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四章:大人になったラスと真実を知った私

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 タリムの民に『結婚式』や『婚姻届』という概念はなく、番のキュリアを受け入れた時点で婚姻は成立する。
 実際行ってもいまいち実感は湧かないが、ラスは違うようだ。

「ミカがやっとオレのつがいになった……」

 彼は両肘をついて上半身を起こすと、ぐったりと伏せたままの私を愛しそうに見下ろし、しみじみ呟いた。
 小刻みに揺れる翼が、彼の歓喜をあらわしている。

「これで、私はラスの奥さん?」
「ああ。他の奴らにもすぐに分かるよ、俺とミカがお互いのものになったってこと」
「そうなんだ。……なんだかくすぐったいね」

 ふふ、と笑った私の頬に、ラスは優しく口づけた。

「俺はすごく誇らしいよ。……こんなに世界が変わるなんて、思わなかった。今までだってミカのこと大好きだったけど、今はなんていうか……魂の半身? 分かんない、上手く言えないけど、一瞬だって離れていたくない」

 ストレートな愛情表現に胸が熱くなる。
 泣きそうになった私は、わざと軽口を叩いた。

「そんなに違うんだ。キュリアパワー、恐るべしだね」
「……もしかして、オレだけ? ミカは何も変わってない?」

 ラスが瞳を不安に揺らして、小声で尋ねる。
 庇護欲をそそらずにはおかない表情に、たまらなくなった。

「そんなわけない。……私ね、今まで誰の事も本当に好きになったことなかった。ラスだけだよ。ラスになら、裏切られたっていい。きっとそうされるだけの理由が自分にあったんだなって思えるから」
「俺がミカを裏切るわけない!」

 心外だと言わんばかりに即答したラスに、手を伸ばす。
 分かってる、と伝えたくて柔らかな髪を手で梳くと、ラスは気持ちよさそうに目を細めた。

「……最初に会った時も、ミカはこうやってオレの髪を撫でたんだ。覚えてる?」
「覚えてるよ。ラスは飴をくれたよね? 一生懸命泣いてる私を慰めてくれて、ほんと可愛いかったなあ」

 懐かしく思い出しながらそのまま髪を梳いていると、ラスは私の手を取り、自分の引き締まった身体に導いた。

「今は? 今もオレは可愛い弟?」

 甘い低音に艶が混じる。
 
「……分かってる癖に」
「もっと分からせて」

 ラスは囁き、私の全てを再び欲した。


 どれくらい時間が経っただろう。流石にお腹が空いてきた。
 全身の気怠さに顔を顰めながら身を起こす。
 ラスは先に着替えを済ませ、私を濡れた布で丁寧に清めてくれた。恥ずかしいから自分でやる、と主張したのだが「何を今さら」と鼻で笑われた。そうだけど!

 ラスは私を抱き上げ、居間へと移動する。
 ソファーの上に降ろしてもらった私は、微かに聞こえる雨音に耳を澄ませた。
 あんなに苦手だった雨音にも、心はもう沈まない。
 父母の笑い声やあの子の歌を、今はただ懐かしく思い出せる。
 ラスとの幸せな記憶が、雨と共に刻まれた悲しみを上書きしたのかもしれない。

「ミカ、何食べたい?」
「ん~、がっつりお腹にたまるもの食べたいな、お肉系とか。私も手伝うよ」
「いいって。身体、まだ辛いだろ? 作ってくるから、待ってて」

 ラスはにこりと笑って、鼻歌を歌いながら台所に向かっていく。
 立派な翼はさっきから小刻みに揺れっぱなしだ。

 キュリアがどの程度私を守るのか、分からない。
 でも可能性がゼロじゃなくなったことが、本当に嬉しい。
 もしかしたら、これからもラスと一緒に生きていられるかも――。

 新たに開けた未来を想像し、口元を緩ませていた私を、突然激しい痛みが刺し貫いた。

「ぐぅ……っ、……!!」

 内臓がひっくり返されるような激痛にたまらず身をおると、磨かれた床に鮮血が飛び散る。

 全身が炎に炙られるように熱い。
 床が汚れてしまった。早く拭かなきゃ。
 頭ではそう思うのに、身体は耐えがたい痛みに悶え、床に倒れ込んだ。

「――ミカ? どうした?」

 ラスの声が霞の向こうから聞こえる。
 遅れて、カラン、と何かが落ちる音がした。

「……っ!? ミカ……!? ミカッ!!」

 ラスのサンダルが視界の隅にぼやけて映る。
 大丈夫だよ。泣かないで。
 そう言いたいのに、唇が上手く動かない。

「うそだろっ、こんなのイヤだ! ミカ、ミカ……ッ!! ――っうああああああああ!!!!」

 ラスの絶叫はあっという間に遠ざかり、世界は無音になった。私の耳はもう、何の音も拾わない。
 誰かが私を抱き締めている。きっと、ラスだ。
 ボタボタ、と大粒の涙が頬に落ちてくる。
 彼の涙を拭おうと、気力を振り絞って右手を持ち上げた私は、そこで初めて手の甲に浮かぶ光と複雑な呪に気づいた。
 白い光には見覚えがある。ラスが羽化した時に放っていた光だ。複雑な呪は、ユーグが使う魔法のスペルによく似ていた。多分だけど、タリムの民であるラスのキュリアと、私の中に残っているユーグの魔法の残滓がぶつかり合い、全身を食い荒らしている。

 この世界の神様は、本当に厳しい。
 相反する二つの力はとても強力で、私の身体は今にもバラバラに千切れそうだ。
 薄れゆく意識の中、残していくラスだけが気がかりだった。

 
 ◇◇◇


 その後の大騒ぎは、後からユーグに聞かされた。
 ラスはすぐさま自宅に閉じ籠っているユーグを無理やり引きずり出し、ここまで連れてきたんだそうだ。

「ミカを助けてくれ、どんなことだってするから、ってラスが大泣きしてて、でも私にも手の施しようがなかったから『これ以上魔法を使えば、私もミカも死ぬと思う』って正直に伝えたんだ。ラスに殺されるかと思ったけど、そしたら分かった、じゃあもう出てけ、って。酷くない? 発情期で只でさえイラついてたのにさ。でもまあ、ミカのことが心配だったから残って、2人で看病してあげたんだよ?」

 雨の残りの日数、私はずっと全身を蛍のように光らせて眠り続けていたらしい。
 ラスは私から頑として離れようとしなかったので、食事や着替えの世話はユーグが一人でやったようだ。
 ベネッサさんとダンさんは、ユーグが打ち上げた魔法の緊急信号を見て、文字通り飛んで帰ってきた。
 錯乱して私を誰にも見せようとしないラスを、『これが最期の別れになるかもしれない、きちんと立ち会わせてあげるべきだ』とユーグが懸命に説得したのだという。

 雨が終わり、『晴れ』がやってきた日の朝、私の身体を包んでいた光と呪はようやく消えた。
 『雨をやり過ごせたら、助かる可能性がある』とユーグが見立てた結果、家族みんなが一睡もせずに夜をまたぐ羽目になったようだ。
 
 明るい日差しに目を開くと、ベッドを取り囲むように私を見下ろしていた全員が――ただ一人を除いて、一斉に歓喜の声を上げたので、鼓膜がどうにかなるかと思った。
 ダンさんとユーグは抱き合ってぴょんぴょん飛び跳ねているし、ベネッサさんは両目をエプロンの裾で覆って泣いている。
 ラスだけが無言のままだった。彼の表情は、凍りついたように動かない。

「おは……よ。――ラス?」

 どうしたの? 怖い顔して。

 そう尋ねようとした瞬間、ラスの瞳からぶわりと涙が溢れ始めた。
 三人は一斉に動きを止め、そっと部屋を出ていく。
 ラスは子供のようにしゃくり上げながら、私のベッドの端に突っ伏した。

「よかった……ミカ、よかった……」

 途切れ途切れに漏れる声に、改めて状況を思い出す。

「ああ……私、倒れたんだっけ」

 何とか生き延びることが出来たらしい、ということが分かるまで数分かかる。
 まるで悪いものが全部出て行ったかのように、全身が軽かった。

「のど、からからで変な声」

 へへ、と笑った私を見て、ラスは弾かれたように立ち上がった。

「水持ってくる! すぐ戻ってくるから、ほんとにすぐだから……頼む、もう俺を置いて行かないで」

 言い終えて踵を返そうとした瞬間、ラスの体躯がふらりとかしぐ。

「ラス!?」

 私の悲鳴を聞き付け、外で待機していたらしいダンさんが部屋に入ってきた。ダンさんはベッド脇にしゃがみこんだラスを見つけ、はあ、と溜息を吐く。

「ほら、だから言っただろう? 睡眠を取らないと、ミカが起きた時に心配するって。ミカの看病は母さんに任せて、いったん休みなさい」

 ダンさんは小言を言いながら、ラスに手を貸して立ち上がらせた。
 睡眠を取ってない……?
 私が倒れたのは、雨の15日だった。
 今は晴れの1日だから……え? まさかそんなに長く、寝てないの!?
 ラスがすっかり弱っているいることに、私は激しく動揺した。
 
 それなのに身体を起こそうとすると、長い間寝ていたせいか眩暈に襲われてしまった。

「あ……」
「ミカ!!」

 ラスがダンさんの制止を振り切って、私のベッド脇に両膝をつく。
 それから私の背を支え、再び横たわらせた。

「だめだよ、まだ寝てないと。すぐ飲み物持ってくるから、じっとしていて」

 自分だってよれよれの癖にそんなことを言う。
 血色の悪い顔を咎めるように見つめると、彼は何ともない、といわんばかりに微笑んでみせた。

「ラスが心配なの。お願いだから無理しないで、寝て」
「今は嫌だ。ミカから離れたくない」

 頑固に言い張るラスを見て、ダンさんは額を押さえた。

「はあ……。番になったばかりの夫婦者には全く手が付けられないっていうけど、ホントだな。……おーい、ユーグ! ラスのベッド、ここまで運ぶの手伝ってくれ。ベネはミカの飲み物を持ってきてくれないか?」

 ダンさんの指示でユーグとベネッサさんが動き始め、私のベッドの隣にラスのベッドが並べられた。二つのベッドがぴったりとくっつけられたのを見届けたラスは、安堵したようにうつ伏せに倒れ込む。
 それから数秒も経たないうちに、ラスは私の右手を握りしめたまま寝息を立て始めた。

「しょうがない子ね。それじゃ、ミカが動けないじゃない」

 ベネッサさんが呆れたように言い、彼の手を無理やり剥そうとしたので、私は首を振ってそれを止めた。

「いいの。私も安心するから、このままで」

 ラスと結婚したんだから、ベネッサさんは私の義母になった、ってことだよね。くすぐったい気持ちと幸せな気持ちで胸がいっぱいになる。
 私は思い切って、口を開いた。

「……それより、そのスープもらってもいい? 母さん。左手でもスプーンくらい使えると思うから」

 母さん、と私に呼ばれたベネッサさんは、大きく目を見開き、すでに真っ赤に充血していた目から再び涙を迸らせた。

「もちろんよ、ミカ。なんなら、母さんが食べさせてあげますからね」

 大泣きしながらスープ皿を差し出すベネッサさんの指が震えるものだから、私にかけられてた毛布に大きな染みが出来た。私の大事なもう一人の母さんは、かなりの感激屋だ。
 スープを食べ終えた頃、ダンさんもやって来て、大きな体をもじもじさせる。
 私はくすくす笑って、首を傾げた。

「なあに? 父さん。私なら、もう大丈夫よ」
「うん。そうだな。もう大丈夫に決まってる。何も心配いらないよ、ミカ。これからだって、私達がついてる」

 ダンさんは頼もしく請け負ってくれたが、涙声なのでいまいち締まらない。
 そうこうしているうちに、ユーグもやってきた。
 まるで自分の順番だというように、私をじっと見る。
 ……もしかして、お兄ちゃんと呼ばれたい、とか?
 いや、それはない。それはきつい。
 
「色々ありがとう、ユーグ」

 座ったまま、深々と頭を下げる。

「そんな他人行儀にしないでよ。私のこともおに――」
「無理ですね」
「あ、はい」

 ユーグはがっかりしたように背中を丸め、ちぇ、とぼやいた。
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