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第7章 奈落の底で問題解決

22 意気消沈

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 颯瑛は竜禅の胸倉を掴んだまま、どこまでも冷たい眼差しで彼を見下ろしている。
 綾那はほとほと困り果てながらも、ひとまず解放されたルシフェリアの手を引いて肩を抱き寄せた。いつまでも颯瑛の傍に置いていて、またアイアンクローを食らっては堪らないと思ったからだ。

 綾那はルシフェリアに「何もしなくて良い」と言われたが、どうするのが正解なのか全く分からない。少女の手を引いたまま、そろりそろりと颯月の元まで避難する。
 困惑しているのは彼も同じようで、綾那と目が合うと僅かに眉根を寄せた。

 そうして綾那達が困惑している間にも、颯瑛と竜禅の言い合いは続いている。

「この紛い物を颯月に見せて、どうなる。今後一生、彼の母親として傍に居てくれるとでも言うのか? 君と羽月さんはそれで幸せだろうな。大好きな輝夜さんとその息子が、仲睦まじく過ごしてくれれば」
「そんな都合の良い事を考えている訳ではありません。私はただ……颯月様にも、我が主が素晴らしい人物であった事を知って頂きたいのです。かおを見ながら、どれだけ聡明だったか、どのような人物であったか……颯月様の誕生をどれほど心待ちにしていたか――」
「ああ――なんだ。君は颯月に、輝夜さんを好きになって欲しいのか? 見も知らぬ、恩着せがましく身勝手に死んだ母親を? それは無理がある」
「……我が主を恋い慕い過ぎて、気狂いに磨きがかかったのですか? いくら陛下でも、そのような――我が主を蔑むような言葉は聞き捨てなりませんよ」

 竜禅が低く呟けば、颯瑛は嘲笑うように短く鼻を鳴らした。

「君と羽月さんが彼女を深く慕っている事はよく知っている。だが、君らに振り回される颯月の事を少しは考えた方が良い。彼の母親は羽月さんで、父親は君だ。それの何が不満なんだ? 彼にとって輝夜さんは、なんの感情も湧かない人物だろう」
「不満など、そんな次元の話ではありません。颯月様がどれほど愛されていたか語り聞かせる事の、何が気に入らないのですか!? 身を賭してまで彼を守った生母の姿を見せるぐらい――」

 颯瑛は、半ば突き飛ばすようにして竜禅の胸倉から手を離した。互いに一歩も引かぬ口論に嫌気が差したのか、彼は頭痛を堪えるような表情で自身の額に手を当てて、大きなため息を吐き出す。

「副長、いい加減にしてくれないか――君の望みにはできる限り添いたいが、さすがに目に余るぞ。輝夜さんのした事を、まるで美談のように捻じ曲げて語るのは止めてくれ」
「どういう意味です」
「私も彼女の事は愛している。今でもその気持ちに変わりはないが――しかし、輝夜さんのした事は間違っている。彼女が命懸けで守ったから颯月の呪いがのではない。輝夜さんが最期に余計な事をしたせいで、颯月は。そこを履き違えてはいけない」
「それは……! しかし、下手をすれば呪いどころか眷属に殺されていたかも知れないのに、何もせず傍観していれば良かったと!? そもそも、我が子の危機を前にして平静で居られるような方でない事は、よくご存じでしょう!」
「今更タラレバを言っても仕方がないだろう? 確かに輝夜さんが眷属に手を出さなければ、颯月は全身を呪われていたに違いない。だが、一生ではなかった。いつかは終わりのある呪いで済んだはずなんだ……それにこんな酷な人生を歩ませるぐらいなら、あの場で眷属に殺されていた方が遥かにマシだった」
「……先ほどから、言葉が過ぎます!」

 珍しく感情を露にして激昂する竜禅に、綾那は肩を跳ねさせた。

 今まで舞台に夢中だったのに、国王と騎士団副長の白熱する口論に気付いた領民が、一体何事だと様子を窺っている。
 野次馬の数はどんどん増えて行く一方で、これはもう手に負えないだろう。明日にでも、街中にある事ない事おかしな噂が広まるに違いない。

 綾那は不安いっぱいの表情で颯月の腕を引いた。この場を収められるとすれば、もう颯月しか居ないだろう。彼はおもむろに膝を折ると、綾那の耳に唇を寄せた。

「こうして実際に目の当たりにすると、さすがに――少しは信じてみようという気になってくる」
「え……」
「綾の言う通り、陛下は俺を恨んでいないんだろうな」
「あっ……、は、はい、そうです――そうですよ。あなたは、ひとつも恨まれていません」
「まあ、それはそれとして……俺の方には陛下に対する恨みがそれなりにあるんだが」

 どこか困ったような――それでいて、自嘲するような複雑な笑みを湛えながら、颯月は小さく肩を竦めた。
 誤解がとけたところで、二十三年間颯月が不条理に晒され続けた過去はなくならない。だから、彼が抱く恨みまでは取り除けない。

(だけど、たぶんこれって和解への大きな一歩……だよね)

 棚からぼたもち、いや怪我の功名だろうか。とんだトラブルに巻き込まれてしまったが、この修羅場はもしかすると、颯月のためになっているのかも知れない。
 ルシフェリアの狙いは、初めからそこにあったのだろうか。

(でも、リベリアスの住人の行く末については見通せないはず……?)

 それは最早、綾那達についても同じ事で――つまりこれは狙ったものではなく、偶然が重なった結果なのだろうか。それとも、これら一連の流れも「転移」もちの男達の目を通して見た未来なのか。

 仮にそうだとすれば、今この瞬間もどこかで「転移」がアリスを視界に捉えているという事になるのだが――。
 綾那がちらりとルシフェリアを見下ろせば、少女は仮面をかぶったまま口元に笑みを浮かべて、小首を傾げた。わざわざ口に出さずとも、「さあね」と煙に巻くようなセリフが聞こえてくるようだ。

(いや、今はお義父様と竜禅さんをなんとかしなきゃ……これだけ人が増えちゃったら、「転移」の人が襲ってきた時パニックになるかも知れない。何せあの人たち、平気で人に魔物をけしかけてくるようなサイコパスだからなあ)

 まずは事態の収拾を図り、領民をこの場から――アリスの居る場所から散らしたい。イベントさえ終われば買い物に奔走してくれるはずだが、このまま喧嘩を繰り広げていては野次馬が残るだろう。
 改めて颯瑛達を見やるが、やはり彼らの口論は続いている。

「そんなに輝夜さんの顔を見せたいのであれば、私が持っているモノを全て引き渡そう。君なら悪さをしないだろうから、安心して管理を任せられる」
「は? あれほど必死にかき集めた写真をですか……?」

 竜禅は、思い切り怪訝な声色で問いかけた。
 周囲の認識で颯瑛は、輝夜が逝去した後「二度と己以外に彼女の顔を見せたくない」と、顔が分かる資料を全て回収し、隠したとされている。
 しかし現実は、一部の領民に恨みを抱かれていた輝夜に対する憂さ晴らしに、写真が悪用されるのが我慢ならなかっただけだ。

 悪用する恐れのない竜禅が相手ならば、なんの憂いもなく全ての資料を渡してしまうだろう。

「だから、わざわざそんな紛い物に颯月の相手をさせる必要はない――下手な事をして、もしその子が『母』を恋しがるようになったらどうするんだ? いくら欲しても、本物の輝夜さんはもうこの世に居ないんだぞ。これ以上苦しめるような事はするな」

 その言葉に、綾那はようやく颯瑛の怒りを正しく理解できた気がした。
 彼は何も、ルシフェリアが故人の姿を模して弄んだ事だけに憤慨している訳ではないのだ。颯月が出生後すぐに死に別れた生母――本来会う事のないと彼を、会わせたくなかったのか。

 輝夜と引き合わせる事で、颯月が母を求めるようになったら困ると――彼は、本気でそんな心配をしているようだ。
 どこまでも真剣な眼差しで告げた颯瑛に、綾那の隣に立つ颯月がふっと小さく笑みを漏らした。そして数歩前に進み出ると、落ち着いた声色で「陛下」と呼び掛ける。

「俺はもう二十三です。母親を恋しがるような年齢ではありませんよ」
「…………」
「――陛下?」
「………………私に話しかけているのか」
「そうですが」

 途端にぴしりと動きを止めた颯瑛は、僅かに目を見開いた。ギギギとぎこちない動きで颯月を見たかと思えば、すぐさまバッと目を逸らす。
 つい今しがたまで竜禅と舌戦を繰り広げていたのに、彼はそこから一言も発さなくなってしまった。いきなり意気消沈した颯瑛に、対戦相手の竜禅も怪訝そうに「陛下?」と問いかけた。
 彼はどこか警戒した様子で、颯月があまり颯瑛に近付き過ぎないよう、片腕で庇うようにして動きを制している。

 ――肝心の颯瑛はと言うと、かなり動揺しているらしい。あちらこちらへ視線を投げかけて、やがて綾那に目線を留めると、ちょいちょいと手招きした。
 その紫色の瞳には、はっきりと「助けて」と書いてある。恐らく――恐らくだが、大好きな颯月に突然話しかけられて、どうしていいものか分からないのだろう。

 綾那は正直、「またあの修羅場に飛び込まなければならないのか」と苦笑いした。しかしここで協力しなければ、きっとこの父子は先へ進めない。結局綾那はその場にルシフェリアを残して、颯瑛の元まで足を運ぶ事にした。
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