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走れなくなったアスリート
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剛は中学時代から一流のアスリートであった。自ら鍛え上げた体と、身長は二メートル近くある体格に恵まれた男だった。
陸上部にいた彼は、中学時代から数々の大会で優勝し全国大会でも優勝。その名をとどろかせた。そのほか自分の年齢でも出られるような大会にはすすんで出場し、何度も優勝という名誉を勝ち取ってきた。
そんな剛も高校に上がり、さらに体力も技術も洗練しようと毎日走り込みを行い、休日には何十キロも走っていた。それは川沿いや山道など、様々な場所を様々な環境下で、様々な景色の中走って、楽しみながら自らを鍛え上げていた。
そして彼には目標とするものがあった。それは近々開催される桜マラソンだ。剛の住む地域からは南西にだいぶ遠いが、それでも、桜並木の中走れる、公認のマラソンコースということで出ないわけにはいかないと思っていた。剛はその練習も兼ねて走りこんでいた。
しかし、最近になって、剛は走っているときに異常な感覚に襲われることが多くなっていた。それは、何か、足枷でもつけられているかのような、両足が重い感覚になるのだ。
単なる疲れかと最初は思っていたが、休んでもその感覚は取れないし、心配になって医者に診てもらうこともあったが、それでも何の異常もないといわれるのである。
剛にとって走れなくなるということは人生を奪われることに等しい。しかももうすぐ目標としていたマラソン大会も近い。剛は追い込まれていた。それでも剛は、きっとこれは鍛錬が足りず体が鈍っているせいだと思って、さらに走り込みを続けるのであった。
そうしていくうちに、足枷を付けたような両足の重みは、徐々に確かなものになってゆき、それは足かせほど生ぬるいものではない、何か両足ずつを包み込むように重しが巻かれているようにも似た感覚になってきていた。
悟志のクラスは、花見の話題で持ちきりだった。
どこそこの桜がきれいだとか、こんな花見の穴場があるのだとか、そろそろ散り始めるころだろうから今のうちに一緒に行こうだとか、そういった話題がいたるところから聞こえてきて、悟志は平和なものだなと思っていた。
「お前と同じ名前の川の堤防の桜見に行こうぜ。」
という声も聞こえてくる。
「たしかにあの川の堤防の桜並木は『長堤十里世界一』とも言われていた桜の名所らしいからね。」
隣の席の建は悟志に向かって言った。悟志も実は何度かその川の堤防の桜を見に行ったことがあるが、確かに遠くまで連なる桜並木は見ごたえがある。今年も見に行ってもいいかもなと思っていた。
「お?みんな桜見に行くのか。いいことだなあ!俺も桜見に行くんだぜ。」
巨体の男である剛が、どこまでも轟くような声で入ってきた。建は、
「珍しいね。いつも運動しているイメージだけど。」
と、返した。
「いや、当たってるぜ。さくらマラソンに出るんだ。桜並木の中を走るマラソン大会だから、花見しながら走れる最高のシチュエーションだぜ。」
結局運動するのか。という感じで、建も悟志もやっぱりかという風に反応した。剛はそんな反応も気にせず楽しみだというように笑っていた。
悟志はそんな剛のことを運動バカだと思っていた。最初に悟志が剛を見たときは、身長二メートルもあろうかという巨体で、しかも制服からも浮き出るほどの筋肉。まだこのクラスになって少ししか経っていないが、彼の体育に懸ける思いは現れている。陸上の練習も放課後になると始まり、彼の大声が響き渡るほどである。そして彼がクラス内で話題になったのが、中学の時の大会で優勝したという話だ。なるほど、だからこの高校に入ったのかと悟志は納得した。
きっと運動のことしか考えていない。というか何も考えていないのだろうと悟志は思っていた。しかしそれも才能である。彼の才能はきっとこの先さらに開花するのだろうとも思っていた。だからこそのこの高校であり、今は彼の運動能力を伸ばす時間なのだとも思う。
悟志はそうやって彼のような特異な存在を肯定するのであった。
体育の時間。いつものように剛は「うおおおおおおお!」と言いながら全力で授業を受けている。ほかの教科よりも明らかにいきいきとしている。走ることにも全力、競技にも全力。ほかのクラスから見たら、なんだあいつは。という感じだが、悟志のクラスは彼が凄いアスリートで運動好きであるということが教室内ですでに広まっているため、女子からは「今日も元気だね…」と、若干生暖かい目で見られることもあるが、誰も剛のその様子を何も不思議とは思っていなかった。
彼は、巨体であるが、態度は大きくない。堂々としているが、それは誰からも頼りにされるような雰囲気で、ムードメーカ的存在でもあった。それはその大きな存在感と、雰囲気だけは威圧感があるその様子からは、クラスにとっては既になくてはならない存在でもあった。
彼は良く笑う。それも一つの良い点だ。ただし人を笑うことはしない。彼の笑いはクラスの光でもあり、勢いでもある。
そういう風に、彼は悟志のクラスにおいて信頼される存在となっていた。その様子を悟志も尊敬していた。確かに運動だけのことしか考えていないようにも思えるが、彼は彼なりにクラスを盛り上げようともしている。自分よがりではない、そんな一面もある。
ただしそのいで立ちはもはや高校生とは思えないほどであるので、まるで高校生の中にデカいおっさんが紛れ込んでいるようにも見えた。
体育の授業は学年全体での体育の日もあれば、球技を選択して各々選択した球技で自由に運動するという風であった。今日は全体の体育の日である。ほとんどの人は球技の体育の授業の方が好きだ。自分のやりたいことを自由にできるから。でも剛はどちらでも全力だ。
今日は全体の体育の日である。全体の体育の日は基本短距離走、長距離走など陸上系のことをやる。
何人かで短距離を走る時、悟志は剛と走ることとなった。
「世見津!次だぞ!一緒に行くぞぅ!」
剛は気合十分だ。悟志は特に手を抜くわけではないが、走り込みはそれほど好きじゃない。数人が一斉に走り始めると、剛はすぐさま先頭に立ちそのまま突き放しつつゴールした。悟志は後ろから3番目だ。
「ようし!全力で走ったか⁉何事も全力だぜ!」
運動の授業になると、剛はハイになるのか、熱すぎる。悟志はそんな熱い剛に対して、
「全力出しすぎなんじゃないのか。一回で息が上がってるぞ、アスリートさんよ。」
といった。剛はこれは全力の証、短距離走ってのはそういうもんだ、と、ガハハと笑った。どこまでも運動バカでハッピーな奴だと悟志は思ったが、それが良いところなのだろうとも思った。
放課後、悟志は少し先生に用事があったので残った。学校中で部活動の練習をしている。さて悟志の目的とする先生はどこにいるのかと探しているとき、校庭の端の日陰で巨体が休んでいた。悟志は剛か、と思った。陸上部は休憩中なのか。一人であんな風にいるのは珍しい。全力を出しすぎて疲れ切ったんじゃないのかと悟志は思った。同じクラスになってまだ少ししか経っていないし、せっかく話せるようになった人でもあるから積極的に声でも掛けるかと思い、斜め背後から近づいて行った。しかし、
「ちくしょう…。全然走れねぇじゃんかよ…。どうすりゃあいいんだよ。こんなんじゃ大会も出れねえぞ…、クソ…。」
そう言いながら、剛は頭を抱え始めた。
悟志は驚いた。あのムードメーカの運動バカの剛がここまで悩みを抱え込んでいるのは想像がつかなかったからだ。いったい何があったというのか。もしかして今日の体育の時もいままでもずっと抱え込んでいたのか。
「おい、剛。」
悟志はためらいもなく話しかけた。
剛はびくっとなって振り返った。そして、
「おお、世見津か。どうした。」
といった。悟志は、それはこっちのセリフだといい、剛に何があったのか聞いた。 剛には下手に詮索するよりも、直接聞き出した方が良いと思った。
「いまの、聞こえてたか…。」
「君、声がもともと大きいんだよ。独り言の時ぐらい声量下げた方がいいかもな。で、何があった。」
剛はその質問に自分が今おかれている状況を話した。走ると重しがついたかのようになって走れなくなるのだと。
「そんな状態で体育の時間あんな速く走れたのかよ。」
と、悟志は驚いたが、剛にとってはかなり重大なことのようだ。そういえば、あの時以上に息が上がっていたがそれでか、と悟志は納得した。
医師に診てもらっても身体的な異常はない。全くその原因がわからない。そんな話を聞いて、不思議な現象だと悟志も思ったが、その話だけでは全く見当がつかない。精神的問題が関わっているのではないかとも疑った。
何かもっと変わったことはなかったかと悟志は尋ねた。なんでもいいと。
すると、剛はそういえばと、話し始めた。
「その足の違和感を認識し始めたことからだったと思う。よく不気味な夢を見るようになったんだ。俺が走っていると、いきなり誰かが足を掴んでくる。手で掴んでくる夢を見る。それでどんどん重くなっていって、走れないほどになっていく。そんな夢なんだ。」
と。
悟志は思った。
「それ、なんかに取り憑かれてない?」
剛は一瞬「は?」という顔をしたが、「嘘だろ…。」という反応に徐々に変わっていった。
しかしそれしか考えられるものはない。悟志も剛もお互いがそう思っていた。
悟志は前の事件のこともあるし、この学校で見たこともあるため、そういった類のものは信じる、というか存在すると認識している。でも剛がすんなりそれを受け入れるのは何とも純粋なものであった。
「じゃ、じゃあどうすればいいんだ⁉霊媒師にでも頼むか⁉そうすれば解放されるのか⁉」
剛は今まで見ないほど焦っていた。悟志はまあ落ち着けといった。
「まだそうと決まったわけじゃないが、可能性としてあるだけだ。それに霊的なものなんて君信じるのか?」
「信じるぜ!!」
「そうか…。」
悟志はとりあえず、その違和感が始まったあたりに何か特別なことをしたのではないかということを問いただした。しかし、剛は特に何もやっていないと、毎日ただ走っているだけで、あとは休みの日とかも運動しては飯食って寝てるだけだと言っている。
悟志はすごい人生だなと思いつつ、何かやったわけではないのならば可能性は低いのかとも思いだした。
そして悟志は少し提案をしてみた。
「じゃあ少し走ってみてくれ。」
剛は「なぜだ?」という風だったが、悟志は走っているときにはたから見て何か違和感がないか見てみると言った。剛はわかったと言い、グラウンドの端で走った。
悟志はその様子を見ていたが、特に違和感はなかった。ただやはり剛曰く、何かが張り付いて重しになっているという感覚があるという。それは走れば走るほど鮮明に、そして重くなっていくのだという。
ただ悟志は何となくわかっていた。両足に張り付く感覚と重し。そして足に張り付く手の夢。結局は現実でも何かに掴まれているのだろうと。ただし、現実では張り付く、巻き付く感覚だというので、何かに引きずられるのとはおそらく違う。まとわりつかれているのかもしれない。そう、それなら悟志の能力を使えば何かの心が読み取れるということになるだろう。そしてそうなれば悟志にはその存在が見えることにもなる。正直嫌だった。もし取り憑かれているのだとしたら、怨霊の可能性だってある。怨霊の心を読むのは何とも気が引ける。しかもグロテスクな見た目だったら、それも気が引ける。でも、クラスのムードメーカがこんな状態だと、悟志はクラスの光が欠けるような感じがして嫌だった。
よしわかったと、悟志は言った。どうなるかわからないが、できることはやってみようと。
剛は悟志が何をやるんだというような感じだったが、頼むといった。
悟志は、ほかの人間が視界に入ったら都合が悪いので、剛を壁の前に立たせて、精神統一し、呼吸を整えると、剛の全身を見て心を悟る能力を使った。
すると、剛と合わせて三つの心が流れてきた。
(世見津は何をするつもりなんだ?)
(さみしい、かなしい、もっと走ってるところ見せて、さむい、こわい、がんばって、がんばって。)
(お父さんみたいに走って。もっと見せて。もっと走って。さむい、さむい、さみしい。お兄ちゃん誰。)
その見た目は小学生の男女。女の子の方が小さい。兄妹か。明らかに心が羅列している。人の霊は心が単純で感情を羅列するか、何かにしか向いていないかの両極端だ。そんなにグロテスクな見た目ではなかったのでよかったが、それでも人がするような表情ではない、目が生きていない、悲しみに満ちた表情をしていた。
悟志は考えた。彼らは何がために取りついているのか。そのヒントは彼らの「走ってほしい」と「がんばれ」との心があらわしているのかもしれない。
聞けばわかることではあるかもしれない。しかし、もしこの場で剛の足元を見て「君たちは何者で何があったんだ。どうしてほしいんだ。」と聞くのは、剛から見てその行動はあまりにも不自然なものに見えるだろう。変な奴だと思われる。霊が見えるとも思われる。いやひょっとしたら、能力のことも悟られるかもしれない。あまり人に知られたくない悟志にとっては、この状況をどうするか悩みどころであった。それでも二人の霊の今の心だけでは、何が原因でこうなったのかわからない。
「世見津。どうしたんだ?そんな悩んだ顔して。何かやるんだろ?」
「あ、ああ。」
悟志はどうしようか迷っていた。このまま取りつかれたままだと、きっと状態が悪化する。それに剛自身悩みを解決することができず、おそらくずっと走れないままになってしまうのだろう。
悟志は決心した。
「あのさ、今少し、僕は変なことをすると思うが、変な奴だとは思わないでくれ。」
「あ?ああ。え?なにするんだ?」
剛は少し心配そうにした。
悟志は剛の足元を見て、
「君たちに質問している。小学生だろ。君たちに何があった。どうしてこの男の人に引っ付いているんだ。」
と話した。剛は何やってるんだこいつは、という反応でかなり怯えていた。しかし、何も言わなかった。剛はなんだか理解できなかったが、とにかくじっとしていた。そしてその奇妙な時間を耐えに耐えた。
悟志はというと、彼らの心を読み取っていた。
(お母さんが僕たちを乗せて、車で道路から落ちた。怖かった。痛かった。お母さんは死んじゃった。妹も死んじゃった。このお兄ちゃんが走っていたからお父さんを見たいだなって思って。がんばってほしくて。)
(お父さんが死んじゃってからお母さんがいつもつらそうにしてた。お母さんはやさしかった。大好きだった。お父さんも大好きだった。マラソンで走ってた。走ってるお父さんが大好きだった。お母さんとお兄ちゃんといっしょにおうえんしにいってた。お母さんもそのときはすごくたのしそうだったのに。お父さんは走りに行くって言ってからかえってこなくてそのまま死んじゃった。このお兄ちゃんは走ってるのがかっこよくて、マラソンがんばってほしいから。)
悟志は、やはり兄妹だったか、と思った。そして、兄の方は自分に何が起こったのかを理解していた。どうやら母親の運転する車に妹と一緒に乗っていて、そこから道路の下に落ちたらしい。その霊から流れてくるかすかな記憶の映像には、山道だったようである。後ろの席に乗っていて、横に妹がいる。母親は最後に「ごめん」といったようにも思える。そこから急に車に衝撃が走って崖の下へ落ちていったようだ。衝撃が終わって、前の席は見るに堪えない状況だ。妹の首はあらぬ方向に折れている。そこからは何も残っていない、無であった。兄の方はしばらくして亡くなったのだろう。
妹の方は、自分の身に何が起こったのか理解していない様子だ。事故当時のことを思い出していない。しかし見た目は鬼の方の記憶で見た姿と完全に一緒だ。同一人物の妹とみて間違いない。妹はそれよりも前の、父親と母親の記憶が鮮明に残っているようだ。どうやら彼らの父親は既になくなっているようだ。そして走りに行くと言ってから、事故か事件かに巻き込まれて帰らぬ人となったのだろう。母親はその後、母子家庭で兄妹を育てていったのだろうが、家計の限界、家事と仕事に二人の面倒を見ることへの過労、夫が急にいなくなったことへの喪失感、精神的な限界がきて心中したということなのだろうか。
悟志は何と哀れなことかと思った。
しかし、彼らに同情したとて剛に取りついていることが解決することはない。悟志は、彼らの思い出にフォーカスを当てた。
彼らの父親はマラソン大会に出ていたらしい。それを母親と一緒に応援しに行ったのが思い出だという。彼らは走っている父親が好きだったし、それを応援して楽しそうにしている母親が好きだった。そしてそんな状況が彼らにとっては充実した時間だったのだろう。そしてマラソンというものは彼らにとって家族との思い出だったのだろう。
剛に取りついたのは、剛が走っているその様子が、そんな記憶、時間を思い出したからなのだろうか。
彼らは言っている。「この人に頑張ってほしい」と。きっとこの兄妹はまだ幼いから、走っている人はすべてマラソン選手だと思いこんだのかもしれない。そしてそれは剛に至っては間違っていない。
ならば…。と、悟志は剛の顔を再度見上げていった。
「剛、マラソン大会に出るんだ。そして優勝するんだ。」
剛はこう返した。
「え?どういうことだ。何かわかったのか?それが解決策になるってのか?」
「そうだ。」
剛は珍しく顔をしかめた。そしてこういった。
「まじでいってるのかよ…。ま、まだいるんだろ…?この状態で出るのか。そのうえ優勝しろなんて…。」
「どうした。いつもの強気は。剛らしくないぞ。」
「だってよ…。わかるか、この感覚。走ってるとどんどん重くなって、もうやばいんだよ。」
「それでもだ。僕も応援に行く。やるんだ。」
悟志は真剣だった。剛はそんな悟志の真剣な様子を受け取って、
「わかった。そうするしかないんだな。でも一つ確認させてくれ。世見津には何が分かったんだ。それが聞きたい。」
「もちろん話すつもりだ。これは剛も知っておかなければならない。いや、知ってしまうことで、君はきっと優勝へと突き進むだろう。」
そう言って悟志は剛にすべてを話した。
剛は最初は驚いた様子だった。霊的なことも、悟志のことも。どちら共に驚いた。それでも藁にもすがる思いだった剛はその話を信じた。そしてその哀れな兄妹のためマラソン大会に出て優勝することを決意するのであった。
マラソン大会当日。桜はまだもっていた。
きっとクラスの皆は各々桜を見に行っているのだろう。
そんな中、鉄道で剛と悟志は会場まで赴いていた。
「じゃあ、僕はこのあたりに陣取ってるから。頑張れよ。」
「おう!やるぜ!」
剛はいつものやる気モードになっていた。
そして、その時はきた。選手たちが各々体を動かし、合図とともに、ランナーが一斉に駆け出す。
剛はすぐに先頭に出て、そのまま駆け出して行った。走っていると徐々に重くなってくる。だから初めのまだ軽いうちにできるだけ前に出る作戦なのだろう。
しばらくすると大体の先頭集団ができていた。これがガチ勢の人たちだ。剛もその一人。先頭集団の中でもさらに先を走っていた。
どんどん足が重くなってくる。疲れなんかじゃない。足枷のような感覚から、足全体に巻き付く重しのような感覚になっていく。足全体に何かとんでもなく重いものがまとわりついているような感覚だ。
それでも剛はスピードをゆるむことはせず走り続けた。それはもはや、自分の優勝という名誉のためでも、彼ら兄妹から解放されるためでもなく、兄妹にかっこいいところを見せて、彼らに昔のように楽しい思いをさせてあげようとする思いからだった。
二か所目の折り返し地点に到達しようとしている。距離的に、いつもはこのあたりで休憩して足の不調を嘆いていたが、今日はそうはいかない。走り続けた。先頭集団がほんのわずかずつではあるが距離を縮めてきている。
「うがああああああああああ!」
気合の声を上げ、走り続ける。二か所目の折り返しを過ぎ、後はこのまま道なりに沿って走りぬくだけだ。
足の感覚が今までにないものになっていた。それはもはや、完全に、誰か小さな子供が足に引っ付いて、しがみついているようだ。手で掴まっているのもわかる。体が押し当てられている感覚もわかる。それはもう確かなもので、確かな体重の重さになっていた。
それでも剛は気合の声をあげながら、並大抵では上がらない、前に出ない足を気合で一歩ずつ前に出して走り続けた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお、待ってろよおおおぉぉぉぉ。兄ちゃんが見せてやるからなぁぁぁぁ!!!」
剛はもはや限界を超えている。それでも走り続けた。
後ろは確実に距離を縮めてきている。ほかの選手もこの日のために調整してきた。この日に懸けているのだ。
「剛ぃ!ゆけぃ!あと少しだ!」
悟志の声援が聞こえた。
剛は、
「ぐがああああああああああああ!!!!!」
と、吠えながら走り抜け、そしてゴールが見えてきても、少しも走りも力も気も緩めることなく、走り抜けた。
そして遂に剛が一番にゴールのテープを切った。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
と、叫んだ。その瞬間、
「お兄ちゃん、おめでとう!かっこよかった!」
「お父さんみたいだった!」
と二人分の声がしたと思ったら、一気に足が軽くなった。
剛は、急に足が軽くなってバランスを崩したが、すぐに体勢を立て直して、軽くなった足で十数メートル駆け出した。
重い脚から解き放たれた快感はとんでもないものだった。しかし剛はそれよりも感じ取っていたものがあった。
「これが、成仏ってやつか…。安らかに。」
剛は立ち止まって手を合わせた。
そしてしばらくそうした後に、
「軽い!まだまだ走れそうだぜー!!」
といって、ほかの選手が返ってくるまでそのあたりを走り回った。
ゴールしていく選手は、「なんだあの体力バカは」という目で見ていた。
悟志はゴール付近にやってきて、剛のその様子を見て安心した。
「よくやった。」
悟志と剛は鉄道に乗って帰路についていた。
「それにしても、気を付けないといけないな。ランニングするところも、妙な場所に行くとそこが事後現場とか曰く付きの場所とかあるかもしれないんだからな。」
悟志はそう剛に言った。
「わかってんよ。今回のことでよくわかった。だがよかったじゃねえか。俺が来なかったら成仏できずにずっとあそこにいたってことだろ。俺も人を救えるんだなぁ…。」
「調子のいいやつだぜ。」
そんな会話をして、列車に揺られていた。
それからというもの、剛は足の重みからも、悪夢からも解放されて、いつも以上に明るいポジティブな、そして頼りがいのある性格になり、いつも以上に体育や部活動、日々のランニングなどを楽しむようになったのだ。
陸上部にいた彼は、中学時代から数々の大会で優勝し全国大会でも優勝。その名をとどろかせた。そのほか自分の年齢でも出られるような大会にはすすんで出場し、何度も優勝という名誉を勝ち取ってきた。
そんな剛も高校に上がり、さらに体力も技術も洗練しようと毎日走り込みを行い、休日には何十キロも走っていた。それは川沿いや山道など、様々な場所を様々な環境下で、様々な景色の中走って、楽しみながら自らを鍛え上げていた。
そして彼には目標とするものがあった。それは近々開催される桜マラソンだ。剛の住む地域からは南西にだいぶ遠いが、それでも、桜並木の中走れる、公認のマラソンコースということで出ないわけにはいかないと思っていた。剛はその練習も兼ねて走りこんでいた。
しかし、最近になって、剛は走っているときに異常な感覚に襲われることが多くなっていた。それは、何か、足枷でもつけられているかのような、両足が重い感覚になるのだ。
単なる疲れかと最初は思っていたが、休んでもその感覚は取れないし、心配になって医者に診てもらうこともあったが、それでも何の異常もないといわれるのである。
剛にとって走れなくなるということは人生を奪われることに等しい。しかももうすぐ目標としていたマラソン大会も近い。剛は追い込まれていた。それでも剛は、きっとこれは鍛錬が足りず体が鈍っているせいだと思って、さらに走り込みを続けるのであった。
そうしていくうちに、足枷を付けたような両足の重みは、徐々に確かなものになってゆき、それは足かせほど生ぬるいものではない、何か両足ずつを包み込むように重しが巻かれているようにも似た感覚になってきていた。
悟志のクラスは、花見の話題で持ちきりだった。
どこそこの桜がきれいだとか、こんな花見の穴場があるのだとか、そろそろ散り始めるころだろうから今のうちに一緒に行こうだとか、そういった話題がいたるところから聞こえてきて、悟志は平和なものだなと思っていた。
「お前と同じ名前の川の堤防の桜見に行こうぜ。」
という声も聞こえてくる。
「たしかにあの川の堤防の桜並木は『長堤十里世界一』とも言われていた桜の名所らしいからね。」
隣の席の建は悟志に向かって言った。悟志も実は何度かその川の堤防の桜を見に行ったことがあるが、確かに遠くまで連なる桜並木は見ごたえがある。今年も見に行ってもいいかもなと思っていた。
「お?みんな桜見に行くのか。いいことだなあ!俺も桜見に行くんだぜ。」
巨体の男である剛が、どこまでも轟くような声で入ってきた。建は、
「珍しいね。いつも運動しているイメージだけど。」
と、返した。
「いや、当たってるぜ。さくらマラソンに出るんだ。桜並木の中を走るマラソン大会だから、花見しながら走れる最高のシチュエーションだぜ。」
結局運動するのか。という感じで、建も悟志もやっぱりかという風に反応した。剛はそんな反応も気にせず楽しみだというように笑っていた。
悟志はそんな剛のことを運動バカだと思っていた。最初に悟志が剛を見たときは、身長二メートルもあろうかという巨体で、しかも制服からも浮き出るほどの筋肉。まだこのクラスになって少ししか経っていないが、彼の体育に懸ける思いは現れている。陸上の練習も放課後になると始まり、彼の大声が響き渡るほどである。そして彼がクラス内で話題になったのが、中学の時の大会で優勝したという話だ。なるほど、だからこの高校に入ったのかと悟志は納得した。
きっと運動のことしか考えていない。というか何も考えていないのだろうと悟志は思っていた。しかしそれも才能である。彼の才能はきっとこの先さらに開花するのだろうとも思っていた。だからこそのこの高校であり、今は彼の運動能力を伸ばす時間なのだとも思う。
悟志はそうやって彼のような特異な存在を肯定するのであった。
体育の時間。いつものように剛は「うおおおおおおお!」と言いながら全力で授業を受けている。ほかの教科よりも明らかにいきいきとしている。走ることにも全力、競技にも全力。ほかのクラスから見たら、なんだあいつは。という感じだが、悟志のクラスは彼が凄いアスリートで運動好きであるということが教室内ですでに広まっているため、女子からは「今日も元気だね…」と、若干生暖かい目で見られることもあるが、誰も剛のその様子を何も不思議とは思っていなかった。
彼は、巨体であるが、態度は大きくない。堂々としているが、それは誰からも頼りにされるような雰囲気で、ムードメーカ的存在でもあった。それはその大きな存在感と、雰囲気だけは威圧感があるその様子からは、クラスにとっては既になくてはならない存在でもあった。
彼は良く笑う。それも一つの良い点だ。ただし人を笑うことはしない。彼の笑いはクラスの光でもあり、勢いでもある。
そういう風に、彼は悟志のクラスにおいて信頼される存在となっていた。その様子を悟志も尊敬していた。確かに運動だけのことしか考えていないようにも思えるが、彼は彼なりにクラスを盛り上げようともしている。自分よがりではない、そんな一面もある。
ただしそのいで立ちはもはや高校生とは思えないほどであるので、まるで高校生の中にデカいおっさんが紛れ込んでいるようにも見えた。
体育の授業は学年全体での体育の日もあれば、球技を選択して各々選択した球技で自由に運動するという風であった。今日は全体の体育の日である。ほとんどの人は球技の体育の授業の方が好きだ。自分のやりたいことを自由にできるから。でも剛はどちらでも全力だ。
今日は全体の体育の日である。全体の体育の日は基本短距離走、長距離走など陸上系のことをやる。
何人かで短距離を走る時、悟志は剛と走ることとなった。
「世見津!次だぞ!一緒に行くぞぅ!」
剛は気合十分だ。悟志は特に手を抜くわけではないが、走り込みはそれほど好きじゃない。数人が一斉に走り始めると、剛はすぐさま先頭に立ちそのまま突き放しつつゴールした。悟志は後ろから3番目だ。
「ようし!全力で走ったか⁉何事も全力だぜ!」
運動の授業になると、剛はハイになるのか、熱すぎる。悟志はそんな熱い剛に対して、
「全力出しすぎなんじゃないのか。一回で息が上がってるぞ、アスリートさんよ。」
といった。剛はこれは全力の証、短距離走ってのはそういうもんだ、と、ガハハと笑った。どこまでも運動バカでハッピーな奴だと悟志は思ったが、それが良いところなのだろうとも思った。
放課後、悟志は少し先生に用事があったので残った。学校中で部活動の練習をしている。さて悟志の目的とする先生はどこにいるのかと探しているとき、校庭の端の日陰で巨体が休んでいた。悟志は剛か、と思った。陸上部は休憩中なのか。一人であんな風にいるのは珍しい。全力を出しすぎて疲れ切ったんじゃないのかと悟志は思った。同じクラスになってまだ少ししか経っていないし、せっかく話せるようになった人でもあるから積極的に声でも掛けるかと思い、斜め背後から近づいて行った。しかし、
「ちくしょう…。全然走れねぇじゃんかよ…。どうすりゃあいいんだよ。こんなんじゃ大会も出れねえぞ…、クソ…。」
そう言いながら、剛は頭を抱え始めた。
悟志は驚いた。あのムードメーカの運動バカの剛がここまで悩みを抱え込んでいるのは想像がつかなかったからだ。いったい何があったというのか。もしかして今日の体育の時もいままでもずっと抱え込んでいたのか。
「おい、剛。」
悟志はためらいもなく話しかけた。
剛はびくっとなって振り返った。そして、
「おお、世見津か。どうした。」
といった。悟志は、それはこっちのセリフだといい、剛に何があったのか聞いた。 剛には下手に詮索するよりも、直接聞き出した方が良いと思った。
「いまの、聞こえてたか…。」
「君、声がもともと大きいんだよ。独り言の時ぐらい声量下げた方がいいかもな。で、何があった。」
剛はその質問に自分が今おかれている状況を話した。走ると重しがついたかのようになって走れなくなるのだと。
「そんな状態で体育の時間あんな速く走れたのかよ。」
と、悟志は驚いたが、剛にとってはかなり重大なことのようだ。そういえば、あの時以上に息が上がっていたがそれでか、と悟志は納得した。
医師に診てもらっても身体的な異常はない。全くその原因がわからない。そんな話を聞いて、不思議な現象だと悟志も思ったが、その話だけでは全く見当がつかない。精神的問題が関わっているのではないかとも疑った。
何かもっと変わったことはなかったかと悟志は尋ねた。なんでもいいと。
すると、剛はそういえばと、話し始めた。
「その足の違和感を認識し始めたことからだったと思う。よく不気味な夢を見るようになったんだ。俺が走っていると、いきなり誰かが足を掴んでくる。手で掴んでくる夢を見る。それでどんどん重くなっていって、走れないほどになっていく。そんな夢なんだ。」
と。
悟志は思った。
「それ、なんかに取り憑かれてない?」
剛は一瞬「は?」という顔をしたが、「嘘だろ…。」という反応に徐々に変わっていった。
しかしそれしか考えられるものはない。悟志も剛もお互いがそう思っていた。
悟志は前の事件のこともあるし、この学校で見たこともあるため、そういった類のものは信じる、というか存在すると認識している。でも剛がすんなりそれを受け入れるのは何とも純粋なものであった。
「じゃ、じゃあどうすればいいんだ⁉霊媒師にでも頼むか⁉そうすれば解放されるのか⁉」
剛は今まで見ないほど焦っていた。悟志はまあ落ち着けといった。
「まだそうと決まったわけじゃないが、可能性としてあるだけだ。それに霊的なものなんて君信じるのか?」
「信じるぜ!!」
「そうか…。」
悟志はとりあえず、その違和感が始まったあたりに何か特別なことをしたのではないかということを問いただした。しかし、剛は特に何もやっていないと、毎日ただ走っているだけで、あとは休みの日とかも運動しては飯食って寝てるだけだと言っている。
悟志はすごい人生だなと思いつつ、何かやったわけではないのならば可能性は低いのかとも思いだした。
そして悟志は少し提案をしてみた。
「じゃあ少し走ってみてくれ。」
剛は「なぜだ?」という風だったが、悟志は走っているときにはたから見て何か違和感がないか見てみると言った。剛はわかったと言い、グラウンドの端で走った。
悟志はその様子を見ていたが、特に違和感はなかった。ただやはり剛曰く、何かが張り付いて重しになっているという感覚があるという。それは走れば走るほど鮮明に、そして重くなっていくのだという。
ただ悟志は何となくわかっていた。両足に張り付く感覚と重し。そして足に張り付く手の夢。結局は現実でも何かに掴まれているのだろうと。ただし、現実では張り付く、巻き付く感覚だというので、何かに引きずられるのとはおそらく違う。まとわりつかれているのかもしれない。そう、それなら悟志の能力を使えば何かの心が読み取れるということになるだろう。そしてそうなれば悟志にはその存在が見えることにもなる。正直嫌だった。もし取り憑かれているのだとしたら、怨霊の可能性だってある。怨霊の心を読むのは何とも気が引ける。しかもグロテスクな見た目だったら、それも気が引ける。でも、クラスのムードメーカがこんな状態だと、悟志はクラスの光が欠けるような感じがして嫌だった。
よしわかったと、悟志は言った。どうなるかわからないが、できることはやってみようと。
剛は悟志が何をやるんだというような感じだったが、頼むといった。
悟志は、ほかの人間が視界に入ったら都合が悪いので、剛を壁の前に立たせて、精神統一し、呼吸を整えると、剛の全身を見て心を悟る能力を使った。
すると、剛と合わせて三つの心が流れてきた。
(世見津は何をするつもりなんだ?)
(さみしい、かなしい、もっと走ってるところ見せて、さむい、こわい、がんばって、がんばって。)
(お父さんみたいに走って。もっと見せて。もっと走って。さむい、さむい、さみしい。お兄ちゃん誰。)
その見た目は小学生の男女。女の子の方が小さい。兄妹か。明らかに心が羅列している。人の霊は心が単純で感情を羅列するか、何かにしか向いていないかの両極端だ。そんなにグロテスクな見た目ではなかったのでよかったが、それでも人がするような表情ではない、目が生きていない、悲しみに満ちた表情をしていた。
悟志は考えた。彼らは何がために取りついているのか。そのヒントは彼らの「走ってほしい」と「がんばれ」との心があらわしているのかもしれない。
聞けばわかることではあるかもしれない。しかし、もしこの場で剛の足元を見て「君たちは何者で何があったんだ。どうしてほしいんだ。」と聞くのは、剛から見てその行動はあまりにも不自然なものに見えるだろう。変な奴だと思われる。霊が見えるとも思われる。いやひょっとしたら、能力のことも悟られるかもしれない。あまり人に知られたくない悟志にとっては、この状況をどうするか悩みどころであった。それでも二人の霊の今の心だけでは、何が原因でこうなったのかわからない。
「世見津。どうしたんだ?そんな悩んだ顔して。何かやるんだろ?」
「あ、ああ。」
悟志はどうしようか迷っていた。このまま取りつかれたままだと、きっと状態が悪化する。それに剛自身悩みを解決することができず、おそらくずっと走れないままになってしまうのだろう。
悟志は決心した。
「あのさ、今少し、僕は変なことをすると思うが、変な奴だとは思わないでくれ。」
「あ?ああ。え?なにするんだ?」
剛は少し心配そうにした。
悟志は剛の足元を見て、
「君たちに質問している。小学生だろ。君たちに何があった。どうしてこの男の人に引っ付いているんだ。」
と話した。剛は何やってるんだこいつは、という反応でかなり怯えていた。しかし、何も言わなかった。剛はなんだか理解できなかったが、とにかくじっとしていた。そしてその奇妙な時間を耐えに耐えた。
悟志はというと、彼らの心を読み取っていた。
(お母さんが僕たちを乗せて、車で道路から落ちた。怖かった。痛かった。お母さんは死んじゃった。妹も死んじゃった。このお兄ちゃんが走っていたからお父さんを見たいだなって思って。がんばってほしくて。)
(お父さんが死んじゃってからお母さんがいつもつらそうにしてた。お母さんはやさしかった。大好きだった。お父さんも大好きだった。マラソンで走ってた。走ってるお父さんが大好きだった。お母さんとお兄ちゃんといっしょにおうえんしにいってた。お母さんもそのときはすごくたのしそうだったのに。お父さんは走りに行くって言ってからかえってこなくてそのまま死んじゃった。このお兄ちゃんは走ってるのがかっこよくて、マラソンがんばってほしいから。)
悟志は、やはり兄妹だったか、と思った。そして、兄の方は自分に何が起こったのかを理解していた。どうやら母親の運転する車に妹と一緒に乗っていて、そこから道路の下に落ちたらしい。その霊から流れてくるかすかな記憶の映像には、山道だったようである。後ろの席に乗っていて、横に妹がいる。母親は最後に「ごめん」といったようにも思える。そこから急に車に衝撃が走って崖の下へ落ちていったようだ。衝撃が終わって、前の席は見るに堪えない状況だ。妹の首はあらぬ方向に折れている。そこからは何も残っていない、無であった。兄の方はしばらくして亡くなったのだろう。
妹の方は、自分の身に何が起こったのか理解していない様子だ。事故当時のことを思い出していない。しかし見た目は鬼の方の記憶で見た姿と完全に一緒だ。同一人物の妹とみて間違いない。妹はそれよりも前の、父親と母親の記憶が鮮明に残っているようだ。どうやら彼らの父親は既になくなっているようだ。そして走りに行くと言ってから、事故か事件かに巻き込まれて帰らぬ人となったのだろう。母親はその後、母子家庭で兄妹を育てていったのだろうが、家計の限界、家事と仕事に二人の面倒を見ることへの過労、夫が急にいなくなったことへの喪失感、精神的な限界がきて心中したということなのだろうか。
悟志は何と哀れなことかと思った。
しかし、彼らに同情したとて剛に取りついていることが解決することはない。悟志は、彼らの思い出にフォーカスを当てた。
彼らの父親はマラソン大会に出ていたらしい。それを母親と一緒に応援しに行ったのが思い出だという。彼らは走っている父親が好きだったし、それを応援して楽しそうにしている母親が好きだった。そしてそんな状況が彼らにとっては充実した時間だったのだろう。そしてマラソンというものは彼らにとって家族との思い出だったのだろう。
剛に取りついたのは、剛が走っているその様子が、そんな記憶、時間を思い出したからなのだろうか。
彼らは言っている。「この人に頑張ってほしい」と。きっとこの兄妹はまだ幼いから、走っている人はすべてマラソン選手だと思いこんだのかもしれない。そしてそれは剛に至っては間違っていない。
ならば…。と、悟志は剛の顔を再度見上げていった。
「剛、マラソン大会に出るんだ。そして優勝するんだ。」
剛はこう返した。
「え?どういうことだ。何かわかったのか?それが解決策になるってのか?」
「そうだ。」
剛は珍しく顔をしかめた。そしてこういった。
「まじでいってるのかよ…。ま、まだいるんだろ…?この状態で出るのか。そのうえ優勝しろなんて…。」
「どうした。いつもの強気は。剛らしくないぞ。」
「だってよ…。わかるか、この感覚。走ってるとどんどん重くなって、もうやばいんだよ。」
「それでもだ。僕も応援に行く。やるんだ。」
悟志は真剣だった。剛はそんな悟志の真剣な様子を受け取って、
「わかった。そうするしかないんだな。でも一つ確認させてくれ。世見津には何が分かったんだ。それが聞きたい。」
「もちろん話すつもりだ。これは剛も知っておかなければならない。いや、知ってしまうことで、君はきっと優勝へと突き進むだろう。」
そう言って悟志は剛にすべてを話した。
剛は最初は驚いた様子だった。霊的なことも、悟志のことも。どちら共に驚いた。それでも藁にもすがる思いだった剛はその話を信じた。そしてその哀れな兄妹のためマラソン大会に出て優勝することを決意するのであった。
マラソン大会当日。桜はまだもっていた。
きっとクラスの皆は各々桜を見に行っているのだろう。
そんな中、鉄道で剛と悟志は会場まで赴いていた。
「じゃあ、僕はこのあたりに陣取ってるから。頑張れよ。」
「おう!やるぜ!」
剛はいつものやる気モードになっていた。
そして、その時はきた。選手たちが各々体を動かし、合図とともに、ランナーが一斉に駆け出す。
剛はすぐに先頭に出て、そのまま駆け出して行った。走っていると徐々に重くなってくる。だから初めのまだ軽いうちにできるだけ前に出る作戦なのだろう。
しばらくすると大体の先頭集団ができていた。これがガチ勢の人たちだ。剛もその一人。先頭集団の中でもさらに先を走っていた。
どんどん足が重くなってくる。疲れなんかじゃない。足枷のような感覚から、足全体に巻き付く重しのような感覚になっていく。足全体に何かとんでもなく重いものがまとわりついているような感覚だ。
それでも剛はスピードをゆるむことはせず走り続けた。それはもはや、自分の優勝という名誉のためでも、彼ら兄妹から解放されるためでもなく、兄妹にかっこいいところを見せて、彼らに昔のように楽しい思いをさせてあげようとする思いからだった。
二か所目の折り返し地点に到達しようとしている。距離的に、いつもはこのあたりで休憩して足の不調を嘆いていたが、今日はそうはいかない。走り続けた。先頭集団がほんのわずかずつではあるが距離を縮めてきている。
「うがああああああああああ!」
気合の声を上げ、走り続ける。二か所目の折り返しを過ぎ、後はこのまま道なりに沿って走りぬくだけだ。
足の感覚が今までにないものになっていた。それはもはや、完全に、誰か小さな子供が足に引っ付いて、しがみついているようだ。手で掴まっているのもわかる。体が押し当てられている感覚もわかる。それはもう確かなもので、確かな体重の重さになっていた。
それでも剛は気合の声をあげながら、並大抵では上がらない、前に出ない足を気合で一歩ずつ前に出して走り続けた。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおお、待ってろよおおおぉぉぉぉ。兄ちゃんが見せてやるからなぁぁぁぁ!!!」
剛はもはや限界を超えている。それでも走り続けた。
後ろは確実に距離を縮めてきている。ほかの選手もこの日のために調整してきた。この日に懸けているのだ。
「剛ぃ!ゆけぃ!あと少しだ!」
悟志の声援が聞こえた。
剛は、
「ぐがああああああああああああ!!!!!」
と、吠えながら走り抜け、そしてゴールが見えてきても、少しも走りも力も気も緩めることなく、走り抜けた。
そして遂に剛が一番にゴールのテープを切った。
「うおおおおおおおおおおおおお!」
と、叫んだ。その瞬間、
「お兄ちゃん、おめでとう!かっこよかった!」
「お父さんみたいだった!」
と二人分の声がしたと思ったら、一気に足が軽くなった。
剛は、急に足が軽くなってバランスを崩したが、すぐに体勢を立て直して、軽くなった足で十数メートル駆け出した。
重い脚から解き放たれた快感はとんでもないものだった。しかし剛はそれよりも感じ取っていたものがあった。
「これが、成仏ってやつか…。安らかに。」
剛は立ち止まって手を合わせた。
そしてしばらくそうした後に、
「軽い!まだまだ走れそうだぜー!!」
といって、ほかの選手が返ってくるまでそのあたりを走り回った。
ゴールしていく選手は、「なんだあの体力バカは」という目で見ていた。
悟志はゴール付近にやってきて、剛のその様子を見て安心した。
「よくやった。」
悟志と剛は鉄道に乗って帰路についていた。
「それにしても、気を付けないといけないな。ランニングするところも、妙な場所に行くとそこが事後現場とか曰く付きの場所とかあるかもしれないんだからな。」
悟志はそう剛に言った。
「わかってんよ。今回のことでよくわかった。だがよかったじゃねえか。俺が来なかったら成仏できずにずっとあそこにいたってことだろ。俺も人を救えるんだなぁ…。」
「調子のいいやつだぜ。」
そんな会話をして、列車に揺られていた。
それからというもの、剛は足の重みからも、悪夢からも解放されて、いつも以上に明るいポジティブな、そして頼りがいのある性格になり、いつも以上に体育や部活動、日々のランニングなどを楽しむようになったのだ。
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