女暗殺者の嫁もまた暗殺者

とも

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よう、元気そうじゃねーか

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 目の前で起きた将棋倒し。
 どこもかしこもパニックだが、恵叶が優先すべきは一人しかいない。
「紗美……!」
 恵叶は、外壁から路地に向かって張り出した看板をつかむと、その上に体を引き上げた。上から紗美の姿を探そうとするが、見つからない。
 街の幽霊たちがやってきて、群衆を分散させるべく、端から誘導しようとするのだが、
「きゃあああ! 来ないで!」
「何! 何だ! また幽霊が!」
「誰か助けてくれ!」
 神経が過敏になっており、半透明の人間を見るだけでパニックの連鎖が生じている。
 これでは逆効果だ。恵叶は幽霊に下がるよう命じた。
「どうしたら……」
 パニックが起こってすぐであれば、トラベルチケットやパスポートを使って、全員この場から離脱できただろう。
 だが、今となってはもう無理だ。
 人が隙間なくぎゅうぎゅう詰めにされており、指一本動かすことすら、ままならない。
 じわりと掌に汗がにじむ、そのときだった。
「子どもがいるんです! お願い、潰さないで!」
 悲鳴に混じって、懇願する声が聞こえた。
「紗美!」
「……っ! 恵叶! 助けて!」
 よりにもよって、紗美が潰されかけているのは、路地のど真ん中だった。
 看板を蹴って、壁を足場に飛び上がる。紗美に一番近い看板に着地するが、
「駄目、まだ届かない……」
 せめて壁際にいてくれたら、手を伸ばして、何とか引き上げられたかもしれない。が、この距離では無理だ。
 使える物はないか、と視線をめぐらしていると、窓越しに幽霊と目が合った。
『こっち、こっち』と、建物内に向かって手招きしている。
 肘で窓を突き破ると、そこは資材置き場になっていた。細長い板がたくさん置いてある。
 これなら、隣の建物まで渡せそうだ。
「ありがとう、使える!」
 良かった、と頷く幽霊に、恵叶はついでに伝言を頼んだ。
「向かいの建物、二階にいる人に言って。窓を開けろって!」
 窓が開く音がすると、恵叶は二階から板を渡した。
 橋渡しができると、恵叶は板の真ん中に乗り、膝を掛けて逆さまにぶら下がった。
「姉ちゃん、大丈夫か!?」
 向かいの建物にいた人が、心配そうに声をかけてくる。
「平気だから、板が落ちないよう支えてて!」
「わかった! 落ちるなよ!」
 下にいる人々が次々に手を伸ばしてくる。体をつかんで引き上げるたび、恵叶は大声で言った。
「早くパスポートを使って離脱して! 板が割れる!」
「で、でも私、トラブルチケットでここに来てるんだ。パスポートと違って、トラブルチケットは一回使うと使用済みになっちゃって、もうここに戻れな……」
「いいから現世に帰れ! 突き落とすわよ!」
「は、はいい……」
 この繰り返しで、ちょっとずつ密が解消されていく。  
 七人を助けたあと、恵叶はついに紗美の腕をつかんだ。紗美はしっかりアリアを抱え込んでいて、周囲の圧から小さな体を守っていた。
「あ、ありがと、恵叶……。アリア、気絶しちゃった……」
 頭に血が上って、とっくに限界だった恵叶は、一度くるんと起き上がった。
「紗美は大丈……」
 言いかけて、恵叶は絶句した。
 紗美の両腕は青紫色に変化していた。頭からつま先にいたるまで、大小様々な靴跡が付いている。
 短時間の悲劇にしては、あまりに惨い。
「アリアが転んだから、咄嗟に覆い被さったのよ。ピンヒールがいなかったのが幸いね」
「すぐ病院に……」
 心配して触れようとした恵叶だったが、その前に板を支えていた人から怒鳴られた。
「姉ちゃん! 三人は無理だ!」
「ごめん」
 紗美がアリアを抱えて、近くの窓へと避難する。このまま救助活動を続けようとした恵叶だったが、
「狭いフィールドだぜ!」
 突如やってきた誰かに首根っこをつかまれたかと思うと、何とそのままぶん投げられた。ちょうど看板の上に落ちるよう、叩きつけられる。
「げほっ……」
 背中に鈍い痛みが走り、恵叶は咳き込んだ。
 向かいの建物、その窓枠につかまっていたのは、見慣れた同僚の顔だった。
「よーう、泣きっ面に蜂とはこの事だな」
「レオ……」
 赤い髪をなびかせて、レオがにやりと笑った。
 立ち上がった恵叶は、奇妙すぎる状況に、もはや呆れに似た感情を抱き始めていた。
 看板に立つ恵叶と、窓枠につかまるレオ。下には救助を求める人々。
「助けに行かなくていいの?」
「俺はな」
 その言葉を聞きつけたかのように、CASの精鋭が勢揃いしていた。路地の両端から、ちょっとずつ人の山を切り崩している。
 恵叶はようやく安堵の息を吐いた。
 よかった、これで大丈夫。
「救助は他の奴らに任せて、俺はてめぇと遊ぼうと思ってよ」
「そう」
 口では悪ぶっていても、紗美とアリアを助け出すまでは待ってくれたのだろう。恵叶は確信していた。
「どっちが一番か、とうとう決着を付けるときが来たなぁ!」
「もうとっくに付いてると思ってたわ」
「付いてねえよ!」
 と、レオが耳元に手を当てて、通信を始めた。
「いやいや。ちょっとぐらい、こいつと話をさせてくださいよ。裏切り者と対峙する……。ここが俺の一番の見せ場でしょう!」
「……」
 恵叶は手近な窓に足をかけると、レオを振り返った。
「場所を変えましょ。ここはさすがにやり辛すぎるわ。……落ちたら、とんでもないことになるし」
 言って、恵叶は建物の中に入っていく。
「はっ、いいぜ。本気の俺とやるのが怖いからって逃げるなよ……って!」
 中に入った途端、恵叶は階段に向かって猛ダッシュした。
「言ってるそばから、逃げてんじゃねえええ!」
 


 一階に下りると、凍り列車の幽霊騒動はかなり沈静化していた。
 人は慣れる生き物だ。まして相手はホログラム。
 おぞましい見た目をしていても、結局のところ実害はない。
 観光客は嫌そうな顔をして、凍り幽霊をまたいで避けるぐらいには、対処できるようになっていた。
 噴水に行くと、紗美が待っていた。
「紗美、ここから逃げないと。アリアが握りしめていたほうのスマホは?」
「これ?」
 アリアはスマホを二つ持っていた。
 一つはパスポートを入れている連絡用。もう一つは、おそらくこの騒動を引き起こしたツールキットになっているはずだ。
 恵叶はツールキットを噴水の縁に置いた。これで、CASが回収してくれるだろう。
「置いていって大丈夫?」
 紗美が不安そうに訊ねた。
「うん。これがあれば、どうやってこの騒動を引き起こしたのかがわかるはず。方法さえわかれば、止められると思うから。ただ、うちの組織を信頼できるかどうか、ちょっと微妙だけど……」
「できるでしょう? 恵叶がいた機関なんだし」
 恵叶は声を潜めると、
「……今、CASに上位組織が入りこんでる」
「どうしてわかったの?」
「レオよ」
 レオはCASの誰に対しても、敬語を使わない。そのレオが、初めて敬語を使った。
 あれは、恵叶へのメッセージだ。
 CASには現在、CAS以外の人間がいると。彼らは、レオほどの精鋭が敬語を使ってもおかしくない相手。
 ……上位組織。
「西洋ファンタジーにいたとき、恵叶と話したわよね。……今まで、天使とCASがカチ合わなかったのはおかしい。圧力を掛けている、何かがいるんじゃないかって。それが……」
「うん、そうだと思う。非常時に采配を振るい、極秘機関から即座に、指揮権を奪えるだけの力を持つ……」
「何かの国際組織かしら」
「わからないけど、私はその正体より『どうして指揮権を奪ったのか』のほうが気になる」
 考え込んでいたところで、怒り狂った声がした。
「待てこらケイティィィィィ!」
「あ」
 しまった。のんびりしすぎた。
 どどどど、と音がしそうな猛烈な走りで、レオが迫ってくる。紗美が苦笑した。
「わざわざ大声出して……」
「良い奴なのよ」
 救助活動してから、来てくれたんだろうし。レオが逃げる間を与えてくれている間に動こう。
 恵叶はまずアリアのパスポートを確認した。
「うわ、凄い。アリアってば、異世界のパスポート全部持ってる……」
「そうなのよ。どこからお金が出てるの?」
「それもあとで訊かないとね」
 パスポートを起動して、付き添いジャンプで一気に飛ぼう。場所は中華ファンタジーだ。
 恵叶が準備を始め、すぐに起動する。と、紗美がぞっとした顔で自分のスマホを見た。
「待って、恵叶。私のスマホが……」
 壊れてる。
 人混みに潰されたのか、画面の表示がおかしくなっていた。まずい、と恵叶がジャンプを中止しようとするが、間に合わない。
 紗美のスマホから、ばちりと閃光が走った。
 視界がぶれ、ゴーストタウンが消えていく。いつものジャンプと違い、ガチンガチンと不快な音が響いている。ぐるぐると三半規管がかき回され、心臓が鳴った。
「やばっ……!」
 体が思うように動かない。
 最後の力を振り絞って、紗美をぎゅっと抱きしめる。
 壊れたパスポートでのジャンプという、危険極まりない行為に、恵叶と紗美は固く目を閉じた。

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