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3.ケゼルスベールへ

湿原

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「うわあああああん!!」

 厚く雲が垂れ込める空を見上げて、アカシュは小さく溜息を吐いた。どう考えても助かる道が思いつかず、ただ呆然と空を見つめる。
 その頭の後ろあたりからは、えぐえぐとしゃくり上げる声が聞こえてくる。

「あたしがあと十年育ってたらあ」
「あっくーん! 誰かあっくん助けてええええ!」

 力の限りに泣きわめく声としゃくり上げる声がサラウンドで響いているが、ここを通り掛かる人なんて期待できるわけがない。
 時間の問題だ。とうとう自分もここで最期か。

「あー、お前らいいか。これに懲りたら考えなしにどこでも突っ込むんじゃないぞ。それと、俺が沈んだ後は……」
「なんだ、もう諦めるのか。根性がないな」
「へ?」

 視界が陰ったと思ったとたん、ぐいと身体が持ち上がった。いったい何がと首を捻ると、普通の軍馬の倍はありそうなどでかい黒馬に跨った、普通の男の倍くらいありそうな体格の全身甲冑が、片手でアカシュの襟首を掴んで持ち上げていた。

「イーターさん、この辺りならしっかりしてる」

 もうひとり、覚えのない声に首を巡らせると、さっきまでぎゃあぎゃあと泣き喚いていたイァーノの横にも、見たこともない獣に跨った人間がふたりいた。



「助かった。ほんと助かった。マジでもうダメだと思った。俺はアカシュだ」
「僕はヴィトで、彼女はオージェ。彼はイーターさんです」
「あたしリコー!」
「私はア・イァーノ!」

 どうにか助かったものの、荷物も何もかもが泥まみれだった。もちろん着替えも含めてだ。
 湧き水もすぐ見つかって首尾よく身奇麗にしたものの、着替えがなくてはどうにもならない。アカシュもイァーノも借りた毛布に包まっていた。洗って広げた荷物は、火の力を操れるリコーが乾かしているところだ。

「ときに、なぜこのようなところに竜がいる? “竜の支配地ドラコニス”は遥か西のはずだが」

 自分のことを言われて、リコーがきらりと目を輝かせて顔を上げた。
 つやつやと鮮やかな赤い鱗のリコーは、どこからどう見ても竜の幼体だ。しかも、中型犬程度の大きさからは、生まれて十年も経っていないと伺える。

「それに、そやつは確か“角持つものサティア”ではなかったか」

 ア・イァーノは角を揺らし、短い尻尾をはたはたと動かして、こくんと頷いた。
 こちらもまだとても成体とは言い難い年齢だ。リコーとさほど変わらないくらいではないか。

「竜もサティア族も、大人になるまでは郷を離れないものだって聞いたけど」

 そう言いながら、ヴィトは少し胡乱な目でアカシュを見てしまう。どう見ても人間の彼が、なぜ幼いふたりを連れ回しているのかと。

「――成り行きだ」
「成り行きなの?」

 オージェがおうむ返しに聞き返す。いったいどんな成り行きがあれば、こんな状況になるというのか。

「こいつらは興味本位に人里に出てきて、奴隷商人にとっ捕まったらしい」

 思い切り顔を顰めてアカシュが疲れた声で言った。
 ふたりが奴隷商人の元から逃げ出したところに、居合わせてしまったのが運の尽きだった。なぜか手を貸す羽目になったアカシュが、なぜか西まではるばる送り届けることにもなってしまったのだ、と。

「軍国で汽車が使えれば、西の国境まであっという間かなと思ったんだ。なのに、なんか妙に検問が厳しくてな」
「……うん」

 はあ、と溜息を漏らすアカシュに、ヴィトはどことなく決まり悪げに頷いた。
 アカシュの横では、リコーとイァーノが「汽車、乗りたかったのになあ」と恨めしそうに口を尖らせる。
 ――その検問は、たぶん、いや、間違いなくヴィトのせいだろう。

「イァーノだけなら問題ないが、さすがにリコーがバレたら今度は軍に捕まるだろ。竜の仔なんて、レア中のレアだ。そうなったら、“竜の支配地”から竜たちが出張ってこないわけがない。つまり、人竜戦争だ。さすがにヤバい。責任取れない」

 アカシュはなおもブツブツと「どうしてこう俺ばかり貧乏くじ引くんだろう」などと続ける。しかし、ヤバいと言いつつ連れて歩くのだから、このアカシュという人間は相当人が好い。
 クラエスを思い出して、ヴィトはつい笑みを浮かべる。

「でも、竜って、“緩衝地帯クィダム”を越えられないんじゃ?」
「なんで?」

 首を傾げるオージェにリコーも頭をもたげる。

成竜おとなは行っちゃだめって言ったけど、あたしは越えられたもん。だから、竜は“緩衝地帯”を越えられるよ」

 どことなく得意そうな顔で目を細めるリコーに、アカシュはまた嘆息する。そういえば、とヴィトも思い出したように口を開いた。

「神話の時代、創世神オル自らが、竜は“竜の支配地”に、それ以外の種族は東に住むようにと定めて、間にはどちらのものでもない“緩衝地帯”を置いたんじゃなかった?」
「そうなんだ。じゃ、リコーちゃんは決まりを破っちゃった感じ?」
「えっ!」

 くすりと笑うオージェに思わず目を瞠り、リコーはカパッと口を開けてきょろきょろと目を泳がせた。

「え、えっと、もしかして、もしかして、そんな感じ?」
「それ、まずいんじゃない?」
「まずいかな?」

 リコーはむむむと唸りだす。無意識にか、尻尾でぺちぺちと地面を叩きながら、「あたし、怒られちゃうかな」と呟いている。
 アカシュは呆れてまた溜息を吐く。このふたりを拾ってから、自分は溜息ばかり吐いているんじゃないだろうか、と。

「俺が何度もそう言ってたのに、ここでやっと理解したのか」
「でも、でも、ちょっと見に出てきただけで、あたしは悪くないもん。あたしのことこっちまで連れてきたのは、人間だもん」
「リコーちゃんは、ちょっとお外を見たかっただけなんだよ!」

 慌てるリコーの助け舟とばかりに、イァーノが声を上げる。

「私もだし、わかるんだから!」
「そう! そうなの!」

 つまり、このふたりは似た者同士ということなのだ。
 しっかりと手を握りしめて、うるうると目を潤ませながら見つめるふたりに、アカシュはやっぱり溜息を吐いた。



 これも何かの縁か、と今夜は共に野営をすることにして、イーターはいつものように狩りに出た。
 こんなじめじめ湿った土地にも食べられる獲物がいるのか。感心するヴィトは、アカシュと一緒に、薪になりそうな木を集める。
 その間に、リコーとイァーノは周りの茂みから食べられる草を摘んだ。

「いやほんと助かる。軍国迂回してなんとかって考えたけど、湿地帯には蛙人グァーグ蜥蜴人アギリスもいるだろ。おまけにそこら中に底なし沼があって、うっかりするとハマったまま抜けられなくなるんだよ。
 どう考えてもあのふたりを連れてて無事で済むわけないし、詰んだかなと思ってたんだよな。実際沈むところだったしな」
「アカシュさん?」

 なんとなく不穏な空気に、ヴィトは眉を寄せる。へらへらと笑うアカシュの言葉が、どうにも調子いいように感じるのだ。

「君らがどこ目指してるかは知らないけど、この湿地帯抜けるまででいいから同道させて欲しいんだよね」
「あのね、おとうちゃんが言ってた! 黒炎城の騎士は、二本足なうえに見た目は妙だけど、信用できるし、すっごく強いんだぞって!
 あの鎧の大きい人、黒炎城の騎士でしょ!?」
「あっくんのこと片手でひょいだったもんね!」

 リコーが期待に満ちた目でヴィトを見る。イァーノも目を輝かせる。
 オージェを見ると、くすくす笑っていた。

「イーターさんに聞いてみて、良いって言ったら……」
「いやあ、ありがとうありがとう! これでなんとか湿地を超えられそうだ!」
「あの、まだ決まったわけじゃ」
「大丈夫、たぶん大丈夫!」

 やったー、と小躍りしながら喜ぶ幼いサティアと竜と、よかったを繰り返すアカシュにヴィトとオージェは顔を見合わせる。



「良いのではないか。その蛙人グァーグ蜥蜴人アギリスがどのようなものかは知らぬが、目と手が多いに越したことはなかろう」

 戻ってきたイーターは、こともなげにそう言ってのけた。頷きながら、ヴィトとオージェはイーターの持ち帰った獲物に頬をひきつらせる。

「うん……イーターさん、ところで、今日は、蛇と、蛙なんだ……」
「このような土地ではご馳走だぞ」
「でも、これ、どうやって……」
「ああ、食べたことない?」

 アカシュが横からひょいと手を出した。蛇を手に取り、ナイフで実に手際よく皮を剥いでいく。

「こうやって皮を剥いだら適当に切って。骨は面倒だから、食べるとき気をつけて取り除くようにして……」
「――慣れてますね」
「まあ、俺、傭兵だし。こういうのよくやるから」
「ふうん」
「あ、火はよく通せよ。寄生虫がいるとまずいからな」
「えっ」
「リコー、薪を乾かして火を起こしとけ」
「はあい」

 積んだ薪にふうふうとリコーが息を吹きかける。どうやら、竜の力で水分を飛ばしているらしい。程よく乾いたところで、ポッと音を立てて火がともる。
 見よう見まねでヴィトも蛇を捌き始めた。イァーノは捌き終わった肉に塩と香草をまぶして、集めてきた野草と一緒に大きな葉に包んでリコーに渡す。
 リコーはその包みを燃える焚き火の中にひょいひょいと突っ込んでいった。
 オージェはお湯を沸かし、簡単なスープを作る。



 食事を終え、熾火に灰をかけるころには、リコーとイァーノは団子のようにひと塊りに丸くなって眠っていた。アカシュはそのふたりの姿にまたひとつ溜息を吐いて、まとめて毛布に包んでしまう。
 それから、アカシュとイーターは、湿地帯の進み方について話をしているようだった。ヴィトもオージェもさすがに疲れが出たのか、欠伸を噛み殺しながら毛布を引き寄せ、ふたりの声を流し聞く。

「オージェ」
「ん、なあに?」

 少し眠そうな、間延びした声でオージェが応える。

「僕は何だと思う?」
「え? 何って?」
「ずっと考えてたんだ。僕はいったい何だろうって。
 最初は神王の落とし胤と言われて、次は変な女に自分と同じ作り物だと言われて、夢の中の僕はどうやら神王自身で……」
「ヴィトはヴィトだって、言ったじゃない」

 まったくもう、と言いたげな声音でオージェが即答する。まだそんなことで思い悩んでいるのかと。

「でも、やっぱりわからないんだ。本当に作られたものなら、僕はどこから現れたんだろう。あの女は、僕が神王の命令を聞いて当然だという態度だった。なら、僕は神王に仕えるものとして作られたんだろうか。
 でも、僕は神王に従わなければなんて、これっぽっちも感じないんだ」
「ヴィト」

 ヴィトは苦笑を返す。
 ゴーレムのように造られたものなら、造り主には絶対服従のはずだ。なのに、自分の中からはそんな要求も義務感も何ひとつ湧いてこない。

「なんだか、僕は中途半端だな」
「中途半端?」
「だって、僕が何者なのかは諸説あるのに、どれが正しい僕の正体なのかがさっぱりわからない」

 怪訝そうな顔をしていたオージェが、急に笑いだす。

「やだなあ、ヴィト」
「オージェ?」
「たとえほんとうの人間だとしても、自分の正体を正確に知ってる人なんて、そうそういないわよ」
 おかしいと笑いながら、オージェはヴィトの背を優しく優しく撫でている。
「クラエスさんなんて、しょっちゅう言ってたわよ。自分で自分がわからない! って。だから皆そういうものなのよ」
「でも……」

 それは、自分の場合と少し違うのではないか。
 そう返そうとしたら、オージェが指を押し付けて言葉を止める。

「それに、人間だって、言ってみれば創世神オルに作られたものよ。ヴィトと一緒」
「それは、ちょっと乱暴な意見だと思う」
「どこが?」

 オージェは少し大げさなくらい、いっぱいに目を見開いて驚いた表情を作った。その表情がおもしろくて、ヴィトはつい吹き出してしまう。

「昨日と今日はたいして休まなかったんだから、もう寝ましょう。
 人って、お腹が空いてる時と寝不足の時はロクなことを考えないって、クラエスさんも言ってたし」
「――そうだね」

 ほら、と草の上をパンパンと示して、オージェはすっぽり毛布に包まりごろんと横になる。そこに並んで、ヴィトも横になる。
 たしかに少し疲れを感じている。
 だから、ついうだうだとつまらないことを思い悩んでしまったんだろうか。
 ヴィトは小さく息を吐くと目を瞑った。
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