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退陣
八.小声の策士
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官兵衛が陣の脇から庭へ出るところで指笛を鳴らそうとすると、鳴らす前に例の図体のでかい男が官兵衛の前に立ち塞がった。
(まだ、呼んどりゃせんぞ。)
男は跪き、告げる。
「裏で筑前様がお待ちです。」
官兵衛は小声ながら驚く。
「筑前殿がぁ・・・。わしが坊主と会ってたのを知ってたのか。まぁ、よい。案内せぇ。」
男は御座所とされている持宝院の講堂の脇から裏手に回り込む。官兵衛はいつでも刀を抜けるよう、屈み気味で辺りを警戒しながら男についていく。講堂の真裏あたりの暗闇に入ると、脇から
「官兵衛っ、官兵衛っ、こっちじゃ。」
と小声をかけられる。講堂の勝手口が開いているのに気づくと、奥の小さな台所に提灯を持った秀吉がいる。秀吉が官兵衛を手招きしている。官兵衛が足を引き摺りながら土間に入ると、秀吉は足元に提灯を置き、官兵衛を板敷に座らせる。
「心配かけたな、官兵衛。わしはもう大丈夫じゃ。」
声は小さいが、秀吉の覇気は戻っている。兄弟の間でどんな会話があったのかは窺い知れないが、秀吉の腫れた瞼の下から鋭い眼光が覗かれたことに官兵衛は安堵する。
「よせっ。わしは何もしとらん。それより、安国寺の坊主が来ておって、和議を急いておる。」
「そんようじゃな。そいで、何と云うてきた。」
「清水の腹を切らせるから、差し出す領は三国にしろと・・・。清水の首が備後・出雲に匹敵することを知らしめば、皆を納得させられると云うとる。」
秀吉の呑み込みが早い。
「宗治は、右馬頭殿は承知しちょるんか。」
「毛利の殿はまだ知らんと云うとる。清水は今は承知しとるようじゃが、いつ心変わりするやもせんから、坊主めは早う和議を結んで決意を固めさせたいらしい。」
「そんでこんな夜中に来たんか。なるほどっ。」
秀吉は納得する様を見せるが、早く肝心なところを云えという催促の眼で官兵衛を見た。
「わしの方から清水の切腹を急かしたら、飛びつきおった。おそらく城中に和議を望まん連中がまだ多いんじゃろう。」
と官兵衛が発するのに対し、秀吉の反応はますます早い。
「そうか、それほど急かすんに必死っちゅうことは、まだ大殿のことは知らんっちゅうこっちゃな。」
官兵衛は感服する。
「さすが、筑前殿、恐れ入る。わしも同感じゃ。もはやそれだけ分かればあの坊主は用済みなんじゃが、いかがする・・・。追い返すか。」
秀吉は考え込む。しばらくして何かを思い付いたようで、少し笑みを浮かべて官兵衛に命じる。
「いやっ、官兵衛、和議を結べ。今宵のうちに約定を仕上げるんじゃあ。」
「それは構わんが、約定の中身はどうする。」
「坊主の云うがままにしろ。中身はどうでもよい。とにかく坊主を気分よくさせぃ。」
官兵衛は迷う。
「あの坊主は銭よりも謀を好むような男じゃ。却って疑いをかけてくるんじゃねぇか。」
秀吉が解説する。
「それでえぇ。それを利用しちゃる。」
秀吉の頭の中で緻密な策が築かれていく。これ以上問いかけても自分が混乱するだけだと悟った官兵衛は最後の確認だけする。
「筑前殿、何を考えとる。」
「二つじゃ。一つは毛利が京の知らせを受けたときの対策じゃ。も一つはさらにその後のこと。官兵衛っ、約定を纏めたら、坊主を返さず、わしを呼べ。よいな。」
官兵衛はこれ以上考えず、秀吉の言う通りにすることにした。いや、むしろ秀吉がどんな”奇策”を仕掛けるか、楽しみに待つ気になっていた。
「承知した。では、行って参る。」
官兵衛が立ち上がって土間から出ようとすると、秀吉が呼び止める。
「あぁ、それと官兵衛。言い忘れたが、姫路まで退いたら、十兵衛を討つんに備えるからな。それにゃあ一刻も早う支度せにゃならん。お主が坊主と掛けあっちょる間に、わしが始めちょるから、お主の間者さぁ貸してくれぇ。」
なぜか頼もしさを感じる秀吉の申し出に、官兵衛は苦笑し、ゆっくりと指を二回鳴らす。すると先ほどの大男を含めて三人の男が官兵衛の足元に現れる。
「こやつらを使ってくれ。」
と云い残し、官兵衛は一人で御座所へ戻っていく。
(まだ、呼んどりゃせんぞ。)
男は跪き、告げる。
「裏で筑前様がお待ちです。」
官兵衛は小声ながら驚く。
「筑前殿がぁ・・・。わしが坊主と会ってたのを知ってたのか。まぁ、よい。案内せぇ。」
男は御座所とされている持宝院の講堂の脇から裏手に回り込む。官兵衛はいつでも刀を抜けるよう、屈み気味で辺りを警戒しながら男についていく。講堂の真裏あたりの暗闇に入ると、脇から
「官兵衛っ、官兵衛っ、こっちじゃ。」
と小声をかけられる。講堂の勝手口が開いているのに気づくと、奥の小さな台所に提灯を持った秀吉がいる。秀吉が官兵衛を手招きしている。官兵衛が足を引き摺りながら土間に入ると、秀吉は足元に提灯を置き、官兵衛を板敷に座らせる。
「心配かけたな、官兵衛。わしはもう大丈夫じゃ。」
声は小さいが、秀吉の覇気は戻っている。兄弟の間でどんな会話があったのかは窺い知れないが、秀吉の腫れた瞼の下から鋭い眼光が覗かれたことに官兵衛は安堵する。
「よせっ。わしは何もしとらん。それより、安国寺の坊主が来ておって、和議を急いておる。」
「そんようじゃな。そいで、何と云うてきた。」
「清水の腹を切らせるから、差し出す領は三国にしろと・・・。清水の首が備後・出雲に匹敵することを知らしめば、皆を納得させられると云うとる。」
秀吉の呑み込みが早い。
「宗治は、右馬頭殿は承知しちょるんか。」
「毛利の殿はまだ知らんと云うとる。清水は今は承知しとるようじゃが、いつ心変わりするやもせんから、坊主めは早う和議を結んで決意を固めさせたいらしい。」
「そんでこんな夜中に来たんか。なるほどっ。」
秀吉は納得する様を見せるが、早く肝心なところを云えという催促の眼で官兵衛を見た。
「わしの方から清水の切腹を急かしたら、飛びつきおった。おそらく城中に和議を望まん連中がまだ多いんじゃろう。」
と官兵衛が発するのに対し、秀吉の反応はますます早い。
「そうか、それほど急かすんに必死っちゅうことは、まだ大殿のことは知らんっちゅうこっちゃな。」
官兵衛は感服する。
「さすが、筑前殿、恐れ入る。わしも同感じゃ。もはやそれだけ分かればあの坊主は用済みなんじゃが、いかがする・・・。追い返すか。」
秀吉は考え込む。しばらくして何かを思い付いたようで、少し笑みを浮かべて官兵衛に命じる。
「いやっ、官兵衛、和議を結べ。今宵のうちに約定を仕上げるんじゃあ。」
「それは構わんが、約定の中身はどうする。」
「坊主の云うがままにしろ。中身はどうでもよい。とにかく坊主を気分よくさせぃ。」
官兵衛は迷う。
「あの坊主は銭よりも謀を好むような男じゃ。却って疑いをかけてくるんじゃねぇか。」
秀吉が解説する。
「それでえぇ。それを利用しちゃる。」
秀吉の頭の中で緻密な策が築かれていく。これ以上問いかけても自分が混乱するだけだと悟った官兵衛は最後の確認だけする。
「筑前殿、何を考えとる。」
「二つじゃ。一つは毛利が京の知らせを受けたときの対策じゃ。も一つはさらにその後のこと。官兵衛っ、約定を纏めたら、坊主を返さず、わしを呼べ。よいな。」
官兵衛はこれ以上考えず、秀吉の言う通りにすることにした。いや、むしろ秀吉がどんな”奇策”を仕掛けるか、楽しみに待つ気になっていた。
「承知した。では、行って参る。」
官兵衛が立ち上がって土間から出ようとすると、秀吉が呼び止める。
「あぁ、それと官兵衛。言い忘れたが、姫路まで退いたら、十兵衛を討つんに備えるからな。それにゃあ一刻も早う支度せにゃならん。お主が坊主と掛けあっちょる間に、わしが始めちょるから、お主の間者さぁ貸してくれぇ。」
なぜか頼もしさを感じる秀吉の申し出に、官兵衛は苦笑し、ゆっくりと指を二回鳴らす。すると先ほどの大男を含めて三人の男が官兵衛の足元に現れる。
「こやつらを使ってくれ。」
と云い残し、官兵衛は一人で御座所へ戻っていく。
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