女暗殺者の嫁もまた暗殺者

とも

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不協和音はぞろりと

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 スマホが振動する音で、恵叶と紗美は目を覚ました。リズミカルな振動音。緊急用にだけ設定しているこの音に、恵叶は飛び起きる。
 えっ、何?
 急いで画面を確認すると、ライリーからだった。
 至急本部に来るように、とだけ書かれたメッセージが、暗闇の中で浮かび上がる。
 内容は何もないが、その簡潔さが逆に文面で伝えられない深刻さを表しているようで、恵叶はひやりとしたものを感じた。
 少なくともこの五年、午前四時に呼び出されたことはない。
 着替えていると、ベッドの向かい側で、紗美も同じように着替えを始めていた。
「紗美、ねえ」
 何て言い訳しようか考えていると、紗美は目も合わせないまま言った。
「ごめんね、恵叶。私、行かなくちゃ。仕事で呼び出されちゃった」
「そう。実は私もなの」
「え? 恵叶も?」
 驚いたように、紗美が動きを止める。
 紗美は旅行会社に勤めている。こんな時間に呼び出しがあるとは思えないが、それについて恵叶が追求することはできなかった。
 自分が仕事について全てを偽っている以上、職場の話題を出したくない。
「異世界で何かあったのかしら」
 紗美が髪を梳きながら言う。二人とも異世界に関わる仕事をしており、同時に呼び出しがあった以上、至極当然の疑問だった。
「そうかもね」
「恵叶のところには何て?」
「さあ。ただ早く来るようにって。……見積もりに重大なミスがあったのかも」
「そうなの? 災難ね」
「うん」
 不手際で呼び出されたと思わせるために、恵叶はネクタイを手に取る。
 昔の人の感覚はわからないが、これは首輪をかけられた犬を連想させるため、今の時代、謝罪の場や犯罪都市、レトロファッションでしか見かけないアイテムとなっている。
「恵叶、こっち」
 振り返ると、紗美がネクタイを軽く引っ張った。慣れた手つきでネクタイを結んでいくのを見て、恵叶は驚く。
「……どこで覚えたの?」
「趣味よ」
 きゅ、と紗美が結び目を調節し終えると、上目遣いで恵叶を見上げた。
「……できたわ」
「ありがとう」
「うん……」
「……?」
 やるべきことは終えたのに、紗美はその場から動こうとしない。何か言いたそうに、恵叶のネクタイを指でいじっている。
「紗美? どうかした?」
 紗美がネクタイから手を離した。
「ううん。……私、そろそろ行くわね。上司に怒られちゃうから」
「そうね、私も」
 身支度を終えると、二人同時に家を出た。
 夜明け前の住宅街は暗く、警備ロボが巡回する、静かな稼働音だけが響いている。
 車庫に向かい、紗美が乗り込もうとしたところで、恵叶は思わず彼女の手をつかんでいた。
 ふわりと黒髪が揺れて、紗美がきょとんとする。
「……恵叶?」
「あ、えっと」
 恵叶はぱっと手を離すと、ぎこちない笑みを向けた。
「……気をつけてね、紗美」
「うん、恵叶も。いってらっしゃい。終わったら、連絡してね」
「紗美も連絡して。待ってるから」
 ふわりと笑った紗美に微笑み返すと、わかれて車を出す。別れ際に見た彼女の笑みが、何故かしばらく脳裏に焼き付いて離れなかった。


『建設デザイン DWプロジェクト』
 そう社名の入ったダミー会社に着くと、恵叶とほぼ同じタイミングで、実務を主とする精鋭たちが揃ってやってきた。
「おはよっす、ケイティ」
「ケイティ、おはようございます」
「おはよ。……おはようって時間かな」
 一人がふわあと欠伸した。
「勘弁してほしいな、こんな時間に。彼女をごまかすのも大変で」
「仕方ない。行くわよ」
 恵叶たちはスマホを取り出してパスポートを起動すると、異世界にジャンプして本部へと移動する。
 中に入ると、すでに技術班ばかり勢揃いしていた。
 彼らは恵叶たちより早くに呼び出されていたらしく、誰も顔すら上げようとしない。
 これは……思っていたよりマズいかもしれない。
 何よりそう思わせたのは、真剣な顔で膨大なデータを操るライリーの姿だった。あんな真剣な顔は、明るいダンス映画が実はホラー映画だと知り、観ようか迷っていたとき以来だ。
『いや……嘘だろ。絶対そんな怖くないて。昔の人怖がりすぎじゃん。ねえ、ケイティも一緒にこのミッドサ……』
『観ない。タイトルも知りたくない』
「ああケイティ、来たか」
 ボスが手を叩いて注目を集め、一度スタッフの作業を中断させる。
「皆、呼び出してすまない。時間がないので、すぐに説明させてくれ」
 ボスが指示すると、エアスクリーンの映像が切り替わった。映し出されたのは、CASのシステムのアクセスログだ。
 細々とした数字と管理者名が並ぶなかで一つだけ、真っ赤に塗り潰された行があった。
「不正アクセスがあった。……九十分前のことだ」
 はっと息を呑む気配がした。恵叶は知らず知らずのうちに、拳を強く握りしめていた。
 不正アクセス?……そんな馬鹿な。
「えっと……うちの職員がアクセスに何度も失敗したとか、そういう意味ですよね?」
 おそるおそる、訊ねる声が上がった。違うとわかっていても、訊かずにはいられなかったのだろう。
 ボスは無念そうに首を振ると、
「……違う。外部から被害に遭った」
 本部内が、水を打ったように静まりかえる。鳥肌が立ち、恐怖がぞろりと恵叶の背筋を伝った。
「……軍事レベルで暗号化されている、CASのシステムが破られた」

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