俺は夜、社長の猫になる

衣草 薫

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第二章 猫であることの幸福

7.猫の生活ルーティン

 鷹宮の家で暮らすようになって、三日が経った。

 朝は普通に会社へ行き、夕方になればここへ帰る。
 昼は社員として働き、夜は――猫になる。

 帰宅したら夕食をとって、風呂に入る。
 ブルーの体毛みたいな服を着て、リビングで鷹宮の帰りを待つ。

 それが、俺の中で“夜の手順”になっていた。
 猫への切り替えだ。

 休みの日、前の会社の独身寮へ荷物を取りに行った。

 鷹宮の高級マンションに目が慣れてきたせいか、独身寮は以前にも増し、古くて、ぼろく見えた。
 ひびの入った外壁、台風の時に取れたままの雨どい、錆の浮いた階段、歩くだけで沈む畳。

 高校を出て入社してからずっと暮らしていた四畳半の部屋。
 いざ片付けてみると、荷物は拍子抜けするほど少なかった。

 布団も、机も、棚も、全部備え付け。
 俺の物といえば、少しの着替えと数冊の本と細々した生活用品くらいだった。

 それらは段ボール一箱に納まった。

 管理人室で簡単な手続きを済ませ、箱一つを抱えて寮を出た。
 古い木造二階建ての建物を振り返る。

 ――俺、本当にあそこに住んでたんだよな。

 妙な実感のなさが残った。

 鷹宮の家に戻って、その箱をクローゼットルームの隅に置いたときも同じ感情が湧いた。
 生活しているはずなのに、「自分の場所」という感じがしない。

 俺はここにいる。
 でも、住んでいるわけじゃない。

 ……飼われている。

 そんな言葉が浮かんで、慌てて打ち消した。

 ――違う、これは雇用契約みたいなものだ。

 リビングへ行くと、窓ガラスの向こうに夕焼けに染まった景色が見えた。
 何度見ても、都心を見下ろすこの眺めに慣れることはない。

 タワマンの上層階。こんな場所に住んでいる鷹宮との身分の差を痛感してしまう。

 鷹宮は朝から出かけているのだが、夕方には帰ると言っていた。
 彼が帰るより先に入浴して、ルームウェアに着替えて待っていよう。

 せっかく広々とした大理石の浴室があるのだ。湯を沸かして、ゆったり入ってやろうと思った。

 浴室にあったバスソルトを、スプーンですくって入れてみる。
 何でも好きに使っていいと言われているのだ。

 水面に小さな花びらが浮かび、辺りにバラのような上品な香りが広がる。
 お湯の中へ肩まで沈むと、ようやく体の力が抜けた。

 風呂を出てから、着替えを持ってくるのを忘れていたことに気がついた。

 リビングからは物音が聞こえない。鷹宮はまだ帰っていないに違いない。
 何の疑いもなく、髪を拭きながら廊下へ出る。

 そのときだった。

 廊下に明かりがつき、玄関に人影が見えた。

 ――え?

 一瞬、思考が止まる。

 そこに立っていたのは、鷹宮だった。

 ちょうど帰ってきたタイミングだったのだろう。

 俺はまだ、何も着ていない。
 全てをさらけ出した無防備な格好だった。

 向かい合ったまま、立ち尽くした。
 時間が止まったみたいだった。

 鷹宮の見開いた目が、確かに俺を捉えていた。

 遅れて、血が一気に顔へ上る。

「しまっ……」

 視線が脇腹に落ちそうになった瞬間、反射的に腕で隠した。
 続いてタオルで体の前を覆う。

 喋れない時間なのに、喉が震えた。

 クローゼットルームの扉へ駆け込み、ドアを閉めた。

 心臓がうるさく音を立てていた。

 ――脇腹を見られた。

 猫として過ごさなきゃいけないのに。

 人間の裸を見せてしまった。

 下着を穿き、ルームウェアに袖を通す。

 ――何やってるんだ、俺。

 油断しすぎだ。

 ベッドに腰を下ろし、息を整える。

 さっきの光景が、勝手に浮かぶ。

 鷹宮の視線。驚いた顔。

 あんな顔、初めて見た。

 猫として俺を扱うときの優しい目つきとは全然違った。

 だから、胸がざわつく。

 後悔している理由は、本当は分かっている。

 人間としての裸を見せてしまったからではない。
 猫っぽくない行動をしてしまったからでもない。

 あの人に、脇腹のあれを見られたこと自体が、ひどく恥ずかしい。

 それはどこかで妙な期待をしてしまっているからだ。

 ――馬鹿か。

 自分で自分を叱る。

 俺は鷹宮の恋人でも、家族でもない。
 役目としてここにいるだけだ。

 少しして、俺は深呼吸して立ち上がった。

 ブルーの毛色の服を整え、表情を消す。

 人間のままじゃ、だめだ。

 廊下に出て、リビングへ向かう。

 ここでは――ちゃんと、猫でいなきゃいけない。

 鷹宮はソファに腰かけ、書類を見ていた。

「葵、おいで……」

 呼ばれて、ソファのいつもの場所に座る。
 
 書類を見ている鷹宮の表情はいつもと変わらない。
 いつもと同じ夜が始まったことに内心ほっとした。

 俺は”猫”なんだ。
 飼い主が猫の裸を見た。そんなの何でもないことじゃないか。

 ――気にしているのは俺だけだ。
 もう気に病むまいと思っても、裸を見られたときの鷹宮の視線がまだ肌に残っている気がして、
 肌の上がじんわりと熱を持ったままだった。

 本物の猫なら、こんな心の奥の感情と向き合わなくて済むのに。

 そう思いながら、俺は今日も同じ場所でクッションを抱えて背中を丸めた。
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