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第6章 奈落の底に囚われる

34 言い聞かせ

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「――そうか……いくら君でも、ダメだったか」
「私の力が及ばず、申し訳ないです」
「いや、君は悪くないだろう。悪いのは私だからな」

 綾那の到着を待っていた颯瑛は、颯月の反応について報告を受けると、僅かに眉根を寄せた。
 それは見ようによっては不愉快そうな表情だったが、恐らく――恐らくだが、悲しんでいるのだろう。

 いや、最早「だろう」では全く安心できない。確実に一つ一つ確認して行かなければ、また『誤解』に巻き込まれてしまう。
 綾那は昨日と同じ来客用のソファに腰掛けながら、書斎机の椅子に座る颯瑛をじっと見つめた。

「あの、念のため確認なんですが、悲しんでいらっしゃるんですよね……?」
「…………ああ、悲しい。悲しいが仕方ない、全て私の身から出た錆だから」

 ほんの少し肩を落とした颯瑛に、綾那は何やら居た堪れない気持ちになった。もう少し慎重に、機を見て颯月と話していれば結果は違っただろうか――と。

(いや、でも颯月さん、颯瑛様と何を話したのかずっと気にしていたし……「何もありませんでした」で、済ませられた訳がないか)

 せめて颯瑛との会談が、内密に行われていたならば――とも思うが、あの状況ではどうしたって無理だっただろう。
 そもそも、敬愛する颯月にコソコソと隠れて、アレコレ企むと言うのも如何なものか。そう考えると、全て必然の事だったのかも知れないとも思えてくる。

「今日の繊維祭、君の席も用意したのだが――その調子では、あまり私の傍には居ない方が良いのだろうな」
「あ、はい……せっかく用意していただいたのに、すみません」
「いや、急遽思いついた事だったから気にしなくて良い。ただ……少し、残念だ。もっと君と話してみたかった」

 おもむろに立ち上がった颯瑛は、「また維月に送らせよう」と言って、綾那の傍まで歩いて来た。
 彼は相変わらずの無表情だったが、よく見れば確かに残念そうな色を滲ませている――ような気がする。

 綾那も颯瑛に続いて立ち上がると、そっと彼の手を握った。

「颯月さんに「望まない事は強要しない」と伝えたので、すぐには難しいですけれど……でも、長い時間をかけてでも、いつか仲直りができたら良いなと思っています。私も諦めずに、ゆっくり――これからも機を見て、颯月さんに働きかけるようにしますから」
「……ありがとう、君にそう言ってもらえると心強いよ」

 颯瑛は微かな笑みを浮かべると、綾那の手を握り返した。綾那はそんな彼に穏やかな笑みを返しながら、ふと今回気になった事を告げる。

「あの、颯瑛様」
「うん? ……もうお義父様とは呼んでくれないのか?」
「――お義父様。少々気になったのですが、今日私を招待された事……正妃様にはお話されましたか?」

 颯瑛はその問いかけに答える事なく、ぴくりと僅かに肩を揺らして、黙り込んだ。――どうやら答えは「NO」らしい。
 綾那とて、たった一日で人が変わるなんて、そんな都合の良い事は考えてない。しかし、少しくらい周りを誤解させないための努力をして欲しいとは思う。
 自身は人から誤解されやすい、周囲からの信頼がないという自覚があるのに――何故昨日の今日で早速、対話を諦めているのだ。

 綾那は彼の手を離すと、今立ったばかりのソファに再び腰を下ろして「座ってください、お義父様」と言って笑った。
 笑ったと言っても、その瞳はあまり笑わなかったが。

 説教の気配を感じ取ったのかなんなのか、颯瑛はどこか気まずげに目を逸らしながら、綾那の正面のソファに腰掛けた。

「颯月さんの事は今すぐに解決できないので、お義父様はまず、正妃様や維月殿下にこれ以上誤解されないよう注意すべきです」
「……君の言う通りだと思う」
「思うだけではいけません。ちゃんと正妃様とお話しましょう、きっとお義父様が好きだと思っている事すら、伝わっていませんよ」
「そ、そんな事はない。彼女は聡いから、私の全てを分かってくれている」
「全て正しく分かってくださるなら、そもそもお義父様の事をいまだに誤解しておられる筈がないじゃあないですか」
「…………息子よりも若い娘さんに、説教させてしまうなんて情けない」
「情けないと思われるなら、行動に移していきましょう」

 颯瑛はまたしても、ソファの上でだらけるようにぐでーんと伸びて、天井を見上げた。
 綾那が「お義父様」と呼びかければ、彼は億劫そうに顔を上げる。
 その顔には「面倒くさい」とハッキリ書かれているように見えて、何やら幼少期の――まだ小学生になる前の渚の相手をしているようで、懐かしくなった。

 彼女は地頭じあたまが聡明過ぎたせいで、同年代の子供達とは――下手をすれば、大人とも一線を画していた。
 その上ギフトに恵まれたせいで要らぬやっかみを生み、幼稚な嫌がらせやいわれのないそしりを受けては、周囲のレベルに合わせるのも誤解をとくのも面倒くさいと言って、綾那以外の友人を作ろうとしなかった。

 そもそも単純な知能レベルで言えば、当時の綾那は子供達の中で最底辺だったのではないかと思うのだが――幸いな事に彼女は、綾那のもつ底なしの包容力とやらを気に入っていた。

 根気よく説得し続けた甲斐あって、渚が小学校に上がる直後に出会った陽香とアリスとは、無事に友人関係を築く事に成功したのだが――颯瑛にも、同じぐらい時間が必要なのかも知れない。
 そんな失礼極まりない事を考えながら、綾那は思わず苦笑した。

「竜禅さんに指摘されたのですけれど、正妃様がお傍を離れられる時に私を呼び寄せるのは、周りの方から特に邪推されやすいようです」
「……羽月さんの居ぬ間に、輝夜さん似の君を寵愛しようと?」
「そうみたいです。竜禅さんがそう思われると言う事は、つまり正妃様だって同じように思うと言う事です」
「…………君を招待する事、羽月さんに話してみようという気はあったんだ。ただ――今度は何を企んでいるのかと疑われたり、颯月から君を取り上げないでやってくれ、なんて言われたりするのだろうなと思うと……話すのがしんどかった」

 馬鹿正直な気持ちを吐露する颯瑛に、綾那は困ったような笑みを返した。

「ですがその調子では、いつまで経っても事態は好転しません。話す事を「しんどい」と言って避けていても、その先もっとしんどい状況に陥るだけですよ」
「君がずっと私の傍に居て、潤滑油になってくれれば話しやすいんだが……私自身、諦めずにもう少し頑張ろうと励まされるし」
「颯月さんの気持ちが落ち着かれるまで、それは難しいです。お義父様自身にも頑張って頂かないと――」

 したくない事、しんどい事から逃げて甘い汁だけ吸おうとするのは無理がある。そんな事を続けていては、いつまで経っても颯月と和解なんて出来ない。

 それは颯瑛自身よく理解できているのか、彼は静かに頷いた。
 そして無表情のままそっとソファから立ち上がると、「これ以上義娘に叱られたら、お義父様は情けなさ過ぎて泣いてしまう」と言って、やんわりと綾那の退室を促した。

(面倒になるとすぐに匙を投げちゃう方だから、颯瑛様にも無理強いは禁物なんだろうな)

 綾那はソファから立ち上がると、ぺこりと小さく頭を下げた。

「偉そうな事を言って、すみませんでした」
「――いや、全て私が至らないせいだから。そうやって気にかけてくれて嬉しい」

 颯瑛はゆるゆると首を横に振ったが――しかしその表情は、まだ早朝で繊維祭も始まっていないと言うのに 既に疲れ切ったようなものに変わっていた。
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