俺は夜、社長の猫になる

衣草 薫

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第一章 猫になる条件

2.面接での再会

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 あの男は、最後まで名前を名乗らなかった。

「うちの会社で中途採用をしている」

 それだけ言って、テーブルの上に一枚の求人票を置いた。

『鷹宮ホールディングス  
 明治期創業。海運・倉庫・貿易・不動産・海外投資を中核に、  
 現在は国際物流のDX化・輸出入管理システムの開発を進めている総合企業グループ。』

 紙の上には、俺には縁のなさそうな言葉が並んでいた。
 日本有数の大企業だということくらいは、俺にだってわかる。

 ――無理に決まっている。分不相応にもほどがある。

 そう思ったはずなのに、家に帰ってからもその紙を何度も開いてしまった。

 翌朝、妹の萌から電話がかかってきた。

「お兄ちゃん、……まだ再就職、決まってないの?」

 遠慮がちな声だった。
 気を遣っているのが、痛いほどわかる。

「うん……まだだな」

 そっか、と萌は小さくため息をついてから続けた。

「あのさ……やっぱり、私……」

 続きは、聞かなくてもわかった。
 夢を諦めようとしているのだ。
 学校を中退して就職しようか、と言うのだろう。

「大丈夫だ、萌」

 反射的に、そう口にしていた。

「実は、採用してくれそうな会社があるんだ」

「え……ほんと?」

 途端に、声が明るくなる。

「うん。だから、学費のことは心配するな」

 笑って誤魔化した。
 振り込み期限まで、もう時間はほとんどない。

 俺は男からもらった求人票へ応募手続きをすることにした。

 学歴も経験も語学能力も、何一つ条件を満たしていない。
 返事すら来ないだろうと思った。

 しかし書類を出して、三日後。

 まさかの、書類選考通過の連絡が届いた。

 正直、何かの手違いだと思った。

 面接当日。

 ガラス張りのきれいで新しい本社ビルに圧倒された。
 こんな場所に足を踏み入れることすら初めてで、緊張せずにはいられない。

 受付で名前を告げると、会議室に案内された。
 二人の面接官が座っていて、俺の履歴書に視線を落としている。

「……まずお聞きしたいのは」

 年配の男性が、ため息まじりに切り出した。

「前職の退職理由。これは、事実ですか?」

 場の空気が、一気に重くなった。

 正直に話せば、不採用。
 けれど濁せば、突っ込まれる。そして逃げ切ることなんてできない。

 それでも、嘘だけはつく気にはなれなかった。
 ありのままを言うしかない。

「解雇されたのは本当です。でも……盗んでいません。会社の金を持ち出した事実はありません」

 言い切った瞬間、相手の表情がわずかに変わる。
 信じたわけでも疑っているわけでもない。ただ、「厄介だ」と判断された顔だった。

「……そうですか」

 もう一人の面接官が苦笑いを浮かべ、俺の履歴書をファイルに戻した。

「残念ですが、今回はご縁が――」

 この言葉の続きを、もう何度聞いたかわからない。

 そのときだった。
 ノックもなく、会議室の扉が音を立てて開いた。

「失礼」

 低いけれどよく通る、凛とした声。
 
 反射的に顔を上げる。

 そこに立っていたのは――
 雨の夜、俺に声をかけた、あの男だった。

 一瞬、思考が止まる。

 同じスーツ姿なのに、纏っている空気が違う。
 入っただけで、会議室の重さが塗り替えられた気がした。

 面接官たちが、慌てて立ち上がる。

「社長」

 その一言に、喉がひくりと鳴った。

 ……社長?

 男――鷹宮一成は、俺を見ると、ほんのわずかに目を細めた。
 夜のカフェで感じたのと同じ視線。

 優しく甘い、それでいて逃がさないという意思を感じる目だ。

「書類選考は、俺が通した」

 淡々とした口調だった。

「条件は満たしていない。だが、問題ない」

「ですが、社長。この方は――」

「俺の専属として……採用する」

 会議室が静まり返る。

 意味が、わからなかった。
 社長の専属? 俺が?

 喉の奥が、ひりつく。

 問い返す前に、鷹宮は続けた。

「日向葵。明日から出社してもらう」

 名前を呼ばれただけで、胸の奥がざわつく。
 あの夜、名前すら聞かれなかったことを思い出して。

「ついて来てくれ。少し話そう」

 俺はカバンを抱えて立ち上がった。
 呆気にとられる面接官たちを尻目に、会議室を後にした。

 鷹宮は長い足で廊下をスタスタと歩く。ついて行くのがやっとだった。
 歩きながらこちらをちらりと見て言った。

「前の会社の寮を早く出ないとまずいのだと言っていたな」

「え、あ、……はい」

「安心していい。住む場所も用意してある」

 エレベーターの前で足を止め、振り返った。

「あ、ありがとうございます」

 視線が絡み合ったまま、数秒の沈黙が流れた。
 ドクンと心臓が震える。

「――ただし。条件がある」

 鷹宮は俺の心の奥底を覗くような鋭い瞳で俺を見ていた。
 まるで鎖で縛り付けられてしまったかのように、俺は視線を逸らせられなかった。
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