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漢字一文字タイトルシリーズ №7 「碧」
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瑞々しいサンショウの葉が生い茂る山の麓に、私が施設長を務める児童養護施設が在る。今回はここで生活を送る小学6年生の少年について語りたい。
少年の名は樹(たつき)。樹は2歳の頃に母親を病気で亡くし、小学校に入学するまでは父の手一つで育った。この時点で御分かりの方もいるが、父親も既に亡くした。彼の父はいわゆる庭師として、とある邸宅に出入りしていたが、その邸宅の主である大学教授夫妻と中学1年生の娘が、強盗殺人犯によって殺害された。さらに関係者として樹の父が、同一犯によって手を掛けられた。この凶悪犯曰く、大学教授一家は金を持っていると見えたこと、その上樹の父に顔を知られたことが犯行の理由だったらしい。これといった身寄りのない樹は警察で緊急保護。児童相談所を経て、当所で預かることになった。
入所当初からであるが全く喜怒哀楽を顔に出さない。いわばニヒルである。例えばテレビ番組でお笑い芸人が、漫才を展開しても口が緩むことがなく、真一文字に閉ざしたまま。開所当時から食事を作ってくれた84歳の高齢の女性が亡くなった際でさえ、涙一つ流さなかった。確かに短い期間において、親愛なる人たちが連続的に樹の目前から、消えてしまったから表情を見せるのは、本人にとって至難の業であろう。
さらに樹のニヒル化が顕著となった出来事が発生した。当所から約300メートル離れた河原にキャンプ場が設営されている。学校が夏季休暇に入ったころ、そこで児童たちを連れてデイキャンプを行った。共に生活する児童の年齢層の幅が広く最年長は18歳で、最年少は6歳の女の子である。この女の子は「わかば」と言い、例の大学教授一家殺人事件の被害者一家の実子で、犯人に気付かれずたった一人で生き残った子である。私は樹にわかばとともに行動する様、指示を与えた。ところが樹は山深くわかばを連れて行き、サンショウの木々が聳え立つ森林に置いてけ堀にしてしまった。予め樹の動向を監視するため職員が、悟られない様に二人を追尾していた。運良くわかばの発見が早かったものの、ただでさえ知らない場所に連れていかれ、その顔は恐怖で、歪み涙で埋もれていた。私は何とか感情を押し殺して、樹の行いをしたためたが、追尾していた職員は自衛官上がりで気も短く、「従軍免脱の罰だ!」と称して怒りの鉄拳を振り下ろした。樹は歯を食い縛っていたものの、痛みに耐えていたのか目尻を吊り上げていた。さすがにこの職員を翌日付で懲戒免職ではなく、今後の生計を考慮して依願退職として処分した。
それにしても樹が山林に入ったのは、決して奇行ではなかった。そもそも懇意にしてもらった大学教授が昆虫学の権威であり、娘も将来父の後を継ぐ予定だった。娘の名は「碧(みどり)」。樹にとって碧は母親代わりだった。樹の身の回りのことは勿論のこと、特に蝶類の知識を彼女から伝授されていた。私は後日、樹からわかばを置いてけ堀にした件について尋ねたが、日頃から科目を貫き通しているため、紙と鉛筆を渡して理由を記述させた。すると、
「碧ちゃんに会わせたかった」
確かにサンショウの生い茂る環境下においては、アゲハチョウの類が産卵のために飛来してもおかしくはなかった。如何にも彼らしい答えではあるが、果たしてわかばが「碧」と「アゲハチョウ」の認識が点と線で結びつくか、些か難しい。ただ最もは樹が人間らしい表情を出せるかだ。
8月が終わりに迫ってきた頃、樹とわかばの別れの時が来た。門前に白くて大きな乗用車が止まっていた。わかばはマレーシアに在住する日本人貿易商の夫婦に、引き取られることとなった。ちなみに奥様は不妊治療を何度か試みたものの、残念ながら子宝には恵まれなかった。私や職員は勿論、児童も門前に立ちわかばを見送っていた。しかし、樹の姿はなかった。「またしてもか」と思いつつ、わかばは夫婦にエスコートされ後部座席に座った。エンジンがかかり車が動き始めた矢先、人の輪を割って樹が飛び出した。車が走り出すと、追うことはしなかった。ただ樹の目から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。別れが惜しいのか、自らの行いを悔恨しているのか、涙の訳はどうでもよかった。樹が初めて心から自然に人間らしい気持ちを、表に出してくれただけでも、私は嬉しかった。さらに泣きじゃくる樹に対して、
「わかばちゃんが、手紙出すからと言っていたよ。必ず返事を出すんだぞ。約束できるか?」
と訊くと、激しく頷いた。
そしてわかばの車を追う様に、緑色の大きな翅のアゲハチョウが、緩やかに空を切って駆け抜けていった。
少年の名は樹(たつき)。樹は2歳の頃に母親を病気で亡くし、小学校に入学するまでは父の手一つで育った。この時点で御分かりの方もいるが、父親も既に亡くした。彼の父はいわゆる庭師として、とある邸宅に出入りしていたが、その邸宅の主である大学教授夫妻と中学1年生の娘が、強盗殺人犯によって殺害された。さらに関係者として樹の父が、同一犯によって手を掛けられた。この凶悪犯曰く、大学教授一家は金を持っていると見えたこと、その上樹の父に顔を知られたことが犯行の理由だったらしい。これといった身寄りのない樹は警察で緊急保護。児童相談所を経て、当所で預かることになった。
入所当初からであるが全く喜怒哀楽を顔に出さない。いわばニヒルである。例えばテレビ番組でお笑い芸人が、漫才を展開しても口が緩むことがなく、真一文字に閉ざしたまま。開所当時から食事を作ってくれた84歳の高齢の女性が亡くなった際でさえ、涙一つ流さなかった。確かに短い期間において、親愛なる人たちが連続的に樹の目前から、消えてしまったから表情を見せるのは、本人にとって至難の業であろう。
さらに樹のニヒル化が顕著となった出来事が発生した。当所から約300メートル離れた河原にキャンプ場が設営されている。学校が夏季休暇に入ったころ、そこで児童たちを連れてデイキャンプを行った。共に生活する児童の年齢層の幅が広く最年長は18歳で、最年少は6歳の女の子である。この女の子は「わかば」と言い、例の大学教授一家殺人事件の被害者一家の実子で、犯人に気付かれずたった一人で生き残った子である。私は樹にわかばとともに行動する様、指示を与えた。ところが樹は山深くわかばを連れて行き、サンショウの木々が聳え立つ森林に置いてけ堀にしてしまった。予め樹の動向を監視するため職員が、悟られない様に二人を追尾していた。運良くわかばの発見が早かったものの、ただでさえ知らない場所に連れていかれ、その顔は恐怖で、歪み涙で埋もれていた。私は何とか感情を押し殺して、樹の行いをしたためたが、追尾していた職員は自衛官上がりで気も短く、「従軍免脱の罰だ!」と称して怒りの鉄拳を振り下ろした。樹は歯を食い縛っていたものの、痛みに耐えていたのか目尻を吊り上げていた。さすがにこの職員を翌日付で懲戒免職ではなく、今後の生計を考慮して依願退職として処分した。
それにしても樹が山林に入ったのは、決して奇行ではなかった。そもそも懇意にしてもらった大学教授が昆虫学の権威であり、娘も将来父の後を継ぐ予定だった。娘の名は「碧(みどり)」。樹にとって碧は母親代わりだった。樹の身の回りのことは勿論のこと、特に蝶類の知識を彼女から伝授されていた。私は後日、樹からわかばを置いてけ堀にした件について尋ねたが、日頃から科目を貫き通しているため、紙と鉛筆を渡して理由を記述させた。すると、
「碧ちゃんに会わせたかった」
確かにサンショウの生い茂る環境下においては、アゲハチョウの類が産卵のために飛来してもおかしくはなかった。如何にも彼らしい答えではあるが、果たしてわかばが「碧」と「アゲハチョウ」の認識が点と線で結びつくか、些か難しい。ただ最もは樹が人間らしい表情を出せるかだ。
8月が終わりに迫ってきた頃、樹とわかばの別れの時が来た。門前に白くて大きな乗用車が止まっていた。わかばはマレーシアに在住する日本人貿易商の夫婦に、引き取られることとなった。ちなみに奥様は不妊治療を何度か試みたものの、残念ながら子宝には恵まれなかった。私や職員は勿論、児童も門前に立ちわかばを見送っていた。しかし、樹の姿はなかった。「またしてもか」と思いつつ、わかばは夫婦にエスコートされ後部座席に座った。エンジンがかかり車が動き始めた矢先、人の輪を割って樹が飛び出した。車が走り出すと、追うことはしなかった。ただ樹の目から涙が溢れ、頬を伝って流れ落ちた。別れが惜しいのか、自らの行いを悔恨しているのか、涙の訳はどうでもよかった。樹が初めて心から自然に人間らしい気持ちを、表に出してくれただけでも、私は嬉しかった。さらに泣きじゃくる樹に対して、
「わかばちゃんが、手紙出すからと言っていたよ。必ず返事を出すんだぞ。約束できるか?」
と訊くと、激しく頷いた。
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