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第1章 奈落の底に落ちて出会う

25 渚の話法

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 机に載せてまた転移陣が出ると面倒なので、ポットは綾那が手に持ったままだ。幸成から「颯に中身が見えるようにして」と言われて、蓋を外しポットを傾ける。

 颯月は綾那のすぐ傍まで歩み寄ると、何事かを呟いてからポットを見下ろした。

 部屋の入口では、先ほどまで青褪めた顔をしていた少女達が一転、頬を染めている。口元を押さえ、颯月の背中を熱く見つめる少女らに、綾那は内心「その気持ち、分かる――」と共感した。
 しかし同時に、呑気に見惚れていて大丈夫なのかと呆れてしまう。

「なあ、混ざってるのって――」
「キラービーの毒だな」
「キラービー? ええと……蜂ですか?」

 首を傾げた綾那に、幸成が瞠目する。

「ちょ、ちょっとお姉さん、キラービーも知らないの? 催眠毒を持つ蜂の魔物だよ、東の森を越えた平原にいくらでも居るのに」
「私の国には、居なかったもので――」

 そもそも「表」に魔物なんて存在しないし、奈落の底に来てから綾那が訪れたのは、『東の森』と『王都アイドクレース』のみだ。

 幸成は綾那を胡乱うろんな目でじっとり見つめると、信じられない様子で口を開く。

「って言うかマジでさ、なんでお姉さんぶっ倒れないんだ? キラービーの毒って、少量でも大型の魔物を昏倒させられるぐらい強いんだぞ?」
「何……? 綾、アンタこれ飲んだのか?」

 ポットを見下ろしていた紫色の瞳が、ついと綾那の顔に向けられる。宇宙一格好いい男に至近距離から見つめられて、綾那は「ぅぐっ」と小さく唸った。

「お、お構いなく。実は、あらゆる毒や薬が効かない体でして」

 まあ、魔物の毒とやらを服用したのは人生初だったが――万能なギフトで助かった。
 綾那はため息を吐いて、そっと颯月から顔を逸らした。三週間ぶりに眺めるには、距離が近すぎる。そして彼の美貌は、刺激が強すぎる。

「あの、魔法に似た能力のひとつか? それとも綾の国の人間は全員なのか?」
「いいえ、能力のひとつです」
「へえ。『広報』がダメになったら、俺専属の毒見メイドにしちまうのもアリだな」
「毒見メイド――な、なかなかのパワーワードですね……?」
「いやいやいや、なんでそんな順応性高いんだよ、颯」

 額に手を当てて、呆れたように息を吐き出す幸成。颯月は腕組みをして「それで、状況は?」と問いかける。
 幸成は途端に姿勢を正すと、真剣な表情で真っ直ぐに颯月を見返した。

「賊が複数入り込んで、桃華が攫われた。目撃者は彼女達だ」
「……賊が?」

 颯月が目を向ければ、少女達は頬を染めたまま、機敏な動きで気を付けの姿勢をとった。すると、途端に廊下がざわつき、複数人の足音が近づいてくる。

「騎士様、こちらです! この廊下で、桃華様が攫われたのを見――えっ?」
「団長? 幸成様まで」

 絨毯屋の娘が、数人の騎士を引き連れて姿を現した。彼女は室内に居るのが自分の取り巻きだけでない事に気付くと、瞠目どうもくする。
 それは、さぞかし驚いた事だろう。ポットもカップも絨毯のシミも、何ひとつ片付けられていない。その上、自分が呼び寄せた騎士よりも先に、よりによって颯月が到着しているのだから。

 何はともあれ、これで三人の少女が揃った。悪事の証拠を押さえて成敗しなければ。

「幸成様、これで目撃者が全員揃いましたね。改めてお話を聞くべきかと思います」
「ああ、分かった。時刻は16:46」

 手元のスマートフォンを揺らして見せれば、幸成は綾那が問いかける前に時刻を告げてくれた。そんな二人の慣れたやりとりを見て、颯月は無言のまま片眉を上げる。

「お前達は廊下で人払いを――誰もこの部屋へ近付けるな。そして、君らには話を聞きたい。桃華が攫われた時の事だ、見たもの全てを教えて欲しい」

 幸成は駆け付けた騎士に指示を飛ばすと、すぐさま三人の少女に向き直った。彼の言葉に、彼女らは緊張した面持ちで横一列に並んだ。

「はい。彼女達と廊下を歩いていたら、妙な物音が聞こえたんです」

 代表して話し始めたのは、やはりリーダー格の絨毯屋の娘だった。綾那は片手にポットを抱えたまま、もう片方の手でしっかりと盗撮している。

「大きな音だったので気になって、すぐそこの角から覗き見たのです。すると、桃華様の部屋から黒ずくめの集団が出てきて――彼らは、ぐったりとして動かない桃華様を抱えていました。その……本来であればその時に大声を出すべきだったのですが、武装している者ばかりで、恐ろしくて――」

 ウルウルと瞳を潤ませる少女に、幸成は「まあ、恐ろしくて当然だろうな」と相槌を打った。

「ひとまず男達の姿が見えなくなるまで身を隠して、彼らが居なくなった後、急ぎ騎士団本部へ助けを求めに伺った次第です」
「廊下――あの曲がり角から見ていたんだよな? 少し距離があるから、男達の顔は分からないか」
「あ……はい、すみません。例え近くで見ていたとしても、顔に布を巻いていたので分からなかったと思います」
「だよなあ……颯。現状、こんな感じだよ」
「……へえ」

 その低く短い相槌からは、焦りを感じ取れない。大事な婚約者が誘拐されたという割に、颯月の反応は随分と淡泊であった。

「あの、どうか、桃華様を助けてあげて下さい! とても野蛮そうな男達でしたもの、早く探し出さないと……そうでなければ、桃華様みたいな可愛らしい方が、どのような目に遭われるか――火を見るよりも明らかです」

 胸の前で手を組み、まるで祈るように颯月を見やる少女。潤んだ瞳で上目遣いする姿だけを見ると、とても健気そうな少女に思えてくる。
 颯月は彼女を一瞥した後、すぐさま幸成へ目線を移した。

「もう、無事かどうかなんて関係ない……手遅れだな。桃華が「暴漢に攫われたらしい」という話が出回るだけで、この婚約関係は終わりだ」
「え? でも――」

 早々に犯人を捕まえて彼女が襲われる前に助けてしまえば、どうという事はないのではないか。思わず口を挟めば、颯月はゆるゆると首を振った。

「綾、アンタ嫌というほど覚えがあるだろ? を証明するのは、何よりも難しい。ただ桃華が男に攫われたという事実さえあれば、周りは勝手に汚されたと決めつける。例え俺が気にしないと言ったところで、そんな醜聞を抱えたまま婚約者で居続けられると思うか? どれだけ心ない言葉を投げかけられるか――このまま妙な噂が広まれば、俺の婚約者から降りるどころか、今後別の婚姻を結ぶのも難しくなる」

 綾那は言葉を失った。しかし考えてみれば、それは当然の事だった。男に攫われたという実績がある桃華には、公的にその身の潔白を証明する術がない。

(攫われてしまった時点で、だったんだ。最悪の事態が起きる前に助けてしまえば、全部元通りになるなんて――見通しが甘かった)

 完全に判断を誤った。やはりあの時、無理やりにでも幸成を連れて馬車を追うべきだったのだ――。
 唇を噛みしめた綾那は、ふと幸成の顔色が大層悪い事に気付いた。彼は青褪めた顔で、握った拳を震わせている。

「あの時――」
「幸成様?」
「お姉さんが馬車を追えって言った時! 俺が素直に聞いてたら、間に合ったのに……!」

 頭を抱えながら振り絞るような声を上げる幸成に、颯月が「馬車?」と首を傾げた。

「颯、どうしよう俺……どうすれば――!」

 幸成はついに、頭を抱えたまましゃがみ込んでしまった。
 確かにあの時、あの裏門で馬車を止めて居れば。あの段階で桃華を救っていれば――噂は「汚された」ではなく、「攫われたところをすぐに助けたので、運良く未遂で済んだ」になっていたかも知れない。

 しかし、どうしたって綾那には幸成を納得させるだけの話術がなかった。後悔したところで結果は変わらない。今すべきは後悔する事ではなくて、どうすれば桃華を好奇の目から守れるか――その方法を考える事だ。

(何か――何かないかな? 桃ちゃんに醜聞が立たないように……あの子が何事もなく、元通りに過ごせる方法)

 綾那は必死に考えた。麗率いる少女達に、数人の騎士。これだけの目撃者が居て――特に、麗達の――完璧に口を塞げるはずがない。
 しかし、あの素直で可愛い桃華が。そんな桃華を大事に思う颯月が不幸になるなど、看過できない。

 マスク越しに少女らを見る。揃いも揃って沈痛な面持ちで俯いてはいるものの、やはり口元は緩んでいるように見えた。
 何せ彼女らは、颯月と桃華を引き離すという目的を達したのだ。さぞかし気分が良いだろう。

(こんな小者してやられるなんて、あり得ない。こっちの陣営には神が居るのに! もういっそ、攫われたのは桃ちゃんじゃないって事にできないかな――あっ)

「成、とにかく桃華を探すぞ。最悪の状況だけは避けたいだろ?」
「けど……!」
「あの、すみません! その前に、どうしても確認したい事があります。先ほどからずっと不思議に思っている事です」

 声を上げれば、全員の視線が集まった。綾那は少女らに顔を向けると、心の底から不可解で仕方がない――そう映るように演じ始める。

「攫われたのは、間違いなく桃華様でしたか?」
「…………はい?」
「皆さんは廊下の――あの曲がり角から様子を見ていらしたんですよね。こちらのお部屋まで少し距離があります。犯人の顔も見えないくらいに」
「そう、ですけど……顔が見えなくたって分かります。だってこの部屋は、桃華様の部屋ですよ? それに、この別館で黄色い服を着る若い女性は彼女だけですから。攫われたのは桃華様で間違いありません」

 少女の言葉に、綾那は口元を緩ませる。

「ああ……やっぱり、顔は見えなかったのですね。桃華様が攫われたと聞いてから、ずっと納得できなくて」
「どういう意味ですか……?」
「だって私、こちらへ立ち寄る前に――そうですね、16:30頃でしょうか? 「卸す衣類を店舗まで取りに行くんだ」と話す、桃華様と会ったものですから」
「は? お姉さん、それ……」

 幸成はしゃがみ込んだまま顔を上げると、何を言っているんだと言わんばかりに目を丸めた。もちろん綾那の話す内容が虚言である事は、他でもない彼が一番よく知っているはずだ。
 何せ彼はここへ至るまでの間、保護観察対象である綾那から一時も離れていないのだから。

 けれど綾那が保護観察中の犯罪者だなんて、彼女らは知るよしもない。

「な、何を仰っているのか分かりません。桃華様は間違いなく攫われています、だから早く助けにいかないと!」
「でも私、確かに桃華様をお見送りしたんです。お店の方が馬車で迎えに来ていたので、間違いありませんよ。それなのに桃華様が攫われたとか、こうして部屋が荒らされている事とか――ずっと、不思議だなあって」

 白々しく小首を傾げる綾那に、絨毯屋の娘がわなわなと体を震わせた。
 16:30に桃華と話した証拠動画は、彼女を無事救出した後に捏造してしまえば良いのだ。魔具とスマホは機能こそ同じでも、仕組みは全く違う。こちらの人間が見ても違和感を抱かぬよう編集して、時間の表記を改ざんするくらい朝飯前である。

「そ、そんなはずがないじゃないですか? 私達だって見たんですよ? ここで、黄色い服の女性が攫われるところを!」
「え? でも、顔は見ていないって言いましたよね」
「ですから、顔が見えなくたって――!」
「だってそんなの、ただの状況証拠じゃないですか」
「え……っ」
「桃華様の部屋から黄色い服を着た女性が出てきたので、あれは桃華様に違いない――それだけですよね? 私は、皆さんが「攫われた」と主張する時間よりも後に彼女と話したから、人違いだと言っているんです。私、何か間違っていますか?」
「そ、それは……その、だから」

 正しい事を言っているにも関わらず、まるで責めるように――それも矢継ぎ早に畳み掛けられて、絨毯屋の娘の表情から徐々に自信が失われていく。
 悪知恵の働く少女だと言っても、やはりまだ幼いのだ。綾那はこのまま、嘘をゴリ押す事にした。

「颯月様。桃華様の黄色い服は、あなたが直々にプレゼントされたものだとお聞きしました」

 言いながら颯月を見やれば、彼は鷹揚に頷いた。

「ああ。桃華に似合うはアレだからな」
「だから私、思うんです。颯月様を慕う女性は、あの服に憧れるんじゃあないかって」
「……ほう?」

 颯月が愉快そうに口の端を引き上げたのを見て、綾那は目を瞬かせる。

(え、もしかして――もう私の考えを理解してくださったの? あ、いや、とにかく今はやり切るのが先決!)

 綾那はゆっくりと息を吐いてから、言葉を続ける。

「皆が紫や黒を纏う中、唯一許された黄色。それも、颯月様から直々に贈られた服――彼を慕う女性なら、喉から手が出るほど欲しいでしょうね。もしくは、一度くらい袖を通してみたい、なんて?」
「ま、まさか……桃華様のお部屋に侵入した誰かが、勝手に彼女の黄色い服を着たと? そこを運悪く桃華様と勘違いされて、暴漢に襲われたと言うのですか!? そ、そもそも、そんな泥棒みたいな真似をする人が、この扉を開けられるはずないじゃないですか! 扉には魔法が――」
「でも桃華様、よく部屋から私物がなくなると仰っていましたよ。先ほど、この机におかしな魔法陣が浮き上がったのも見ましたし……もしかすると、なんらかの魔法を使われたのではありませんか?」

 言いながら綾那は、物は試しとポットと絨毯に転がったままのカップを机の上に置いてみた。
 どこに「転移テレポーテーション」のギフトもちが居るのか分からないし、今もこの部屋の様子を見ているのかどうかも分からない。
 しかし、先ほど綾那が間近に居たにも関わらず、ポットを消そうと強硬手段に出るような相手だ。もしかすると、これらを回収さえできれば、目撃者が居ようがどうでも良いのではないかと思ったのだ。

 幸いその予想は当たったようで、茶器を机に置いて数秒経つとまた転移陣が現れた。
 綾那は先ほどと違って、転移陣の光が落ち着くまで傍観した。やがて光が収まると、机の上から陣と共に茶器まで消え失せる。

 あれらは、桃華に対して毒を盛った者が居るという大事な証拠だ。けれど綾那の考えた作戦的には、この場から消えてなくなってくれた方が都合がいい。
 桃華の服を物色しに来た泥棒が、人の茶まで盗み飲んで昏倒した――と言うのは、少々厳しいからだ。あんなものは最初から存在しなかった、それで良い。

「綾、今のは?」
「詳しくは分かりません。でも、こうして自在にモノをかき消せるなら、逆に外からモノや人を移動させる事も可能なのでは? まるでさも桃華様が誘拐されたかのように、飲みかけの茶器をばら撒く事だってできます――つまり今この部屋にあるものの中で、声を大にして「証拠だ」と言えるものはひとつも存在しません。強いて言うなら、彼女らの目撃証言だけが頼りでしょうね」
「一理あるな。つまり、攫われたのは桃華じゃなく別の女だと?」
「ええ、それだけは断言できます。だって私は、彼女のお顔を見ながら話したのですよ? 必要ならその時に撮った動画も提出できますし……攫われたのは間違いなく、ここで彼女の服を物色していた泥棒さんでしょうね。自業自得とはいえ、なんとも不幸な方です」
「そ、そんな! そんな事って――」

 捏造した真っ赤な嘘を、まるで一点も曇りのない真実のように言い切った。そんな綾那を見て、少女らは腑に落ちない表情ながらも口を噤んだ。
 ちなみに彼女達に証言を覆されると困るので、今のやりとりは一部始終カメラに収めてある。綾那はスマートフォンを鞄の中にしまうと、改めて颯月を見やった。

「ですが、見て見ぬ振りはできませんよね。結果別人が攫われたとはいえ、犯人は間違いなく桃華様を狙っています。今ここで捕まえておかないと、将来的に同じ事が起きるでしょうから」
「何か良い手はあるのか?」
「まあ、よくぞ聞いてくださいました! 実は私の『魔法』で犯人を追えそうなんです。でも私は戦えませんし……颯月様、幸成様、一緒に来てくださいますか?」

 あざといくらい大袈裟に首を傾げると、「追跡者チェイサー」について説明していないにも関わらず、颯月が不敵に笑って頷いた。幸成もこちらを真っ直ぐに見返して、今度ばかりは大きく頷いてくれる。

「悪いが、アンタらは重要参考人だ。騒動が収まるまでは謹慎してもらう。オイ、全員個室に案内して護衛をつけろ。外部の者はもちろん、この三人が接触するのも許すな」

 颯月は、廊下で待機中の騎士にテキパキと命じた。
 三人の少女は不安げな表情をしているものの、しかし、まだ自分達の行く末に対する危機感を抱いていないのだろう。大人しく指示に従うと、騎士に連れられて部屋から出て行った。

 そうして彼女らの足音が遠ざかって聞こえなくなったところで、綾那は「はあぁ……」と長く深いため息を吐き出す。相手が年若い少女でなければ、ここまで荒唐無稽な大嘘のゴリ押しは通用しなかっただろう。

 四重奏のメンバー渚が「詐欺師ペテン交渉術」と呼んでいた、この話法。
 コツは、とにかく絶対の自信をもって断定的な言葉遣いをする事。自分のペースに巻き込んで、相手の話に聞く耳をもたない事。そして矢継ぎ早に責め立てて、さもこちらに正当性があるのだと勘違いさせるように――威圧的に捻じ伏せて、反対意見を抑え込む事。
 この三点が何よりも重要らしい。

(こんなところで役に立つなんて)

 少々タチの悪い依頼人が四重奏を訪ねてきた時、相手を言いくるめて追い返すのはいつも渚の役目だった。
 彼女は天才的に賢く、頭の回転が速く、口も達者だ。頭がよすぎてネジが飛んでいると評されるのが玉にきずだが、そこも含めて彼女の魅力だろう。

 綾那は渚のように学がある訳ではないし、特別機転も利かない考えナシだ。しかし長年動画の演者として活躍していたお陰か、演技力だけは無駄に高い。
 だからどんなに無茶な理論だろうが、さもこちらに正当性があるように語るだけならば自信があった。

「お姉さんさあ、自分でスパイ疑惑に拍車かけてるよね……今日一日、ずっと」
「え? ――うふふ?」
「笑って誤魔化さないでよ。てか、誤魔化す方が余計に怪しいから……」

 すっかり脱力した様子で壁にもたれかかる幸成に、綾那は愛想笑いを返した。
 確かに、今日は酷かった。綾那自身もそう思う。「追跡者」にしろ「解毒デトックス」にしろ普通の力ではないし、平気な顔で大嘘をついたのもよくないだろう。

 とはいえ、全ては桃華を救うためなのだ。今回ばかりは許して欲しい。
 改めて金木犀の気配を探ってみると――街中を馬車で走るというのは、存外スピードを出せないものなのか――距離的には、まだ五キロも離れていない。

「色々と聞きたい事はあるが……綾、俺は何をすればいい?」
「はい、詳しい説明は道すがらします。まずは馬車を一台、それと――相手が何人居るのかは分かりませんが、賊を制圧できるだけの武力があれば」
「武力なら、颯と俺が居れば十分だよ」
「じゃあ成、アンタはまず制服に着替えろ。あと、ついでに禅と和も連れてこい」
「は? でも時間が」
「良いから行け。桃華迎えに行くのに、アンタがそれじゃあ格好つかねえだろうが?」

 颯月がシッシッと野良犬を追い払うように手を振れば、幸成はグッと眉根を寄せる。しかし、彼はやがて観念するように頷いた。

「じゃあ、ついでに馬車も回してくる。颯はお姉さんと裏門で待っててくれよ」
「ああ、助かる。頼んだぞ」

 部屋から勢いよく飛び出していった幸成を見送ると、颯月はくるりと綾那を振り返った。彼の表情は、大事な婚約者がピンチだというのにどこか嬉しそうで――綾那は戸惑ってしまう。

「婚約者が大変な時に、なんて顔をしているんですか」
「うん? ああ……だが恐らくアンタには、嘘を誠にする策があるんだろう? なら、桃華は平気だ」
「えっ、いや、あまり信頼されると、気が重いのですけれど」
「綾」

 颯月はおもむろに綾那の髪をひと房手に取ると、うやうやしく腰を折ってその毛先に口づけた。その瞬間、綾那の体は石のように硬直する。彼はフリーズした綾那の顔を下から見上げると、目元を甘く緩ませた。

「俺のために働いてくれるか?」
「――ハッ! 全身全霊! 必ずや団長様の助けになります!! 我が人生の全てをかけて!!!」

 まるで軍人のようにハキハキと答えて敬礼した直後。綾那がハッと我に返って頭を抱えるまでにかかった時間は、僅か三秒だった。
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