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第一章 猫になる条件
6.「これは仕事だから」
午後になって村井が仕事を持ってきた。
鷹宮が会議で使う簡単な資料を作ってほしいというのだ。
そして夕方、出来上がった頃にまた村井が取りに来た。
「日向くん、仕事終わったらもう上がって大丈夫だよ」
香苗さんの声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「お疲れさまでした」
廊下の窓から外を見た。もう薄暗い。
今日も――夜が来る。
エレベーターに乗り込んだとき、内ポケットの中でスマホが震えた。
[今日は早めに帰って、俺を待て]
短いメッセージ。
命令形。
昼と夜。
その境界線が、はっきりと引かれた気がした。
会社では、ただの新人社員。
家では、社長の猫。
――溺愛してた猫の代わり。
会社からの帰り道、夕方の風が思ったより冷たかった。
昼間は春らしい陽気だったのに、日が落ちかけると空気が変わる。
コートの前を軽く押さえながら歩いた。
桜はまだ咲かず、蕾ばかりだ。
三寒四温。
暖かさに油断すると、こうして冷え込む。
誰もいない部屋へ帰宅する。
扉を閉めた瞬間、外の世界と切り離された。
靴を揃え、深く息を吸う。
ダイニングテーブルの上に用意されていた一人分の夕食を食べ、
昨日と同じように風呂に入ってブルーの毛色のルームウェアに着替えた。
朝、家を出る前に、帰宅したらそうして待つよう村井に言われていたのだ。
――これは仕事だ。
自分に言い聞かせる。
猫のふりなんて、感情を切り離さなければやっていけない。
おまけに昨日何もされなかったからと言って、今日も何もされないという保証はどこにもないのだ。
何かされるのか……?
鼓動が早まり、背筋に汗が伝った。
しばらくすると玄関から物音がした。鷹宮が帰ってきたのだ。
そのまま足音は鷹宮の寝室の方へ向かい、やがて浴室の扉が閉まる音がする。
シャワーの水音が、遠くでかすかに響く。
俺はキャットタワーに視線を預けたまま、動かずに待った。
しばらくして、廊下を歩く気配。
振り向くと、鷹宮がリビングに入ってきた。
スーツ姿ではない。
スラックスに、白いワイシャツだけ。
いつもは整髪料で上げられている前髪が、風呂上がりでさらりと額に落ちていた。
それだけで普段の鋭さが少し和らいで見えて、別人みたいに落ち着いた雰囲気になる。
俺は、思わず視線を逸らした。
……まずい。
猫として自然に振舞わなきゃいけない。
鷹宮は何も言わず、ソファに腰を下ろし、タブレットを手に取った。
視線は合わない。
それが、かえって緊張を高める。
俺はソファの端に猫用クッションを抱えて座る。
喋らない。
ただ、そこにいる。
仕事だ。これは仕事。
繰り返し、自分に言い聞かせる。
しばらくして、鷹宮が立ち上がった。
ゆっくりと近づいてくる気配。
心臓が、勝手に早まる。
――怖い。
何をされるのだろう。
でも、じっとしていないと。
自分で、逃げ出そうとする自分を押さえつける。
鷹宮の手が、俺の肩に触れた。
撫でるわけでもない。
ただ、そこに置かれるだけ。
なのに、じんわりと熱が伝わってくる。
体が、固まる。
「……力、入れすぎだ」
低い声。
反射的に謝りそうになって、慌てて口を閉じた。
猫は喋らない。
指が、ゆっくりと俺の背中をなぞる。
確認するみたいな手つき。
まるで猫の体調を確かめるような。
撫でられているわけじゃない。
慰められているわけでもない。
それなのに。
鷹宮の指が背中をなぞるたび、少しずつ力を抜いていくのが分かる。
体の奥が、ゆるみかける。
鷹宮は何も言わず、しばらく俺の背に手を置いたまま、動かなかった。
時間の流れがやけに遅く感じた。
沈黙が、重い。
やがて背中に触れていた手が離れた。
ほっとするはずなのに、胸の奥に妙な空白が残った。
――今、安心したのか?
自分に問いかけて、すぐ否定する。
違う。
仕事が一段落しただけだ。
俺は猫なのだから、飼い主に触れられたってなんともない。
鷹宮は再びソファに戻り、何事もなかったようにタブレットを操作し始めた。
俺は、その横顔を見ないように、視線を落とす。
静かな夜。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、声をかけられた。
「もう、休め」
昨日と同じ合図。
俺は立ち上がり、自分の寝室へ向かう。
背中に視線を感じた気がしても、振り返らない。
鷹宮はついて来なかった。
部屋で一人、ベッドに腰を下ろし、息を吐く。
今日も、何も起きなかった。
背中を触れられただけ。
声をかけられただけ。
よかったじゃないか、変なことをされずに済んでいるんだから。
なのに、どうしてか胸の奥がざわついている。
布団に潜り込み、目を閉じる。
――これは雇ってもらった条件。
だから、俺はまじめに猫のふりをすればいい。
それだけのことだ。
心の中で自分に言い聞かせた。
そう思わないと、
自分が何かを期待してしまっていることを、
認めなければならなくなるから。
闇の中で、心臓の音がしばらく騒がしかった。
鷹宮が会議で使う簡単な資料を作ってほしいというのだ。
そして夕方、出来上がった頃にまた村井が取りに来た。
「日向くん、仕事終わったらもう上がって大丈夫だよ」
香苗さんの声に、少しだけ肩の力が抜ける。
「お疲れさまでした」
廊下の窓から外を見た。もう薄暗い。
今日も――夜が来る。
エレベーターに乗り込んだとき、内ポケットの中でスマホが震えた。
[今日は早めに帰って、俺を待て]
短いメッセージ。
命令形。
昼と夜。
その境界線が、はっきりと引かれた気がした。
会社では、ただの新人社員。
家では、社長の猫。
――溺愛してた猫の代わり。
会社からの帰り道、夕方の風が思ったより冷たかった。
昼間は春らしい陽気だったのに、日が落ちかけると空気が変わる。
コートの前を軽く押さえながら歩いた。
桜はまだ咲かず、蕾ばかりだ。
三寒四温。
暖かさに油断すると、こうして冷え込む。
誰もいない部屋へ帰宅する。
扉を閉めた瞬間、外の世界と切り離された。
靴を揃え、深く息を吸う。
ダイニングテーブルの上に用意されていた一人分の夕食を食べ、
昨日と同じように風呂に入ってブルーの毛色のルームウェアに着替えた。
朝、家を出る前に、帰宅したらそうして待つよう村井に言われていたのだ。
――これは仕事だ。
自分に言い聞かせる。
猫のふりなんて、感情を切り離さなければやっていけない。
おまけに昨日何もされなかったからと言って、今日も何もされないという保証はどこにもないのだ。
何かされるのか……?
鼓動が早まり、背筋に汗が伝った。
しばらくすると玄関から物音がした。鷹宮が帰ってきたのだ。
そのまま足音は鷹宮の寝室の方へ向かい、やがて浴室の扉が閉まる音がする。
シャワーの水音が、遠くでかすかに響く。
俺はキャットタワーに視線を預けたまま、動かずに待った。
しばらくして、廊下を歩く気配。
振り向くと、鷹宮がリビングに入ってきた。
スーツ姿ではない。
スラックスに、白いワイシャツだけ。
いつもは整髪料で上げられている前髪が、風呂上がりでさらりと額に落ちていた。
それだけで普段の鋭さが少し和らいで見えて、別人みたいに落ち着いた雰囲気になる。
俺は、思わず視線を逸らした。
……まずい。
猫として自然に振舞わなきゃいけない。
鷹宮は何も言わず、ソファに腰を下ろし、タブレットを手に取った。
視線は合わない。
それが、かえって緊張を高める。
俺はソファの端に猫用クッションを抱えて座る。
喋らない。
ただ、そこにいる。
仕事だ。これは仕事。
繰り返し、自分に言い聞かせる。
しばらくして、鷹宮が立ち上がった。
ゆっくりと近づいてくる気配。
心臓が、勝手に早まる。
――怖い。
何をされるのだろう。
でも、じっとしていないと。
自分で、逃げ出そうとする自分を押さえつける。
鷹宮の手が、俺の肩に触れた。
撫でるわけでもない。
ただ、そこに置かれるだけ。
なのに、じんわりと熱が伝わってくる。
体が、固まる。
「……力、入れすぎだ」
低い声。
反射的に謝りそうになって、慌てて口を閉じた。
猫は喋らない。
指が、ゆっくりと俺の背中をなぞる。
確認するみたいな手つき。
まるで猫の体調を確かめるような。
撫でられているわけじゃない。
慰められているわけでもない。
それなのに。
鷹宮の指が背中をなぞるたび、少しずつ力を抜いていくのが分かる。
体の奥が、ゆるみかける。
鷹宮は何も言わず、しばらく俺の背に手を置いたまま、動かなかった。
時間の流れがやけに遅く感じた。
沈黙が、重い。
やがて背中に触れていた手が離れた。
ほっとするはずなのに、胸の奥に妙な空白が残った。
――今、安心したのか?
自分に問いかけて、すぐ否定する。
違う。
仕事が一段落しただけだ。
俺は猫なのだから、飼い主に触れられたってなんともない。
鷹宮は再びソファに戻り、何事もなかったようにタブレットを操作し始めた。
俺は、その横顔を見ないように、視線を落とす。
静かな夜。
時計の針が進む音だけが、やけに大きく聞こえる。
やがて、声をかけられた。
「もう、休め」
昨日と同じ合図。
俺は立ち上がり、自分の寝室へ向かう。
背中に視線を感じた気がしても、振り返らない。
鷹宮はついて来なかった。
部屋で一人、ベッドに腰を下ろし、息を吐く。
今日も、何も起きなかった。
背中を触れられただけ。
声をかけられただけ。
よかったじゃないか、変なことをされずに済んでいるんだから。
なのに、どうしてか胸の奥がざわついている。
布団に潜り込み、目を閉じる。
――これは雇ってもらった条件。
だから、俺はまじめに猫のふりをすればいい。
それだけのことだ。
心の中で自分に言い聞かせた。
そう思わないと、
自分が何かを期待してしまっていることを、
認めなければならなくなるから。
闇の中で、心臓の音がしばらく騒がしかった。
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