドクリフを見ている。
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