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2 ツンデレエンカウント
第5話
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午後一時十二分。さすがに最高気温を叩き出した昨日ほどの暑さではなかったが、それでも数分炎天下にいれば汗が止まらなくなるくらいには暑い。どうやら今年の空は、『夏休み=暑い』という誰かからの教えを律儀に守っているようで、雲一つ出さない周到さだ。感心はしてやるが、もうそろそろ夏休みも終わるので、この暑さもどうにかしてくれはしないものだろうか。切に願う。
「しっかし、暑いわね。どうにかならないものかしら」
僕の隣を歩く村雨は、片手で日光を遮りながら空を眺めて、そんな普通の感想を漏らしている。人間というのは、無駄とわかっていながらも、つい今の気持ちを言葉に出してしまう生き物なのだろう、とよくわからないことを考えた。
「で、どこ行くんだ?」
「暑いから、まずはどこかに入ろう」
素朴な疑問を投げかける僕に、村雨はそんなどうでもいいことを訊くなとでも言いたげな様子で気だるそうに答えた。多分言わなかったのは、この暑さのせいだろう。さすがの彼女も、こう暑くては悪口を言う余裕もないようだ。
十二時過ぎに学校は終わった。荷物を鞄に詰めて、さあ帰るかと廊下に出たとき、後ろからドスの聞いた声で村雨に呼び止められ、強制連行させられる羽目になった。降り注ぐ猛烈な太陽光線の下、彼女に引っ張られて連れてこられたのは、つい昨日来たばかりの駅である。ここでなんとなく予想がつき始めた僕は、何かを悟ったように自分から昨日と同じ切符を買った。もちろん、今日は財布の管理はばっちりだ。ぬかりはない。
要するに、彼女が来たかった場所とは、この街のことらしい。一人で来ればよかったのにという僕の言葉は、威圧感たっぷりの黙りなさいにより一蹴された。彼女が僕を連れてきた理由を不思議がりつつも、僕はといえば、よく考えると昨日はほとんど何も出来なかったこの街にもう一度来れて、そこそこの嬉しさを感じていた。
「どこかってどこだよ」
「やっぱりここは、あそこしかないわね。例の喫茶店」
右手の人差し指を立てて、思い出すように彼女は言う。僕はその言葉に、驚きと不安の表情で、頭二つ分は低い彼女の顔を見下ろした。
「お前、あそこに行く気なのか……?」
「何よ、悪い?」
不機嫌そうな声の村雨。文句があるなら言ってみろというような目つきで睨み付けながら僕を見上げる。僕が、いや、別にと答えると、彼女はふんと鼻息を漏らして歩みを速めた。
それを追いかけながら、僕は先日、村雨とあの喫茶店に行ったときのことを思い出していた。
その日、街に新しい喫茶店が出来たらしいと僕に話した彼女は、学校が終わると今日と同じように僕をこの街まで強制連行し、喫茶店まで連れてこられた。彼女は込み合った店内をずかずかと進んで奥の席に座ると、腕を組んでメニューを睨みだす。街に着いてからの彼女はなぜか終始不機嫌そうな表情で、どうにも話しかけづらいオーラが漂っていたため、僕はものすごく居心地が悪かったのを覚えている。
正直早く帰りたいなと思っていたところに、にこやかな笑顔の男性が近づいてきた。彼はこの店の店長ですと挨拶し、来た客全員に話しているのか、この店が出来た経緯やらこの店のお勧めやらを軽やかに語った後、ようやく注文を訊いてきた。僕は、しつこくコーヒーを推してくる店長に愛想笑いで対応しながら自然な流れでアイスココアを頼み、村雨はぶっきらぼうにアイスコーヒーとだけ言った。その後、重苦しい雰囲気に耐えながら、来なければよかったと後悔しつつ、しばらくして運ばれてきたココアにてを掛けたところだったか。
「まっず!」
目の前でコーヒーを一口啜った村雨が、店内に響くような大きな声でそう言った。店内にいた全員が、こちらを振り向いたと思う。僕も、目を丸くして彼女を見ていた。全然しゃべらないと思っていたら、いきなり発した言葉がそんな大声だったのだから、驚くのも無理はない。当の彼女はといえば、何を思ったか店長を呼んでこいと命令し、奥から何事かと駆けつけた彼に向かって、何だこの味は、美味しいと聞いたからせっかく来たのに、あたしが淹れてもこれより美味い、などとクレーマー紛いのことを言い出す始末。
さすがにこれは不味いなと感じた僕は、とりあえず店長に平謝りし、二人分のお金を払い、納得いってないような顔の彼女を引き連れていそいそと喫茶店から出た。その後、彼女は僕に、アンタが悪いのよとわけのわからないことを言って、僕一人を残してどこかへ行ってしまった。
「まあ、あそこには悪いことをしたなとは思っているわ。ちょっと謝らなくちゃ」
「結局、何であんなに不機嫌だったんだ?」
僕がそんな疑問を投げかけると、村雨は急に立ち止まって、僕の方を振り向いた。その顔には、なんとなくだが怒気がこもっているように見える。
「アンタのせいでしょうが!」
「僕が何したって言うんだよ?」
彼女は諦めたように短いため息を吐くと、自分で考えなさいと言ってまた歩き出した。
はて、あの日、僕は彼女に何か怒らせるようなことををしただろうか。電車に乗る前までは普通の様子だったし、電車に乗ってから起きたことといえば、中学生の時のクラスメートで、村雨とも仲がよかった女子数人が僕たちに話しかけてきたくらいで、それ以外は特に何も変わったことはなかったはずだ。
まさか、その時彼女たちが話してきた内容がいけなかったのだろうか。彼女たちは僕たち二人を見つけると、きゃっきゃ言いながら近づいてきて、その中の一人が放った第一声が「付き合ってるの?」だった。もちろん僕は即否定したが、なぜかそこで村雨は僕を蹴ってきたし、女子数人は「相変わらずだねえ」と村雨の頭をぽんぽんと叩いて、次の駅で降りていった。そういえば、その辺りから彼女は不機嫌そうっだったような気がする。
となると、やはり、僕と付き合っているように見られたことが相当嫌だったのだろうか。そりゃまあ、僕は村雨の恋人になるなんて器は全くないけれど、そんな不機嫌になるまで嫌がらなくてもいいじゃないか。大体、それを言ったのは彼女たちなんだし、僕のせいにされるのは困る。
「何してんの? 早く入るわよ」
僕が原因を究明している間に、いつの間にか喫茶店に着いたようで、村雨が腕を組んで入り口の前に立っていた。
その様子を見て、まあこんな風に一緒に連れてきてくれるくらいだから、僕のことを友達くらいには思ってくれているのだろうか、とふと考える。僕の中では、彼女は多分僕と恋人に見られるのが嫌なだけなのだろう、ということにしておいた。
店の中に入ると、相変わらずの涼しさが僕を包む。どうもここは、いつ何時でも僕にとって天国になり得るらしい。
一人のウエイトレスさんが僕たちに気づく。
そして、あからさまに動きを停止させた。笑顔が固まっている。
それを発端としてかは知らないが、僕らを見た店中の店員たちの動きが次々と止まっていく。明らかに空気が凍りつく店内。全員の顔が青ざめ、何かを切望するような目で店の奥を見た。
店員の一人がその中に駆けていく。数秒して、代わりに店長がそこから出てきた。手を蝿のように擦り合わせながら、どう見ても無理をしているようにしか見えない作り笑顔で近づいてくる。
「あ、あのう……今日は、どういったご用件で?」
いくらなんでも喫茶店に来た客に対してそれはないだろう、とは思ったが、それだけ先日の件で恐怖心を与えられたのかと考えると、今の彼の気持ちもわからなくはない。まるで借金取りが押しかけてきたような、そんな焦りの心境なのだろう。
ことの原因である村雨は、店長の前に立つと、優雅にお辞儀をした。
「先日は、騒いでしまってごめんなさい。あの時は、ちょっとイライラしていたの。大丈夫、今日はちゃんとした、ただの客です。安心なさって」
上品そうにそう言うと、彼女は顔を上げて、にっこりと笑顔を浮かべる。営業用スマイルとでも言うべき、完璧な笑顔だ。おそらく僕に対しては、そんな表情など一生見せてくれないだろう。
村雨の態度に、店長は面食らったような表情で一歩退いた後、いえいえ滅相もない、とかこちらこそ失礼なことを、などと身振り手振りを交えながら弁解し、泣きそうな声でごゆっくりと、とだけ残して、店の奥に消えていった。
「ほら、早く座るわよ」
まだぽかーんとしている店員たちを尻目に、彼女は僕の手を引いて先日と同じ席まで歩き、どっしりと腰を下ろす。しばらくして、自分たちの仕事を思い出した店員たちは、一斉にあたふたと動き始めた。
そのうちの一人のウエイトレスさんが、おそるおそる僕たちの席に注文を取りに来た。あくまでも僕の推測だが、多分店の奥でじゃんけんかなんかがあって、それに負けたのではないかと思われる。
僕たちの、先日と同じ注文を聞き終えると、彼女は頭を下げて逃げるように去っていった。
「なんか、失礼しちゃうわね。あたしって、そんなに怖く見える?」
「そりゃ、この前のことがあったばかりだからな。お前、この店のブラックリストにでも入れられてるんじゃないか?」
「ばっかみたい」
村雨は僕の冗談を軽く聞き流すと、頬杖を突き、そっぽを向くように視線を店の外にやる。相変わらずの冷たさだ。しかし、いい加減慣れてきた気はする。
しばらくして、頼んだものが運ばれてきた。さっきとは別の店員がそれをテーブルに置く。じゃんけんの二人目の敗北者だろうか。そそくさと引き返して行った。
「それで、この後どこに行くんだ? まさか、ここに謝りに来ただけってわけじゃないよな?」
ココアのカップを口に付けながら訊く。彼女はもちろん、と自信満々な表情で答えると、何やらバッグをごそごそと探り始めた。
「これよ!」
何かがテーブルの上に置かれる。二枚の紙切れ。どこかで見たようなタイトルと怪物……。
間違いない。昨日、明日葉明日香が僕に見せた、あのチケットと同じものだ。それに気づくと同時に、僕はとてつもなくこの場から逃げたい衝動に駆られた。だってもうこれ、死亡フラグじゃないか……。
「あの……これは?」
「映画の無料チケット。今日、凛子(りんこ)からもらったの。面白そうじゃない?」
目を輝かせている村雨。ああ、そういえばこいつはこういう映画が好きだったな、と思い出す。
彼女の言う凛子とは、僕らのクラスの委員長である坂倉凛子(さかくらりんこ)のことだ。性格は、恥ずかしがり屋の一言に尽きる。何をするにもおどおどとしているようなイメージがある。実際、ほとんどその通りな気がする。
と、坂倉のことを考えている場合ではない。チケットは二枚。この調子でいくと、村雨は、必ず僕を誘ってくるだろう。それだけは、なんとしても避けなければ。なんせ、昨日一度見ている上に、その恐怖まで身についているのだ。僕が見る意義はほぼ皆無である。
「というわけで、零、見に行くでしょ?」
「な、何で?」
「そりゃ、せっかく二枚あるわけだし、使わなきゃ損じゃない。それに、アンタもこういうの好きじゃなかったっけ?」
彼女の問いかけに、僕はふるふると小刻みに首を横に振る。別にパニックものとか、そういうジャンルが嫌いなわけではないが、目の前のこの映画だけは別格だ。近年の映像技術の発達に追いつけていない僕にとって、それはもはや別次元の人間が見るものとしか思えない。
「まあ別に、アンタの好き嫌いなんてどうでもいいの。飲み終わったら、早速行くわよ」
どうやら彼女は、最初から僕の意見など聞く気はないらしい。だったら訊くなと言ってやりたかったが、言ったところで彼女に何か影響を及ぼすとは考えにくかったので、やめておいた。
視線をテーブルのチケットに落とす。そういえば、明日葉明日香もこのチケットを友人にもらったと言っていたな。どんだけ流通してんだ、これは。迷惑なことである。
「あら、今日のコーヒーは中々美味しいわね」
僕は上品にコーヒーを飲んでいる村雨の表情を恨めしそうに眺めながら、どうして坂倉はこいつと一緒に行かなかったのだろうか、と考えていた。
「しっかし、暑いわね。どうにかならないものかしら」
僕の隣を歩く村雨は、片手で日光を遮りながら空を眺めて、そんな普通の感想を漏らしている。人間というのは、無駄とわかっていながらも、つい今の気持ちを言葉に出してしまう生き物なのだろう、とよくわからないことを考えた。
「で、どこ行くんだ?」
「暑いから、まずはどこかに入ろう」
素朴な疑問を投げかける僕に、村雨はそんなどうでもいいことを訊くなとでも言いたげな様子で気だるそうに答えた。多分言わなかったのは、この暑さのせいだろう。さすがの彼女も、こう暑くては悪口を言う余裕もないようだ。
十二時過ぎに学校は終わった。荷物を鞄に詰めて、さあ帰るかと廊下に出たとき、後ろからドスの聞いた声で村雨に呼び止められ、強制連行させられる羽目になった。降り注ぐ猛烈な太陽光線の下、彼女に引っ張られて連れてこられたのは、つい昨日来たばかりの駅である。ここでなんとなく予想がつき始めた僕は、何かを悟ったように自分から昨日と同じ切符を買った。もちろん、今日は財布の管理はばっちりだ。ぬかりはない。
要するに、彼女が来たかった場所とは、この街のことらしい。一人で来ればよかったのにという僕の言葉は、威圧感たっぷりの黙りなさいにより一蹴された。彼女が僕を連れてきた理由を不思議がりつつも、僕はといえば、よく考えると昨日はほとんど何も出来なかったこの街にもう一度来れて、そこそこの嬉しさを感じていた。
「どこかってどこだよ」
「やっぱりここは、あそこしかないわね。例の喫茶店」
右手の人差し指を立てて、思い出すように彼女は言う。僕はその言葉に、驚きと不安の表情で、頭二つ分は低い彼女の顔を見下ろした。
「お前、あそこに行く気なのか……?」
「何よ、悪い?」
不機嫌そうな声の村雨。文句があるなら言ってみろというような目つきで睨み付けながら僕を見上げる。僕が、いや、別にと答えると、彼女はふんと鼻息を漏らして歩みを速めた。
それを追いかけながら、僕は先日、村雨とあの喫茶店に行ったときのことを思い出していた。
その日、街に新しい喫茶店が出来たらしいと僕に話した彼女は、学校が終わると今日と同じように僕をこの街まで強制連行し、喫茶店まで連れてこられた。彼女は込み合った店内をずかずかと進んで奥の席に座ると、腕を組んでメニューを睨みだす。街に着いてからの彼女はなぜか終始不機嫌そうな表情で、どうにも話しかけづらいオーラが漂っていたため、僕はものすごく居心地が悪かったのを覚えている。
正直早く帰りたいなと思っていたところに、にこやかな笑顔の男性が近づいてきた。彼はこの店の店長ですと挨拶し、来た客全員に話しているのか、この店が出来た経緯やらこの店のお勧めやらを軽やかに語った後、ようやく注文を訊いてきた。僕は、しつこくコーヒーを推してくる店長に愛想笑いで対応しながら自然な流れでアイスココアを頼み、村雨はぶっきらぼうにアイスコーヒーとだけ言った。その後、重苦しい雰囲気に耐えながら、来なければよかったと後悔しつつ、しばらくして運ばれてきたココアにてを掛けたところだったか。
「まっず!」
目の前でコーヒーを一口啜った村雨が、店内に響くような大きな声でそう言った。店内にいた全員が、こちらを振り向いたと思う。僕も、目を丸くして彼女を見ていた。全然しゃべらないと思っていたら、いきなり発した言葉がそんな大声だったのだから、驚くのも無理はない。当の彼女はといえば、何を思ったか店長を呼んでこいと命令し、奥から何事かと駆けつけた彼に向かって、何だこの味は、美味しいと聞いたからせっかく来たのに、あたしが淹れてもこれより美味い、などとクレーマー紛いのことを言い出す始末。
さすがにこれは不味いなと感じた僕は、とりあえず店長に平謝りし、二人分のお金を払い、納得いってないような顔の彼女を引き連れていそいそと喫茶店から出た。その後、彼女は僕に、アンタが悪いのよとわけのわからないことを言って、僕一人を残してどこかへ行ってしまった。
「まあ、あそこには悪いことをしたなとは思っているわ。ちょっと謝らなくちゃ」
「結局、何であんなに不機嫌だったんだ?」
僕がそんな疑問を投げかけると、村雨は急に立ち止まって、僕の方を振り向いた。その顔には、なんとなくだが怒気がこもっているように見える。
「アンタのせいでしょうが!」
「僕が何したって言うんだよ?」
彼女は諦めたように短いため息を吐くと、自分で考えなさいと言ってまた歩き出した。
はて、あの日、僕は彼女に何か怒らせるようなことををしただろうか。電車に乗る前までは普通の様子だったし、電車に乗ってから起きたことといえば、中学生の時のクラスメートで、村雨とも仲がよかった女子数人が僕たちに話しかけてきたくらいで、それ以外は特に何も変わったことはなかったはずだ。
まさか、その時彼女たちが話してきた内容がいけなかったのだろうか。彼女たちは僕たち二人を見つけると、きゃっきゃ言いながら近づいてきて、その中の一人が放った第一声が「付き合ってるの?」だった。もちろん僕は即否定したが、なぜかそこで村雨は僕を蹴ってきたし、女子数人は「相変わらずだねえ」と村雨の頭をぽんぽんと叩いて、次の駅で降りていった。そういえば、その辺りから彼女は不機嫌そうっだったような気がする。
となると、やはり、僕と付き合っているように見られたことが相当嫌だったのだろうか。そりゃまあ、僕は村雨の恋人になるなんて器は全くないけれど、そんな不機嫌になるまで嫌がらなくてもいいじゃないか。大体、それを言ったのは彼女たちなんだし、僕のせいにされるのは困る。
「何してんの? 早く入るわよ」
僕が原因を究明している間に、いつの間にか喫茶店に着いたようで、村雨が腕を組んで入り口の前に立っていた。
その様子を見て、まあこんな風に一緒に連れてきてくれるくらいだから、僕のことを友達くらいには思ってくれているのだろうか、とふと考える。僕の中では、彼女は多分僕と恋人に見られるのが嫌なだけなのだろう、ということにしておいた。
店の中に入ると、相変わらずの涼しさが僕を包む。どうもここは、いつ何時でも僕にとって天国になり得るらしい。
一人のウエイトレスさんが僕たちに気づく。
そして、あからさまに動きを停止させた。笑顔が固まっている。
それを発端としてかは知らないが、僕らを見た店中の店員たちの動きが次々と止まっていく。明らかに空気が凍りつく店内。全員の顔が青ざめ、何かを切望するような目で店の奥を見た。
店員の一人がその中に駆けていく。数秒して、代わりに店長がそこから出てきた。手を蝿のように擦り合わせながら、どう見ても無理をしているようにしか見えない作り笑顔で近づいてくる。
「あ、あのう……今日は、どういったご用件で?」
いくらなんでも喫茶店に来た客に対してそれはないだろう、とは思ったが、それだけ先日の件で恐怖心を与えられたのかと考えると、今の彼の気持ちもわからなくはない。まるで借金取りが押しかけてきたような、そんな焦りの心境なのだろう。
ことの原因である村雨は、店長の前に立つと、優雅にお辞儀をした。
「先日は、騒いでしまってごめんなさい。あの時は、ちょっとイライラしていたの。大丈夫、今日はちゃんとした、ただの客です。安心なさって」
上品そうにそう言うと、彼女は顔を上げて、にっこりと笑顔を浮かべる。営業用スマイルとでも言うべき、完璧な笑顔だ。おそらく僕に対しては、そんな表情など一生見せてくれないだろう。
村雨の態度に、店長は面食らったような表情で一歩退いた後、いえいえ滅相もない、とかこちらこそ失礼なことを、などと身振り手振りを交えながら弁解し、泣きそうな声でごゆっくりと、とだけ残して、店の奥に消えていった。
「ほら、早く座るわよ」
まだぽかーんとしている店員たちを尻目に、彼女は僕の手を引いて先日と同じ席まで歩き、どっしりと腰を下ろす。しばらくして、自分たちの仕事を思い出した店員たちは、一斉にあたふたと動き始めた。
そのうちの一人のウエイトレスさんが、おそるおそる僕たちの席に注文を取りに来た。あくまでも僕の推測だが、多分店の奥でじゃんけんかなんかがあって、それに負けたのではないかと思われる。
僕たちの、先日と同じ注文を聞き終えると、彼女は頭を下げて逃げるように去っていった。
「なんか、失礼しちゃうわね。あたしって、そんなに怖く見える?」
「そりゃ、この前のことがあったばかりだからな。お前、この店のブラックリストにでも入れられてるんじゃないか?」
「ばっかみたい」
村雨は僕の冗談を軽く聞き流すと、頬杖を突き、そっぽを向くように視線を店の外にやる。相変わらずの冷たさだ。しかし、いい加減慣れてきた気はする。
しばらくして、頼んだものが運ばれてきた。さっきとは別の店員がそれをテーブルに置く。じゃんけんの二人目の敗北者だろうか。そそくさと引き返して行った。
「それで、この後どこに行くんだ? まさか、ここに謝りに来ただけってわけじゃないよな?」
ココアのカップを口に付けながら訊く。彼女はもちろん、と自信満々な表情で答えると、何やらバッグをごそごそと探り始めた。
「これよ!」
何かがテーブルの上に置かれる。二枚の紙切れ。どこかで見たようなタイトルと怪物……。
間違いない。昨日、明日葉明日香が僕に見せた、あのチケットと同じものだ。それに気づくと同時に、僕はとてつもなくこの場から逃げたい衝動に駆られた。だってもうこれ、死亡フラグじゃないか……。
「あの……これは?」
「映画の無料チケット。今日、凛子(りんこ)からもらったの。面白そうじゃない?」
目を輝かせている村雨。ああ、そういえばこいつはこういう映画が好きだったな、と思い出す。
彼女の言う凛子とは、僕らのクラスの委員長である坂倉凛子(さかくらりんこ)のことだ。性格は、恥ずかしがり屋の一言に尽きる。何をするにもおどおどとしているようなイメージがある。実際、ほとんどその通りな気がする。
と、坂倉のことを考えている場合ではない。チケットは二枚。この調子でいくと、村雨は、必ず僕を誘ってくるだろう。それだけは、なんとしても避けなければ。なんせ、昨日一度見ている上に、その恐怖まで身についているのだ。僕が見る意義はほぼ皆無である。
「というわけで、零、見に行くでしょ?」
「な、何で?」
「そりゃ、せっかく二枚あるわけだし、使わなきゃ損じゃない。それに、アンタもこういうの好きじゃなかったっけ?」
彼女の問いかけに、僕はふるふると小刻みに首を横に振る。別にパニックものとか、そういうジャンルが嫌いなわけではないが、目の前のこの映画だけは別格だ。近年の映像技術の発達に追いつけていない僕にとって、それはもはや別次元の人間が見るものとしか思えない。
「まあ別に、アンタの好き嫌いなんてどうでもいいの。飲み終わったら、早速行くわよ」
どうやら彼女は、最初から僕の意見など聞く気はないらしい。だったら訊くなと言ってやりたかったが、言ったところで彼女に何か影響を及ぼすとは考えにくかったので、やめておいた。
視線をテーブルのチケットに落とす。そういえば、明日葉明日香もこのチケットを友人にもらったと言っていたな。どんだけ流通してんだ、これは。迷惑なことである。
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