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最終章
第二部 貴女に、――6
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禊ぎの間に入るときは全裸が基本だと聞く。今のアルテナも、逃げたときに着ていた寝間着を脱ぎ捨て、全裸で水に浸かっている。
ヴァイスからは後ろ姿しか見えなかった。水に胸元まで浸かっている。体の周囲の水が、しゅうしゅうと煙を上げている。
大人しく祈りを捧げているわけではない。アルテナは体を前に折り、まるで胸をかきむしっているかのようにうめき声をあげていた。時おり背をそらし、天井に向かって悲鳴を上げる。かと思えば意を決したように頭まで禊ぎの水に浸かる。
水が激しく跳ねる音と、それに混じる苦しげな声がヴァイスの耳に届く。禊ぎの水に赤い色が混じりだしていた。――全裸のその体を、自らの手で傷つけているのだ。
明らかに、常人が禊ぎを受けている状態ではなかった。
「アルテナ……!」
修道長が悲鳴を上げる。両手で口をおさえ、悲痛な顔で。
「意識があるんだ」
カイが息を呑むような声でそう言った。「魔物を、自力で倒そうとしているんだ、おねえさん」
しかしそのために苦しんでいる。魔物に聖水をかけると苦しむように、彼女は今、苦しんでいる。
ヨーハンが焦った声でヴァイスの腕に手をかけた。
「魔物をはがさないままこれを続けていたら危険です! 魔物が死ぬと同時に彼女も――!」
「アルテナ!」
ヴァイスは腰に腰に佩いていた剣を外し、アレスに押しつけた。
身につけていた護符の類もすべて、邪魔だと判断し外した。そして――
「邪魔をするなよ、お前たち」
まっすぐに禊ぎの水へと歩き出した。
「ヴァイス! 何を!」
「黙って見ていろ!」
靴を脱ぎ捨てる。そして、服のまま水の中へとざぶりと飛び込む。
水はヴァイスの腹ぐらいまでの高さがあった。
水の中の動きづらさなど意に介さず、ヴァイスはアルテナのところへ到達する。
「アルテナ」
呼ぶと、ぴくりと反応があった。しかし振り向くことなく、彼女はざぶんと頭まで禊ぎの水へと浸かる。
赤い血の色の水が揺れる。彼女の苦しみの証。
(魔物に抗っている――)
「アルテナ」
彼女の頭が上がってきたところで、ヴァイスはアルテナを掴まえた。背後から、抱きしめるように。
「―――!」
反応がある。あ……と枯れた声が彼女の口から漏れる。
そして、唐突に猛然と暴れ出した。
「放せ! 放して! お願い放して……!」
「なぜ逃げる? 俺はあなたを助けにきたんだ、アルテナ」
「放せ! 放して……!」
魔物として叫んでいるのではない。アルテナ自身の声が混ざっているように思えた。
彼女の意識が残っているのなら、なぜヴァイスから逃げようとする?
ヴァイスはアルテナの行動をつぶさに思い返し、理由をさぐる。
そう……
最初に様子がおかしくなったころ――彼女はヴァイスの首をしめようとしたことがある。
(そうか)
おそらく彼女はヴァイスを再び殺そうとすることを恐れているのだ。
そう思うと、どうしようもないほど愛おしさがこみあげた。こんな状況になってさえ、彼女は他人を傷つけることを嫌がる彼女のまま。
「アルテナ」
魔物憑きとなったアルテナの力は生半可ではなかった。だがヴァイスは決して彼女の体を放さなかった。
アルテナの体は予想通りに傷だらけだ。水の中にいるから止血もできない。その意味でも、このまま長くこの場にいさせるのは危険だった。
(――絶対に、助ける)
これは俺のやるべきことだ。この『役目』だけは、誰にも譲れない。
彼女が暴れようとして動くのをいいことに、彼女を後ろからではなく前から抱きしめる。強く。彼女の爪がヴァイスの顔を、首を引っ掻く。おそらく血が流れるほどに深い傷。
だが、痛くなどない。今は彼女のほうがよほど苦しいはずなのだ――
彼女の黒眼に、今は星の光はない。どこまでも沈むような漆黒がその丸い場所にあるのみ。
なぜか唇に、血の流れた後があった。魔物との戦いに勝つために、唇を噛み締めたのかも知れない――
ヴァイスは彼女を強く抱きしめる。
「今、助けるからな」
そうして、ヴァイスは彼女の唇を唇でふさいだ。
「―――!」
いっそう激しい抵抗があった。当たり前だ。ヨーハンの言う通り『ここ』が魔物の弱点であるならば、魔物は今何より命の危険を感じているはず。
何度も唇が外れそうになる。それを、無理やり抱きしめ封じ込めた。
(――魔物憑きをはがすには――)
「ヴァイス様!」
ヨーハンの叫び声が上がる。
唇に、冷たい空気を感じた。アルテナの息じゃない。まったく異質な、触れただけで切れそうな冬の風の冷たさ。
ヴァイスはそれに――
歯で噛みついて――
思い切り引きずり出した。
「………!!!」
アルテナの体がびくびくと跳ねる。彼女が怪我をしないよう力で押さえ込む。そして噛みついた『もの』は放さない。ひたすらに引きずり出す。
憑依型魔物は人間の中を好む。『引き出して』しまえば、本能的に別の体に入り込もうとする。
それでいて、人間の体の外にいる状態では空気のようで攻撃することができない。聖水さえ効かない。あくまで『人間に憑依した状態』でなければ倒せないのだ。
――魔物憑きをはがすには、魔物の憑く対象をうつすしかない――
ゆえに魔物をはがすことよりも、弱点を潰して魔物を消滅させることのほうがよく行われる。
憑依魔物はより清廉で、穢しがいのある存在を望むが、同時により強い存在も望む。そのほうが自分が生きながらえるからだ。
アルテナよりもヴァイスのほうが力あふれる存在なのは間違いない――
ただ。
問題はヴァイスは、魔物が何よりも苦手とする人間だということだった。
――生の明るさを、その身にまとう人間。
だから魔物は必死に抗った。ヴァイスの口から逃げだそうとした。
――逃がすものか。
ヴァイスは奥歯が欠けるかというほどに力をこめて、風のような魔物を噛み締め外へと引っ張り出した。
せっかくの口づけだったというのに、甘さなどかけらもない。ただ暴れる女と、それを抱きしめる男がいるだけ。
ヴァイスは必死だった。アルテナを救うために必死だった。
やがて己の体の中に、冷たい異物が徐々に浸透していくのを感じた。
冷たくて、重い石のような魔物だった。
手足がしびれて、うまく動かなくなっていく。
同時に、その身に触れる聖なる水が燃えるように熱くなった。まるで業火に焼かれるように、それは生半可の熱さではなかった。
アルテナはこんな重みに耐えて自らの足でこの禊ぎの間にたどり着き、そしてこの烈火に焼かれてでも魔物を倒そうとしたのか――
魔物がうつるにつれて、アルテナの抵抗がやんでいく。
ヴァイスの肌をかきむしろうとした指が止まった。ずるりと力が抜けて、彼女の体の横へと落ちる。
――全てがヴァイスの中へうつった。
頃合いをみはからって、ヴァイスはアルテナと向き合う。
黒い瞳と目があった。もう漆黒の闇はそこにはなかった。
ヴァイスを、そのまなこにしっかりと映して。
「……ヴァイス、様……」
かすれた声でそう呼び――
そのまま意識を手放したアルテナの体が、ヴァイスの腕の中から沈み落ちそうになる。
ヴァイスはそれをしっかりと抱き留めた。
左手で全裸のアルテナを抱きかかえ、右手を挙げて合図をすると、アレスがヴァイスの剣その他もろもろをカイに押しつけ駆けてきた。禊ぎの水の中へと飛び込むと、ヴァイスたちのところへやってくる。
「……アルテナを、頼む……」
「ヴァイス!」
アルテナの体をアレスに渡したヴァイスは、心から安心して目を閉じた。
己の体の中で魔物が暴れているのが分かる。周囲の禊ぎの水から、しゅうしゅうと煙が上がる音がする。
「ヴァイス! お前も水からあがらないと……!」
アレスの焦りに、ヴァイスは目を開け、にやりと笑った。
「俺が魔物に乗っ取られたら、お前たちじゃ勝てないかもな?」
「……っ」
「……冗談だ。絶対に押さえ込む。アルテナがやってみせたことだ……俺もやってみせる」
アルテナは魔物を取り憑かせたまま自分の意思で動いていた。
だったら、自分も。
しゅうしゅうとあがる煙を漫然と眺め、体中の痛みをたしかめ、体を燃やすような聖なる水の熱さをたしかめ、ああこれが愛しい人が抱えていた苦しみかと感慨深く思う。
(……アルテナ。よく頑張った)
アレスがアルテナを抱いて先に禊ぎの水からあがろうとしている。
それを見送りながら、ヴァイスはアルテナのことを思う。
――彼女はよく、自分には取り柄がないと言った。
だが自分は知っている。彼女にはいつだって、強い芯があったことを。
迷いながら、恐れながら――それでも己のやるべきことを見つけるための行動をやめなかった。彼女はいつだって……強かった。
魔物に取り憑かれた彼女がしたことは、魔物を自分の内の中で倒すこと。
自分以外の被害者を出さないこと。
ほら――
ヴァイスはゆっくり禊ぎの水から出るために動きながら、ただひたすらアルテナを思う。
(あなたのしていることは、俺たちがしてきたことと大差ない)
……あなたは、十分に英雄だ、アルテナ。
「ヴァイス! 大丈夫……!?」
禊ぎの水から上がると、カイが剣と護符を抱えたまま声をかけてきた。
それに片手を振って応えると、ヴァイスは重くなっていく喉で何とか声を出した。
「あとは頼む、ヨーハン……お前なら、魔物を体内に封じ込めておく方法も知っているだろう」
「……分かりました」
ヨーハンはうなずいた。ヴァイスはようやく、この旧知の友人へと笑みを向けた。
「……信用しているぞ、ヨーハン」
ヨーハンが何と返事をしたのか、それは覚えていない。
薄れ行く意識の中で、ヴァイスは思った。どうか、アルテナ――
(俺は……生き延びる。きっと魔物をこの身の中で倒す。だからどうか……もう一度、あなたに)
元気になったあなたに会えるように。
星の神よ、どうか――
あなたの託宣を、偽りにしないでくれ。どうか。
*
魔物憑きとなったヴァイスはすぐさま彼の屋敷へと運び込まれた。そこが一番、人の少なくて済む場所だったのだ。
アルテナはアルテナの部屋に寝かせ、治療師クラリスがその看病にあたる。カイもそちらについた。
魔物憑きとなったヴァイスには治癒魔法が効かない。彼の回復は、彼自身の体力に任せるしかない。
ヨーハンが――
約束通り、魔物をヴァイスの体に封じておくための処置を行った。まじないのためのタリスマンをヴァイスの首にかけ、調合した薬を意識のない彼の口にそっと含ませる。
「これからどうしたらいいんだヨーハン。まさかヴァイスに、気力で魔物を倒せというのか?」
アレスが苛立った声で友人に声をかける。
ヨーハンは首を振った。
「あとは……アルテナ様次第です」
「アルテナが?」
「アルテナ様に、ある試練を受けていただかなくては」
「―――」
これ以上アルテナに無理難題を言うのかと、責めることはとうていできなかった。あのへらへらしたヨーハンが、沈痛な、しかし真剣な顔でそう言ったから。
部屋に沈黙が落ちた。ときどき聞こえるヴァイスのうめき声だけが、音だった。しんとした空間だった。
やがて――
「アルテナ様がお目覚めになりました!」
アルテナの部屋からカイが報告に来る――
アレスはヨーハンを見る。ヨーハンは、決然とした目でうなずいた。
ヴァイスからは後ろ姿しか見えなかった。水に胸元まで浸かっている。体の周囲の水が、しゅうしゅうと煙を上げている。
大人しく祈りを捧げているわけではない。アルテナは体を前に折り、まるで胸をかきむしっているかのようにうめき声をあげていた。時おり背をそらし、天井に向かって悲鳴を上げる。かと思えば意を決したように頭まで禊ぎの水に浸かる。
水が激しく跳ねる音と、それに混じる苦しげな声がヴァイスの耳に届く。禊ぎの水に赤い色が混じりだしていた。――全裸のその体を、自らの手で傷つけているのだ。
明らかに、常人が禊ぎを受けている状態ではなかった。
「アルテナ……!」
修道長が悲鳴を上げる。両手で口をおさえ、悲痛な顔で。
「意識があるんだ」
カイが息を呑むような声でそう言った。「魔物を、自力で倒そうとしているんだ、おねえさん」
しかしそのために苦しんでいる。魔物に聖水をかけると苦しむように、彼女は今、苦しんでいる。
ヨーハンが焦った声でヴァイスの腕に手をかけた。
「魔物をはがさないままこれを続けていたら危険です! 魔物が死ぬと同時に彼女も――!」
「アルテナ!」
ヴァイスは腰に腰に佩いていた剣を外し、アレスに押しつけた。
身につけていた護符の類もすべて、邪魔だと判断し外した。そして――
「邪魔をするなよ、お前たち」
まっすぐに禊ぎの水へと歩き出した。
「ヴァイス! 何を!」
「黙って見ていろ!」
靴を脱ぎ捨てる。そして、服のまま水の中へとざぶりと飛び込む。
水はヴァイスの腹ぐらいまでの高さがあった。
水の中の動きづらさなど意に介さず、ヴァイスはアルテナのところへ到達する。
「アルテナ」
呼ぶと、ぴくりと反応があった。しかし振り向くことなく、彼女はざぶんと頭まで禊ぎの水へと浸かる。
赤い血の色の水が揺れる。彼女の苦しみの証。
(魔物に抗っている――)
「アルテナ」
彼女の頭が上がってきたところで、ヴァイスはアルテナを掴まえた。背後から、抱きしめるように。
「―――!」
反応がある。あ……と枯れた声が彼女の口から漏れる。
そして、唐突に猛然と暴れ出した。
「放せ! 放して! お願い放して……!」
「なぜ逃げる? 俺はあなたを助けにきたんだ、アルテナ」
「放せ! 放して……!」
魔物として叫んでいるのではない。アルテナ自身の声が混ざっているように思えた。
彼女の意識が残っているのなら、なぜヴァイスから逃げようとする?
ヴァイスはアルテナの行動をつぶさに思い返し、理由をさぐる。
そう……
最初に様子がおかしくなったころ――彼女はヴァイスの首をしめようとしたことがある。
(そうか)
おそらく彼女はヴァイスを再び殺そうとすることを恐れているのだ。
そう思うと、どうしようもないほど愛おしさがこみあげた。こんな状況になってさえ、彼女は他人を傷つけることを嫌がる彼女のまま。
「アルテナ」
魔物憑きとなったアルテナの力は生半可ではなかった。だがヴァイスは決して彼女の体を放さなかった。
アルテナの体は予想通りに傷だらけだ。水の中にいるから止血もできない。その意味でも、このまま長くこの場にいさせるのは危険だった。
(――絶対に、助ける)
これは俺のやるべきことだ。この『役目』だけは、誰にも譲れない。
彼女が暴れようとして動くのをいいことに、彼女を後ろからではなく前から抱きしめる。強く。彼女の爪がヴァイスの顔を、首を引っ掻く。おそらく血が流れるほどに深い傷。
だが、痛くなどない。今は彼女のほうがよほど苦しいはずなのだ――
彼女の黒眼に、今は星の光はない。どこまでも沈むような漆黒がその丸い場所にあるのみ。
なぜか唇に、血の流れた後があった。魔物との戦いに勝つために、唇を噛み締めたのかも知れない――
ヴァイスは彼女を強く抱きしめる。
「今、助けるからな」
そうして、ヴァイスは彼女の唇を唇でふさいだ。
「―――!」
いっそう激しい抵抗があった。当たり前だ。ヨーハンの言う通り『ここ』が魔物の弱点であるならば、魔物は今何より命の危険を感じているはず。
何度も唇が外れそうになる。それを、無理やり抱きしめ封じ込めた。
(――魔物憑きをはがすには――)
「ヴァイス様!」
ヨーハンの叫び声が上がる。
唇に、冷たい空気を感じた。アルテナの息じゃない。まったく異質な、触れただけで切れそうな冬の風の冷たさ。
ヴァイスはそれに――
歯で噛みついて――
思い切り引きずり出した。
「………!!!」
アルテナの体がびくびくと跳ねる。彼女が怪我をしないよう力で押さえ込む。そして噛みついた『もの』は放さない。ひたすらに引きずり出す。
憑依型魔物は人間の中を好む。『引き出して』しまえば、本能的に別の体に入り込もうとする。
それでいて、人間の体の外にいる状態では空気のようで攻撃することができない。聖水さえ効かない。あくまで『人間に憑依した状態』でなければ倒せないのだ。
――魔物憑きをはがすには、魔物の憑く対象をうつすしかない――
ゆえに魔物をはがすことよりも、弱点を潰して魔物を消滅させることのほうがよく行われる。
憑依魔物はより清廉で、穢しがいのある存在を望むが、同時により強い存在も望む。そのほうが自分が生きながらえるからだ。
アルテナよりもヴァイスのほうが力あふれる存在なのは間違いない――
ただ。
問題はヴァイスは、魔物が何よりも苦手とする人間だということだった。
――生の明るさを、その身にまとう人間。
だから魔物は必死に抗った。ヴァイスの口から逃げだそうとした。
――逃がすものか。
ヴァイスは奥歯が欠けるかというほどに力をこめて、風のような魔物を噛み締め外へと引っ張り出した。
せっかくの口づけだったというのに、甘さなどかけらもない。ただ暴れる女と、それを抱きしめる男がいるだけ。
ヴァイスは必死だった。アルテナを救うために必死だった。
やがて己の体の中に、冷たい異物が徐々に浸透していくのを感じた。
冷たくて、重い石のような魔物だった。
手足がしびれて、うまく動かなくなっていく。
同時に、その身に触れる聖なる水が燃えるように熱くなった。まるで業火に焼かれるように、それは生半可の熱さではなかった。
アルテナはこんな重みに耐えて自らの足でこの禊ぎの間にたどり着き、そしてこの烈火に焼かれてでも魔物を倒そうとしたのか――
魔物がうつるにつれて、アルテナの抵抗がやんでいく。
ヴァイスの肌をかきむしろうとした指が止まった。ずるりと力が抜けて、彼女の体の横へと落ちる。
――全てがヴァイスの中へうつった。
頃合いをみはからって、ヴァイスはアルテナと向き合う。
黒い瞳と目があった。もう漆黒の闇はそこにはなかった。
ヴァイスを、そのまなこにしっかりと映して。
「……ヴァイス、様……」
かすれた声でそう呼び――
そのまま意識を手放したアルテナの体が、ヴァイスの腕の中から沈み落ちそうになる。
ヴァイスはそれをしっかりと抱き留めた。
左手で全裸のアルテナを抱きかかえ、右手を挙げて合図をすると、アレスがヴァイスの剣その他もろもろをカイに押しつけ駆けてきた。禊ぎの水の中へと飛び込むと、ヴァイスたちのところへやってくる。
「……アルテナを、頼む……」
「ヴァイス!」
アルテナの体をアレスに渡したヴァイスは、心から安心して目を閉じた。
己の体の中で魔物が暴れているのが分かる。周囲の禊ぎの水から、しゅうしゅうと煙が上がる音がする。
「ヴァイス! お前も水からあがらないと……!」
アレスの焦りに、ヴァイスは目を開け、にやりと笑った。
「俺が魔物に乗っ取られたら、お前たちじゃ勝てないかもな?」
「……っ」
「……冗談だ。絶対に押さえ込む。アルテナがやってみせたことだ……俺もやってみせる」
アルテナは魔物を取り憑かせたまま自分の意思で動いていた。
だったら、自分も。
しゅうしゅうとあがる煙を漫然と眺め、体中の痛みをたしかめ、体を燃やすような聖なる水の熱さをたしかめ、ああこれが愛しい人が抱えていた苦しみかと感慨深く思う。
(……アルテナ。よく頑張った)
アレスがアルテナを抱いて先に禊ぎの水からあがろうとしている。
それを見送りながら、ヴァイスはアルテナのことを思う。
――彼女はよく、自分には取り柄がないと言った。
だが自分は知っている。彼女にはいつだって、強い芯があったことを。
迷いながら、恐れながら――それでも己のやるべきことを見つけるための行動をやめなかった。彼女はいつだって……強かった。
魔物に取り憑かれた彼女がしたことは、魔物を自分の内の中で倒すこと。
自分以外の被害者を出さないこと。
ほら――
ヴァイスはゆっくり禊ぎの水から出るために動きながら、ただひたすらアルテナを思う。
(あなたのしていることは、俺たちがしてきたことと大差ない)
……あなたは、十分に英雄だ、アルテナ。
「ヴァイス! 大丈夫……!?」
禊ぎの水から上がると、カイが剣と護符を抱えたまま声をかけてきた。
それに片手を振って応えると、ヴァイスは重くなっていく喉で何とか声を出した。
「あとは頼む、ヨーハン……お前なら、魔物を体内に封じ込めておく方法も知っているだろう」
「……分かりました」
ヨーハンはうなずいた。ヴァイスはようやく、この旧知の友人へと笑みを向けた。
「……信用しているぞ、ヨーハン」
ヨーハンが何と返事をしたのか、それは覚えていない。
薄れ行く意識の中で、ヴァイスは思った。どうか、アルテナ――
(俺は……生き延びる。きっと魔物をこの身の中で倒す。だからどうか……もう一度、あなたに)
元気になったあなたに会えるように。
星の神よ、どうか――
あなたの託宣を、偽りにしないでくれ。どうか。
*
魔物憑きとなったヴァイスはすぐさま彼の屋敷へと運び込まれた。そこが一番、人の少なくて済む場所だったのだ。
アルテナはアルテナの部屋に寝かせ、治療師クラリスがその看病にあたる。カイもそちらについた。
魔物憑きとなったヴァイスには治癒魔法が効かない。彼の回復は、彼自身の体力に任せるしかない。
ヨーハンが――
約束通り、魔物をヴァイスの体に封じておくための処置を行った。まじないのためのタリスマンをヴァイスの首にかけ、調合した薬を意識のない彼の口にそっと含ませる。
「これからどうしたらいいんだヨーハン。まさかヴァイスに、気力で魔物を倒せというのか?」
アレスが苛立った声で友人に声をかける。
ヨーハンは首を振った。
「あとは……アルテナ様次第です」
「アルテナが?」
「アルテナ様に、ある試練を受けていただかなくては」
「―――」
これ以上アルテナに無理難題を言うのかと、責めることはとうていできなかった。あのへらへらしたヨーハンが、沈痛な、しかし真剣な顔でそう言ったから。
部屋に沈黙が落ちた。ときどき聞こえるヴァイスのうめき声だけが、音だった。しんとした空間だった。
やがて――
「アルテナ様がお目覚めになりました!」
アルテナの部屋からカイが報告に来る――
アレスはヨーハンを見る。ヨーハンは、決然とした目でうなずいた。
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