夢宵いの詩~勝小吉伝

あばた文士

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小吉の家出旅(六)~小吉・伊勢神宮に到達する

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 小吉は炎暑の中尾張へ入った。夢酔独言によると「詳しい場所は忘れたが、ある河原の土橋の下、大きな横穴の中で何日か寝ていた」とある。相変わらず物乞い同然の有様であった。
「おい起きろ! ここは俺様の場所だ。勝手に入ってもらっては困る」
 周辺を縄張りとする物乞いが、小吉を起こそうとした。しかし小吉はピクリとも動かない。
「おいみんな来てくれ! すごい熱だ!」
 すぐに物乞い達が集まってきた。
「大丈夫か?」
「命に別状がなければよいが」
 小吉はかすかに目を開いた。太陽が異様にまぶしく感じられた。もう何日も食べていなかった。
「べらぼうめ! 死んでたまるかってんだ!」
 小吉は、なんとか気力を取り戻そうとした。しかし体がいうことをきかない。意識が遠のいていく……。

 次に目を覚ました時、小吉は布団に寝かされていた。薬草の香りがした。どうやら病院のようである。物乞いたちが、重病の小吉を連れてきたのである。
「お目覚めかな? ずいぶんと熱で苦しんでおられたのですよ。でももう大丈夫。体力が回復するまで、今少し安静が必要です」
 四十ほどの男が薬の調合をしながら言った。坊主頭で帯刀していることから医師であることがわかる。
 今日同様、江戸時代もまた医師の社会的地位は高かった。名字帯刀の他にも、上級武士以外は許されない籠に乗ることも許され、他にも様々な特権が与えられていた。
「命を助けてもらって感謝の言葉もねえが、俺はこのとおりの身の上だ。すまねえが払う銭も持たねえ」
「いやいや構いません。誰であれ人の命を救うのが我等の務め。それよりこの先も野宿を続けたのでは、またいつ病に倒れるとも限らない。伊勢に行けば、私の知り合いで龍大夫という御師がいる。その者のところに行って、江戸品川宿の青物屋・大坂屋よりぬけ参りに訪れたが、しばしの間逗留したいと申すがよろしかろう」
 御師というのは、特定の寺社に所属して社寺への参詣者を案内し、参拝・宿泊などの世話をする者のことである。祈祷師に近い存在といってよい。
「何から何まで、まことに何と御礼申したらよいことか」
 小吉は丁重に礼をいった。

 小吉は数日の後、ようやく快癒して医師の元をはなれた。ところがその小吉を再び不幸が襲う。しばし歩いたところで、突如として屈強な男たちに襲撃され、身柄をいずこかへ拉致されてしまうのである。
 その周辺を根城とする盗人たちだった。医師の邸宅を襲撃する計画を練っており、小吉を内部の事情に詳しいと見てさらったのである。
 小吉は土蔵に押し込められ、屋敷の内部のことを聞かれた。しかし命を助けてもらった恩があるといい、一言も喋らない。そのため縄で縛られ、棒で叩かれたが口を割らなかった。
「仕方ねえな。喋らないというなら用はねえ。おめえらこの物乞いを、さっさと川にでも捨ててきな」
 頭らしい、眼光の鋭い五十ほどの男が冷たくいいはなった。

 その夜のことである。四、五名の盗賊達が、縄で縛られ気を失っている小吉をつれて川の近くまでやってきた。小吉を渡し船に乗せようとした時のことだった。
「何してるのあなた達」
 盗賊達が振り返ると、そこに琵琶を手にした女が立っていた。
「うるせえ、てめえの知ったことか!」
 と、盗賊達の一人が声を荒げた。
「さてはそいつを川に沈めるつもりだね。どうだろう私と取引きしないかい。私がこれから琵琶を弾く。お前達が琵琶の音に聞き惚れたら、そいつを私に引き渡す」
「この女! 何をぬかしやがる!」
 盗賊達の一人が剣に手をかけた。しかし一番の年長者らしい男が、その動きを制した。
「面白そうだな。琵琶を弾いてみろ。おめえさん名をなんという」
 どうやら女の容色に興味を持ったようだった。女は久子と答えた。
 
 やがて琵琶の演奏が始まった。久子の琵琶は実に巧みで、心に響くものだった。盗賊達は、小吉のことなど忘れておおいに盛り上がった。いつの間にか酒もふるまわれ、盗賊達がしたたかに泥酔した頃合いのことだった。
「悪いが死んでもらうよ」
 突如として久子は懐から匕首を取り出し、盗賊達のうち一人に首から肩にかけて深手を負わせた。
「何をしやがるこの野郎!」
 盗賊達の中でも一番体格のよい男が、刀をぬこうとしたが、久子はその余裕さえ与えず、男は鮮血とともにその場に倒れた。
 宴席はたちまち阿鼻叫喚の修羅場と化した。結局、盗賊達は皆殺しにされてしまった。
「まったく世話のやけること。私が助けてあげられるのはここまでだ。いつかまた会えるといいね」
 そういって久子は小吉の縄をほどくと、いずこかへ姿を消した。
 こうして小吉は、何が何やらわからぬままに、かろうじて水死体にならずにすんだ。後に小吉と久子は、不幸な形で再会するのである。

 

(伊勢神宮 宇治橋・大鳥居)


(二)
 
 小吉はついに伊勢神宮に到達した。
 皇室の祖神たる天照大神を祭る伊勢神宮は、大きく分けると内宮と外宮からなる。内宮はもちろん天照大神を祭り、外宮は食物を司る神である豊受大神を祭っている。
 内宮、外宮あわせれば五四五〇ヘクタールという広大な神域となり、ちょうど現在の世田谷区の面積に匹敵する。いわば神社そのものが一個の巨大な都市なのである。
 物乞い同然の体である小吉は、己のような者がこのような場所に赴いてよいものかと、半ば恐れおののきながら歩を進める。

 伊勢神宮内宮へ赴くには、まず五十鈴川にかかる宇治橋を渡る。しばし玉砂利の敷かれた参道を進み、やがて火除橋を渡ると第一鳥居が見えてくる。
 さらにしばらく進むと第二鳥居がある。そこをくぐると神楽殿、五丈殿、御酒殿と見えてきて、本殿の前に立つのが御贄調舎である。ここは内宮で重要な三節祭のおり、鮑を調理する場所である。
 その先に我が国の最高神たる天照大神を祭る本殿があり、弥生時代の高床式倉庫を原型とした神明造でできていた。
「あれが本殿かよ? 何百年も前に建造されたにしちゃあ、建物自体それほどぼろくもねえな」
 もちろん小吉は、式年遷宮のことなど知るよしもなかった。
 そこに至るまでは、とにかく人、人、人、蒸し暑さの中、めまいがするほどの人の数である。以前も書いたが江戸時代、多い年には日本人の六人に一人が伊勢神宮を参拝したといわれる。この伊勢ブームを作ったのが御師であった。

 小吉は参拝に先立ち、すでに以前、例の医師にいわれたとおり御師・龍大夫の屋敷をたずねていた。御師・龍大夫は小吉を屋敷へ通し、六畳ばかりの部屋を与え風呂の世話までした。
 この日は小吉が参拝から戻ると、自ら包丁をさばき日間賀島でとれた新鮮なたこを調理した。
 まず目と目の間に包丁を入れ、東部にある筋をとり、えらを外す。手慣れたもので、たこはたちまち臓器がむきだしとなったが、それでもまだ足は動いていた。食べてみると実に美味である。磯の香りがした。
 食事が終わると、長旅の疲れと、参拝の疲れにより小吉はすぐに床についた……。
 
 ようやく眼をさます頃には、すでに丑の刻(午前二時)になっていた。小吉は何かに導かれるように外へ出た。 
 何故か薄紫色にも見える月の光が、川の流れに反射している。かすかに小雨が降り、周囲の木々の涙のようにも思える。この周辺の木々は、まるで一本一本が精霊でも宿っているかのようである。小吉は己がどういうわけか百年、いや千年もの間眠っていたかのような錯覚を覚えた。

「いかがいたした小吉殿」
 御師の龍大夫が、小吉に気付き声をかけた。
「一つ聞きたいが、この国の帝とはいかなる方であろうか?」
 さすがの龍大夫もしばし沈黙した。
「さあ? 拙者もじかに会ったことはないので、なんともいえません。なれど……」
 龍大夫は、しばし天空の星を見た。
「我等にとり太陽は常に天空にあるものです。なれどこの天体のいずこかの遠い星より見れば、太陽といえど小さな、小さな、一個の点にすぎぬかもしれませぬ。なれどいずこかには必ず存在する。帝という方も、そのような御方なのでしょう」
 もちろんこの時代の人々は、天体や宇宙について詳細な知識はもっていなかった。太陽は、広大な宇宙の中でも絶対の存在なのである。
 小吉は今一度、神宮・正殿の方角をあおぎ見た。まさしくそこは宇宙の中心であり、時が幾度移り変わろうと不変の存在。それを小吉は実感せずにはいられなかった。
 
 


 



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