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《序章 精霊刀剣》【選ばれし子どもたち編】
第八話〜前日譚〜 居場所が欲しい
しおりを挟む【11年前 東京都新宿区歌舞伎町】
私の名前は、飯田冴木。18歳。
誰に呼ばれるわけでもない、宙ぶらりんの名前。
履歴書に書けるような肩書きは、ひとつもない。
唯一の経歴は、「生き残ってきた」という事実だけ。
物心ついたときから、父の怒鳴り声と拳は、私の生活のBGMだった。
夜中でも、朝でも。テレビよりも大きく、壁よりも硬い音。
殴る。蹴る。投げ飛ばす。
最初は怖かったはずなのに、いつからか耳が慣れてしまった。
でも──痛みだけは決して慣れなかった。
紫から黄色へ、黄色から茶色へ、そしてまた紫へ。
一年中、私の体は“色とりどりの地図”だった。
触れられると痛い。触れられなくても痛い。
夜、布団に横たわると、あざが脈打つ音が骨まで響く。
父は土方をやっていて、腕っぷしには自信がある。
昔から悪さばかりで、少年院にも入ったことがあるとよく自慢している、筋金入りの不良。
「座り方が悪い」「食べ方が汚い」「テレビのリモコンが遠い」
殴るきっかけなんて、そこら中に落ちている。いや、違う。
手が上がる前に理由を探すんじゃない。
殴ったあとに理由を作るんだ。
それが、この家のルールだった。
母は、私が八歳のときにいなくなった。
「出て行った」のか、「追い出された」のかはわからない。
理由も聞けなかった。
でも、私にとって母は優しい人だった。
抱きしめられると、洗濯物と同じ匂いがした。柔軟剤と陽の匂い。
あの匂いはもう、夢の中でしか嗅げない。
母が消えた日、家の空気は一瞬で変わった。
重く、濁り、底の見えない色になった。
暴力の矛先が完全に、私一人に向いたからだ。
──学校では、私のあざを見たクラスメイトが笑った。
「DVだ~」と真似して、拳を振り下ろすジェスチャーをする。
笑い声が耳の奥で反響して、吐き気が込み上げる。
教科書や上履きは何度もゴミ箱に捨てられた。
給食の牛乳に洗剤を混ぜられた日、泡立った白い液体を見た瞬間、喉が凍った。
虫を入れられた日、噛み砕いたときの脚のざらつきが、10年以上経った今でも舌に残っている。
担任は「大げさに言わない方がいい」と笑って流した。
保健室の先生は「辛いのはあなただけじゃない」と言った。
そういう言葉は、傷口に塩を塗るより痛かった。
それは励ましじゃない。「我慢しろ」という命令だ。
その日、家に帰っても、父がいた。
帰らなければよかった。
でも、帰らない場所も、なかった。
家にいれば殴られ、学校に行けば笑われる。
逃げても逃げても、逃げ場はない。
私の居場所は──地球上のどこにもなかった。
──なんで、私は生まれたの?
──母は、なんで私を置いていったの?
夜、布団に潜るたび、その問いが頭蓋の奥で鈍く響く。
耳の中で、自分の鼓動と混ざり合い、いつまでも消えない。
返事は、いつも無音だった。
ただ、暗闇が答えの代わりに、私を呑み込む。
「お母さんにまで見捨てられたら……私の居場所は、もう……どこにもないの……?」
声にした瞬間、胸の奥がぐしゃりと潰れる音がした気がした。
息が浅くなり、視界がじわじわと暗くなっていく。
そのまま泣き疲れ、涙が乾く前に、私は気絶するように眠った。
夢も、温もりも、何もない眠りだった。
──ある日、商店街の電気屋の前で足が止まった。
ショーウィンドウに並んだテレビのひとつが、私を捉える。
画面には、大きくテロップが踊っていた。
「トー横キッズ特集!!」
「……トー横キッズ?」
アナウンサーの声が、冬の乾いた空気より冷たく耳に刺さる。
──トー横。
東京都新宿区歌舞伎町、東宝シネマズの横に群れる若者たち。
家庭にも学校にも居場所がない子たちが、夜の路上で肩を寄せ合う。
ネオンの光、酔っ払い、タバコの煙。
路上にしゃがみ込む少年、笑う少女、うつむく横顔、泣き腫らした瞳。
そのすべてが現実味を失って、まるで遠い国の物語みたいだった。
……なのに、どうしてか、瞬きができなかった。
胸の奥で、何かがカチリと音を立てる。
「……これだ
ここだったら……私にも、居場所ができるかもしれない」
だけど、福島の郡山から東京までは、地図で見るよりずっと遠い。
思考よりも先に、体が動いていた。
父が寝静まるのを待ち、呼吸の音まで数えながら忍び足で財布を開ける。
札を抜く指先は、恐怖と興奮で震えていた。
家のドアを閉めた瞬間、夜の空気が鋭い刃のように頬を切った。
それでも痛みより、解放感が勝っていた。
徒歩で40分、真夜中の道を郡山駅まで歩く。
足の裏がじんじんと痺れる頃、新幹線の窓際に身を沈めた。
車窓の外、暗闇に沈む街が後ろへ後ろへと流れていく。
胸の奥で、不安と期待が互いに噛み合い、心臓を締め上げた。
あのときの私は──
15歳になったばかりの、何も持たない逃亡者だった。
「……ここが」
──シネマシティ広場。
テレビで見た、あの雑多で息苦しい景色が、目の前に広がっていた。
排気ガスの金属っぽい匂いと、湿ったタバコの煙が混ざり合い、肺の奥にへばりつく。
足元には、踏み潰されたガム、吸い殻、こぼれた缶チューハイのぬめり。
踏むたびに靴底がべちゃりと鳴った。
泣きじゃくる女の子が、誰にも慰められずに路面を濡らしている。
Bluetoothスピーカーから漏れる低いビートに合わせ、無理やり笑いながら踊る少年たち。
ダンボールもなく、素肌のままコンクリに転がる若者の体は、冬の夜気で白くくすんでいた。
明らかに未成年のはずなのに、アルコールの缶を振っては口をつけ、ゲラゲラ笑う子。
その輪から外れた位置で、私をじっと見つめる老人──そして、その背後に立つ、無言の警察官。
誰も何も言わない。ただ、見ている。
私は、ここで何日も野宿した。
コンクリートの冷たさが背骨にまで響き、夜明け前の湿気が毛布の隙間から入り込む。
それでも、ここには話しかけてくれる誰かがいた。
みんな、家も学校も壊れていて、たどり着いた先がここだった。
不幸なのは、私だけじゃない──そう思えた瞬間、初めて呼吸が少しだけ軽くなった。
冷たいはずの夜風が、やけに心地よく感じた。
そして、気づけば三年が過ぎていた。
18歳になった私は、この街の空気に、すっかり染まっていた。
──ある日の夕方。
「ねえ、冴木も一緒にパキろ!」
私と同じ、トー横キッズの織姫星から差し出されたのは、透明な袋にぎっしり詰まった市販薬。
錠剤の色が光を反射して、やけに綺麗に見えた。
“パキる”。
つまりは、オーバードーズ。
テレビのワイドショーで、「死者も出る危険な行為」と言っていたのを思い出す。
「……やめとく」
「えー、なんで?一気に飲めば飛べるよ!」
「私はいい」
「ノリ悪~!」
笑い声が広場に溶けた瞬間、低い声が割り込んできた。
「おい、やめろ」
その声に、周りがざわっと動く。
「あ、帝王!」
帝王──本名、西川淳。
私がここに来てしばらく野宿をしていたとき、行き場のない私にシェアハウスを紹介してくれた人。
生活費まで面倒を見てくれた、言葉通りの恩人だった。
当時の私は15歳。働くこともできない、ただの子ども。
お金を稼げない代わりに、洗濯や料理などの家事は全部やったけど、やっぱりお金の負担はしてもらうしかなかった。
それが申し訳なくて、胸の奥がずっと重かった。
でも、西川さんはいつも微笑みながら言う。
「君はまだ子どもなんだから、お金のことは気にしなくていいよ
18になったら……大人になったら、仕事を斡旋するから
その時に、少しずつ返してくれれば十分だ」
その笑顔は、夜のネオンみたいに優しく見えた。
けれど、同時に──逃れられない縄のようにも感じた。
「そいつはやめとけ、下手したら死ぬぞ」
帝王の声は低く、硬かった。
「えー!?一回くらい大丈夫だって!」
織姫星が笑いながら肩をすくめる。
「それよりも仕事が入った
お前ご指名だぞ」
「……どうせ、いつものあのおっさんでしょ?」
彼女は一瞬だけ顔をしかめて、すぐに笑い直した。
「でもさ、あのおっさん、生で挿れてこようとするから、油断するとマジで危ないんだよねー」
「……なんだと?」
帝王の目が鋭くなる。
「そういうのはもっと早く言え!
俺の大事な商品を雑に扱うやつは出禁だ!」
「うーん……でもさ、うちのこと指名してくれるの、あのおっさんくらいなんだよ
地味にデカいんだよね、指名料……」
彼女はふっと視線を逸らし、笑みを薄く伸ばした。
「やっぱ大丈夫!行ってきまーす!」
「あっ!おい!」
制止も聞かず、織姫星は笑いながら走り出した。
夜のラブホテル街のネオンが、金色の髪を飲み込む。
残ったのは、甘ったるい香水と排気ガス。
そして──口の奥に貼りつくような、飲み込めない鉄の味だった。
「ったく、あの野郎……
冴木、大丈夫だったか?」
「あっ、はい……!
ありがとうございました!」
「あれは絶対にやめとけ
あんなことで死んでも、つまんないぞ
それに……」
「それに?」
「あんなのよりも──こっちの方が、もっと気持ちよくなれるぞ」
帝王はゆっくりと笑い、紙コップを差し出した。
中には、透明な液体が揺れている。
「なんです?これ?」
「酒」
「……酒!?」
「そう、冴木ももう18だろ?じゃあ立派な大人じゃないか」
「でも……お酒って、20歳からじゃ……」
「心配すんなって!
国によっては18から飲めるとこもあるし、ここら辺のやつらは、その年齢でみんな飲んでるぞ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ……それと──少し遅れたが、俺からの誕生日祝いだ
18歳、おめでとう」
「あ、ありがとうございます……!」
手の中の紙コップが、不思議に温かく感じた。
誕生日を祝われたのなんて、何年ぶりだろう。
……いや、もしかしたら、初めてかもしれない。
透明な液体から立ち上るアルコールの匂いが、胸の奥をほんの少し、鈍く痺れさせた。
「酒を初めて飲むときのコツを教えてやるよ」
「コツなんてあるんですか?」
「慣れれば最高にうまいんだが……初めては誰でもまずい
だから、鼻をつまんで一気飲みするんだ」
「そ、そうなんですか?」
「ああ、とりあえずやってみ?」
「わ、わかりました」
言われるまま、紙コップいっぱいの透明な液体を、一気に喉へ流し込む。
──熱い。
──苦い。
──喉が焼ける
──息が、吸えない……
あれ……?
視界がぐにゃりと歪む。
頭がぐるんぐるん回り、足の裏の感覚が遠のいていく。
胸が、ぎゅうっと潰されるように痛い。
「……西川……さん……?」
誰かが笑った。
男の声がふたつ、かすかに耳を叩く。
「ホテルの準備は?」
「できてるよ♪」
「じゃあ、運ぶか」
「オッケー♪……って、汚ねえなこいつ!口から泡吹いてるぞ!」
「そりゃ、アルコール度数96のスピリタスを、あの量で一気飲みしたんだ
誰だってこうなる」
「まっ♪どうせこの後、ロリコンじじいどもに汚されるから──」
──耳が、遠い……
──息が、苦しい……
──誰かが笑ってる……
……重い……身体が、空に浮くみたいに持ち上がる……
……呼吸が、止まる……
「こいつ……顔だけはいい……10万くらいは……」
「胸も……大きいから……♡」
「……条例……ひっかからねえ……」
「……冴木ちゃんも……立派……売春婦だね♡」
──暗い。
──冷たい。
──世界が、溶けていく……
その夜──
私はこの街からも、世界からも、音も光も、匂いも、すべてから消えた。
実家も、学校も、トー横でさえも……
私にとって、本当の居場所じゃなかった。
「居場所が欲しい」
たったそれだけの願いも、誰にも届かず、静かに、溶けるように消えてしまった……
─────────────────────────────────────
※用語解説
・毒の精霊 (悪霊):“毒属性”の精霊 (悪霊)。
その魂の起源は、食中毒による中毒死、酒の大量摂取によるアルコール中毒死、練炭自殺による一酸化炭素中毒死など、“毒に起因する死”によって命を終えた者に由来するとされている。
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