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第5章 奈落の底で絆を深める

1 魔物の群れ

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 王都アイドクレースの夏祭りは無事、終わりを迎えた。いや、正確には街の複数か所で、一時「停電」という名の魔法封じが施されたので――完璧に『無事』とは言い難いだろうか。

 しかし、間髪入れずに静真と悪魔憑きの子供達が合成魔法を打ち上げてくれたお陰で、停電は特別なイベント事へ昇華された。魔法封じの媒体、ノクティスクロウというカラス型の魔物も、陽香に瞬殺された。

 お陰で、領民達は魔法封じに気付く事なく、大混乱に陥る事もなく――むしろ「合成魔法を綺麗に見せるためだけに街の灯りを落とすなんて、思い切った事を考えたなあ」と感心していると言うのだから、呑気なものである。

 ただし祭りの実行役員だけは、打ち上げのスケジュールを完全に無視した静真と子供達に、厳重注意したらしい。悪魔の襲撃や魔法封じなど、話したところで彼らにとっては関係のない事なのかも知れない。
 それでもあまり話が拗れる事なく厳重注意で留まったのは、ひとえに静真の人望のなせる業だ。更に付け加えるならば、彼がアイドクレースで数少ない光魔法の使い手だから、役員もあまり強く言えないのだろう。

 彼の協力なくして、アイドクレースの合成魔法は成り立たない。ゆえに、多少のやんちゃには目をつぶるしかない――と。



 王都アイドクレースの街中――正門近くに、臨時で建てられた複数の天幕。そこには負傷した騎士や、破損した武器を交換、補充しに来た騎士などが代わる代わる、目まぐるしく出入りしている。

 何故そんな状態なのかと言えば、いまだに街めがけて魔物の群れが押し寄せて来るからだ。普通魔物というのは、滅多な事では人の生活圏まで侵入してこない。
 もし人里に現れるとしたら、個体が増えすぎて群れが食糧難に陥ったとか、別の魔物に棲み処を奪われたとか――必ず理由があるらしい。

 それとなくルシフェリアに確認してみたところ、いくら悪魔でも魔物を使役したり、特定の場所へ呼び寄せたりはできないそうだ。
 最初に颯月達を襲っていた魔物の群れや眷属については、間違いなく「転移」もちの男を働かせたのだろうが――その後に続く群れは、ヴェゼルと無関係らしい。

 それが意味するところはつまり、王都近辺で魔物が増えすぎているのか――それとも、突如として強大な魔物が現れたため、魔物達がこぞって棲み処を追われ逃げ惑っているのか。
 原因が何にせよ、もう魔法封じは消えた。どれだけ魔物が押し寄せようと、王都の騎士が負ける事はないそうだ。

「大いなる光、清廉なるともしびよ。我が祈りをもって、かの者の傷を癒したまえ――「治癒ヒール」」

 酷く疲れた表情をして、いつもの三倍は幽鬼ゆうき度を増した静真。彼が魔法の詠唱を終えると、天幕内にある簡易ベッドに腰掛けた綾那の身体が、光の粒子に包まれた。
 しかしその光は、パンと弾けて散ってしまった。本日五度目の現象に、静真がクッと眉根を寄せる。

 普通、この光は弾けないものらしい。どうも傷を治癒できる回復魔法らしいのだが――何故か、綾那の負った傷は治癒できずにいる。
 難度試しても、まるで回復魔法を拒絶するようにしまって、こめかみに受けた傷は一向に治る気配がない。

(静真さんに魔法をかけられるたび、「解毒デトックス」が発動してる――)

 困ったように笑う綾那を見て、静真はめげずに六度目の詠唱を開始した。

 この回復魔法には、人体に元々備わった治癒能力を強制的に倍増させる力があるそうだ。そうする事で驚異的な回復力を発揮し、受けた傷も瞬く間に治癒できるのだが――魔法によって無理やり人体に働きかけるため、どうしても揺り返しが出るらしい。

 その程度には個人差があるようだが、あとで高熱を出すとか、体の節々が痛むとか、様々だ。もちろん規模は違うが、「表」で強壮剤や栄養ドリンクが『元気の前借り』と呼ばれているのと、似たようなものなのだろうか。
 その作用が人体にとって有害であるとでも判断されているのか、綾那の「解毒」は静真の回復魔法を打ち消し続けた。普段は本当に便利で有用なギフトなのだが――傷病を患った場合には、どうしても悪い面が目立ってしまう。

 六度目の光も弾け散って、ついに静真は頭を抱えてしまった。彼は、ただでさえ合成魔法の打ち上げで疲弊しているのだ。しかも負傷した騎士の治療だってやっている。
 これ以上続けたところで、綾那に「解毒」がある以上は無意味で――ただ静真が、枯れ枝のように痩せ細って行くばかりである。綾那は「もうやめにしましょう」と言いかけたが、しかし、肩を抱いてぴったりと寄り添う颯月が口を開く方が先だった。

「何してる、治るまで続けろ」

 その声色は地を這うように低く、「魔法鎧マジックアーマー」を解除した事によって露になった顔――左目は、静真を睨みつけるように細められている。

 静真は青い顔をしてゆるゆると首を横に振り、蚊の鳴くような声で「何度やっても同じだ、これは治らん」と呟いた。しかし言い終わるのと同時か、あるいはそれよりも早く、颯月は長剣を手に取って真っ二つにへし折る。静真は渋々、七度目の詠唱に入った。

 バキャン! と大きな音を立てて折れた剣と、颯月の纏う空気の険しさに、天幕を訪れる騎士は皆一様に気配を殺している。誰もが速やかに用を済ませると、「八つ当たりの標的にされたくない」とでも言いたげに、綾那達を一瞥する事なくサッと天幕から出て行ってしまうのだ。

 そもそも、決して静真が原因で怪我をした訳ではなく、これはあくまでも綾那の実力不足による負傷だ。それにも関わらず、治りもしない怪我に何度も何度も、無意味な魔法をかけさせられて脅される、静真の憐れさと言ったら――全く見ていられない。

「そ、颯月さん。あの、「解毒」が――「解毒」が邪魔をして、どうも回復魔法は、ダメみたいで……」

 おずおずと口を開いた綾那を無言で見下ろした颯月の顔は、微かに笑んでいる。しかし普段と違うのは、その目が一切笑っていない事だろうか。綾那は思わず口を噤んで、ピャッと姿勢を正した。

(わ、分からない……! こんな颯月さん初めて見るから、どういう感情なのか全く分からない――!)

 まあ、まず間違いなく怒っているのは確かだ。それは分かるが、分かった所で対処の仕方が分からない。
 せめて隣に陽香が居てくれれば、潤滑油になってくれるのだが――いや、彼女も綾那が顔に傷を作った事に対してキレ散らかしているため、状況は悪化するだけかも知れない。

 陽香は今、右京と共に街の外の魔物退治に勤しんでいるのだ。彼女はルシフェリアに全てのギフトを吸収されて、「千里眼クレヤボヤンス」も無くなってしまったため、超遠距離射撃を封じられている。
 しかしギフトを失ったからと言って、射撃の腕までなくなる訳ではない。正門まで近付いてきた魔物を銃で撃つなら問題なくできるため、騎士達の討ち漏らしを処理しているようだ。

 彼女は「弾が無くなる」とぼやいていたが、人命には代えられないのだろう。
 ただ、そもそも討ち漏らし自体が少ないようで、綾那が天幕へ押し込められてから既に二、三十分経ったが――陽香の銃声は、まだ片手で数えられるぐらいしか聞いていない。

 法律上戦闘を禁じられている女性が、人前で堂々とそんな事をしていて良いのかとも思う。まあ、恐らく「正当防衛」で押し通すつもりなのだろうが。
 魔物を片付け終えたら、次は彼女の長い説教が待っているのだろうなと思うと――綾那は、どうしても気が重くなる。

(かすり傷なのに――)

 確かに、ゴブリンらしき魔物のこん棒が掠めたこめかみは、当たり所が悪かったのか大量出血していた。しかし血止めの軟膏で塞ぐように止血されたし、血に染まった肌や髪、服だって、颯月が魔法で洗浄して乾かしてくれた。

 鏡で傷の具合を確認したが、少々べろりと皮がめくれてしまった――程度のもので、肉が深く切れたとか割れたとか、そんな大層なケガではない。
 これくらいなら縫う必要もないし、時間の経過とともに傷跡も目立たなくなるだろう。

 これは余談だが、もし縫うとなった場合「解毒」もちの綾那は麻酔の効果すら打ち消すため、なかなかに過酷な試練が待っていたのは間違いない。いっそ、頭を思い切り殴って失神させてくれと願い出た事だろう。

 スタチューバーとしては、顔に傷を負うなど大失敗にも程がある。しかし、そこまで神経質になる事だろうかと疑問に思わずにはいられない。
 七度目の回復魔法も不発に終わり、颯月の纏う雰囲気はますます険悪なものになる。このままでは、疲労と心労とで静真が倒れてしまうだろう。

 綾那はそっと颯月に身を寄せると、彼の体に両腕を回した。ぴしりと硬直した颯月を見上げて、口を開く。

「颯月さん、私は平気ですから――もう、やめましょう?」
「……俺が平気じゃないんだ」
「でも、「解毒」のせいで治らないんです。これ以上続けても、静真さんが倒れちゃうだけですよ……勝手な事をして傷を作ったのは私です、怒るなら私を怒ってください」

 ぎゅうと体を押し付けて、至近距離で颯月を見上げる。懇願するために、あざとくも桃色の垂れ目を潤ませた。
 少々卑怯な手だが、胸を押し付けて上目遣いになれば、颯月は途端に勢いを失うと分かっているのだ。案の定グッと眉間に皺を寄せると、彼は綾那から目を逸らしてしまった。

「別に、アンタに怒っている訳じゃない。勝手な事をしたと言ったって――綾はただ、創造神の助言通りに行動しただけだろう」
「でも……」
「事実、魔法なしであのまま閉じ込められてたら、誰かしら死んでた。俺を含む騎士の多くは、綾と創造神に助けられたし……それを責めるつもりはない」

 淡々と話す颯月に、綾那は困り顔になる。怒ってないと言っても明らかに不機嫌であるし、責めるつもりがないと言う割に、静真は八つ当たりされ続けている。
 じっと彼の反応を窺うように待っていると、細いため息が吐き出された。そして、まるで自己嫌悪するように――苦虫を噛み潰したような顔をする。

「――――生まれて初めて、陛下のクソみたいなに合法性を見出みいだしちまった」
「え?」
「いや、なんでもない……俺は病気じゃない、絶対に」

 己に言い聞かせるように低く呟いた颯月は、そのまま綾那の背に両腕を回した。ぎゅうときつく抱きすくめられて、綾那は――そもそも、自分から仕掛けておいてなんだが――思わず頬を紅潮させる。
 そんな姿を間近で見せられる静真は、堪ったものではないだろう。目線を動かして確認すれば、いつの間にか彼は体を反転させて、綾那達に背を向けている。かえって居た堪れない。

(颯月さん……ひとまず、許してくれたのかな)

 同じ『四重奏』の陽香が激怒するのはまだ理解できるが、綾那が顔にかすり傷を作ったからと言って、颯月がここまで怒る事はないのに。いや――しかし、例えば逆の立場なら。

「ごめんなさい……確かに、颯月さんのお顔に傷ができたらすごく嫌です。これからはより一層気を引き締めます」
「……分かれば良い」
「あの、ところで颯月さん。外で魔物の討伐をしている皆さんを、手伝わなければいけないのでは――」
「禅も成も居るから、心配するな。仮に討ち漏らしが出ても、和が魔法で止めるだろう……俺は綾の傍に居る」
「え? でも――」

 何やら、いつもの止まれば死ぬマグロ――もとい、颯月らしくない。

 彼は騎士団長という肩書の上に胡坐をかかず、いつも率先して現場に出るのだ。アイドクレース騎士団の中で一番、現場に出ているのではないかというレベルで社畜を窮めているのに。それがなぜ突然職務放棄して、綾那の傍に居るなんて言っているのだろうか。

 困惑する綾那を他所に、颯月はふと静真の背中に声を掛けた。

「そういえば静真、楓馬は――ガキ共はどうしてる?」
「子供達は一旦、教会に戻らせた。楓馬は……少し、戸惑っていたな。ゆっくり話をする暇もなかった事だけが、悔やまれるよ」

 背を向けたまま話す静真に、颯月は「そうか」と短く返した。

 綾那が倒したゴーレムは、どうも楓馬を呪った眷属だったらしいのだ。それが討伐されたという事はつまり、彼の呪いは既に解けているはず。
 元々「普通の人間になりたい」「異形は嫌だ」と言っていたものの――それが突然消えれば、やはり喜びよりも先に、戸惑いが来るのだろうか。この魔物騒動が落ち着けば、一度彼の様子を見に訪ねたいところだ。

(一人だけ悪魔憑きでなくなったら、残された二人に対する負い目もあるのかな――)

 まだ年若い彼が、あまり思い悩んでいなければいいのだが。
 綾那がそんな事を考えていると、天幕の外がにわかに騒がしくなった。外に居る騎士達のどよめきというか、歓声のようなものが聞こえたかと思えば、コツコツと高いヒールが地面を叩く音が続く。

 その音を聞いた途端に、颯月の体がグッと不自然に強張った。
 やがて、天幕の入口を勢いよくばさりと揺らして中へ入って来たのは、つい先ほどまで噴水広場の櫓の上に居たはずの『美の象徴』――正妃であった。

「正妃様――?」

 何故こんな、すぐそこで魔物と戦っているような危険な場所へ正妃がやって来るのか。綾那は驚いて目を瞬かせた。
 しかし颯月は顔を上げる事すらなく、これ見よがしに深いため息を吐き出すと、ぎゅうぎゅうと綾那を抱く腕に力を込めた。

「颯月……お前、仕事もせずにそんなところで一体何をやっているのよ」
「…………婚約者を守るのが、俺の務めですので」

 たっぷりと間を空けて呟かれた言葉に、正妃は肩を竦めて胡乱な眼差しを向ける。

「それは大変結構な事だけれど、お前が今すべきは、街の安全を守る事ではなくて? ――ねえ、颯月騎士団長」

「どうなの?」と責めるような口調で続けられた颯月は、僅かに顔を上げると、縋るような目で綾那を見やった。そして捨て犬のような表情で「今は、綾と一時も離れたくない。どうすれば良い――?」と囁いたため、綾那は苦笑を漏らした。

「邪魔にならないよう、私も隣に居ますから……外の魔物を片付けてくださいますか?」
「…………ああ、分かった。一生俺の隣に居てくれ」
「ん? いや、一生ではなくて……颯月さん? 颯月さん、お話を――颯月さーん」

 颯月は簡易ベッドから立ち上がると、綾那の手を引いて歩き出した。どうせ無視されると分かっていながらも、それでも綾那はしばらくの間、彼の名を呼び続けたのであった。
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