となりの霊子さん

レモン飴

文字の大きさ
上 下
1 / 5

1

しおりを挟む
 その日、私は会社を辞めた。

 梅雨が始まる少し前の、若い緑と水の匂いがする季節。

 こういう季節は、慣れない社会人生活になんとか耐えていた人たちの心には優し過ぎて、疲れてしまった心は、まるで柔らかい食べ物のように、あっさりと潰れてしまったりする。

 五月病と言われるその病は、入社2年目の私の心の中でもひっそりと育っていて、1年遅れて顔を出して来ることになった。

 以前から、的になる体質のようなところはあった。

 しかし、怒鳴られることにびくびくしながら仕事をすることは本当にしんどい。

 勿論、私が仕事のことをよく分かっておらず、ミスばかりするせいなのだということは分かっている。

 けれど、そんな状況を自分ではどうにも出来ないまま、被害妄想ばかりが心の中に溜まっていった。

 そんなある時、プツッと、糸が切れてしまったのだった。

「君はねえ、協調性が無さ過ぎるんじゃないの?」

 その上司は、いかにも迷惑そうな顔をして、私を責めた。

 退職後に送られて来る予定の書類の事なども説明されたような気がするのに、私の耳には入って来なかった。

「すみません」
「お世話になりました」
「失礼します」

 なんとかそれだけを言い残して、私は逃げるように、職場だった会社の一室を出た。

 デスクを片付けている間も、言葉を掛けてくれる人は1人もいなかった。

 そういう場所だったから、1秒でも早く、逃げ出したかった。

 まだ、世間の大人たちの大半は仕事をしている時間だというのに、フラフラと会社の外に出ると、日中の太陽の光に目が眩んだ。

「何やってるんだろう?私」

 おかしいな、もう会社は辞めていて、嫌だった人たちとは顔を合わせなくても良くなった筈なのに。

 私は、少しも気持ちが軽くならないばかりか、不安と焦りを感じていた。

 一人暮らしを始めてから、1年と少し。

 会社を辞めたはいいけれど、同時に無職になった。

 自分の心の崩壊からはどうにか逃れることが出来た気がするけれど、生活スキルに乏しい私には、大した蓄えなどあるわけも無く。

 かと言って、親の心配と反対を押し切って始めた一人暮らしを放棄して実家に帰る選択肢は選びたくない。

 これから夏がやって来て、電気代も高くつくというのに、どうやって生きて行こうか・・・。

 良い方に考えられないのは疲れているせいだと思う事にして歩き出した、その時だった。

 その声の主は、元気いっぱいに、私に声をかけた。

「あら、やっぱり優子ちゃんだ。珍しいね、今帰り?」

 私の私情など知る筈がないのだから、仕方がない。

 その人は、私より少し背が高く、化粧の映える顔立ちの、スラっとした女性で、Tシャツとジーンズにサンダルというシンプルな服装でもカッコ良く見えてしまう人だった。

 なんて羨ましいことだろうか。

 こういう人を目の前にしたら、地味な私は、自分を惨めに思わないように、全力でプラス思考をしなけらばならない。

 しかし、私はどうしてだか、その人に見覚えがあるのか無いのか、よくわからなかった。

 その人は私の名前を知っていると言うのに。

「・・・えーと、何処かでお会いしましたっけ・・・?」

 おそるおそる訊ねると、その人は笑った。

「嫌だなあ、隣りの家に住んでる人の事忘れるなんて、何かの冗談なの?」

 この辺りは、大通りから道を少し中に入れば、すぐに民家が現れるような場所。

 私が住んでいるところは、元職場から歩いてすぐの位置にある古いアパートの2階だ。

 実家を出るために少し遠いところにある就職先を選んで何ヶ所か面接を受けたうちの1つが元職場で、急いで探した部屋がそのアパートだった。

 古いけれども元職場に近く、とても助かっていた。

 そのアパートの隣りには、これまた古い平屋がある。

 そういえば、出勤するために部屋を出てその平屋の前を通ると、なぜだかいつも、新聞を取りに出て来る平屋の住人とタイミングが合ってしまい、急いで作った笑顔で挨拶をしていた。

 もしかして、この女の人が平屋の住人っていう・・・。

「あの・・・、朝に挨拶をしてくださる・・・?」

 そういえば、引っ越したての時にたまたま声を掛けられて、ゴミステーションの場所なんかを教えてもらったような。

 名前は、その時に聞かれたのだったかも知れない。

 私は、込み上げてくる恥ずかしさで、顔から火が出る思いだった。

「忘れられてなくて良かった。私は隣りの家の令子だよ。良ければ、一緒に帰らない?」

「え?・・・はい、そうですね」

 並んで歩いてみると、令子さんと自分を比べて、だんだん落ち込んでくる私が居た。

 もし私が、令子さんのようにゆるくカールした髪で、鼻筋が通っていて、涼しげな目元だったなら、私の人生は今とは違っていただろうか?

 などとひがみつつ、昔から友達ができなくて悩んできた私にも偶然見かけただけで声を掛けてくれる人がいた事に驚いて、そして、安心した。

「ところで、まだ午前中なのに、こんなに早く帰るなんて、何かあった?もしかして、調子悪い?」

「・・・えーと、何をどこまで話していいのか・・・とりあえず、調子は悪くないので大丈夫です」

 私は、話を濁そうとした。

 そして、何ならこのまま話をしないでアパートに着けばいいとさえ思っていた。

 余計な事まで話してしまってはいけないし、それに、そもそも私は、人と話すことが苦手だった。

「うーん・・・体調が大丈夫なら、私の家で話そうか。隣りだし、ちょっと話し込んでしまってもすぐ帰れるよ」

 令子さんは、「お姉さんにいろいろ話してくれてもいいんだよ?言いふらしたりしないからさ」と言って笑った。

「いやあ・・・でも・・・突然上がらせてもらう訳には・・・」

 隣の家に住んでいるというだけで、ほとんど知らない人の家に上がらせてもらう訳にはいかない。

「まあまあ、一人暮らしだから、気にしないでいいよ」

 令子さんはそう言ってくれるけれど、私は断りたい。

 そして、断れないまま、私たちは令子さんの家の前まで歩いて来てしまった。

 令子さんの住む家はとても古い平屋で、コンパクトな敷地に建てられている。

 ペンキがところどころ剥がれた外壁に、色褪せた瓦、あまり見かけないデザインのすりガラス。

 いろいろな部分に年月を感じるその建物のことを、令子さんはこう表現する。

「この家、ボロ過ぎて引くでしょう?自分でも引くよ。けど、住めるならよし」

 そして、「まあ、上がってよ、何も無いけど、スペースだけは空いてるから」と、玄関の鍵を開けてくれる。

 カラカラと、懐かしい音をさせて、玄関の引き戸が開いた。

 私は結局、断ることが出来なかった。





しおりを挟む

処理中です...