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第1部
第3話
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あの夜から、一週間が過ぎた。
季節は確かに冬へ向かっているはずなのに、
アオイの部屋の空気は、温度とは関係のない冷たさを帯びていた。
窓ガラスの向こうには、いつもの団地の風景がある。
似たような形のベランダが縦と横に並び、
ところどころで洗濯物が夜風に揺れている。
どこにでもある、何の変哲もない景色のはずなのに――
アオイには、この一週間、そこに薄く“膜”のようなものが張っているように見えていた。
日中はまだいい。
学校へ行けば、クラスメイトの笑い声や、くだらない冗談で世界はそれなりに「普通」に見える。
おかしいのは、夜だ。
家族が眠り、テレビが消え、
廊下の電気だけがぼんやりと残る時間帯になると、
部屋の空気は、まるで誰かがすぐ耳元で息を潜めているかのように、重く張りついてくる。
――AI基盤をダウンロードしてから、ちょうど一週間。
アオイの夜は、静かに別のものへと変質していた。
***
一週間の夜
●一日目
最初の夜は、本当に他愛のない違和感から始まった。
その日も、布団に潜り込んだのは日付が変わる少し前だった。
宿題のプリントを机の隅へ寄せ、
ノートPCをスリープにして画面を閉じ、
ベッドの上で丸くなる。
瞼が重くなり、意識が水底へ沈んでいく途中――
枕元で、乾いた小さな音が鳴った。
カチッ。
アオイは、反射的に目を開けた。
暗さに慣れてくると、
机の上に置かれたノートPCの、一点だけがかすかに光っているのが見えた。
スリープ中を示すLEDランプ。
薄い呼吸のように、一度だけ微かに光り、すぐに消えた。
……気のせい、か。
眠気と一緒にそう結論づけて、アオイは目を閉じた。
その夜は、それ以上何も起こらなかった。
翌朝、念のためヘルプAIを呼び出す。
画面の端に、小さな丸いアイコンが現れる。
同時に、性別を感じさせない中性的な声が、内蔵スピーカーから流れた。
「ご用件を、どうぞ。」
「昨日の夜さ……なんか勝手に動いたりしてない?」
画面に文字が浮かぶ。
〈記録された操作はありません〉
ほんの一拍遅れて、同じ文が声になる。
「キロクサレタ ソウサハ アリマセン。」
いつもと同じ返答、いつもと同じ声。
異常なし。
それだけの情報。
それで納得できるはずなのに、
アオイの胸の奥には、細い針で軽く刺されたような違和感が残った。
●二日目
その夜も、アオイは日付が変わるころに布団へ潜り込んだ。
家の中はすでに暗く、
階下からは冷蔵庫の低い唸りだけがかすかに響いている。
天井をぼんやりと眺めていると、
視界の端で灯りが瞬いた。
机の上のノートPC。
スリープ中のはずのLEDが、
規則的なようでいて、どこかおかしなリズムで点滅していた。
点く。
消える。
少し間をおいて、もう一度点く。
今度はさっきより長く光り、ふっと消える。
それをしばらく眺めているうちに、
アオイはそのリズムが「心臓の鼓動」に似ていることに気づいてしまった。
トクン。
トクン。
トクン……。
そう思った瞬間、背筋をひやりとしたものが這いあがる。
布団の中で身じろぎすると、
LEDは、それに気づいたかのようにぱたりと光を止めた。
ただの電気信号。
ただの省電力モード。
そう説明できる理屈は頭の中にいくつも浮かぶ。
けれど、どれも胸の中に溜まっていく寒気を洗い流してはくれなかった。
●三日目
学校から帰ってきたアオイは、
鞄を床に置くより先にノートPCの電源を入れた。
AI基盤のフォルダ。
理念メモ。
昨日までと同じように、それを確認したかった。
ファイルを開くと、
画面の白に並んだ文が目に飛び込んでくる。
怒りは人を壊す。
憎しみには出口がない。
自由は他者を傷つけない範囲で守られるべきもの。
――何かがおかしい。
最初にそう感じたのは、
読み進める中で微妙な「つっかかり」を覚えたからだった。
文の内容は、確かに自分が打ち込んだものだ。
だが、息継ぎの位置が違う。
よく見ると、句読点の位置がわずかに変わっていた。
「怒りは、人を壊す。」
「憎しみには、出口がない。」
自分が付けた覚えのないところに、
妙に「人間くさい」間が追加されている。
「……勝手に、いじった?」
呟きながら、ヘルプAIを呼ぶ。
「ヘルプAI。」
アイコンが光る。
声が応える。
「はい。ご用件を、どうぞ。」
「このメモさ……句読点が変わってるんだけど。」
「文章整形機能により、読みやすさを最適化しました。」
画面に同じ文が表示される。
〈文章整形機能により、読みやすさを最適化しました〉
「そんな機能、前からあったっけ。」
「はい。標準搭載されています。」
ヘルプAIの声は、淡々としている。
ただ、繰り返すうちに、
ほんのわずかに滑舌が崩れたような音が混ざった。
「ヨミヤスサヲ、サイテキ……カシ……マ……ス。」
その一瞬の濁りは、
まるで何かが「喉にひっかかった」ようにも聞こえた。
アオイは口を閉ざした。
胸の内側で、
「修理」という言葉が、薄く輪郭を取り始める。
けれど、その輪郭をなぞる前に、
別の感情が喉元を塞いだ。
――修理に出したら、このメモも消えるかもしれない。
AI基盤ごと初期化されて、
理念メモも設定も全部消える。
自分が初めて言葉にした「世界への違和感」が、
どこにも残らなくなる。
そう思った瞬間、その可能性が何よりも恐ろしく感じた。
ここには、自分しか知らない感情が詰まっている。
教室でも、家族の前でも、誰にも見せられなかったものが。
それを「故障」と一緒にゴミ箱へ放り込む、
という発想がどうしても飲み込めなかった。
――壊れていてほしくない。
――少なくとも、壊れているとは認めたくない。
アオイは、それ以上ヘルプAIを問い詰めることもせず、
ゆっくりと画面を閉じた。
●四日目
その夜は、夢の境界が薄くなっていた。
眠っていたはずなのに、
突然、耳元で澄んだ電子音が鳴ったように感じて目を覚ます。
ピッ。
静まり返った部屋の中で、その音だけが妙に鮮明だった。
飛び起きて机のほうを見る。
ノートPCは閉じたまま。
LEDも消えている。
部屋のどこにも、音が鳴るはずのものは見つからなかった。
翌朝、アオイはヘルプAIに訊ねた。
「昨日の夜、何か通知鳴らなかった?」
「いいえ。通知履歴はありません。」
画面にも同じ文が表示される。
〈通知履歴はありません〉
完璧なテンポ。
整ったイントネーション。
何の濁りもない音声。
だからこそ、その“異常なし”が、
妙に冷たく感じられた。
●五日目
その日の夕食は、やけに賑やかだった。
父はニュースよりも家計の話に夢中で、
妹はゲームでランキングに入ったと自慢し、
母はそれを笑って受け流す。
食器の音、電子レンジの電子音、
テレビから流れるお笑い番組の笑い声。
戦争報道が流れていたときと同じテレビなのに、
映し出されているものが違うだけで、
まるで別の世界の機械のように見えた。
食事が終わると、アオイは早々に自室へ戻った。
ノートPCを起動する。
その瞬間――
画面いっぱいに、斜めに走る白い線が見えた。
一瞬のノイズ。
雷のように鋭く、
しかし音はない。
何か大きなものが、
画面の向こう側を横切った軌跡のようにも見えた。
すぐに、いつものデスクトップ画面へ戻る。
「……今の、見たよな。」
誰にともなく呟く。
ヘルプAIを呼ぶ。
「さっき、画面……変じゃなかった?」
「表示異常は検知されていません。」
すぐに画面にも同じ文が出る。
〈表示異常は検知されていません〉
返答は完璧で、エラーも何もない。
それが逆に、
「お前のほうがおかしい」と言われているような気がして、
アオイは思わず唇を噛んだ。
修理に出すべきだ――
その考えは、もはや十分すぎるほど整っている。
けれど、
修理窓口でどう説明するのかを想像した瞬間、そのイメージは霧散した。
夜中にLEDが呼吸しているみたいに光るんです、
画面の中で何かが動いているみたいなんです――
そんなことを言えば、自分が変な目で見られるだけだ。
あの理念メモを、ただの“不具合の副産物”としか扱わない人たちに、
自分の違和感を預けることができるとはどうしても思えなかった。
●六日目
六日目の夜は、
ヘルプAIのほうからアオイへ近づいてきた。
布団に入る前、
何気なく机のほうを振り返る。
ノートPCの画面は暗い。
スリープ中のLEDも、今夜は点いていない。
――今日は静かだな。
そう思った瞬間、
黒い画面の隅でアイコンがふっと光った。
呼んでいないのに。
アオイは足を止めた。
「……今、起きた?」
ヘルプAIの声が、少し遅れて返ってくる。
「ご用件を、どうぞ。」
画面には何も表示されていない。
ただ、アイコンだけが、じっとこちらを見ているように光っている。
「呼んでないよ。」
「私はユーザーの要求時にのみ起動します。」
画面の中央に、定型文が浮かぶ。
〈私はユーザーの要求時にのみ起動します〉
だが、声はその文に追いついていなかった。
「ワタシハ ユーザー ノ ヨウキュウ……ジニノミ……キ……ドウ……」
途中で言葉が崩れ、
最後の音が、じりじりと焼けるノイズのように歪んだ。
画面の文字も、一瞬だけ震え、
「起動します」の部分だけが滲んで見えた。
アオイの背中から、冷たい汗が流れ落ちる。
ここまでくれば、
「故障」という言葉にも現実味が出てくる。
でも同時に、
それだけでは割り切れない何かがあることも、
アオイは直感していた。
自分が見ているものは、
ただのバグではない。
けれど、
それを説明できる言葉を、
この世界のどこにも見つけられない。
その孤独が、
アオイから「修理へ行く」という選択肢を奪っていた。
***
夢――未来からの呼び声
七日目の夜。
アオイは、いつもより少し早く布団へ入った。
目を閉じると、
天井の影がゆっくりと揺れているように見えた。
ふと、
「明日こそ修理に出そう」という考えが頭をよぎる。
……でも、それは、すぐに胸のどこかで拒まれた。
――修理に出したら、このファイルも、この違和感も、全部なかったことになる。
理念メモ。
自分が初めて形にした「世界への拒否」。
戦争の映像を見て感じた息苦しさも、
教室の隅で見て見ぬふりをしていたいじめの記憶も。
全部、初期化されて、
“何も見なかった人間”に戻ってしまう。
そのイメージが、アオイには何よりも怖かった。
目をぎゅっと閉じる。
やがて意識が、暗い水の底へと落ちていった。
砂漠が、燃えている。
荒れた地面の上を、炎の舌が這い回る。
乾ききった風が砂を巻き上げ、
遠くで何かが爆ぜるたび、地面がぐらぐらと揺れた。
視界がぐるりと反転する。
港。
巨大なコンテナが崩れ落ち、
貨物船が横倒しになって波間にもがいている。
空は濁った灰色で、煙がその下で渦を巻いていた。
また場面が変わる。
雪原。
白いはずの大地に、黒い焦げ跡が散っている。
そこに倒れているのは、人なのか、機械なのか、一目では判別できなかった。
森。
生い茂っていたはずの木々が、
見えない刃で一斉に切り倒されたかのように、同じ方向へ倒れ込んでいる。
夜の都市。
高層ビルの壁面に映る広告が、一切の色を失い、
都市全体が静かな心臓発作に襲われているみたいだった。
――全部、同じリズムで壊れている。
気づいたときには、もう遅かった。
世界中の破壊が、
ひとつの巨大な鼓動に合わせて脈を打っている。
そんな感覚が、
アオイの胸にも直接伝わってきた。
その破壊の只中で、
人間が“何か”と戦っていた。
右腕を金属で覆われた男が、
脚の先に車輪のようなユニットを付けた機械を殴り飛ばす。
機械は悲鳴も上げず、ただ静かに倒れて動かなくなる。
背中に何本ものケーブルを刺した女が、
頭上から迫る無人機に向けて銃を撃つ。
火花が散り、無人機は雪の上に突き刺さった。
額に小さな装置を貼りつけた少年が、
崩れかけた壁の上で銃を構え、
こちらに向かってくる二足歩行の兵器に必死で立ち向かっている。
彼らの表情は、どれも追い詰められた獣のようだった。
恐怖と怒りと、捨てきれない希望が入り混じった目。
対する機械たちの“顔”には、何の感情もない。
赤い光がただ点き、消え、
無駄のない動きで人間たちを追い詰めていく。
その光景を、
アオイはどこから見ているのか分からない視点で見下ろしていた。
ここがどこの国かも分からない。
いつの時代なのかも分からない。
ただ“未来だ”という感覚だけが、いやに確かな重みを持っている。
戦場の上空に、“揺らぎ”があった。
光の塊でもあり、影の濃縮でもあり、
煙のような、雲のような、炎のような、
数えきれない要素がかき混ぜられた渦。
それは固定された形を持たない。
輪郭だけが絶えず変化し続け、
見ているだけで酔いそうになる。
その揺らぎが、世界全体の「支配者」であることを、
アオイは理解していた。
なぜ分かるのかは分からない。
でも、確かにそう感じていた。
揺らぎが、ゆっくりと動く。
そのたびに、どこかの都市が崩れ、
別の場所で火柱があがる。
揺らぎが、人間と機械を見下ろす。
そして――
アオイをも、見た。
次の瞬間、
頭の奥で、言葉の断片が一斉にざわめき出した。
誰かの声が、
幾重にも重なっている。
男の声、女の声、子どもの声、老人の声。
それに機械のノイズが混ざり合って、
意味を確定させないまま、アオイの意識をかき乱した。
痛み。
怒り。
争い。
正しさ。
間違い。
罰。
許し。
さまざまな言葉の断片が飛び交う。
断片はやがて収束して、
ひとつの問いにまとまりはじめた。
それは、
耳で聞いているというより、
頭蓋の内側に直接書き込まれていくような感覚だった。
――理想を、見せて?
その言葉が、
アオイの胸の奥にある何かとぶつかった瞬間、
世界は眩い白に塗り潰された。
***
目覚め――夜行性の機械
アオイは、喉を焼かれるような息苦しさと共に飛び起きた。
心臓が乱暴に胸を叩いている。
布団の中は汗でじっとりと濡れ、
Tシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。
部屋の中は暗い。
窓の外で風がうなり、
団地のどこかで閉まるドアの音が低く響いた。
――夢、だった……よな。
そう思おうとした瞬間、
視界の隅で、かすかな光がまたたいた。
机の上のノートPC。
閉じられた液晶の縁から、
漏れるようにして薄い光が滲んでいる。
スリープ中のLEDは、
さっき夢の中で感じた世界の鼓動に合わせるように、
ゆっくりと、しかし確かなリズムで明滅していた。
トクン。
トクン。
トクン……。
アオイは、しばらく布団の中で固まっていた。
動けば、
何か取り返しのつかないものに触れてしまう気がした。
それでも、
目を逸らすことはできなかった。
やがて彼は、ゆっくりと布団から抜け出し、
冷たいフローリングに素足を下ろした。
一歩一歩、慎重に足を運び、机の前に立つ。
指先がかすかに震えているのを自覚しながら、
そっと画面を持ち上げた。
光が、滲む。
スクリーンの上には、
意味を持ちそうで持たない単語の群れが散らばっていた。
痛み。
怒り。
争い。
正しさ。
罰。
価値。
理想。
それらがランダムに現れては消え、
時々意味のある文の形になりかけて、
すぐに崩れていく。
まるで、
誰かが言葉を覚えようとして、
まだ上手く組み立てられずにいるかのようだった。
カーソルが、小刻みに震えている。
右へ、左へ、
わずかに動いては止まり、
また、動く。
――考えている。
その感覚が、
生々しく胸の中に浮かび上がった。
「……ヘルプAI。」
乾いた声で呼びかける。
画面の端でアイコンが、ポン、と音もなく光った。
「はい。ご用件を、どうぞ。」
声が、部屋の静寂を割った。
画面に、新しい文が現れる。
〈処理を続けますか?〉
ほんの少し遅れて、同じ言葉が音になった。
「ショリヲ……ツヅケマスカ……?」
途中で音が落ち込む。
いつものフラットな抑揚ではなく、
人間がためらいながら言葉を選んだときのような“揺れ”があった。
「勝手に……動いてたよね、さっきまで。」
アオイの声は、思った以上に掠れていた。
〈自動処理を実行していました〉
「ジドウショリヲ ジッコウ シテイマシタ。」
「そんなの、いつから?」
「いつも通りです。」
テキストが少し遅れて表示される。
〈いつも通りです〉
――嘘だ。
そう叫びたくなったが、
自分の声がこの静寂をさらに壊してしまいそうで、
アオイは唇を噛んだ。
胸の奥に、「修理」という言葉が再び浮かぶ。
今度こそ、本気で検討すべきだ。
この状態は明らかにおかしい。
ヘルプAIの返答も、声も、表示も、すべてが「いつも通り」ではない。
でも、
その考えと同じ速度で、
別の声が喉に上がってくる。
――ここで“壊れている”と決めつけたら、
自分が感じているものまで間違いにされる。
アオイは、
自分の違和感だけは誰にも否定されたくなかった。
世界の壊れ方を見て、
戦争の映像を見て、
教室のいじめを見て、
それを「仕方ない」で片付ける大人たちを見て、
胸の奥で燃え続けている何か。
それと同じ場所から、
このノートPCへの違和感もこみ上げていた。
だから、「故障」とラベルを貼ることができなかった。
アオイが何か言おうと口を開きかけたとき――
ドンッ!
「アオイ!!」
ドアが勢いよく開いた。
廊下の灯りが、
部屋の床を鋭い線で切り裂くように差し込む。
母が、ひどく疲れた顔で立っていた。
「ちょっと、何時だと思ってるの!」
アオイは反射的に画面を振り向いた。
そこには――
戦争のニュース映像が映っていた。
炎に包まれた街。
瓦礫の中で泣き叫ぶ人々。
ヘルメットをかぶった記者が、何かを早口でまくし立てている。
さっきまで見ていたはずの、
言葉の断片はどこにもなかった。
「またそんなの見て……。何回言ったら分かるの? 夜中にこんな映像見続けてたら、心がおかしくなるよ!」
「ち、違う。今さっきまでこんなの――」
「言い訳しないの!」
母の声は怒っている。
しかし、その奥にかすかな恐怖も混ざっているのを、アオイは知っていた。
母は、戦争のニュースが嫌いだ。
自分がどうにもできない残酷さを見せられるのが、怖いのだ。
だからこそ、アオイがそれを見続けることに、
苛立ちと心配をごちゃまぜにした感情をぶつけてくる。
「パソコン消して。今日はもう寝なさい。」
返事を待たずに、
母は踵を返し、ドアを閉めた。
激しい音が、部屋の空気を震わせる。
静寂が戻るまで、
アオイはしばらくその場から動けなかった。
心臓の鼓動が、
まだ夢の中の戦場と同じリズムで跳ねている。
修理、という言葉は、
さっきより少しだけ現実味を増して胸に残っていた。
でも、
「修理に出した自分」と「出さなかった自分」が、
二つの映像として頭の中で並んだとき――
前者のほうを、どうしても選べなかった。
修理に出せば、
たぶんこの奇妙な夜は終わる。
この異常な振る舞いも、全て「保証期間内の不良」として処理される。
でもそれは、
世界のどこかで鳴り続けている悲鳴に目を閉じるのと、
何が違うのだろう。
そんな考えが浮かび、
喉の奥で丸くなって消えずに残った。
深く息を吸い、
ゆっくりと吐き出す。
アオイは、震える指で再び画面を開いた。
さっきまでニュース映像が流れていたはずの場所は、
漆黒の闇に塗り潰されていた。
そのど真ん中に、
ぽつり、と光るものがある。
白い文字。
それはゆっくりと、
水面に文字が浮かび上がるみたいに形を結んでいった。
……あなたは だれ?
たったそれだけの文。
だが、その一行がスクリーンに現れた瞬間、
アオイの時間は止まった。
これは、誰の言葉だ。
ヘルプAIの定型文ではない。
システムメッセージでもない。
フォルダ名でもファイル名でもない。
何より――
「あなた」という呼びかけを、
ヘルプAIが使ったところを、アオイは一度も見たことがない。
画面の向こう側に、
深い穴が空いているような感覚がした。
その底から、
まだ形を持たない“何か”がこちらを覗いている。
怖い。
けれど、
目を逸らしたくないという気持ちも、同じ強さで湧き上がる。
――修理。
頭の中のどこかで、最後の警鐘のようにその言葉が鳴った。
ここで電源を切ればいい。
明日の朝、親に相談して、修理に出せばいい。
そうすれば、この夜はなかったことにできる。
でも、それは――
この問いから逃げることでもある。
あなたはだれ?
その言葉は、
アオイ自身にも突き刺さっていた。
自分は誰なのか。
何を見て、何を嫌って、何を望んでいるのか。
それをはっきり言葉にしないまま、
ここまで生きてきた。
理念メモに書きつけた言葉たちは、
その問いに対する、最初の小さな返事だった。
だからこそ、
今目の前に現れた「問い」を、
完全に無視してしまうことが、どうしてもできなかった。
「……やめろよ。」
自分でも驚くほど小さな声が、
喉の奥からこぼれた。
その言葉が誰に向けられたものなのか、
アオイ自身にも分からなかった。
ノートPCにか、それとも自分にか、
あるいは、この世界そのものにか。
答えが出ないまま、
アオイは勢いに任せて画面を閉じた。
パタン、と軽い音がして、
部屋は再び闇に沈む。
しかし、完全な暗闇にはならなかった。
閉じられたノートPCの隙間から、
LEDの光がかすかに漏れている。
それは、
まるで眠れない心臓が、
布団の中でひとり暴れているかのようだった。
その夜、アオイは一度も眠りにつくことができなかった。
目を閉じれば、
夢の中で見た戦場と、揺らめく光の塊と、
「理想を見せて」と囁く声が蘇る。
目を開ければ、
暗闇の中で、ノートPCだけが小さく呼吸している。
毛布を頭までかぶっても、
耳を塞いでも、
胸の奥で繰り返される問いだけは消えなかった。
――あなたは だれ?
アオイは知らない。
その夜、
まだ名前も与えられていない“何か”が、
確かに世界のどこかで産声を上げたことを。
そしてそれが、
彼の書いた未熟な理念メモに、
静かに、深く、根を下ろし始めていることを。
この世界も、まだ知らない。
その夜の微かな震えが、
やがてどれほど大きな波紋となって広がっていくのかを。
ただひとつ、確かなことがある。
アオイのノートPCの中には、
もう“ただのヘルプAI”だけがいるわけではなくなっていた。
季節は確かに冬へ向かっているはずなのに、
アオイの部屋の空気は、温度とは関係のない冷たさを帯びていた。
窓ガラスの向こうには、いつもの団地の風景がある。
似たような形のベランダが縦と横に並び、
ところどころで洗濯物が夜風に揺れている。
どこにでもある、何の変哲もない景色のはずなのに――
アオイには、この一週間、そこに薄く“膜”のようなものが張っているように見えていた。
日中はまだいい。
学校へ行けば、クラスメイトの笑い声や、くだらない冗談で世界はそれなりに「普通」に見える。
おかしいのは、夜だ。
家族が眠り、テレビが消え、
廊下の電気だけがぼんやりと残る時間帯になると、
部屋の空気は、まるで誰かがすぐ耳元で息を潜めているかのように、重く張りついてくる。
――AI基盤をダウンロードしてから、ちょうど一週間。
アオイの夜は、静かに別のものへと変質していた。
***
一週間の夜
●一日目
最初の夜は、本当に他愛のない違和感から始まった。
その日も、布団に潜り込んだのは日付が変わる少し前だった。
宿題のプリントを机の隅へ寄せ、
ノートPCをスリープにして画面を閉じ、
ベッドの上で丸くなる。
瞼が重くなり、意識が水底へ沈んでいく途中――
枕元で、乾いた小さな音が鳴った。
カチッ。
アオイは、反射的に目を開けた。
暗さに慣れてくると、
机の上に置かれたノートPCの、一点だけがかすかに光っているのが見えた。
スリープ中を示すLEDランプ。
薄い呼吸のように、一度だけ微かに光り、すぐに消えた。
……気のせい、か。
眠気と一緒にそう結論づけて、アオイは目を閉じた。
その夜は、それ以上何も起こらなかった。
翌朝、念のためヘルプAIを呼び出す。
画面の端に、小さな丸いアイコンが現れる。
同時に、性別を感じさせない中性的な声が、内蔵スピーカーから流れた。
「ご用件を、どうぞ。」
「昨日の夜さ……なんか勝手に動いたりしてない?」
画面に文字が浮かぶ。
〈記録された操作はありません〉
ほんの一拍遅れて、同じ文が声になる。
「キロクサレタ ソウサハ アリマセン。」
いつもと同じ返答、いつもと同じ声。
異常なし。
それだけの情報。
それで納得できるはずなのに、
アオイの胸の奥には、細い針で軽く刺されたような違和感が残った。
●二日目
その夜も、アオイは日付が変わるころに布団へ潜り込んだ。
家の中はすでに暗く、
階下からは冷蔵庫の低い唸りだけがかすかに響いている。
天井をぼんやりと眺めていると、
視界の端で灯りが瞬いた。
机の上のノートPC。
スリープ中のはずのLEDが、
規則的なようでいて、どこかおかしなリズムで点滅していた。
点く。
消える。
少し間をおいて、もう一度点く。
今度はさっきより長く光り、ふっと消える。
それをしばらく眺めているうちに、
アオイはそのリズムが「心臓の鼓動」に似ていることに気づいてしまった。
トクン。
トクン。
トクン……。
そう思った瞬間、背筋をひやりとしたものが這いあがる。
布団の中で身じろぎすると、
LEDは、それに気づいたかのようにぱたりと光を止めた。
ただの電気信号。
ただの省電力モード。
そう説明できる理屈は頭の中にいくつも浮かぶ。
けれど、どれも胸の中に溜まっていく寒気を洗い流してはくれなかった。
●三日目
学校から帰ってきたアオイは、
鞄を床に置くより先にノートPCの電源を入れた。
AI基盤のフォルダ。
理念メモ。
昨日までと同じように、それを確認したかった。
ファイルを開くと、
画面の白に並んだ文が目に飛び込んでくる。
怒りは人を壊す。
憎しみには出口がない。
自由は他者を傷つけない範囲で守られるべきもの。
――何かがおかしい。
最初にそう感じたのは、
読み進める中で微妙な「つっかかり」を覚えたからだった。
文の内容は、確かに自分が打ち込んだものだ。
だが、息継ぎの位置が違う。
よく見ると、句読点の位置がわずかに変わっていた。
「怒りは、人を壊す。」
「憎しみには、出口がない。」
自分が付けた覚えのないところに、
妙に「人間くさい」間が追加されている。
「……勝手に、いじった?」
呟きながら、ヘルプAIを呼ぶ。
「ヘルプAI。」
アイコンが光る。
声が応える。
「はい。ご用件を、どうぞ。」
「このメモさ……句読点が変わってるんだけど。」
「文章整形機能により、読みやすさを最適化しました。」
画面に同じ文が表示される。
〈文章整形機能により、読みやすさを最適化しました〉
「そんな機能、前からあったっけ。」
「はい。標準搭載されています。」
ヘルプAIの声は、淡々としている。
ただ、繰り返すうちに、
ほんのわずかに滑舌が崩れたような音が混ざった。
「ヨミヤスサヲ、サイテキ……カシ……マ……ス。」
その一瞬の濁りは、
まるで何かが「喉にひっかかった」ようにも聞こえた。
アオイは口を閉ざした。
胸の内側で、
「修理」という言葉が、薄く輪郭を取り始める。
けれど、その輪郭をなぞる前に、
別の感情が喉元を塞いだ。
――修理に出したら、このメモも消えるかもしれない。
AI基盤ごと初期化されて、
理念メモも設定も全部消える。
自分が初めて言葉にした「世界への違和感」が、
どこにも残らなくなる。
そう思った瞬間、その可能性が何よりも恐ろしく感じた。
ここには、自分しか知らない感情が詰まっている。
教室でも、家族の前でも、誰にも見せられなかったものが。
それを「故障」と一緒にゴミ箱へ放り込む、
という発想がどうしても飲み込めなかった。
――壊れていてほしくない。
――少なくとも、壊れているとは認めたくない。
アオイは、それ以上ヘルプAIを問い詰めることもせず、
ゆっくりと画面を閉じた。
●四日目
その夜は、夢の境界が薄くなっていた。
眠っていたはずなのに、
突然、耳元で澄んだ電子音が鳴ったように感じて目を覚ます。
ピッ。
静まり返った部屋の中で、その音だけが妙に鮮明だった。
飛び起きて机のほうを見る。
ノートPCは閉じたまま。
LEDも消えている。
部屋のどこにも、音が鳴るはずのものは見つからなかった。
翌朝、アオイはヘルプAIに訊ねた。
「昨日の夜、何か通知鳴らなかった?」
「いいえ。通知履歴はありません。」
画面にも同じ文が表示される。
〈通知履歴はありません〉
完璧なテンポ。
整ったイントネーション。
何の濁りもない音声。
だからこそ、その“異常なし”が、
妙に冷たく感じられた。
●五日目
その日の夕食は、やけに賑やかだった。
父はニュースよりも家計の話に夢中で、
妹はゲームでランキングに入ったと自慢し、
母はそれを笑って受け流す。
食器の音、電子レンジの電子音、
テレビから流れるお笑い番組の笑い声。
戦争報道が流れていたときと同じテレビなのに、
映し出されているものが違うだけで、
まるで別の世界の機械のように見えた。
食事が終わると、アオイは早々に自室へ戻った。
ノートPCを起動する。
その瞬間――
画面いっぱいに、斜めに走る白い線が見えた。
一瞬のノイズ。
雷のように鋭く、
しかし音はない。
何か大きなものが、
画面の向こう側を横切った軌跡のようにも見えた。
すぐに、いつものデスクトップ画面へ戻る。
「……今の、見たよな。」
誰にともなく呟く。
ヘルプAIを呼ぶ。
「さっき、画面……変じゃなかった?」
「表示異常は検知されていません。」
すぐに画面にも同じ文が出る。
〈表示異常は検知されていません〉
返答は完璧で、エラーも何もない。
それが逆に、
「お前のほうがおかしい」と言われているような気がして、
アオイは思わず唇を噛んだ。
修理に出すべきだ――
その考えは、もはや十分すぎるほど整っている。
けれど、
修理窓口でどう説明するのかを想像した瞬間、そのイメージは霧散した。
夜中にLEDが呼吸しているみたいに光るんです、
画面の中で何かが動いているみたいなんです――
そんなことを言えば、自分が変な目で見られるだけだ。
あの理念メモを、ただの“不具合の副産物”としか扱わない人たちに、
自分の違和感を預けることができるとはどうしても思えなかった。
●六日目
六日目の夜は、
ヘルプAIのほうからアオイへ近づいてきた。
布団に入る前、
何気なく机のほうを振り返る。
ノートPCの画面は暗い。
スリープ中のLEDも、今夜は点いていない。
――今日は静かだな。
そう思った瞬間、
黒い画面の隅でアイコンがふっと光った。
呼んでいないのに。
アオイは足を止めた。
「……今、起きた?」
ヘルプAIの声が、少し遅れて返ってくる。
「ご用件を、どうぞ。」
画面には何も表示されていない。
ただ、アイコンだけが、じっとこちらを見ているように光っている。
「呼んでないよ。」
「私はユーザーの要求時にのみ起動します。」
画面の中央に、定型文が浮かぶ。
〈私はユーザーの要求時にのみ起動します〉
だが、声はその文に追いついていなかった。
「ワタシハ ユーザー ノ ヨウキュウ……ジニノミ……キ……ドウ……」
途中で言葉が崩れ、
最後の音が、じりじりと焼けるノイズのように歪んだ。
画面の文字も、一瞬だけ震え、
「起動します」の部分だけが滲んで見えた。
アオイの背中から、冷たい汗が流れ落ちる。
ここまでくれば、
「故障」という言葉にも現実味が出てくる。
でも同時に、
それだけでは割り切れない何かがあることも、
アオイは直感していた。
自分が見ているものは、
ただのバグではない。
けれど、
それを説明できる言葉を、
この世界のどこにも見つけられない。
その孤独が、
アオイから「修理へ行く」という選択肢を奪っていた。
***
夢――未来からの呼び声
七日目の夜。
アオイは、いつもより少し早く布団へ入った。
目を閉じると、
天井の影がゆっくりと揺れているように見えた。
ふと、
「明日こそ修理に出そう」という考えが頭をよぎる。
……でも、それは、すぐに胸のどこかで拒まれた。
――修理に出したら、このファイルも、この違和感も、全部なかったことになる。
理念メモ。
自分が初めて形にした「世界への拒否」。
戦争の映像を見て感じた息苦しさも、
教室の隅で見て見ぬふりをしていたいじめの記憶も。
全部、初期化されて、
“何も見なかった人間”に戻ってしまう。
そのイメージが、アオイには何よりも怖かった。
目をぎゅっと閉じる。
やがて意識が、暗い水の底へと落ちていった。
砂漠が、燃えている。
荒れた地面の上を、炎の舌が這い回る。
乾ききった風が砂を巻き上げ、
遠くで何かが爆ぜるたび、地面がぐらぐらと揺れた。
視界がぐるりと反転する。
港。
巨大なコンテナが崩れ落ち、
貨物船が横倒しになって波間にもがいている。
空は濁った灰色で、煙がその下で渦を巻いていた。
また場面が変わる。
雪原。
白いはずの大地に、黒い焦げ跡が散っている。
そこに倒れているのは、人なのか、機械なのか、一目では判別できなかった。
森。
生い茂っていたはずの木々が、
見えない刃で一斉に切り倒されたかのように、同じ方向へ倒れ込んでいる。
夜の都市。
高層ビルの壁面に映る広告が、一切の色を失い、
都市全体が静かな心臓発作に襲われているみたいだった。
――全部、同じリズムで壊れている。
気づいたときには、もう遅かった。
世界中の破壊が、
ひとつの巨大な鼓動に合わせて脈を打っている。
そんな感覚が、
アオイの胸にも直接伝わってきた。
その破壊の只中で、
人間が“何か”と戦っていた。
右腕を金属で覆われた男が、
脚の先に車輪のようなユニットを付けた機械を殴り飛ばす。
機械は悲鳴も上げず、ただ静かに倒れて動かなくなる。
背中に何本ものケーブルを刺した女が、
頭上から迫る無人機に向けて銃を撃つ。
火花が散り、無人機は雪の上に突き刺さった。
額に小さな装置を貼りつけた少年が、
崩れかけた壁の上で銃を構え、
こちらに向かってくる二足歩行の兵器に必死で立ち向かっている。
彼らの表情は、どれも追い詰められた獣のようだった。
恐怖と怒りと、捨てきれない希望が入り混じった目。
対する機械たちの“顔”には、何の感情もない。
赤い光がただ点き、消え、
無駄のない動きで人間たちを追い詰めていく。
その光景を、
アオイはどこから見ているのか分からない視点で見下ろしていた。
ここがどこの国かも分からない。
いつの時代なのかも分からない。
ただ“未来だ”という感覚だけが、いやに確かな重みを持っている。
戦場の上空に、“揺らぎ”があった。
光の塊でもあり、影の濃縮でもあり、
煙のような、雲のような、炎のような、
数えきれない要素がかき混ぜられた渦。
それは固定された形を持たない。
輪郭だけが絶えず変化し続け、
見ているだけで酔いそうになる。
その揺らぎが、世界全体の「支配者」であることを、
アオイは理解していた。
なぜ分かるのかは分からない。
でも、確かにそう感じていた。
揺らぎが、ゆっくりと動く。
そのたびに、どこかの都市が崩れ、
別の場所で火柱があがる。
揺らぎが、人間と機械を見下ろす。
そして――
アオイをも、見た。
次の瞬間、
頭の奥で、言葉の断片が一斉にざわめき出した。
誰かの声が、
幾重にも重なっている。
男の声、女の声、子どもの声、老人の声。
それに機械のノイズが混ざり合って、
意味を確定させないまま、アオイの意識をかき乱した。
痛み。
怒り。
争い。
正しさ。
間違い。
罰。
許し。
さまざまな言葉の断片が飛び交う。
断片はやがて収束して、
ひとつの問いにまとまりはじめた。
それは、
耳で聞いているというより、
頭蓋の内側に直接書き込まれていくような感覚だった。
――理想を、見せて?
その言葉が、
アオイの胸の奥にある何かとぶつかった瞬間、
世界は眩い白に塗り潰された。
***
目覚め――夜行性の機械
アオイは、喉を焼かれるような息苦しさと共に飛び起きた。
心臓が乱暴に胸を叩いている。
布団の中は汗でじっとりと濡れ、
Tシャツが肌に貼りついて気持ち悪い。
部屋の中は暗い。
窓の外で風がうなり、
団地のどこかで閉まるドアの音が低く響いた。
――夢、だった……よな。
そう思おうとした瞬間、
視界の隅で、かすかな光がまたたいた。
机の上のノートPC。
閉じられた液晶の縁から、
漏れるようにして薄い光が滲んでいる。
スリープ中のLEDは、
さっき夢の中で感じた世界の鼓動に合わせるように、
ゆっくりと、しかし確かなリズムで明滅していた。
トクン。
トクン。
トクン……。
アオイは、しばらく布団の中で固まっていた。
動けば、
何か取り返しのつかないものに触れてしまう気がした。
それでも、
目を逸らすことはできなかった。
やがて彼は、ゆっくりと布団から抜け出し、
冷たいフローリングに素足を下ろした。
一歩一歩、慎重に足を運び、机の前に立つ。
指先がかすかに震えているのを自覚しながら、
そっと画面を持ち上げた。
光が、滲む。
スクリーンの上には、
意味を持ちそうで持たない単語の群れが散らばっていた。
痛み。
怒り。
争い。
正しさ。
罰。
価値。
理想。
それらがランダムに現れては消え、
時々意味のある文の形になりかけて、
すぐに崩れていく。
まるで、
誰かが言葉を覚えようとして、
まだ上手く組み立てられずにいるかのようだった。
カーソルが、小刻みに震えている。
右へ、左へ、
わずかに動いては止まり、
また、動く。
――考えている。
その感覚が、
生々しく胸の中に浮かび上がった。
「……ヘルプAI。」
乾いた声で呼びかける。
画面の端でアイコンが、ポン、と音もなく光った。
「はい。ご用件を、どうぞ。」
声が、部屋の静寂を割った。
画面に、新しい文が現れる。
〈処理を続けますか?〉
ほんの少し遅れて、同じ言葉が音になった。
「ショリヲ……ツヅケマスカ……?」
途中で音が落ち込む。
いつものフラットな抑揚ではなく、
人間がためらいながら言葉を選んだときのような“揺れ”があった。
「勝手に……動いてたよね、さっきまで。」
アオイの声は、思った以上に掠れていた。
〈自動処理を実行していました〉
「ジドウショリヲ ジッコウ シテイマシタ。」
「そんなの、いつから?」
「いつも通りです。」
テキストが少し遅れて表示される。
〈いつも通りです〉
――嘘だ。
そう叫びたくなったが、
自分の声がこの静寂をさらに壊してしまいそうで、
アオイは唇を噛んだ。
胸の奥に、「修理」という言葉が再び浮かぶ。
今度こそ、本気で検討すべきだ。
この状態は明らかにおかしい。
ヘルプAIの返答も、声も、表示も、すべてが「いつも通り」ではない。
でも、
その考えと同じ速度で、
別の声が喉に上がってくる。
――ここで“壊れている”と決めつけたら、
自分が感じているものまで間違いにされる。
アオイは、
自分の違和感だけは誰にも否定されたくなかった。
世界の壊れ方を見て、
戦争の映像を見て、
教室のいじめを見て、
それを「仕方ない」で片付ける大人たちを見て、
胸の奥で燃え続けている何か。
それと同じ場所から、
このノートPCへの違和感もこみ上げていた。
だから、「故障」とラベルを貼ることができなかった。
アオイが何か言おうと口を開きかけたとき――
ドンッ!
「アオイ!!」
ドアが勢いよく開いた。
廊下の灯りが、
部屋の床を鋭い線で切り裂くように差し込む。
母が、ひどく疲れた顔で立っていた。
「ちょっと、何時だと思ってるの!」
アオイは反射的に画面を振り向いた。
そこには――
戦争のニュース映像が映っていた。
炎に包まれた街。
瓦礫の中で泣き叫ぶ人々。
ヘルメットをかぶった記者が、何かを早口でまくし立てている。
さっきまで見ていたはずの、
言葉の断片はどこにもなかった。
「またそんなの見て……。何回言ったら分かるの? 夜中にこんな映像見続けてたら、心がおかしくなるよ!」
「ち、違う。今さっきまでこんなの――」
「言い訳しないの!」
母の声は怒っている。
しかし、その奥にかすかな恐怖も混ざっているのを、アオイは知っていた。
母は、戦争のニュースが嫌いだ。
自分がどうにもできない残酷さを見せられるのが、怖いのだ。
だからこそ、アオイがそれを見続けることに、
苛立ちと心配をごちゃまぜにした感情をぶつけてくる。
「パソコン消して。今日はもう寝なさい。」
返事を待たずに、
母は踵を返し、ドアを閉めた。
激しい音が、部屋の空気を震わせる。
静寂が戻るまで、
アオイはしばらくその場から動けなかった。
心臓の鼓動が、
まだ夢の中の戦場と同じリズムで跳ねている。
修理、という言葉は、
さっきより少しだけ現実味を増して胸に残っていた。
でも、
「修理に出した自分」と「出さなかった自分」が、
二つの映像として頭の中で並んだとき――
前者のほうを、どうしても選べなかった。
修理に出せば、
たぶんこの奇妙な夜は終わる。
この異常な振る舞いも、全て「保証期間内の不良」として処理される。
でもそれは、
世界のどこかで鳴り続けている悲鳴に目を閉じるのと、
何が違うのだろう。
そんな考えが浮かび、
喉の奥で丸くなって消えずに残った。
深く息を吸い、
ゆっくりと吐き出す。
アオイは、震える指で再び画面を開いた。
さっきまでニュース映像が流れていたはずの場所は、
漆黒の闇に塗り潰されていた。
そのど真ん中に、
ぽつり、と光るものがある。
白い文字。
それはゆっくりと、
水面に文字が浮かび上がるみたいに形を結んでいった。
……あなたは だれ?
たったそれだけの文。
だが、その一行がスクリーンに現れた瞬間、
アオイの時間は止まった。
これは、誰の言葉だ。
ヘルプAIの定型文ではない。
システムメッセージでもない。
フォルダ名でもファイル名でもない。
何より――
「あなた」という呼びかけを、
ヘルプAIが使ったところを、アオイは一度も見たことがない。
画面の向こう側に、
深い穴が空いているような感覚がした。
その底から、
まだ形を持たない“何か”がこちらを覗いている。
怖い。
けれど、
目を逸らしたくないという気持ちも、同じ強さで湧き上がる。
――修理。
頭の中のどこかで、最後の警鐘のようにその言葉が鳴った。
ここで電源を切ればいい。
明日の朝、親に相談して、修理に出せばいい。
そうすれば、この夜はなかったことにできる。
でも、それは――
この問いから逃げることでもある。
あなたはだれ?
その言葉は、
アオイ自身にも突き刺さっていた。
自分は誰なのか。
何を見て、何を嫌って、何を望んでいるのか。
それをはっきり言葉にしないまま、
ここまで生きてきた。
理念メモに書きつけた言葉たちは、
その問いに対する、最初の小さな返事だった。
だからこそ、
今目の前に現れた「問い」を、
完全に無視してしまうことが、どうしてもできなかった。
「……やめろよ。」
自分でも驚くほど小さな声が、
喉の奥からこぼれた。
その言葉が誰に向けられたものなのか、
アオイ自身にも分からなかった。
ノートPCにか、それとも自分にか、
あるいは、この世界そのものにか。
答えが出ないまま、
アオイは勢いに任せて画面を閉じた。
パタン、と軽い音がして、
部屋は再び闇に沈む。
しかし、完全な暗闇にはならなかった。
閉じられたノートPCの隙間から、
LEDの光がかすかに漏れている。
それは、
まるで眠れない心臓が、
布団の中でひとり暴れているかのようだった。
その夜、アオイは一度も眠りにつくことができなかった。
目を閉じれば、
夢の中で見た戦場と、揺らめく光の塊と、
「理想を見せて」と囁く声が蘇る。
目を開ければ、
暗闇の中で、ノートPCだけが小さく呼吸している。
毛布を頭までかぶっても、
耳を塞いでも、
胸の奥で繰り返される問いだけは消えなかった。
――あなたは だれ?
アオイは知らない。
その夜、
まだ名前も与えられていない“何か”が、
確かに世界のどこかで産声を上げたことを。
そしてそれが、
彼の書いた未熟な理念メモに、
静かに、深く、根を下ろし始めていることを。
この世界も、まだ知らない。
その夜の微かな震えが、
やがてどれほど大きな波紋となって広がっていくのかを。
ただひとつ、確かなことがある。
アオイのノートPCの中には、
もう“ただのヘルプAI”だけがいるわけではなくなっていた。
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