夢宵いの詩~勝小吉伝

あばた文士

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【壮年編】暁の決闘・直心影流相対す

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 激しい雨が降るしきる中、小吉はどういうわけか吉原からほど近く「見返り柳」の前にいた。
「見返り柳」というのは、これから帰宅の途につく遊客が、名残惜しそうに吉原の方角を振り返ったことが、名前の由来であるそうだ。
「べらぼうめ、この雨じゃ本所まで戻るのは骨が折れるな」
 あいにく傘を持っていない小吉は、思わず愚痴をもらした。その時である。すーっと小吉の方に傘をさしだした者がいた。島田髷に覚えがあった。
「お前はお信! どうしておめえここにいるんだ?」
 小吉は思わず素っ頓狂な声をあげた。しかしお信は答えない。代わりに両の瞳に、深い憂いをたたえていた。
「おい待てよお信! なんとかいったらどうだ」
 信は一言も答えることなく、土手の彼方へ消えていった。

 
 ひと眠りしていた小吉が、ようやく目を覚ましたのは丑の刻(午前一時頃)のことだった。周囲は不気味なほど静かだった。ふと小吉はお信のことを思った。小吉と信は、すでに信が十五になった時、祝言をあげていた。
 なにしろお信は物心つく前に両親を亡くし、小吉だけを頼りに生きていかなければならない運命を、幼くして背負わされたのである。
 それも相手がまっとうな人間ならまだしも、自分のような者が許嫁なんぞと、己のことながら小吉はときおり信が哀れに思えた。そしてこのまま自分が戻らなければ信はどうなるか? それを思うとさしもの小吉も、胸をしめつけられるような思いにかられた。

 
 その時である。何者かが叫ぶ声がした。それは宿の使用人だった。
「二階のお客様、面会にござります」
「何者であろうか? こんな時分に?」
 小吉はいぶかしんだが、扉を開けて姿を現した若い男を見て、思わず驚嘆の声をあげた。
「お前は精一郎ではないか」
 その若い侍の名は男谷精一郎信友といった。小吉とは遠縁にあたり父の平蔵の兄の孫にあたる。そして兄・彦四郎の養子となっていた。小吉とは、共に喧嘩や悪さをしてきた典型的な悪友だった。
 しかし剣の腕は尋常一様ではない。精一郎は文化二年(一八〇五年)八歳のときに本所亀沢町、直心影流剣術十二世の団野源之進(真帆斎)に入門して剣術を習い始めた。さらに、平山行蔵に兵法を師事、他に宝蔵院流槍術、吉田流射術にも熟達していたといわれる。
 後に島田虎之助、大石進と並んで「天保の三剣豪」と謳われ、また「剣聖」ともいわれた傑物であった。年は小吉より四つ上である。


「何しに来た?」
 小吉は横になったまま言った。
「いや何、ちと昔話でもしようと思ってな」
 それからしばし精一郎は、子供の頃のこと、共に吉原に行った時のこと等とりとめもない話を延々とした。小吉はしばし黙って聞いていた。
「俺は戻らないぜ」
 小吉はついに強くいった。
「小吉よ、武士の無断外泊は家名断絶のうえで切腹もありうる。お前が十四で家出した時は、御上も目をつぶってくれた。しかし二度目はそうはいかん」
「どの道もう手遅れだろ」
 小吉はあくびをしながらいった。
「皆が最善をつくしてくれる。お前がこのまま戻らなければ、お前の嫁さんはどうなる?」
 小吉の眉がかすかに動いた。
「お前が戻らなければ、喉を突いて自害するとまで言っているんだぞ」
 小吉はしばし沈黙した。長い沈黙だった。
「よしこうしよう。お前が俺と勝負しろ。俺が負けたら戻ってやってもいいぜ」
 ようやく小吉は口を開いたが、今度は精一郎が沈黙した。
「いいだろう。お前とは一度やってみたいと思っていたところだ。
 精一郎は笑みを浮かべていった。



 翌未明のことである。両者は近くの河原で厳しい冷気がたちこめる中、互いに木刀を持って対峙した。
 両者は血も近く、系図上は叔父・甥の関係にあたるとはいえ、いかにも闘争心の固まりのような顔をした小吉に対し、精一郎は実に端整な顔立ちをしていた。
 しかしお互いに直心影流の剣の達人である。精一郎は上段に、小吉は中段に構えたまま、しばしにらみ合いが続いた。お互い相手に隙を見出すことができず突破口を開けない。ところが小吉に予期せぬ事態がおこった。
 上空の杉の木の枝から、積もった雪が小吉の頭上めがけて降りそそいだのである。小吉の視界を雪がはばんだ。この瞬間を精一郎が見逃すはずがなく、片足を蹴り上げ助走をつけると、凄まじい叫びとともに猛然と小吉めがけて突進する。
 この時、小吉は瞬時、幼い頃に物乞いの小三郎が神業に近い剣技で、松明の炎を消した一瞬を思いだした。凄まじい気迫、殺気とともに、精一郎の前で水柱が上がった。今度は精一郎が、水しぶきで視界を阻まれる番だった。
 次の瞬間には小吉の剛剣が、精一郎の右の肩めがけて降りおろされた。それを精一郎がぎりぎりのところで受け止める。
 小吉は一旦は後方に下がり間隔をとる。そしてそのままじりじりと、精一郎の気に押されるかのように後方に下がった。
「臆したか! 小吉!」
 勝機ありと見て再び精一郎が突進する。ところがこれが罠だった。精一郎は瞬時、足元に違和感を覚えた。路面が凍結しきっており、不覚にもわずかにバランスを崩した。
 所詮、達人同士の戦いは一瞬の隙が勝負を決する。小吉が猛然と突進する。再び右の肩である。今度も間一発で受け止めた精一郎であったが、この時、精一郎の木刀が真っ二つになった。小吉の一撃が見事に精一郎をとらえた。
 がっくりと膝をつく精一郎であったが、この時、小吉の口から思いもかけない言葉がとびだした。
「俺は戻るぜ精一郎よ」
 信じられず精一郎は顔を上げた。 
「どっちに転んでも切腹かもしれんが、一応皆に別れの挨拶くらいはしたい」
 小吉は、かすかに笑みさえ浮かべていった。

 
 こうして江戸に戻った小吉であったが、結局、またしても待っていたのは座敷牢だった。しかも今度は数日程度ではすまなかった。なんと三年もの長きにわたるのである。
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