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出雲くんのこと④
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出雲くんは、人に逆らうということが苦手だ。
流れるまま身を任せ、誰かに「こうしなさい」と言われれば「そうしなければならない」と思い込む。
僕の「相手の期待に応えたい」と必死になっていた頃とは少し違う。もっと強迫観念じみているし、出雲くんは相手のためにやっているわけではないからだ。僕のそれだって理想の自分でいたかったり人に失望されたくないという、自分のための意味合いももちろん含んでいるが、それよりももっと他力本願で自分の意志が薄い。
しかし、自分の目的、又は指示された目的がはっきりとしていればその限りではなく、「何か」があればその「目的」に何としてでもしがみつく。しかしそのそもそもの「目的」が人に縛られたい願望から生まれているのだからどこまでも救えない。
目的のため絶対にまた僕の前にこの子は現れるという確信があったし、事実そうなった。
出雲くんの退勤時間に合わせて迎えに来た加賀見ちゃんは、あからさますぎるほど不機嫌でまだ状況を飲み込めていない様子だった。
いい気味だ。そのまま戸惑い混乱して、全ての選択を間違えてしまえ。
翌日昼間からこちらもまた戸惑った様子のまま、出雲くんは僕の家を訪ねてきた。
一人で家にいるのが耐えられないと、大学に行けばいいのに慣れたこのアパートに来る。それが嬉しくて僕はセックスをするわけでもなくベッドに座り、寝転ぶ出雲くんに膝枕をしてあげていた。頭を撫でていると、うとうとしながらも自分の思いを語る。
「昨日だけでも出勤すれば、もう行くなって閉じ込めてくださると思ったんです」
「そうだったの」
「でも調理師免許を取得したいと話したら、あと半年は我慢すると言ってくださって。先生もう、俺の事あんまり大事じゃないのかな。昔はあんなに嫉妬されてたのに」
「随分経ってるものねぇ。昔ほどの情熱はないかもしれないわね」
あーあ。黙り込んで、そんなにしおれた顔をして。
僕があいつの有利になることなんて言うはずないのに、全部真に受ける。
「路彦さん、お煙草吸ってください」
「ええ。火をつけてちょうだい」
咥え煙草に、手元で火を隠しながらライターを寄せて。想い人と同じのようで少し違う香りの中で、やっと少し身体の力が抜ける。そうして僕の膝の上でそのまま眠ると、ほんのりと口元が綻ぶ。
今の出雲くんにとって、先生と再会した現実よりも甘い夢を見ていた頃の方が幸せなのかもしれない。
眠っている額に口付ける。唇にキスして起きてしまうのは困るから。
ずっと夢の中にいてほしい。夢の中の出雲くんを可愛がっていたのは僕なのだ。
毎日毎日、バイトのない日も加賀見ちゃんが仕事ならばやってくる出雲くんをたっぷり甘やかした。
「大学には行かなくていいの?」
僕の部屋にきて持ってきたノートパソコンの画面を眺める出雲くんの傍らに紅茶を出しながら尋ねる。さっきからタイプ音は一切聞こえてこない。さっきちらりと見えた画面も真っ白だった。
「卒論は進んでる?」
「いえ……」
「それは困ったわねぇ」
「なんだか頭が働かないんです。ぼーっとしてしまって」
いつも微笑んでいた出雲くんの笑い方は、いつも泣いてるみたいな笑い方になってきた。曖昧に笑う顔はくしゃりとぼやけている。そんな時は不安を取り除くために出雲くんから物欲しそうにすり寄ってくるので、僕はその笑い方が愛しい。
こうして二人でただ同じ空間を過ごしているだけの日もあれば、ずっと身体をぴったりとくっつけている日もあったし、もちろんセックスだってした。
昼間こうして毎日一緒にいると恋人のようだと気が緩むが、夜眠る時はいつも一人で冷たいシーツの上で現実を思い知らされる。夜はお酒を飲んでうたた寝し、出雲くんが来てから仮眠をとることが増えていく。僕もそうして甘い夢を見る。
僕のアパートを去ってから出雲くんは退勤時間を一時間早くしたが、週末は加賀見ちゃんが迎えに来るため変わらずクローズまで働いてくれている。
しかしその日の週末は、出雲くんが退店してすぐに店の看板をしまい忘れていることに気付いた。二人と鉢合わせるのは気分が悪いので暫く店外まで見送ることはなかったが、そろそろ加賀見ちゃんの顔色がどんなものかと様子を見るのもいいかもしれないと外に出る。
すると店の前に車はなく、代わりにアパートの階段の方角から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
うちの店と隣の建物の狭間にある階段まで顔を出してみる。そこにはあの一件以来、店には来ないし連絡しても繋がらなかった椎名ちゃんの背中があった。ブルーブラックの綺麗な髪色は夜空の下では真っ黒に見えたが、ラフなのにやたらと仕立ての良さそうなTシャツにヌーディージーンズを着こなしているのを見れば後ろ姿でもすぐに分かる。
会話の相手はもちろん、出雲くんだ。
「どうしたの? キョウくん、あなたお迎えが来るんじゃないの?」
背後から近寄り声をかければ、椎名ちゃんはばつの悪そうな顔をして腕を組む。
「あ、それが……水泡さん、今日もお酒を飲んでしまったみたいで」
「今日も? もしかしてずっとお迎えに来てなかったの?」
出雲くんはハッと目を見開いたあと、苦そうな顔で首を横に振った。
「ずっとでは、ないです。とにかく終電ギリギリなのですみません。俺はこれで失礼します」
「待っていずくん、それなら俺が車とってくるから。帰りながら話を」
「ごめんなさい!」
駆け出し僕にぶつかりながらも去っていく腕に手を伸ばしながらも、掴める距離だったのに椎名ちゃんは途中で諦めた。僕は元より彼と話したかったので出雲くんをこの場に留めるつもりはなかったが、複雑な顔をして誰もいない曲がり角を眺めるのを見ながら、だからあんたは駄目だったのよと内心で見下す。
「椎名ちゃん。あんたやってくれたわね」
僕としてはあのまま堕落しきった性生活を送っても良かったのに。
そんな恨みをこめて睨みつけるが、向きなおった椎名ちゃんはそれに臆するわけでもなく、いつも通り困ったように、それでいて少し寂しそうに笑うだけだった。
「そう言うなよ。あんなボロボロのいずくんを見たら手を貸すしかないだろう。それより、どうしていずくんはまだここに? 彼に無事監禁……はは、改めていうとおかしな言葉だけど、そう、無事に監禁されたものだと思っていたよ。店のSNSで出勤しているのを知って驚いた。仕事終わりのいずくんを捕まえようと思ったら、この通りフラれてしまったし」
「あいつ、監禁しないんですって。ビビってんのよ。出雲くんの人生を自分が台無しにするかもしれないって」
「いずくんがあんなに望んでいるのに?」
「そうよ。馬鹿でしょ。だから出雲くんに手を貸してるのよ」
椎名ちゃんの、出雲くんにも負けないくらい優しく甘い顔が顰められる。そしてどういうことかと問うように両手を軽く広げるので鼻で笑ってやった。
「僕が出雲くんに何してたのか知ってるあいつの首を絞めてやってんの。ああ、でも僕が何してたか椎名ちゃんは知らないわよね」
「……大体の察しはつくよ」
「そうね。椎名ちゃんにできなかったこと……とでも言って、濁しましょうか。あいつも馬鹿よね。僕との関係を知ってるのに、出雲くんに泣き落とされてここでバイトを続けることを許してんのよ。束縛しないと決めたところで常識がないから加減がわからないのよ。出雲くんが僕にいまだ抱かれてるってわかってるのかわかってないのかは知らないし、どうでもいいけど」
半ば笑いながら話す僕に、椎名ちゃんはそれでもなお睨みつけることはない。視線をそらして微笑み、こめかみを軽く押さえる。事なかれ主義の性格のくせして、出雲くんを逃がす手伝いをしただけで驚かされた。今回はもうその微笑みをもったまま、僕の前から消えてほしい。
「いずくんはなぜ……そんなことを? 店長、きみは何を考えてるんだ。いずくんのこと大事にしていただろう?」
「大事だから手元に出雲くんを置いておきたいの。出雲くんにはあの男をこうやって追い詰めればまた閉じ込める気になるって信じこませてる。お互い納得してやってるの。あんたには関係ない」
「それで本当に彼が……いずくんを閉じ込めたら?」
「その時は諦めるわ。アンタみたいに遠くから出雲くんの幸せを祈る」
ちょっと俯いて汐らしく見せてみるが、馬鹿らしくて笑いそうになる。
あいつが本当に監禁したら? お姉さんたちに知らせて警察にでも通報してやるに決まってるじゃない。
「だから少しの間くらい、夢を見させてちょうだいよ。僕達のことはほっといて」
ため息を吐いてごまかすが、ちょっとニヤけてるのがバレたかもしれない。まぁ自嘲してるとでも勝手に解釈してくれればいい。人の良い椎名ちゃんならきっと適当に騙されてくれる。
しかし椎名ちゃんが次に口にした言葉は反論であり正論だった。
「間違ってる。いずくんも君も、彼の気持ちは全く無視するのかい? 彼がいずくんを監禁しない選択をしたのなら、いずくんにしてあげることはそんな馬鹿げた手伝いじゃないだろう。監禁しないで済むのならそのほうがいいに決まってるじゃないか。店長がいずくんを諦められないのだとしても、こんなやり方は間違ってる。傷ついてる子を騙すようなこんな卑怯やり方で、いずくんが振り向くわけないじゃないか」
「卑怯? そんなこと気にしてるからあんたは何にもできなかったのよ!」
清廉潔白、誰でも吐ける正しい言葉。
澄ました顔で言われれば、こんなに気が高ぶることもなかった。
けれどその言葉を投げる椎名ちゃんは本当に悲しそうで。同情などではなく、こみあげるものを押し込めるような少し苦しそうな顔は、僕の行動に傷ついているのがありありと伝わった。
僕にはもう、人のためにそんな顔を向ける余裕なんてない。ただ自分を正当化するための言葉しか浮かばなかった。
「あんたは出雲くんのこと、なんも知らないのよ……ヤリチンのくせに結局最後までセックスできなかったから、ずっとあの子に夢見てるのよ。あの子は弱くて可愛いだけじゃない。とんでもない自己中で、ずるくて、からっぽなのよ。僕はそんなあの子の全てになってあげたい。あの子の望むものも幸せも、僕が一番よくわかってる……」
そして、自分を正当化するためにまた相手を傷つけるのだ。
なんだか首の当たりがざわざわとして落ち着かず、後ろでざっくりと結んでいた髪をほどいて結び直す。つるつると指通りの良い髪に触れながら、出雲くんがこの髪を巻いてくれたり、編み込みを入れてくれたり、よく遊んでいたことを思い出す。
あんな日々をずっと過ごしていたかった。
椎名ちゃんは黙って僕が髪を直し終わるのを待ち、結んで肩から前にかけた腰まで流れる髪に指を入れ、梳いた。さらさらとすぐに髪が指の隙間から落ちていくのを眺めながら、静かに問いかける。
「彼が監禁を選んだら……本当に、君は大人しく身を引く?」
「……ええ? そうよ」
つい意味ありげな返し方をしてしまった。
椎名ちゃんはうつむき加減のまま、上目遣いに僕を見る。
「そんな目を向けないで」
怒ればいいのに、僕を見捨ててまた邪魔でもすればいいのに、その目はもの鬱げに、目頭の下に皺を刻みながら細められるだけだ。
責められるよりもそれはずっと辛い。
見ていられず、視界のすみにとらえているのも嫌で、背を向ける。
「正攻法があるのなら教えてよ。やってみせなさいよ。僕が好き好んでこんな方法選んだと思う? どうしたって諦めきれないからに決まってるじゃない!」
もうこれ以上話すことはない。何を言われたってこの人は外野だ。何も知らないから正論を軽く口にする。
仕方ない、仕方のないことなのだ。
あいつらも僕を利用したのだから、僕がしてることだってなんてことない。
一人で勝手にその場を後にし、本来の目的である店頭の看板へ向かう。タイヤのストッパーを足でひっかけて外し店内へ運ぼうとしたら、背後からにょっきりと手が現れて扉を開けた。
「帰りなさいよ」
「せっかく来たんだ。店長の作るカクテルが一杯飲みたいな」
「あんたと話すことはもうない」
「話さなくていいよ。俺のことは気にしないで片付けでもしてればいいさ」
もうバイトの子たちもみんな帰った。ここにいても、家に帰っても一人だ。
酷いことを言ったお詫びだなんて本人には言わないが、そのまま黙って店内へ招き入れ、椎名ちゃんの好きなウイスキーをベースにカクテルを作る。
「マンハッタンか」
出されたショートカクテルに鼻先を近づけたあと、口をつける。
「切ない恋心、だっけ。店長、きみ、こんな気取ったことして相当弱ってるんじゃないかい?」
「話すことはないって言ったでしょ」
笑ってグラスを掲げる椎名ちゃんに、曖昧な笑顔を返す。でも、それだけだ。
切ない恋心。
絶対に手に入れるつもりなのに、まるで成就させる気がないみたいで何だかおかしかった。
流れるまま身を任せ、誰かに「こうしなさい」と言われれば「そうしなければならない」と思い込む。
僕の「相手の期待に応えたい」と必死になっていた頃とは少し違う。もっと強迫観念じみているし、出雲くんは相手のためにやっているわけではないからだ。僕のそれだって理想の自分でいたかったり人に失望されたくないという、自分のための意味合いももちろん含んでいるが、それよりももっと他力本願で自分の意志が薄い。
しかし、自分の目的、又は指示された目的がはっきりとしていればその限りではなく、「何か」があればその「目的」に何としてでもしがみつく。しかしそのそもそもの「目的」が人に縛られたい願望から生まれているのだからどこまでも救えない。
目的のため絶対にまた僕の前にこの子は現れるという確信があったし、事実そうなった。
出雲くんの退勤時間に合わせて迎えに来た加賀見ちゃんは、あからさますぎるほど不機嫌でまだ状況を飲み込めていない様子だった。
いい気味だ。そのまま戸惑い混乱して、全ての選択を間違えてしまえ。
翌日昼間からこちらもまた戸惑った様子のまま、出雲くんは僕の家を訪ねてきた。
一人で家にいるのが耐えられないと、大学に行けばいいのに慣れたこのアパートに来る。それが嬉しくて僕はセックスをするわけでもなくベッドに座り、寝転ぶ出雲くんに膝枕をしてあげていた。頭を撫でていると、うとうとしながらも自分の思いを語る。
「昨日だけでも出勤すれば、もう行くなって閉じ込めてくださると思ったんです」
「そうだったの」
「でも調理師免許を取得したいと話したら、あと半年は我慢すると言ってくださって。先生もう、俺の事あんまり大事じゃないのかな。昔はあんなに嫉妬されてたのに」
「随分経ってるものねぇ。昔ほどの情熱はないかもしれないわね」
あーあ。黙り込んで、そんなにしおれた顔をして。
僕があいつの有利になることなんて言うはずないのに、全部真に受ける。
「路彦さん、お煙草吸ってください」
「ええ。火をつけてちょうだい」
咥え煙草に、手元で火を隠しながらライターを寄せて。想い人と同じのようで少し違う香りの中で、やっと少し身体の力が抜ける。そうして僕の膝の上でそのまま眠ると、ほんのりと口元が綻ぶ。
今の出雲くんにとって、先生と再会した現実よりも甘い夢を見ていた頃の方が幸せなのかもしれない。
眠っている額に口付ける。唇にキスして起きてしまうのは困るから。
ずっと夢の中にいてほしい。夢の中の出雲くんを可愛がっていたのは僕なのだ。
毎日毎日、バイトのない日も加賀見ちゃんが仕事ならばやってくる出雲くんをたっぷり甘やかした。
「大学には行かなくていいの?」
僕の部屋にきて持ってきたノートパソコンの画面を眺める出雲くんの傍らに紅茶を出しながら尋ねる。さっきからタイプ音は一切聞こえてこない。さっきちらりと見えた画面も真っ白だった。
「卒論は進んでる?」
「いえ……」
「それは困ったわねぇ」
「なんだか頭が働かないんです。ぼーっとしてしまって」
いつも微笑んでいた出雲くんの笑い方は、いつも泣いてるみたいな笑い方になってきた。曖昧に笑う顔はくしゃりとぼやけている。そんな時は不安を取り除くために出雲くんから物欲しそうにすり寄ってくるので、僕はその笑い方が愛しい。
こうして二人でただ同じ空間を過ごしているだけの日もあれば、ずっと身体をぴったりとくっつけている日もあったし、もちろんセックスだってした。
昼間こうして毎日一緒にいると恋人のようだと気が緩むが、夜眠る時はいつも一人で冷たいシーツの上で現実を思い知らされる。夜はお酒を飲んでうたた寝し、出雲くんが来てから仮眠をとることが増えていく。僕もそうして甘い夢を見る。
僕のアパートを去ってから出雲くんは退勤時間を一時間早くしたが、週末は加賀見ちゃんが迎えに来るため変わらずクローズまで働いてくれている。
しかしその日の週末は、出雲くんが退店してすぐに店の看板をしまい忘れていることに気付いた。二人と鉢合わせるのは気分が悪いので暫く店外まで見送ることはなかったが、そろそろ加賀見ちゃんの顔色がどんなものかと様子を見るのもいいかもしれないと外に出る。
すると店の前に車はなく、代わりにアパートの階段の方角から聞き覚えのある声が聞こえてきた。
うちの店と隣の建物の狭間にある階段まで顔を出してみる。そこにはあの一件以来、店には来ないし連絡しても繋がらなかった椎名ちゃんの背中があった。ブルーブラックの綺麗な髪色は夜空の下では真っ黒に見えたが、ラフなのにやたらと仕立ての良さそうなTシャツにヌーディージーンズを着こなしているのを見れば後ろ姿でもすぐに分かる。
会話の相手はもちろん、出雲くんだ。
「どうしたの? キョウくん、あなたお迎えが来るんじゃないの?」
背後から近寄り声をかければ、椎名ちゃんはばつの悪そうな顔をして腕を組む。
「あ、それが……水泡さん、今日もお酒を飲んでしまったみたいで」
「今日も? もしかしてずっとお迎えに来てなかったの?」
出雲くんはハッと目を見開いたあと、苦そうな顔で首を横に振った。
「ずっとでは、ないです。とにかく終電ギリギリなのですみません。俺はこれで失礼します」
「待っていずくん、それなら俺が車とってくるから。帰りながら話を」
「ごめんなさい!」
駆け出し僕にぶつかりながらも去っていく腕に手を伸ばしながらも、掴める距離だったのに椎名ちゃんは途中で諦めた。僕は元より彼と話したかったので出雲くんをこの場に留めるつもりはなかったが、複雑な顔をして誰もいない曲がり角を眺めるのを見ながら、だからあんたは駄目だったのよと内心で見下す。
「椎名ちゃん。あんたやってくれたわね」
僕としてはあのまま堕落しきった性生活を送っても良かったのに。
そんな恨みをこめて睨みつけるが、向きなおった椎名ちゃんはそれに臆するわけでもなく、いつも通り困ったように、それでいて少し寂しそうに笑うだけだった。
「そう言うなよ。あんなボロボロのいずくんを見たら手を貸すしかないだろう。それより、どうしていずくんはまだここに? 彼に無事監禁……はは、改めていうとおかしな言葉だけど、そう、無事に監禁されたものだと思っていたよ。店のSNSで出勤しているのを知って驚いた。仕事終わりのいずくんを捕まえようと思ったら、この通りフラれてしまったし」
「あいつ、監禁しないんですって。ビビってんのよ。出雲くんの人生を自分が台無しにするかもしれないって」
「いずくんがあんなに望んでいるのに?」
「そうよ。馬鹿でしょ。だから出雲くんに手を貸してるのよ」
椎名ちゃんの、出雲くんにも負けないくらい優しく甘い顔が顰められる。そしてどういうことかと問うように両手を軽く広げるので鼻で笑ってやった。
「僕が出雲くんに何してたのか知ってるあいつの首を絞めてやってんの。ああ、でも僕が何してたか椎名ちゃんは知らないわよね」
「……大体の察しはつくよ」
「そうね。椎名ちゃんにできなかったこと……とでも言って、濁しましょうか。あいつも馬鹿よね。僕との関係を知ってるのに、出雲くんに泣き落とされてここでバイトを続けることを許してんのよ。束縛しないと決めたところで常識がないから加減がわからないのよ。出雲くんが僕にいまだ抱かれてるってわかってるのかわかってないのかは知らないし、どうでもいいけど」
半ば笑いながら話す僕に、椎名ちゃんはそれでもなお睨みつけることはない。視線をそらして微笑み、こめかみを軽く押さえる。事なかれ主義の性格のくせして、出雲くんを逃がす手伝いをしただけで驚かされた。今回はもうその微笑みをもったまま、僕の前から消えてほしい。
「いずくんはなぜ……そんなことを? 店長、きみは何を考えてるんだ。いずくんのこと大事にしていただろう?」
「大事だから手元に出雲くんを置いておきたいの。出雲くんにはあの男をこうやって追い詰めればまた閉じ込める気になるって信じこませてる。お互い納得してやってるの。あんたには関係ない」
「それで本当に彼が……いずくんを閉じ込めたら?」
「その時は諦めるわ。アンタみたいに遠くから出雲くんの幸せを祈る」
ちょっと俯いて汐らしく見せてみるが、馬鹿らしくて笑いそうになる。
あいつが本当に監禁したら? お姉さんたちに知らせて警察にでも通報してやるに決まってるじゃない。
「だから少しの間くらい、夢を見させてちょうだいよ。僕達のことはほっといて」
ため息を吐いてごまかすが、ちょっとニヤけてるのがバレたかもしれない。まぁ自嘲してるとでも勝手に解釈してくれればいい。人の良い椎名ちゃんならきっと適当に騙されてくれる。
しかし椎名ちゃんが次に口にした言葉は反論であり正論だった。
「間違ってる。いずくんも君も、彼の気持ちは全く無視するのかい? 彼がいずくんを監禁しない選択をしたのなら、いずくんにしてあげることはそんな馬鹿げた手伝いじゃないだろう。監禁しないで済むのならそのほうがいいに決まってるじゃないか。店長がいずくんを諦められないのだとしても、こんなやり方は間違ってる。傷ついてる子を騙すようなこんな卑怯やり方で、いずくんが振り向くわけないじゃないか」
「卑怯? そんなこと気にしてるからあんたは何にもできなかったのよ!」
清廉潔白、誰でも吐ける正しい言葉。
澄ました顔で言われれば、こんなに気が高ぶることもなかった。
けれどその言葉を投げる椎名ちゃんは本当に悲しそうで。同情などではなく、こみあげるものを押し込めるような少し苦しそうな顔は、僕の行動に傷ついているのがありありと伝わった。
僕にはもう、人のためにそんな顔を向ける余裕なんてない。ただ自分を正当化するための言葉しか浮かばなかった。
「あんたは出雲くんのこと、なんも知らないのよ……ヤリチンのくせに結局最後までセックスできなかったから、ずっとあの子に夢見てるのよ。あの子は弱くて可愛いだけじゃない。とんでもない自己中で、ずるくて、からっぽなのよ。僕はそんなあの子の全てになってあげたい。あの子の望むものも幸せも、僕が一番よくわかってる……」
そして、自分を正当化するためにまた相手を傷つけるのだ。
なんだか首の当たりがざわざわとして落ち着かず、後ろでざっくりと結んでいた髪をほどいて結び直す。つるつると指通りの良い髪に触れながら、出雲くんがこの髪を巻いてくれたり、編み込みを入れてくれたり、よく遊んでいたことを思い出す。
あんな日々をずっと過ごしていたかった。
椎名ちゃんは黙って僕が髪を直し終わるのを待ち、結んで肩から前にかけた腰まで流れる髪に指を入れ、梳いた。さらさらとすぐに髪が指の隙間から落ちていくのを眺めながら、静かに問いかける。
「彼が監禁を選んだら……本当に、君は大人しく身を引く?」
「……ええ? そうよ」
つい意味ありげな返し方をしてしまった。
椎名ちゃんはうつむき加減のまま、上目遣いに僕を見る。
「そんな目を向けないで」
怒ればいいのに、僕を見捨ててまた邪魔でもすればいいのに、その目はもの鬱げに、目頭の下に皺を刻みながら細められるだけだ。
責められるよりもそれはずっと辛い。
見ていられず、視界のすみにとらえているのも嫌で、背を向ける。
「正攻法があるのなら教えてよ。やってみせなさいよ。僕が好き好んでこんな方法選んだと思う? どうしたって諦めきれないからに決まってるじゃない!」
もうこれ以上話すことはない。何を言われたってこの人は外野だ。何も知らないから正論を軽く口にする。
仕方ない、仕方のないことなのだ。
あいつらも僕を利用したのだから、僕がしてることだってなんてことない。
一人で勝手にその場を後にし、本来の目的である店頭の看板へ向かう。タイヤのストッパーを足でひっかけて外し店内へ運ぼうとしたら、背後からにょっきりと手が現れて扉を開けた。
「帰りなさいよ」
「せっかく来たんだ。店長の作るカクテルが一杯飲みたいな」
「あんたと話すことはもうない」
「話さなくていいよ。俺のことは気にしないで片付けでもしてればいいさ」
もうバイトの子たちもみんな帰った。ここにいても、家に帰っても一人だ。
酷いことを言ったお詫びだなんて本人には言わないが、そのまま黙って店内へ招き入れ、椎名ちゃんの好きなウイスキーをベースにカクテルを作る。
「マンハッタンか」
出されたショートカクテルに鼻先を近づけたあと、口をつける。
「切ない恋心、だっけ。店長、きみ、こんな気取ったことして相当弱ってるんじゃないかい?」
「話すことはないって言ったでしょ」
笑ってグラスを掲げる椎名ちゃんに、曖昧な笑顔を返す。でも、それだけだ。
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出漁時間は早朝や深夜に出漁し、市場が開くまでに港に戻り魚の選別を終えるという仕事が日常である。
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専門知識は魚類の生態や漁場に関する知識、漁法の技術と言えるだろう。
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漁師の仕事は、自然を相手にする厳しさもあるが大きなやりがいがある。
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もう一人の主人公は木下英二。28歳。
地元で料理旅館を経営するオーナー。
翔太がアルバイトしている地元のガソリンスタンドで英二と偶然あったのだ。
この物語の始まりである。
この物語はフィクションです。
この物語に出てくる団体名や個人名など同じであってもまったく関係ありません。
アプリで都合のいい男になろうとした結果、彼氏がバグりました
あと
BL
「目指せ!都合のいい男!」
穏やか完璧モテ男(理性で執着を押さえつけてる)×親しみやすい人たらし可愛い系イケメン
攻めの両親からの別れろと圧力をかけられた受け。関係は秘密なので、友達に相談もできない。悩んでいる中、どうしても別れたくないため、愛人として、「都合のいい男」になることを決意。人生相談アプリを手に入れ、努力することにする。しかし、攻めに約束を破ったと言われ……?
攻め:深海霧矢
受け:清水奏
前にアンケート取ったら、すれ違い・勘違いものが1位だったのでそれ系です。
ハピエンです。
ひよったら消します。
誤字脱字はサイレント修正します。
また、内容もサイレント修正する時もあります。
定期的にタグも整理します。
批判・中傷コメントはお控えください。
見つけ次第削除いたします。
自己判断で消しますので、悪しからず。
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