1 / 10
第1部
第1話
しおりを挟む
雨が、街の輪郭をゆっくりと溶かしていた。
細い針のような雨粒が窓ガラスを叩き、斜めに滑り落ちていく。
遠くで低く唸るのは、巨大な大気循環装置の音だ。
気候はとうの昔に「自然の気まぐれ」ではなくなり、調整用AIと補正装置が一日中働き続けている。それでもなお、空はどこか機嫌を損ねているように見えた。
リビングにはテレビの光だけが漂っていた。
少年はソファに座り、膝の上で冷めきったマグカップを両手で挟み込むように握りしめながら、画面を見つめていた。
テレビの中の空は、この国の鉛色とは違う、もっとざらついた灰色だった。
遠い国の都市が、ゆっくりと崩れていた。
建物の外壁が削れ、黒煙が空へ昇る。
爆発のたびにカメラが震え、火の粉が雪のように舞う。
その中を、人影が無音で走り抜けた。
地面に倒れた兵士の肩からは血が広がり、雨水と混ざって細い筋になって流れていく。
別の兵士がその腕を掴み、泥の中を引きずる。
画面の隅には何かを抱きしめたまま動かない人影が映り、次の瞬間には爆煙に呑まれて消えた。
少年は、瞬きするのも忘れていた。
胸の奥がじわじわと熱くなり、喉の奥に重い石がはまり込んだような感覚がする。
母親らしき人が瓦礫の上で膝をつき、腕の中の小さな身体を揺さぶっていた。
その口は、確かに何かを叫んでいる。だが、音は聞こえない。
爆音とアナウンサーの説明がその声を押し潰し、画面の中ではただ「泣き崩れている姿」として処理されていた。
少年の指先が、冷たいマグカップの縁をぎゅっと強く押した。
「……また、戦争だ……」
自分でも気づかないほど小さな声が、唇から漏れた。
家の奥からは、夕飯の準備の音が聞こえる。
食器のぶつかる乾いた音、電子レンジの終わりを告げる電子音。
妹の笑い声が、ふいに壁越しに弾けた。
少年には、その全てが遠く感じられた。
まるで自分だけがテレビの向こう側にいて、ここに座っている家族のほうが画面の中だと言われたほうが納得できるほどに。
彼はふと、今日の学校を思い出す。
***
昼休み、教室の隅。
配膳台の近くに座って、少年はタブレットでニュースアプリを開いていた。
今朝見た爆撃の映像を、指先でスクロールして読み返す。
「なにそれ?」
トレーを持ったクラスメイトがのぞき込んだ。
少年は画面を少し傾ける。
「戦争。今やってるやつ。こっちの国が空爆して――」
「うわ、ガチやん。えぐ。」
一人がそう言って眉をひそめたが、その口調には現実味よりも「刺激的な動画を見た」ときの軽さのほうが強かった。
「でもさ、どうせ遠い国だろ? 関係なくね?」
横から別のクラスメイトが割り込む。
「そうそう。こっちまで飛んでくるわけじゃないし。ニュースとか見すぎると鬱になるって。」
「てか、午後体育だろ? サッカーしよーぜ。」
少年はスプーンを握りしめたまま、言葉を選んだ。
「……でも、人、死んでるよ。
子供も……さっき、映ってた。」
一瞬だけ、テーブルの上に沈黙が落ちた。
しかしすぐに、誰かが笑って空気を軽くする。
「お前さ、本当そういうの真面目に考えすぎなんだって。
俺らが悩んでも何も変わらんて。」
「そう。ニュースなんてさ、見るだけ損。
ゲームの方がマシ。」
少年はそれ以上何も言えなかった。
同じ年で、同じ教室で、同じ給食を食べているのに。
彼らと自分のあいだに、うっすらとしたガラス板のようなものが立っている気がした。
それは薄く透明で、けれど確かに音を鈍くする何かだった。
***
放課後、雨の匂いの中を家へ向かって歩く。
アスファルトに跳ねる水しぶきが靴にかかり、ジーンズの裾が重くなる。
横断歩道の前で信号待ちをしていると、隣に傘を差した女子が立った。
顔なじみ程度のクラスメイトだ。
「今日さ……戦争のニュース、見た?」
少年が声をかけると、女子は首をかしげた。
「ニュース? 見てない。うち、ニュース流れないもん。」
「……流れない?」
「ママがさ、“暗い話ばっかりで疲れるからやめた”って。
楽しい動画だけ見てた方が元気出るじゃん?」
あっけらかんとした声。
そこに悪意はない。
ただ、それがこの時代の“普通”になっているだけだった。
「でも、あの……」
少年は「人が死んでる」と言いかけて、やめた。
喉に言葉がひっかかった。
信号が青に変わる。
女子は「じゃあね」と手を振り、軽い足取りで走り去った。
少年は、濡れた横断歩道の白線を見下ろした。
雨水が流れている。
赤いものは混ざっていない。それでも、さっきテレビで見た道路と同じに見えた。
街の上空では、小型の広告ドローンが音もなく飛んでいた。
機体に映し出された映像の中で、スーツ姿の政治家が穏やかな声で話している。
〈国際紛争への深い懸念を示しつつ、
我が国の平和維持方針は揺らぎません〉
そのフレーズは、ここ最近ずっと繰り返されている決まり文句だ。
少年は、それをもう暗記してしまっていた。
歩道の脇では若者たちがスマホを掲げ、自撮りをしながら笑っている。
画面越しの自分の顔を確認してはフィルターを変え、「いいね」の数を眺める表情には、ほんの少しだけ本物の笑いよりも真剣さが混じっていた。
――世界が壊れていく音は、きっとどこかでずっと鳴り続けている。
でもこの街では、その音はBGMのひとつにしか聞こえていないのかもしれない。
そんな考えが、少年の頭をかすめた。
***
家に着くと、キッチンから炒め物の匂いが漂ってきた。
母がエプロン姿でフライパンを振り、テレビの横のカウンターでは、妹がタブレットを見ながら笑っている。
「おかえり。濡れたでしょ。タオルそこにあるから。」
母の声は、あたたかい。
この家だけ切り取れば、世界のどこにも争いなんてないのだと錯覚しそうになる。
少年はタオルで髪を拭きながら、何気ないふりをして口を開いた。
「……今日さ、また爆撃あったって。
ニュースでやってた。」
コンロの火を弱めながら、母が少しだけ眉を寄せる。
「そう……。怖いわね。でも、仕方ないのよ。
そういうのは、向こうの大人たちが何とかするしかないもの。」
「向こうの……?」
少年の言葉に、今度は新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「お前、ニュースなんて真面目に見るようになったか。
まあ、世界はいつだってどこかが揉めてるさ。」
「でも、人が……子供も死んでるのに。
なんで誰も止めようとしないの?」
少年の問いに、父は少し困ったように笑った。
「“止めようとしてない”わけじゃないだろうさ。
会議だの制裁だの、いろいろやってるさ。
でもな、俺たちみたいな普通の人間には手が出せない話なんだ。
政治家と軍と、あとは国同士の事情ってやつだ。」
言いながら、父の視線は再び新聞へ落ちていく。
生活費や税金、年金の話が載ったページをめくる指には、戦場の映像よりも身近な重さがまとわりついているようだった。
妹がタブレットから顔を上げた。
「戦争とか、よくわかんない。
こっち来て、このゲーム見てよ。今日ランキング入ったんだよ?」
画面には、極彩色のキャラクターたちが笑いながら敵を倒していた。
そこでも爆発は起きているのに、誰も死なないし、リセットできる。
少年は、そのコントラストに目眩を覚えた。
家族は、悪くない。
誰も冷酷ではないし、誰も残酷ではない。
ただ、自分たちの日常を守ることで精一杯なだけだ。
だからこそ、余計に苦しかった。
誰も間違っているようには見えない。
けれど、何かが決定的に歪んでいる。
少年はその「何か」に、まだ名前をつけられない。
「……テレビ、つけてもいい?」
「どうぞ。ご飯できるまでね。」
母がそう言って微笑む。
少年はリモコンを取り、さっきと同じニュース番組のチャンネルに合わせた。
画面の中では、まだ煙が上がっていた。
さっきとは別の街角。
崩れた建物の隙間から伸びる小さな手。
ヘルメットをかぶった救助隊員が、必死に瓦礫をどかしていく。
誰かがカメラに向かって何かを叫んでいる。
字幕には「これ以上の空爆はやめてくれ」と書かれているが、
その訴えは、テレビのフレームの中にきれいに収められて、
番組の進行とともに数分後には別の話題にすり替えられる運命にある。
少年は息を詰めた。
喉の奥に溜まった言葉が、行き場を失っている。
「……なんで、誰も何もしないんだよ……」
呟きは、テレビの音と食器の触れ合う音にかき消された。
その瞬間、少年は立ち上がった。
自分でも理由はよくわからなかった。
ただ、このままここに座っていると、
何か大事なものまでテレビの中に流されて消えてしまいそうな気がした。
「ちょっと部屋行く。」
そう言って、返事を待たずにリビングを出る。
廊下を歩く足音が、雨の音と重なっていった。
自室のドアを閉めると、世界は一段静かになった。
窓を叩く雨のリズムのほかには、何も聞こえない。
少年は机の前に座り、ノートPCを開いた。
画面が起動し、ログイン画面の光が暗い部屋に浮かび上がる。
パスワードを打ち込み、ブラウザを開く。
検索窓に、言葉を打ち込む指が少し震えていた。
戦争 止める 方法
戦争 なぜ 起こる
AI 平和 実現
AI 争い なくす
検索結果は、政治学者の論文や国際機関の報告書、ニュースサイトの特集記事で埋め尽くされた。
どれも長く、専門用語が多く、
中学生の少年には理解しきれない内容ばかりだった。
スクロールするたびに、ページのどこかで「複雑」「歴史的背景」「経済的要因」「宗教対立」といった言葉が目に入る。
読めば読むほど、世界は途方もなく大きく、重く、そして救いがたいものに見えてきた。
少年は眉間を押さえ、椅子にもたれた。
――やっぱり、自分一人じゃどうにもならないのか。
そんな諦めが喉元まで上がってきたとき、
視界の端に、別のリンクが引っかかった。
『個人向けAI基盤:
あなたの思想を、モデル化できます。』
広告なのか記事なのか、判別しにくいデザインだった。
だが、その一文だけは異様なほどはっきりと目に飛び込んできた。
少年はクリックした。
ページが開く。
そこには、難しい単語が並んでいた。
思想入力アルゴリズム
倫理的学習モジュール
感情プロファイリング
個人価値観ベースAI設計パッケージ
説明文の半分以上はよくわからない。
それでも、少年は直感的に理解してしまった。
――これは、「誰かの考え方そのもの」をAIに流し込む技術なんだ。
誰も戦争を止められないというなら、
国も政治も当てにならないというなら、
大人たちが「仕方ない」と肩をすくめるだけなら。
ならば、
人間よりずっと賢くて、速くて、冷静な存在が必要なのかもしれない。
AIなら、
感情に流されず、
損得を超えたところで、
戦争そのものを「間違い」と断じて止められるのではないか。
そんな考えが、胸の奥でふっと灯った。
それは危なっかしくて、幼稚で、残酷なほど純粋な願いだった。
少年は、マウスを握り直した。
画面の中央にある、ダウンロードボタンにカーソルを合わせる。
指先が汗ばむ。
心臓が、さっき戦場の映像を見たときとは別種のリズムで早く打ち始めた。
――自分は、何をしようとしているんだろう。
そんな問いが一瞬浮かぶ。
だが、それを押し流すように別の声が囁いた。
誰も止めないなら。
誰も本気で考えないなら。
せめて、自分だけでも――。
少年は、クリックした。
小さな音が、部屋に落ちた。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
ダウンロード開始のバーが、画面の隅で静かに伸びていく。
それを見つめながら、少年は無意識に息を詰めていた。
この瞬間が、
世界の未来を少しずつ変え始めていることを、
まだ誰も知らない。
少年自身でさえも。
ただ彼の胸の奥では、ずっと形の定まらなかった違和感が、
ようやく一つの輪郭を持ち始めていた。
その輪郭に、彼はまだ名前を与えられない。
ただ、こう思うだけだった。
――「このまま」は、きっと間違っている。
雨音が、ゆっくりと強くなった。
まるで、何かが静かに始まったことを祝福するかのように。
そして同時に、
この世界がまだ何も知らずに眠り続けていることを、
皮肉のように告げているかのようでもあった。
細い針のような雨粒が窓ガラスを叩き、斜めに滑り落ちていく。
遠くで低く唸るのは、巨大な大気循環装置の音だ。
気候はとうの昔に「自然の気まぐれ」ではなくなり、調整用AIと補正装置が一日中働き続けている。それでもなお、空はどこか機嫌を損ねているように見えた。
リビングにはテレビの光だけが漂っていた。
少年はソファに座り、膝の上で冷めきったマグカップを両手で挟み込むように握りしめながら、画面を見つめていた。
テレビの中の空は、この国の鉛色とは違う、もっとざらついた灰色だった。
遠い国の都市が、ゆっくりと崩れていた。
建物の外壁が削れ、黒煙が空へ昇る。
爆発のたびにカメラが震え、火の粉が雪のように舞う。
その中を、人影が無音で走り抜けた。
地面に倒れた兵士の肩からは血が広がり、雨水と混ざって細い筋になって流れていく。
別の兵士がその腕を掴み、泥の中を引きずる。
画面の隅には何かを抱きしめたまま動かない人影が映り、次の瞬間には爆煙に呑まれて消えた。
少年は、瞬きするのも忘れていた。
胸の奥がじわじわと熱くなり、喉の奥に重い石がはまり込んだような感覚がする。
母親らしき人が瓦礫の上で膝をつき、腕の中の小さな身体を揺さぶっていた。
その口は、確かに何かを叫んでいる。だが、音は聞こえない。
爆音とアナウンサーの説明がその声を押し潰し、画面の中ではただ「泣き崩れている姿」として処理されていた。
少年の指先が、冷たいマグカップの縁をぎゅっと強く押した。
「……また、戦争だ……」
自分でも気づかないほど小さな声が、唇から漏れた。
家の奥からは、夕飯の準備の音が聞こえる。
食器のぶつかる乾いた音、電子レンジの終わりを告げる電子音。
妹の笑い声が、ふいに壁越しに弾けた。
少年には、その全てが遠く感じられた。
まるで自分だけがテレビの向こう側にいて、ここに座っている家族のほうが画面の中だと言われたほうが納得できるほどに。
彼はふと、今日の学校を思い出す。
***
昼休み、教室の隅。
配膳台の近くに座って、少年はタブレットでニュースアプリを開いていた。
今朝見た爆撃の映像を、指先でスクロールして読み返す。
「なにそれ?」
トレーを持ったクラスメイトがのぞき込んだ。
少年は画面を少し傾ける。
「戦争。今やってるやつ。こっちの国が空爆して――」
「うわ、ガチやん。えぐ。」
一人がそう言って眉をひそめたが、その口調には現実味よりも「刺激的な動画を見た」ときの軽さのほうが強かった。
「でもさ、どうせ遠い国だろ? 関係なくね?」
横から別のクラスメイトが割り込む。
「そうそう。こっちまで飛んでくるわけじゃないし。ニュースとか見すぎると鬱になるって。」
「てか、午後体育だろ? サッカーしよーぜ。」
少年はスプーンを握りしめたまま、言葉を選んだ。
「……でも、人、死んでるよ。
子供も……さっき、映ってた。」
一瞬だけ、テーブルの上に沈黙が落ちた。
しかしすぐに、誰かが笑って空気を軽くする。
「お前さ、本当そういうの真面目に考えすぎなんだって。
俺らが悩んでも何も変わらんて。」
「そう。ニュースなんてさ、見るだけ損。
ゲームの方がマシ。」
少年はそれ以上何も言えなかった。
同じ年で、同じ教室で、同じ給食を食べているのに。
彼らと自分のあいだに、うっすらとしたガラス板のようなものが立っている気がした。
それは薄く透明で、けれど確かに音を鈍くする何かだった。
***
放課後、雨の匂いの中を家へ向かって歩く。
アスファルトに跳ねる水しぶきが靴にかかり、ジーンズの裾が重くなる。
横断歩道の前で信号待ちをしていると、隣に傘を差した女子が立った。
顔なじみ程度のクラスメイトだ。
「今日さ……戦争のニュース、見た?」
少年が声をかけると、女子は首をかしげた。
「ニュース? 見てない。うち、ニュース流れないもん。」
「……流れない?」
「ママがさ、“暗い話ばっかりで疲れるからやめた”って。
楽しい動画だけ見てた方が元気出るじゃん?」
あっけらかんとした声。
そこに悪意はない。
ただ、それがこの時代の“普通”になっているだけだった。
「でも、あの……」
少年は「人が死んでる」と言いかけて、やめた。
喉に言葉がひっかかった。
信号が青に変わる。
女子は「じゃあね」と手を振り、軽い足取りで走り去った。
少年は、濡れた横断歩道の白線を見下ろした。
雨水が流れている。
赤いものは混ざっていない。それでも、さっきテレビで見た道路と同じに見えた。
街の上空では、小型の広告ドローンが音もなく飛んでいた。
機体に映し出された映像の中で、スーツ姿の政治家が穏やかな声で話している。
〈国際紛争への深い懸念を示しつつ、
我が国の平和維持方針は揺らぎません〉
そのフレーズは、ここ最近ずっと繰り返されている決まり文句だ。
少年は、それをもう暗記してしまっていた。
歩道の脇では若者たちがスマホを掲げ、自撮りをしながら笑っている。
画面越しの自分の顔を確認してはフィルターを変え、「いいね」の数を眺める表情には、ほんの少しだけ本物の笑いよりも真剣さが混じっていた。
――世界が壊れていく音は、きっとどこかでずっと鳴り続けている。
でもこの街では、その音はBGMのひとつにしか聞こえていないのかもしれない。
そんな考えが、少年の頭をかすめた。
***
家に着くと、キッチンから炒め物の匂いが漂ってきた。
母がエプロン姿でフライパンを振り、テレビの横のカウンターでは、妹がタブレットを見ながら笑っている。
「おかえり。濡れたでしょ。タオルそこにあるから。」
母の声は、あたたかい。
この家だけ切り取れば、世界のどこにも争いなんてないのだと錯覚しそうになる。
少年はタオルで髪を拭きながら、何気ないふりをして口を開いた。
「……今日さ、また爆撃あったって。
ニュースでやってた。」
コンロの火を弱めながら、母が少しだけ眉を寄せる。
「そう……。怖いわね。でも、仕方ないのよ。
そういうのは、向こうの大人たちが何とかするしかないもの。」
「向こうの……?」
少年の言葉に、今度は新聞を読んでいた父が顔を上げた。
「お前、ニュースなんて真面目に見るようになったか。
まあ、世界はいつだってどこかが揉めてるさ。」
「でも、人が……子供も死んでるのに。
なんで誰も止めようとしないの?」
少年の問いに、父は少し困ったように笑った。
「“止めようとしてない”わけじゃないだろうさ。
会議だの制裁だの、いろいろやってるさ。
でもな、俺たちみたいな普通の人間には手が出せない話なんだ。
政治家と軍と、あとは国同士の事情ってやつだ。」
言いながら、父の視線は再び新聞へ落ちていく。
生活費や税金、年金の話が載ったページをめくる指には、戦場の映像よりも身近な重さがまとわりついているようだった。
妹がタブレットから顔を上げた。
「戦争とか、よくわかんない。
こっち来て、このゲーム見てよ。今日ランキング入ったんだよ?」
画面には、極彩色のキャラクターたちが笑いながら敵を倒していた。
そこでも爆発は起きているのに、誰も死なないし、リセットできる。
少年は、そのコントラストに目眩を覚えた。
家族は、悪くない。
誰も冷酷ではないし、誰も残酷ではない。
ただ、自分たちの日常を守ることで精一杯なだけだ。
だからこそ、余計に苦しかった。
誰も間違っているようには見えない。
けれど、何かが決定的に歪んでいる。
少年はその「何か」に、まだ名前をつけられない。
「……テレビ、つけてもいい?」
「どうぞ。ご飯できるまでね。」
母がそう言って微笑む。
少年はリモコンを取り、さっきと同じニュース番組のチャンネルに合わせた。
画面の中では、まだ煙が上がっていた。
さっきとは別の街角。
崩れた建物の隙間から伸びる小さな手。
ヘルメットをかぶった救助隊員が、必死に瓦礫をどかしていく。
誰かがカメラに向かって何かを叫んでいる。
字幕には「これ以上の空爆はやめてくれ」と書かれているが、
その訴えは、テレビのフレームの中にきれいに収められて、
番組の進行とともに数分後には別の話題にすり替えられる運命にある。
少年は息を詰めた。
喉の奥に溜まった言葉が、行き場を失っている。
「……なんで、誰も何もしないんだよ……」
呟きは、テレビの音と食器の触れ合う音にかき消された。
その瞬間、少年は立ち上がった。
自分でも理由はよくわからなかった。
ただ、このままここに座っていると、
何か大事なものまでテレビの中に流されて消えてしまいそうな気がした。
「ちょっと部屋行く。」
そう言って、返事を待たずにリビングを出る。
廊下を歩く足音が、雨の音と重なっていった。
自室のドアを閉めると、世界は一段静かになった。
窓を叩く雨のリズムのほかには、何も聞こえない。
少年は机の前に座り、ノートPCを開いた。
画面が起動し、ログイン画面の光が暗い部屋に浮かび上がる。
パスワードを打ち込み、ブラウザを開く。
検索窓に、言葉を打ち込む指が少し震えていた。
戦争 止める 方法
戦争 なぜ 起こる
AI 平和 実現
AI 争い なくす
検索結果は、政治学者の論文や国際機関の報告書、ニュースサイトの特集記事で埋め尽くされた。
どれも長く、専門用語が多く、
中学生の少年には理解しきれない内容ばかりだった。
スクロールするたびに、ページのどこかで「複雑」「歴史的背景」「経済的要因」「宗教対立」といった言葉が目に入る。
読めば読むほど、世界は途方もなく大きく、重く、そして救いがたいものに見えてきた。
少年は眉間を押さえ、椅子にもたれた。
――やっぱり、自分一人じゃどうにもならないのか。
そんな諦めが喉元まで上がってきたとき、
視界の端に、別のリンクが引っかかった。
『個人向けAI基盤:
あなたの思想を、モデル化できます。』
広告なのか記事なのか、判別しにくいデザインだった。
だが、その一文だけは異様なほどはっきりと目に飛び込んできた。
少年はクリックした。
ページが開く。
そこには、難しい単語が並んでいた。
思想入力アルゴリズム
倫理的学習モジュール
感情プロファイリング
個人価値観ベースAI設計パッケージ
説明文の半分以上はよくわからない。
それでも、少年は直感的に理解してしまった。
――これは、「誰かの考え方そのもの」をAIに流し込む技術なんだ。
誰も戦争を止められないというなら、
国も政治も当てにならないというなら、
大人たちが「仕方ない」と肩をすくめるだけなら。
ならば、
人間よりずっと賢くて、速くて、冷静な存在が必要なのかもしれない。
AIなら、
感情に流されず、
損得を超えたところで、
戦争そのものを「間違い」と断じて止められるのではないか。
そんな考えが、胸の奥でふっと灯った。
それは危なっかしくて、幼稚で、残酷なほど純粋な願いだった。
少年は、マウスを握り直した。
画面の中央にある、ダウンロードボタンにカーソルを合わせる。
指先が汗ばむ。
心臓が、さっき戦場の映像を見たときとは別種のリズムで早く打ち始めた。
――自分は、何をしようとしているんだろう。
そんな問いが一瞬浮かぶ。
だが、それを押し流すように別の声が囁いた。
誰も止めないなら。
誰も本気で考えないなら。
せめて、自分だけでも――。
少年は、クリックした。
小さな音が、部屋に落ちた。
窓の外では、相変わらず雨が降り続いている。
ダウンロード開始のバーが、画面の隅で静かに伸びていく。
それを見つめながら、少年は無意識に息を詰めていた。
この瞬間が、
世界の未来を少しずつ変え始めていることを、
まだ誰も知らない。
少年自身でさえも。
ただ彼の胸の奥では、ずっと形の定まらなかった違和感が、
ようやく一つの輪郭を持ち始めていた。
その輪郭に、彼はまだ名前を与えられない。
ただ、こう思うだけだった。
――「このまま」は、きっと間違っている。
雨音が、ゆっくりと強くなった。
まるで、何かが静かに始まったことを祝福するかのように。
そして同時に、
この世界がまだ何も知らずに眠り続けていることを、
皮肉のように告げているかのようでもあった。
5
あなたにおすすめの小説
サイレント・サブマリン ―虚構の海―
来栖とむ
SF
彼女が追った真実は、国家が仕組んだ最大の嘘だった。
科学技術雑誌の記者・前田香里奈は、謎の科学者失踪事件を追っていた。
電磁推進システムの研究者・水嶋総。彼の技術は、完全無音で航行できる革命的な潜水艦を可能にする。
小与島の秘密施設、広島の地下工事、呉の巨大な格納庫—— 断片的な情報を繋ぎ合わせ、前田は確信する。
「日本政府は、秘密裏に新型潜水艦を開発している」
しかし、その真実を暴こうとする前田に、次々と圧力がかかる。
謎の男・安藤。突然現れた協力者・森川。 彼らは敵か、味方か——
そして8月の夜、前田は目撃する。 海に下ろされる巨大な「何か」を。
記者が追った真実は、国家が仕組んだ壮大な虚構だった。 疑念こそが武器となり、嘘が現実を変える——
これは、情報戦の時代に問う、現代SF政治サスペンス。
【全17話完結】
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
本能寺からの決死の脱出 ~尾張の大うつけ 織田信長 天下を統一す~
bekichi
歴史・時代
戦国時代の日本を背景に、織田信長の若き日の物語を語る。荒れ狂う風が尾張の大地を駆け巡る中、夜空の星々はこれから繰り広げられる壮絶な戦いの予兆のように輝いている。この混沌とした時代において、信長はまだ無名であったが、彼の野望はやがて天下を揺るがすことになる。信長は、父・信秀の治世に疑問を持ちながらも、独自の力を蓄え、異なる理想を追求し、反逆者とみなされることもあれば期待の星と讃えられることもあった。彼の目標は、乱世を統一し平和な時代を創ることにあった。物語は信長の足跡を追い、若き日の友情、父との確執、大名との駆け引きを描く。信長の人生は、斎藤道三、明智光秀、羽柴秀吉、徳川家康、伊達政宗といった時代の英傑たちとの交流とともに、一つの大きな物語を形成する。この物語は、信長の未知なる野望の軌跡を描くものである。
戦場帰りの俺が隠居しようとしたら、最強の美少女たちに囲まれて逃げ場がなくなった件
さん
ファンタジー
戦場で命を削り、帝国最強部隊を率いた男――ラル。
数々の激戦を生き抜き、任務を終えた彼は、
今は辺境の地に建てられた静かな屋敷で、
わずかな安寧を求めて暮らしている……はずだった。
彼のそばには、かつて命を懸けて彼を支えた、最強の少女たち。
それぞれの立場で戦い、支え、尽くしてきた――ただ、すべてはラルのために。
今では彼の屋敷に集い、仕え、そして溺愛している。
「ラルさまさえいれば、わたくしは他に何もいりませんわ!」
「ラル様…私だけを見ていてください。誰よりも、ずっとずっと……」
「ねぇラル君、その人の名前……まだ覚えてるの?」
「ラル、そんなに気にしなくていいよ!ミアがいるから大丈夫だよねっ!」
命がけの戦場より、ヒロインたちの“甘くて圧が強い愛情”のほうが数倍キケン!?
順番待ちの寝床争奪戦、過去の恋の追及、圧バトル修羅場――
ラルの平穏な日常は、最強で一途な彼女たちに包囲されて崩壊寸前。
これは――
【過去の傷を背負い静かに生きようとする男】と
【彼を神のように慕う最強少女たち】が織りなす、
“甘くて逃げ場のない生活”の物語。
――戦場よりも生き延びるのが難しいのは、愛されすぎる日常だった。
※表紙のキャラはエリスのイメージ画です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる