シル死

紗雪

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存在

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「これって…どういうこと…?」

 ふと気がつくと俺はズレていた。いつもの狭いワンルームのアパート。そこに敷かれた年季の入った薄っぺらい布団と、その周りに手の届くように散りばめられたスマホやテレビのリモコン、ゲーム機。ここまではいつも通りの光景だ。何年も変わらない光景にどこか安心していた。

 しかし、そこから起き上がると身体がついてこなかった。いや、起き上がっているのだろうか。目線だけは座っている位置にあるのだ。横に視線を落とすと俺の身体が落ちている。なぜ自分の身体を見下ろしている?この状況は全く飲み込めないが、不思議と焦る気持ちは全く無い。そのまましばらく俺は自分の身体を眺めていた。20代前半らしい体格。最近少し太ってきたことを焦っていた。ふと自分の顔がある位置を見る。なぜ気が付かなかったのだろう。そこにあるはずの顔にはモザイクのような靄がかかっており見えなくなっていた。

 「あれ…俺ってどんな顔してたっけ」

 20年以上ほぼ毎日見てきた顔が思い出せない。その時初めて分かった。俺は死んだのだ。

 「その通りだよ。やっと分かったかい?」

 死を自覚した時、急に目の前に黒い光が現れた。
 …黒い光って何だ?光って明るいもんだろ?

 「そこら辺はまあ納得しておいてよ。そろそろ本題に入らせてもらっていいかい?」

 その光は気さくに話しかけてくる。ただ今は忙しいから後にしてほしい。この状況を飲み込むのが結構大変なんだ。とりあえずなんで死んでるか思い出さないといけないんだよ。

 「散々待ったんだからそろそろいいだろ?」

 さっきからなぜこの光は俺の考えていることが分かる?不思議存在だからって理由だけで納得していいのか?

 「それで納得してもらってもいいけど…君、もう話せないだろ?」

 光にそう言われて初めて気づいた。声が出ない。声が出ないというか、声を出すという行為を思い出すことが出来なかった。俺はどうやって話していた?どうやって声帯を震わせていた?なんで……。

 「そういうことだからさ。君は思うだけでいいよ。もう意思の疎通はそれでしかできないからさ。」

 そう言うと光は大きく一つ瞬いた。思考の深みに嵌っていた俺は驚いて光を見る。

 「じゃあ改めて…初めまして。僕は死の観察者です。もう分かってると思うけどあなたは今死に向かっています。その死の過程を観察するために来たんだよ。」

 とりあえず納得するしかないんだろう。全て受け入れた上で一つ引っかかることがある。こいつは今死に向かっていると言っていた。なら俺はまだ死んでいないのか?

 「まだ完全に死んだって言えないだけだね。君は今生きることを忘れているんだ。生きることを忘れた時が本当の死だよ。」

 生きることを忘れる。つまり俺が自分の顔を思い出せなかったり、話すことができなくなっているのはそういうことなのだろうか。

 だとするとそこに転がっている肉体が動かなくなることは死が始まっただけで本当の死ではないのか。例えるならば俺は今2回目の生を迎えたようなものか。まさに死に向かって死に続けているのだ。

 「君、面白いこと言うね。今まで色んな人の死を見てきたけど、この状況でそういう発想する人は初めてだよ。言い得て妙だけど、確かにそれは間違っていないのかもしれない。」

 光からのお墨付きだ。悪い気はしないな。特にやることも無いので考えることに没頭する。

 じゃあ本当の死とは一体なんなのだろうか。生には死という明確な終わりが最初から用意されていた。じゃあ死には?一体何を目指して死に続ければいい?最期には何が待っている?

 この時、俺は死を初めて怖いと思った。今まではただの終わりだと思っていた。それこそテレビを消すようなものだろうと。その瞬間を以て俺という人間は終わるのだと。しかし、それは違うのでは?だんだんと俺は全てを忘れていくのだろう。最期には何も考えることができなくなるのだろうか。自分が何者かも忘れ、考えることも許されず、そこで存在が終わる保証も無く。なんて凄惨なんだ。

 怖い。確かにとても怖い。しかし、明確な未知に今はもう亡き肉体が歓喜に震えたような感覚を覚えた。

「本当に面白い人間だね…。だけどそろそろおしまいだよ。君は死ぬ」

 え、もう?
思ってたより早いんだな。そう考えた瞬間身体から力が抜けていくような感覚を覚える。身体がぼやけていく。これが死か。終わりなのか。終わりって何だっけ。僕は何を考えていた?考えるって何?今何してたっけ?ここはどこ?これは何?

 あ、死にたくないな。








その部屋には乱雑に敷かれた布団と周りに散らばるありとあらゆるもの。窓からは光が射し込んできていた。その光景を見ながら黒い光はぽつりとつぶやく。

 「君は死に恐怖を感じてしまったんだね。呑まれてしまった時が終わる時だ。人間なんて所詮こんなもんか。本当にくだらない生き物だな。」

 全てが黒に染まった。
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