疼いて疼いて仕方ないのに先生が手を出してくれない

松原 慎

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高校生活納め編

今こそ別れめ いざさらば③

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 気の緩んだ隙に山下の腕の中へ身体を押し込まれる。なんておさまりが悪いのだろう。あの長い腕に包まれる感覚はなく、筋肉質で太い腕に締め付けられて。
 痛い。抵抗する気にもならないほど、物理的なものか何なのかわからないがあちこちが痛い。両腕をだらりと下げているため、スクールバッグが山下の腕にかろうじて引っ掛かって落ちないでいる。
 背中を撫でられているが優しさとしてそれを受け入れられない。先生がいい。先生じゃなきゃやだ。先生しか触らないで。
 嫌悪感に、溢れていた涙すら乾いてくる。息を止める。息を止めてこの時間を耐える。
「あんな訳わかんない奴、なんでそんな好きになっちゃったんだよ。もっと出雲のこと大事にしてくれる奴がいるよ」
 息を止めていたのに、ははっ、と息を吐いて笑ってしまった。
「あんなに俺のこと大事にしてくれる人が他にいるわけないじゃないですか……」
「俺だったらもっと……!」
 肩に埋められていた顔を上げ、目が合うと山下はそれ以上の言葉を飲み込んでしまった。わかりやすいその先の言葉を待って瞬きをするが、続きは紡がれない。
「もっと? なんでしょう……」
「大事に……するよ。泣かせない」
「確かに泣かないでしょうね」
 笑みを零せば、良い意味に受け取った彼もまた笑みで答える。
 俺はあの部屋に思いやりすら置いてきてしまったのだろうか。以前ならば感じた励ましてくれてるだけ有難いとか、想いに応えられず申し訳ないとか、そんな情すらわかない。
 先生のこと以外どうでもいい。
 離れてくれるようプライドを刺激したのは効かなかったようなので、どうしようかと考えた。考えているうちにまた抱き寄せられ、耳元を頬ずりされてぞわぞわと悪寒が走る。不快感に声が漏れると、俺の声にトントントンと階段を登る軽い足音が重なる。
 好きな人の足音はすぐにわかる。
 ハヤトの足音と、先生の足音だけはすぐにわかる。
 あれだけ背の高い男性にしては妙に静かな先生の足音はゆったりとしたリズムで軽い。段々と近づいてくるその音をよぉく聞きたくて瞼を下ろす。
 こんなところ見られたら先生とっても怒ってしまうのではないでしょうか。引き剥がして俺を保健室へ連れていくのではないでしょうか。そんな期待に胸が満ちていき、高揚して頭がくらくらしてくる。
 目の前で足音が止まって目を開ければ、火の点けていない煙草を銜えた先生が手を伸ばせば触れられる距離にいた。
「せんせぇ……」
 信じられないほど甘えた声が出る。たった二日三日会っていなかっただけなのに、随分その肌に触れていないように感じる。
 先生の表情は変わらない。いつもの先生のお顔。お綺麗で、でも目に力がなくて、どこが不思議そうにこちらを窺うように見ている。
「久しぶりに……登校、したのだから。予行練習、出ないと」
 首を傾いで、長く細い首筋を見せつけるように先生は呟いた。
「答辞……楽しみにしてる」
 先生はこちらの状況などまったく意に介さず、僅かに口角を上げて微笑んだ。
 あ、と手を伸ばす俺に尚も微笑んで、踵を返し白衣を翻す。そんな先生に山下が何か吠えている。山下の声を遠くに聞きながら、俺は先生の微笑みを反芻していた。
 先生、怒ってらっしゃらなかった。全て諦めたみたいな、もう終わったことのような遠い目で微笑んでいらした。
 あ、あ。
 口は開くが声が出ない。崩れ落ちたくとも山下に抱かれていてそれも叶わない。
「出雲、大丈夫か? 出雲?」
 大丈夫なわけもなく、首を横に振った。背を抱く腕の力が強まって苦しい。
「先生、行ってしまいました」
 極寒の中にいるかの様に唇が震える。
「先生、いってしまいました」
 繰り返される言葉は冷たい空気の中ツンとよく響いていた。




 保健室の扉をそっと開ける。カラカラと乾いた音をさせて扉が滑る。本当はいけないけれど、中からできる限り静かに施錠して事務机に向かう背中を見た。振り返らない。先生はいつも振り返らない。でも俺が来たことはわかっている。
 忍び足で近づいて、後ろからスマートフォンを握った手を回し、背中に抱きついた。ちょうど先生のお顔の目の前にきたスマートフォンに指紋を読み取らせ、認証エラー画面になるのを見せつける。すっきりと肉の薄い耳に口を寄せ囁いた。
「先生……スマートフォンのロックが開けられないのです。指紋をいただけますか」
 先生が腕だけ動かし、そっとスマートフォンに触れる。あっさりとロックは解除され、大量の通知が流れ出した。それを確認せず、スマートフォンを事務机の上に置く。書類で散らかっているけれど、気にせずその上に置く。パソコンの液晶に並ぶ文字はどうやら引き継ぎのために作成している資料のものらしく、先生がここを去ることを物語っていた。
「先生、このままじゃ困ってしまうので左手の人差し指をください」
 キーボードの上に置かれた左手を取り、人差し指を包むようにして、その指先を撫でさする。
「君がほしいなら……あげる」
「本当ですか。いつもの煽りではなく、結構本気で言ってます」
「君に触れることも、ない。惜しくない。別にいらない」
「せっかくお箸が持てるようになったのに」
 するりとそのまま手首を握り、指先を自分の口に寄せ人差し指を口に含んだ。第一関節の溝に前歯をぴったりとあてて、歯を立て指先に舌を這わす。骨の硬さを感じながら、このまま噛み切ることは不可能だとわかりきったことに絶望を感じた。
「俺はこんなに先生がほしいのに……」
 はぁ、と指先を舐めながら吐息が漏れる。指の腹をチロチロと舐めているだけなのに心臓がばくばくと音を立てている。背中にくっついているのだから先生にも気付かれている。先生聞いてください、俺がどれだけあなたを欲しているのか。
「先生もう……嫉妬もしてくれないんですか。俺なんかいりませんか。終わったことですか」
 投げかけたが、先生は何も言わなかった。ただ指をぐっと口内の奥まで入れたかと思えば、指を曲げて関節で上顎を刺激する。ぞわっと気持ちよさが広がって、ふぁ、と声を上げながら後退すると指を抜き、くるりと椅子を回転させ腰から抱き寄せられた。
「先生……」
「ん……」
 腰を屈め、お腹のあたりに顔を埋める先生の頭を撫でる。恵まれた髪質で艶々しているのに、時折指に引っかかるので絡まりを解しながら撫でる。
「終わったこと……そうだね、終わったこと」
 ブレザー、その下にカーディガン、ワイシャツ、下着。こんなに着込んでいると先生の息遣いを感じることは難しい。Tシャツの布一枚だけならば吐く息の温度まで染み渡るのに。
「いいんだ。僕は……なんてことない、君の青春の一頁にでも……なるから」
「そんな……そんな些細なことだと思いますか?」
「うん。きっと、そうなる」
 先生は頭を上げ、撫でていた俺の手をとって頬に寄せる。愛おしそうではあるけれど、その表情は今までになく穏やかだった。
「これから君には……たくさん。出会いや、色んなことが、あるからね」
「それこそ、先生との日々に比べれば全ては些細なことです」
「ふふ……そんな風に良い思い出にしてくれれば、いいな。それとも、馬鹿なことしたなと、思うのかな。いつか」
 先生は頑固だ。何も響いてない。
 ぐらぐらに揺れていた先生はもうそこにはおらず、全て終わった……全て諦めた先生が、語りかけてくる。俺を過去の事として。
 視界が滲む。また泣いてしまう。目を細め、歯を食いしばり嗚咽を堪えるが、ぽたと涙が先生の頬に落ちる。泣かないでと、先生が俺の頬に手を伸ばす。
「せんせい、せんせい……全然、俺のこと見てません。さっきもそう……そんな遠い目で、見ないで……」
 右手の人差し指が涙を掬う。
「見れない」
「見て」
「無理、見れないよ……」
「すぐ無理って言うのダメだって言ってるじゃないですか」
「そうだね……ごめんね?」
「謝ってほしいわけないじゃないですか」
 勝手に初めて勝手に終わらせて、人を振り回して自分だけ大層傷ついた顔をして、俺はどうせすぐ忘れるなんて思ってる。
「先生見てください」
 腹が立った。悔しかった。
 ブレザーのボタンを外し、焦れったくてカーディガンより下はぐいっとスラックスから引き抜いてたくし上げた。胸元まではあげず、シャツの中に手を入れ最近ではシャツが擦れるとそわりとしてしまう乳首に触れる。
 あ、という声と共に、腰がビクンと揺れた。
「先生……せんせぇ? 見て、見てください。いつも見てくださったでしょう?」
「いず、も……」
「真ん中のベッド……あそこで、たくさん見てくださったでしょう。先生、お願いします、見て……俺のこと、見て……」
 窓がある。鍵を閉めたとはいえ、廊下から覗こうとすれば中は丸見えだ。そんなところで突然恥ずかしい姿を晒し始めた俺を、先生はやっと見た。穏やかな表情は消え、眩しそうに苦しそうに俺を見上げ立ち上がると、腕を掴んでいつものベットがあるカーテンの中へ連れていく。腕が痛いほど力が入って伝わる軋みを感じながら、先生の感情がやっと向けられたのを深く感じていた。
「何、考えてるの……」
 カーテンを閉めながら、ワントーン低い声で問われる。
「あんな所で……見られる。君が、見られる。やめて……嫌だ、許せない」
「許さなくていいです」
「だめ……」
「俺、先生しか見えてないです」
 長い前髪で隠れていた先生のお顔がこちらに向くと、そのお顔は憂いを帯びてすっかり青白くなってしまっていた。困り果てた先生を見てごめんなさいと思いながらも、美しいと思う。これまでの人生の中で人をこんなに困らせたことはあったでしょうか。
「先生……俺こんなにワガママを言ったことありません。いつもいい子にしていたのです」
 ブレザーを脱ぎ捨て、ネクタイをゆるめる。今度はちゃんとボタンを一つずつ外して、一枚一枚丁寧に脱いでいく。ベッドに腰掛けてベルトに手をかけ、スラックスの前を開いて。中に手を入れれば立ち上がってはいないものの、下着が少し濡れていた。
「俺のこと、見てください。欲しがってください。愛してください。先生のぜんぶ、ください」
 慣れないワガママは最大級に膨れ上がって欲望は底なしだ。欲しいと求めて、カーテンの前で未だ立ち尽くす先生に両手を伸ばす。先生は大きな手で額を押え、頭痛を我慢するかのように苦しそうに顔をしかめる。しかしふらふらと何かに引っ張られるかのようにこちらへ歩みを進めベッドに膝をつくと、崩れるように俺を押し倒した。


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