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第1章 奈落の底に落ちて出会う

29 婚約の意味

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「俺も見たかった――」

 酷く残念そうな声色で話す颯月に、綾那は苦笑した。
 あれからやや時間を空けて倉庫に駆け付けたのは、屋敷の警備数人を連れた颯月だった。亀――魔物の咆哮を聞いて、絨毯屋で働く従業員や屋敷の使用人は全員外に避難したらしい。

 それは、彼が絨毯屋のオーナーに犯人捜査の協力を仰いでいる最中の出来事で、魔物の討伐を口実に、やや強引に捜査を開始したとの事だ。
 オーナーは桃華の誘拐に関わっている可能性が高い。目を離した隙に証拠を隠ぺいされては困るので、幸成と竜禅が魔物から身を守るための護衛という名目で傍に残り、監視しているらしい。

 颯月は綾那から事のあらましを聞くと、冒頭のセリフを吐いた。
 曰く、拳でビアデッドタートルの甲羅を砕いた者は綾那が初めてらしい。改めて「見たかった」と呟く颯月は、憂いを帯びた表情でため息を吐いた。

 その背後では、焼け焦げた亀がプスプスと煙を上げており、警備の男達がそれを解体して外へ運び出そうと奮闘している。亀が大きすぎて、そのままでは倉庫の扉を通らないのだ。
 そして、壁際には賊の男達が手を縄で縛られた状態で、壁に向かって整列している。彼らは桃華の誘拐に関わっていると自供すると、自らの意思で縄についたのだ。

「さて――、そのまま聞いてくれるか?」

 颯月が、いまだ綾那に抱かれたままの桃華の頭を布の上からポンと叩く。名前ではなく『お嬢さん』と呼ばれた桃華は、やや戸惑いがちに頷いた。

「俺が不甲斐ないせいで、何度も酷い目に遭わせて悪かった」
「え――っ」
「アンタが日常的に嫌がらせを受けていた事すら知らなかった。婚約者に据えただけで放置したのは、あまりに無責任だったな」
「そんな事……っ、ちが、違うんです、私は本当に感謝していて! 颯月様がお忙しい事はよく知っています、だから嫌がらせなんて――これ以上私の事で、貴重な時間を割いていただく訳にはいきません! 謝罪だって、本当に必要なくて……」
「ここまでの事態を引き起こしておいて、そういう訳にもいかんだろう」

(あれ、ちょっと待って、私めちゃくちゃ邪魔じゃない――?)

 いきなり込み入った話を始めた二人に、綾那は身じろぎ一つせずに黙り込んだ。そうして、できる限り己の気配を薄れさせる。本当ならこの場を離れたいのだが、桃華の細い両腕が今もまだ綾那の首に巻きついている。

 どうにか自然な流れで、彼女をそっと颯月へ受け渡す事はできないだろうか。

(私は壁――ええそう、私は壁よ)

 マスクで目元が隠れていて助かった。このような状況を前にして、一体どんな顔をしていればいいのか分からない。

「お嬢さん、アンタが男に攫われたとなると、今後どうなるか分かるか?」
「それは……」
「攫われた実績だけで邪推されて、好奇の目に晒される。恐らく、今後も俺の婚約者で居るのは難しい。周囲の声に耐えられんだろう」
「は、はい――」
「ただ、俺と婚約を解消して別の相手を捕まえたところで、周囲の目は何も変わらん。その目に耐えられず別の婚約も結べない場合、アンタの年齢じゃあ、法律上別の領へ行かざるを得なくなる」
「えっ!? ど、どうしてですか? 婚約者が居ない人は、アイドクレースに居ちゃいけないんですか?」

 じっと黙っているつもりだったのに、思わず反応してしまった。
 暴漢に攫われた女性が、周囲から「暴行されたのではないか」と下衆の勘繰りをされるのは分かる。その女性に婚約者が居た場合――相手が潔癖な人間であれば――婚約関係の継続をよしとしない事も分かる。そしてその後、別の相手を探すのに一苦労するという事も。

 しかし、婚約者が居ないだけで、桃華が別の領へ出て行かねばならないのは何故だろうか。法律上とは、まさかまたリベリアス特有の決まり事か。
 ふと桃華から目線を上げた颯月は、綾那を見て苦笑した。

「言っただろう? アンタの国とは文化が違う。リベリアスの女は、十六になる年までに結婚――ないし婚約者を決められなかった場合、別の領へ住居を移して故郷を離れる決まりがある」
「ど、どうして?」
「数代前の国王が制定した法律だ。過去、魔物や眷属の被害が爆発的に増えたせいで、人口が激減したらしい。コレは出生率を上げるための――住み慣れた土地や愛する親兄弟と引き離されたくなければ、さっさと相手を見つけて子供を作れというものだ」
「そでも、なんだか……女性に対する負担が大きすぎませんか? どうしてそんな法律が、改定されずに今もそのまま残っているんです?」

 人類の種存続のためとは言え、そんな事を女性のみに強制するのは不公平である。
 国の法律を制定できるのは国王だけらしいが、既にある法律を改定できるのもまた、国王のみと聞いた。
 そのような性差別的な法律が、王が数回代替わりしてもそのまま残されているというのは少々不可解である。それも、女性の命を守るためだけに一切の戦闘行為を禁止するという、女性に過保護な国であれば尚更だ。

「公然の秘密、があるからな。わざわざ改定するまでもないんだよ」
「抜け穴?」
「制定された当時はもっと厳格だったんだろうが、今では婚約者さえ居れば許される。だから信頼できる男を捕まえて、とりあえず婚約者にしちまえばいい。婚約と解消は何度繰り返しても問題ないから、本気でいい相手を見付けた時にそこで初めて結婚するって訳だ」
「へ、へえ…………え? まさか――」

 綾那はちらりと桃華を見下ろして、そして颯月を見上げる。すると彼は、ニッと口の端を上げた。

「結婚願望のねえ男は、十六間近の女の間で需要が高くてな――特に、一夫多妻を許されているような男は、自分と同じ境遇の女が大勢集まるから安心できるらしいぜ?」

 颯月の言葉に、綾那はぽかんと口を開いた。そして頭上に「?」を飛ばす。

(え? じゃあ桃ちゃんは? ただの幼馴染? いやでも、服を贈って……婚約者『筆頭』は? あれ、結婚願望がないって、じゃあ颯月様は婚約者が居なくて困っている女の子達の、『駆け込み寺』って事?)

 マスクを付けていても動揺が隠し切れない綾那に、颯月はますます笑みを深めた。

「俺は一時的な預り所というか――まあ、ボランティアみたいなもんだ」
「ボランティア――で、でも一時的って。もし、お預かりしている女の子達に良いお相手が現れなかったら? その時、颯月様は全員と結婚なさるんですか?」
「いや、婚約を結ぶ時には条件がある。近いうちに、俺以外の男と結婚するのが決まっている女だけだ」
「え……既に結婚したい相手が居る女の子なら、わざわざ颯月様が婚約する必要はないのでは?」

 まさか颯月には、『寝取り』の趣味があると言う事か? さすがは宇宙一格好いい男、宇宙一のクズである。
 綾那が失礼な事を考えながら困惑していると、おずおずと桃華が口を開いた。

「あ、あの、男女ともに早婚では満足に女性を養えないからと、男性側にも婚姻に関する法律があるのです。二十歳未満の男性は結婚どころか、婚約者をもつ事すら許されなくて……だからいくら好き合っていても、ダメなんです。相手の男性側が二十歳になる前に女性側が十六歳を迎えてしまうと、婚約者の居ない女性は、法律違反で領を追い出されてしまうから」
「意中の相手が二十歳になるのを待ちたいだけの女なら、預かる期間がハッキリ決まっているだろう? 期間が定まってなきゃ、恐ろしくて預かれねえよ。俺はあくまでもただの隠れ蓑だ、他人の人生を背負うまではさすがに責任もてん」
「それは――あら? じゃあ、お嬢さんも?」
「え? あ……っ、あの――その」
「まあ……」

 言っていて恥ずかしくなってしまったのか、桃華は綾那の腕の中できゅう、と体を縮こまらせた。その時、ふと彼女がいつも身に纏っている黄色い服を思い出す。続けて綾那の頭に浮かんだのは、幸成の顔である。

 桃華は颯月だけでなく、幸成とも幼馴染だ。竜禅曰く二人はかなり親しいと言っていたし、何より幸成の瞳は見事な金色だ。彼の正確な年齢は分からないが、まだ十代であるのは間違いない。
 恐らく幸成が二十歳になるまでの間、颯月が桃華を預かっているのだ。彼らは幼馴染である以前に従兄弟いとこだと言っていたし、幸成にとって、颯月以上に信頼できる預け先はないだろう。

(思い返せば、今回誰よりも取り乱していたのって、他でもない幸成様だった)

 妙に納得する綾那だったが、しかし、いつの間にか桃華が嗚咽を漏らしている事に気付くと瞠目した。

「でも、もう……っこんな事になってしまったら、誰とも結婚、できません。アイドクレースからも、出ないと、いけないし――もう、会えなくなっちゃう……!」

 頭から被せた布のせいで顔を見る事は叶わないが、嗚咽混じりに水っぽい声を詰まらせて話す様子から、彼女が泣いているのは明白だった。
 綾那はマスクの下で眉根を寄せると、彼女を抱いたまましゃがみ込んだ。まだ屋敷の警備達は亀の解体で忙しそうだが、少しでも人目から隠した方が良いと思ったのだ。
 そして颯月もまた、手近にある丸まった絨毯を数本移動して目隠しの壁を作った。続けてしゃがみ込むと、周りに聞こえないよう配慮された小さな声で話し始める。

「だから、アンタはって事にした」
「――え?」
「本物の桃華は今、メゾン・ド・クレースで働いている。綾、説明してやってくれ」

 綾那は頷くと、己が別館で捏造した話を桃華に説明した。
 攫われたのは颯月を慕う女性で、桃華の黄色い服に憧れていた。だから彼女が留守にしている間に「転移テレポーテーション」――特殊な魔法を使って部屋に侵入した。そうして服を物色していたところを、運悪く現れた賊に桃華と勘違いされて攫われた。

 その女性が攫われたほんの少し後に、桃華本人と綾那は顔を合わせて会話している――という事になっているので、今桃華はメゾン・ド・クレースの店舗に居る設定なのだ。
 説明し終わる頃、桃華の嗚咽は止まっていた。

「確認だが、アンタどうやって攫われた? 相手の目的が分かるか?」
「えっと……自室で意識がなくなって、次に目が覚めた時にはもう、この倉庫に。あちらの方々が言うには、私の出生地であるアデュレリアに連れ戻すよう命令された、と――」

 壁を向いて立っている賊を指差した桃華に、颯月は首を傾げる。

「アンタ、いくつの時にアイドクレースに来たんだっけか。向こうで懇意にしていたヤツの事なんて覚えているのか?」
「確か五つの時です。幼かったので、アデュレリアで過ごした記憶はほとんど残っていなくて……少なくとも親族は居ません。両親もこちらに居ますし」
「詳しい事は、あいつらに聞くしかねえか。ああ見えて良識のあるヤツらなんだろう?」

 颯月は賊を一瞥した後、綾那に意見を求めた。

「少なくとも、私の目にはそう映りましたね。亀退治もやってくれましたし」
「絨毯屋との繋がりも分かると良いんだがな。さて、問題は桃華を、どうやってオーナーの目から隠して外に出すかだ。好き放題振り回してくれたからには、ヤツの罪を追及したいが――そうなると、を見せる必要が出てくる。被害者が存在しなければ罪には問えんし、だからといって桃華を見せれば嘘が通用しなくなる。布で顔を隠したまま引き合わせるのも苦しい」

 桃華は布をずらすと、まだ涙の乾き切らない瞳で颯月を見上げた。その表情は不安げに歪んでおり、今にも泣き出してしまいそうだ。
 まるで痛ましいものを見るような表情で彼女を見下ろした颯月は、小さく首を振る。

「成と禅がオーナーの足止めをしている間に、街で協力してくれそうなヤツを探すしかないだろうな。攫われた女のになってくれと」
「え!? そ、それはいけません! そんな事を頼んでしまったら、その方に醜聞が――それだけは、ダメです」

 桃華の存在を隠し通すには、綾那が捏造した通りに代わりの女性を用意するしかない。しかしリベリアスに生きる女性である以上、身代わりの女性も結局桃華と同じ目に遭ってしまう。あの女は暴漢に襲われたキズモノらしいぞ、と――。

 颯月の提案に頑なに頷こうとしない桃華を見て、綾那が口を開いた。

「あの、颯月様の婚約者って何人いらっしゃるんですか?」
「うん? ………………そう、だな。確か今は、17人――ぐらい」
「ぐらい――?」

 自信のないフワッとした物言いに、本当に彼は女性の駆け込み寺というか――婚約に関して、単なる名前貸しぐらいの意識しかないのだと分かる。
 幼馴染の桃華相手でも「婚約者に据えただけで放置した」と言うくらいだから、興味がなくて当然なのかもしれないが。

「いいえ、分かりました。では、周囲の皆さんは、婚約者の方を一人一人把握しているのでしょうか」
「いや、してないと思うぞ。リベリアスの『婚約者』なんて名ばかりのモンだからな。そもそも俺が結婚する気がない事くらい、周りも知っているし……だから、桃華が日常的に嫌がらせを受けていたなんて寝耳に水だった」
「なるほど、それは良かったです。では、私がその『身代わり』を務めても?」
「えっ、お姉さまが!?」
「下手に別館で働く使用人の女性を演じるよりも、颯月様に本気になってしまった婚約者の一人を演じる方が、信憑性が増しそうじゃありません?」

 綾那はリベリアスの人間ではない。醜聞が立とうが関係ないし、例え領から追い出されるような事になったとしても、まだ嘆くほどアイドクレースに愛着がないのだ。
 仮に絨毯屋に顔を覚えられたとしても、普段は竜禅にもらったマスクで目元を隠しているから平気だろう。この世界で何ももたない綾那には、失うものなどひとつもないのだから。

(それに何より、こんな事で桃ちゃんが結婚できなくなるなんて、納得できないもんね)

 呆気にとられる桃華を見て、綾那は口元を緩めた。一旦彼女を床に座らせると、自分の鞄を漁る。

「申し出はありがたいが……綾は派手すぎる、さすがに無理だ」
「これを使えば、どうでしょうか?」
「それは――?」

 綾那が鞄から取り出したのは、黒髪のフルウィッグと黒のカラコン、そして黒色のマスカラだ。
 それらを見た颯月と桃華は、ぱちぱちと目を瞬かせた。
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