私たちの離婚幸福論

桔梗

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039 使節団の帰国

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ーー宮殿前の大広場。



春の風がまだ冷たさを含んで吹き抜け、旗が翻る。

石畳の上に整列するのは各国の使節団と、見送りに出たヴェルディアの貴族たち。



「璃州の使節は随分と礼儀正しかったな。皇后陛下と親しげに話していたが……」

「まさか、交易が本当に実現するのか?」

「アストレア公爵家が仲介するらしいぞ。あれは皇后陛下の采配だそうだ」



「聖月国のセリス殿下……何とも掴みどころがないお方だ」

「神聖な雰囲気に包まれて、こちらまで目を逸らしたくなるほどだな」



「……アンダルシアの王子殿下……見ただろう、あの眼差しを。皇后陛下を見つめる時の……」

「おい、口を慎め! 皇帝陛下に聞こえでもしたら命取りだぞ!」



貴族たちのざわめきの中には、さまざまな思惑があるようだった。



見送りに立つ人々の列の中に、イザベルの姿もあった。



真新しい豪華なドレスを着ていたが、彼女の頬はまだ青ざめている。

赤い瞳は俯いたままで、誰とも目を合わせようとしなかった。



(……誰も、私を見ていない……)



皇后の隣に立つノアの姿は、まるで初めて会った人間かのようにどこか遠く、もう届かない場所のもののように感じられた。







重厚な鎧に身を包んだ将士たちが馬列を整え、旗が風をはためかせていた。

ルクレル将軍は最後に皇后のもとへ進み出て、胸に拳を当てる。



「ヴェルディア帝国の太陽、陛下の御世に、このような盛大な祭に参加できたことを誇りに思います」



豪快な笑みの奥に、戦場を幾度も潜り抜けた男の誇りが宿る。

ノアとルシェルは深く頷いた。



その背が去るのを見届け、ルシェルは胸の奥にほんの少しの寂しさを覚えた。

彼の豪放さは、この宮廷に不足している力強さを映しているように思えた。



「いやはや!武闘大会での手合わせ、あれほど胸が熱くなった戦いは初めてだったぞ!また剣を交える日を楽しみにしているぞ!我が友よ!」



そう言ってゼノンの背を豪快に叩く。

その背に陽光が射し、北方の獣のような威厳を纏って去っていった。







荷馬車が整えられ、璃州国の使節団が一斉に頭を垂れる。



藍は長衣の袖を揺らし、静かにルシェルへ一歩進み出た。



「短い間でしたが……貴国との縁は生涯忘れません。これから続く交易においても、末永くよろしくお願いいたします」



その言葉に、列の後ろからヴェルディアの貴族が小声で囁く。



「璃州国の正使が、皇后陛下にあれほどの敬意を……」

「やはり皇后陛下の人徳というべきか」



ルシェルは静かに微笑み、藍へと応じる。



それだけを言葉にし、言葉など必要ないというように、微笑を交わした。







セリスは薄い衣の裾を揺らしながら、ゼノンと肩を並べていた。



「あなたがこの国に残らぬとは……少し意外でした」



「……これ以上、彼女を惑わせるべきではない。それに、皇帝も記憶を取り戻したそうだ」



ゼノンの低い声に、セリスは柔らかく目を細めた。



「それでも、あなたの心はまだ彼女にある。違いますか?」



「……当然だ。長い間、彼女を待ち続けていたのだからな」



ゼノンの哀愁漂うその表情は、とても18の青年には見えなかった。



「それでも、やはり彼女の幸せが俺にとっては何より重要なことだ。彼女が俺を求めぬ限り、俺から彼女に無理強いすることなどできない」



セリスは視線を遠くの空へと向ける。



「月は満ち欠けを繰り返します。人間も同じです。変わらぬものなどどこにもない。きっとこれからまたいろいろなことが変わっていくでしょう」



ゼノンは一瞬だけ言葉を失い、やがて小さく息を吐いた。



「なんだ、慰めのつもりか?」



「いいえ。あなたが皇后陛下に、何も話さなかったのもまた最良の結末を迎えるための意味あることだったのでしょう。私はそう信じています。自分よりも、他人を大切にする…そんな優しいあなたには幸せになってほしいのですよ」



セリスはもどかしそうに、どこか悲しげに微笑んだ。



「君は本当に根っからの大司教様だな」



ゼノンは微笑む。



そしてセリスの元を離れ、人々の視線の中、ゼノンはゆっくりと歩みを進める。

ざわめきの中、ゼノンは一歩進み出て、ノアとルシェルの前に立った。



周囲の貴族たちが息を呑む。



「何だか空気が重いな…」

「皇后陛下にあれほど真摯な眼差しを……」

「国に帰るということは……やはり、あれはただの噂だったんだろうか?」



ルシェルは言葉を探しながらも、結局、微かな声しか出せなかった。



「……どうか、お元気で」



その短い言葉に、ゼノンの瞳がわずかに揺れた。

だが彼はすぐに口元に淡い微笑を刻み、深く一礼する。



ノアはそのやり取りを見つめていた。

心の奥に、小さな痛みが走る。



(……この眼差し)



吹き抜ける風が馬の鬣を揺らし、出立の合図が鳴る。

ゼノンは背を向け、堂々とした足取りで馬に跨がった。



花弁が舞い、彼の姿は使節団とともに城門の向こうへと消えていく。



ーー広場に残されたルシェルは、胸の奥に痛みを抱えたまま、ただ静かにその背を見送った。



***



ーー夜の帳が降りた宮殿。



ルシェルは静かに自室へ戻った。



ふと机の上に目をやった時、そこには一輪のアイレンの花が、小さな花瓶に挿されていた。



(…これは…アイレンかしら?)



「エミリア、この花はどうしたの?あなたが花をこんなふうに一本だけ飾るなんて珍しいわね」



思わず呼びかけると、控えていた侍女が静かに頭を垂れた。



「……アンダルシアの王子殿下から頼まれました。どうしてもこの部屋に飾ってほしいと……」



ルシェルの胸が締め付けられる。



「それと……お手紙もお預かりしております」



白い封筒が差し出された。

震える指で受け取り、封を切る。



ーーそこには、短い、しかし心を抉るような文字が並んでいた。



《アイレンはアンダルシアで古くから愛される花です。どうか、あなたがいつも笑っていられますように。私はいつも、どんな時でも、あなたの幸福を祈り続けます。 ”ゼノン・アンダルシア”》



視界が滲んだ。

手紙の文字がぼやけ、花弁が揺れる。



(……この花の花言葉を……彼は知っているのかしら)



アイレンの花言葉は――”幸せになってください”。

いいや、彼が知らぬはずはない。

知っていて、敢えて置いていったのだ。



「……ずるい人」



声にならない声が、涙と共に零れ落ちる。



ルシェルは花を胸に抱きしめ、ただ静かに嗚咽した。
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