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第9章 奈落の底に永住したい

12 綾那の不安

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 不貞腐れた陽香と食事を済ませる頃には、もうすっかり日が落ちていた。
 まだ仕事で忙しいだろうからと、右京を始めとするアイドクレースの騎士へ帰還を伝えに行く事もできず――街の宿に泊まるアリスや渚へ会いに行こうにも、「水鏡ミラージュ」なしで街中を歩くのは現状問題がありすぎる。

 陽香は食事中も終始「つまんねえ」と嘆いていたが、しかし空腹が満たされた途端に眠気に襲われたのか、大あくびをしながら大人しく自室へ帰って行った。
 そもそも彼女は、今朝から昼過ぎまでずっとセレスティンのジャングルやら洞窟やらを駆け回っていたのだ。いくら体力オバケでも、さすがに疲れが溜まっているだろう。

 その点綾那は待機している時間が多かったため、肉体的疲労はそこまでないのだが――精神的な疲れが酷い。この世で一番口にしたくないものを食したのだから、それもまた当然の事だ。

(ひとまず、私も部屋に戻ろうかな)

 綾那は自室へ続く廊下を歩きながら、ここ一週間で――と言うよりも、セレスティンへ「転移」する前に起きたアレコレを考える。
 ようやく四重奏カルテットのメンバー全員に結婚のお許しをもらい、今の今まで浮かれまくっていた。しかし、よく考えれば浮かれてばかりもいられない。

 まず、やむを得ない事情があったとは言え、繊維祭で好き勝手に暴れた件。
 すかさず陽香がフォローしてくれたものの、街中で変な顔の売り方をしてしまったのは少々痛い。先ほども街中を歩いて感じたのだが、あの日ヴェゼルが雪を降らせたせいで、『雪の精』なんて薄ら寒い呼び名が不動のものになってしまっている気がする。
 決して綾那が降らせた訳ではないのだが、どうも住民には異大陸の魔法と思われているようだ。

 あと、堂々と颯月の婚約者であると公言した事によって、彼の熱心なファンを敵に回していないかどうかも気になるところ。

(まあ敵に回していたところで、私が颯月さんから手を引くなんてあり得ないんだけど……そう言えば幸輝の様子はどうだろう)

 繊維祭の日に現れた眷属の中には、幸輝の呪いの元になったものも居たらしい。教会の子供達は、今頃どうしているだろうか。
 楓馬の時もそうだったが――喜ばしい事とは言っても、少なからず戸惑いがあるだろう。綾那はいつも、呪いが解けた直後の彼らに寄り添ってやれていない。
 これで、静真の教会に残る悪魔憑きは朔一人だけだ。早く彼も普通の人間に戻してあげられると良いのに。

 嘘か本当かも分からぬまま、ルシフェリアから「今日眷属のターゲットになる」と示唆されていたみおのその後も気になる。
 あの場限りの一時的な予知ならば、別に構わない。ただ、女性は眷属の呪いに耐えられず死んでしまうと言うし――今後もよく注意してやらねばならない。

 あの日に捕らえた「転移」の男二人組みは、どうなっただろうか。『チャラ男』と『むっつり』の二人だ。
 彼らは捕まるその瞬間まで、ひとつも悪びれる事なくアリスに向かって暴言を吐きまくっていた。牢屋に入れられて、多少は頭が冷えただろうか――。
 まあ、冷えていたところで犯した罪はなくならないし、出獄する事も叶わないだろう。

 何せ彼らは「王都に混乱を招き~」「婦女子アリス暴行未遂が~」なんて話の前に、未来の王族たる桃華の誘拐を二度もくわだてている。
 仮に国が彼らを許しても、幸成が黙っていないだろう。何せ王族は、身内を傷付けられた際に己の裁量で加害者を裁く権利をもっているのだから。

 彼らを捕まえた後、綾那はすぐさま体調を崩して倒れてしまった。だから陽香による『広報』の効果とか、新たに大衆食堂で配信スタートした大食い大会の動画の反応とか、そういった事が一切把握できていない。
 ただ、漠然と「入団希望者が増えたらしい」と聞かされたのみである。

 そして、颯月の今後も気になる。彼は綾那を救うため、自身に課せられた仕事を部下へ割り振ってから無理やりセレスティンへ向かったそうだ。
 今期の役職手当を分配するとか、これからしばらく休みなく働くとか、様々な代償を払ってまで綾那を救ってくれたと聞く。
 ――元々休みなく働いていたではないか? と言うのは、さすがに野暮だろう。

 そのせいで彼の執務机は書類の山に埋まり、部下だって今も忙殺されている。綾那が風邪をひいたばかりにこんな事態を引き起こして、これから一体どう償えば良いのだろうか。
 とりあえず部下の手が空いた頃を見計らって、全力で頭を下げに行かねばならない。

(颯月さんには――今度、マッサージでもさせてもらおうかな。書類仕事続きで肩が凝るだろうから……)

 結婚だなんだと言ったところで、あの様子ではしばらく無理だろう。颯月の性格上、職務放棄する事を良しとしないはずだ。
 全ての仕事が片付いて憂いがなくなった頃、改めてプロポーズしてくれるのを期待して待つしかない。

 既に勘当された身とは言え、やはり元王族として正妃や国王の許可が要るのだろうか? 恐らくだが、彼はしっかりと挨拶しに行くのだろうと思う。
 颯瑛と和解しつつある今となっては、わざわざ避ける必要もないのだから。

 ――それに何よりコソコソ隠れるように結婚手続きを済ませれば、正妃辺りが黙っていないに決まっている。

 綾那は自室に辿り着くと、中に入って一人頬を緩ませた。まさか自分が、こんなにも好みド真ん中の男性と結婚する事になるとは、夢にも思わなかった――と。

 周囲から散々言われてきた事ではあったが、綾那自身、己がいかに男を見る目がないかをよく理解していた。
 ――ただ、残念ながらは周囲が思う「ダメ男ホイホイ」、「ダメになる素養のある男ばかり好きになる」という部分ではない。「アリスの「偶像アイドル」に抗えないような浮気男ばかり好きになっちゃう」という、的外れのものだ。
 まあ、少なくとも男を見る目がないと理解できてはいるのだから、細かい相違は良いだろう。

 とにもかくにも、颯月は綾那にとって宇宙最高の男だ。これ以上の男性は居ないし、彼の代わりなんてこの世のどこを探しても見つからない。
 颯月のような男性と家族になれるのだ。しかも、颯月の両親や義弟など、彼の周りには素敵な身内が居て――綾那は、彼ら全員と家族になる。

 今まで家族と呼べる者は、四重奏のメンバーのみだった。
 顔も知らぬ生みの両親に、存在するのかどうかも分からぬ兄弟。血族なんて物心がつく頃にはなくて当たり前のものだったため、「欲しい」と思った事すらなかったが――綾那は颯月と結ばれる事で、義理とは言え、それらを一挙に手にする事ができる。

(私ばかりこんなに幸せで、本当に大丈夫なのかな)

 これほど、幸せ過ぎて恐ろしいなんて感覚を覚えたのは生まれて初めてだ。いくらルシフェリアに課された試練を乗り越えたからとは言っても、幸福が過ぎるのではないかと思わずにはいられない。
 浮かれていて足元を掬われないか。またとんでもない試練を課されるのではないか。どこかしらから邪魔が入るのではないか――。

 綾那は、ベッドにうつ伏せで沈み込んだ。途端にドクドクとうるさくなった心音の原因は、期待に満ちているから――ばかりではないだろう。
 何やら急激に颯月の顔が見たくて仕方がなくなったが、彼は今忙しいのだからと自身に言い聞かせて目を閉じた。
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