ちゃぶ台の向こう側

仙道 神明

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七品目 コロッケ

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「合唱コンクールの曲、決まったぞー」

昼休みの教室に、担任の声が響いた。

「我がクラスは、『翼をください』だ」

一斉に歓声とため息が混じる。
その中で、澪は少しだけ肩をすくめた。
歌うのは嫌いじゃない。けれど、大勢の前で声を出すのは苦手だった。

隣の席の昭一が、軽く笑いながら覗き込む。

「この曲、うちの母ちゃん、家事しながら良く歌ってる」

「へぇ……」

冗談めかして言う声に、思わず澪も笑った。
そんな笑い声が、ほんの少しだけ、梅雨前の重たい空気をやわらげた。

⸻数日後の放課後。

音楽室に響くピアノ伴奏の音。クラス全員が並び、真剣に歌っている。
でも、澪の声は、自分でも聞こえないほど小さかった。

「もっと前向いてー!」

音楽の先生の声が飛ぶ。澪は思わず俯く。
歌声を出すことが、こんなに怖いなんて。

帰り道。

昭一と澪が歩いていると、後ろから良子が声をかけてきた。

「澪ちゃん、聞いたよ! 今からさ、一緒に練習しよ!」

「練習って、どうやって……?」

「決まってるじゃん!」

良子がニッと笑う。



駅前のカラオケBOX。

入った瞬間、昭一が思わず言った。

「うわっ、なんか懐かしい匂いする」

「来たことあるの?」

「家族で昔、よく来たんだ」

良子はリモコンを構え、テンション高く叫んだ。

「まずは私から! 中森明菜の
『飾りじゃないのよ涙は』!」

「知らない……」と澪が小さく呟く。

「うそ、知らないの!? 名曲だよ、名曲!」

画面に流れる昭和の映像。カラオケBOXの照明が、歌に合わせて淡く点滅する。

昭一がタンバリンを叩きながら笑う。

「母ちゃんもこれ歌うんだ、家事しながら」

「……お母さん、楽しそうだね」

「うん。あの人、歌うときだけ若返るんだ」

澪はその言葉に、少し胸が温かくなった。

次は昭一の番。

彼が選んだのは、チェッカーズの
『星屑のステージ』。
歌い出した昭一の声は、意外とまっすぐで、どこか優しかった。

良子が拍手をしながら笑う。

「昭一、下手じゃない!」

「おい、褒め方おかしいだろ」

澪はマイクを見つめながら、思わず呟いた。

「知らない曲ばかりだけど……何か楽しい」

良子がすかさず差し出す。

「じゃあ、澪ちゃんの番!」

「え、でも……」

「ほら、これ。合唱の曲、入ってるよ」

画面には「翼をください」。

澪は少し迷い、そしてマイクを握った。

最初の音が流れる。声が震えた。でも、途中で気づいた。
昭一が、良子が、ちゃんと聴いてくれている。それだけで、不思議と声が出た。

♫ 今、私の願いごとが かなうならば——

終わったあと、部屋に一瞬の静寂。
昭一がぽつりと呟く。

「……すげぇ、いい声だな」

澪は頬を赤らめ、うつむく。けれど、その顔には、確かな笑みがあった。

⸻合唱祭当日。

体育館に生徒たちのざわめきと湿った風が流れる。
澪のクラスが舞台に上がると、ライトの眩しさに一瞬目を細めた。

それでも、前を向いた。

ピアノが始まる。声が重なる。
澪は、自分の声がみんなの中に溶けていくのを感じた。

――あぁ、歌うって、こんなに気持ちいいんだ。

歌い終わった瞬間、拍手が広がっていた。



合唱祭の熱気がまだ残る夕方。
体育館を出たあと、昭一が小さく笑った。

「なあ、今日の打ち上げってことでさ……晩メシ、うちで食ってけよ」

「えっ、でも――」

「母ちゃん、コロッケ揚げてる。いつもより多めに、な」

その言葉に、澪はふっと表情をゆるめた。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」



ちゃぶ台の上には、湯気を立てるコロッケの山。じゃがいもの甘い匂いが部屋いっぱいに広がる。

母ちゃんが得意げに言う。

「今日はね、合唱祭おつかれパーティー! ほら、揚げたて食べて!」

良子がハフハフ言いながら頬張る。

「ん~~! やっぱ母ちゃんのコロッケがいちばん!」

昭一は箸を動かしながら澪を見る。

「本番、すげぇよかったな。声、ちゃんと届いてた」

「……ありがと」

澪は少し照れながらも、笑みをこぼす。

父ちゃんが新聞をたたんで言った。

「歌ってのは不思議だよな。その人の声が、心に届く」

その言葉に、みんなが一瞬だけ黙る。
でも、重くならない。

母ちゃんが明るく声を上げた。

「はい、食後のコーヒーね」

良子が小さくため息をつく。

「……また湯呑みなんだ」

「いいじゃん、味は変わらないんだから!」

みんなが笑う。

ちゃぶ台の上、湯呑みに注がれたコーヒーの香りが、ゆっくりと部屋に広がる。

澪はその湯気を見つめながら、思う。

――この家のあたたかさは、どんな器に入れても、ちゃんと伝わる。

雨音が止んだ夜。澪の心には、まだ歌の余韻が流れていた。
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