井戸の底

八田若忠

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井戸の底

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 季節は夏を迎え、これから寝苦しい夜を何度迎えるのかと、皆一様にうんざりとした雰囲気が漂う夏の初め、蛙達が消魂しい声で泣き喚き、飯に細かい虫が混じり始めるこの季節に、暑気払いのつもりで集まった宴の席で、村の濁酒造りの名人が各家から持ち寄ったなけなしの米を使って醸した濁酒が悪かったのだろう。

 否、濁酒に罪は無い、悪いのは定吉である。

 米を酒に醸すのは年に一度か二度の贅沢であるが故に、集まった全員が全員飲み付けない下戸揃いであった。

 下戸が無理して飲み付けない酒を呑んだ結果、定吉以外は全員潰れてしまい、大きな鼾をかいて寝てしまったのだ。

 贅沢品を目の前に、定吉の元来卑しい性格がむっくりと起き上がる。

「お前さんらが呑まんのなら、後は儂が片付けといてやろうかの? 儂はいつも尻拭いばかりじゃて」

 ぶつぶつと不満を述べる口上とは裏腹に、満面の笑みを携えながら猪口を口に運ぶ調子が乗って来る。

 早々に潰れた面々を尻目に、定吉は用意された徳利を次々に寝かせて行く。

 全ての徳利をごろりと転がした頃には、流石の定吉も顔を真っ赤に染め上げて、足下も覚束ない程に出来上がっていた。

 濁酒名人の造る酒は酒精は弱いが口当たりが良く、我を忘れて飲み続けると翌日に腰を抜かすと評判であり、定吉は翌日の野良仕事を思い少し酔いを覚まそうと、千鳥足で村の井戸へと鼻歌交じりで向かって行く。

 村の井戸は霊峰六郷山の頂に冠する雪が、長い年月を経て地下水脈に流れ込み、真夏の暑い盛りにも、目の覚める様な冷水を恵んで頂ける村唯一の自慢の井戸水である。

 定吉は釣瓶を握り込み、「ほいや」の掛け声で投げ込んだ。



 たっしいん。



 夜の静けさの助けのせいか、釣瓶が水面を打つ音が心地よく響く。

 ぐいこぐいこと釣瓶を引き寄せて、がぶりがぶりと水を飲む。

「一つ飲んだらぁ、しゃっきりとお……」

 再度釣瓶を放り込む。



 たっしいん



「二つ飲んではぁ……」

 野良仕事で歌う節を口ずさみ、上機嫌で身体を揺すりながら釣瓶を引き上げる定吉。

 釣瓶に口を付け、がぶりがぶりと飲んではいるが、大方の水は定吉の身体を伝って地面を濡らして行き、良く踏み締められた土を緩めて行った。

 滑り着く草履とふらつく足が、定吉に無様な踊りを舞わせた拍子に腰程の高さで組んだ石組みの井筒をくるりと乗り越えさせる。

「ひゃあ!」

 冷水を浴びる様に飲み込み、酔いも程よく覚めて来ている定吉に、真っ逆さまに井戸へと落ちる風景は、恐怖と後悔を思い至るに充分な程に肝を冷やす出来事だった。

 井戸壁にごちんごちんと身体を強かに打ちつけて、水面にざぶりと飛び込んだ定吉は、水の冷たさに呼吸が一瞬止まる。

「ひゃっふ……ひゃっふ」

 水位は定吉のへそ程の高さであるが、三間はある井戸の底から見上げる星空は、定吉を絶望のどん底に突き落とした。

 当に冷水を浴びせかけられた定吉は瞬く間に素面に戻り、弱々しい声で仲間を呼んだ。

「おうい、おうい……」

 年間を通し常に雪解け水が湧き出る井戸の底は、夏にも関わらず骨の髄まで底冷えする寒さで、定吉の歯の根が合わない小さな叫び声では、酒に潰れた男達の鼾を消す事など到底無理に思えた。

 井筒の向こうに小さく見える星灯を頼りに、周りの様子を伺って見ると薄っすらと桶らしき物が水面に浮かんでいるのが見て取れる。

「釣瓶か?」

 水を汲む為に使う縄付の桶が、水面にぶかりぷかりと浮かんでいたので、定吉は慌ててそれを掴むと縄を手繰り寄せる。

「縄さえ有れば!」

 井戸の底で光明を得た定吉は、縄の強度を測る為にぐいぐいと強めに縄を引く。

「あ痛! 痛じゃあ……いてじゃあ……」

 井戸に転げ落ちた際にあちこちを強かに打ちつけて、あっちを捻り、こっちを打つけ、満足に力が入らない。

 縄を手繰って上まで登る事を諦めて、責めて溺れぬ為にと縄をきっちりと握り締め、おいおいと定吉は泣き出した。

 刻はまだ宵の口、朝餉の支度に女房衆が井戸を覗くにはまだまだ時間はかかるだろう。
 これから起こる惨劇を思い、定吉は悲しくて悔しくて我慢がならなかった。


「何を泣いていると井守は問う」


 そう広くは無い井戸の底で、嗄れ声が定吉の耳元で囁いた。

「ひぃ……」

 定吉は恐ろしさの余り手に持った釣瓶を振り回し、引き攣った悲鳴を漏らす。


「何を恐れると井守は問う」


 定吉が再度話しかけられ、ゆっくりと辺りを見回すと、井戸壁にぺたりと張り付くイモリが薄ぼんやりと白く光っていた。

「お前様が喋ったのかえ?」

 定吉が白いイモリの傍に手を置いて語りかけると、掌よりも一回り小さいイモリがちろちろと壁を走った。

「如何にもと井守は肯んずる」

 何故泣くとイモリ相手に相談してもこの状況を打破するには、こんな小さなイモリでは何の力にも成らないと、定吉はぐっと黙り込んだ。

「我は井を守る御役目を仰せつかった神の使いぞ」

 元々信心深い方では無い定吉も、神の使いと聞いてはこれぞ天の助けとなりふり構わず縋り付く。

「助けて欲しいですじゃ! うっかり上から落ちてしまい、このままじゃあ凍え死んでしまいますじゃ!」

 ぱんぱんと柏手を打ち、米搗飛蝗の様に頭を下げて白いイモリに縋り付く。

「願いを叶えると井守は肯んずる」

 イモリの身体が一際白く輝いて、辺りを照らし出す。

「ありがとですじゃ、ありがとうですじゃ」

 定吉は涙ながらに頭を下げて、無駄に柏手を打ち鳴らす。

「では、上に参ろうかと井守は促す」

 ちろちろと壁を渡り、定吉の目の前に移動するイモリ。

「右足をこう、左足をこう、そして力を貯めて右手を……」

「井守様」

「如何にも我は井守也」

 定吉の呼び掛けにイモリは振り向く。

「儂には井守様の様に壁を渡る事は無理ですじゃ、壁を伝い歩くのは神様の御使様にしか出来ん御技ですじゃ」

「如何にも井守は神の使いと肯んずる」

「例えばこう……非力で矮小な人間を大きな井守様の力で……」

 途端に定吉の身体は壁に押し付けられ、身動きが封じられて視界が真っ白になる。

「井守は矮小な人間よりも大きくなると肯んずる」

「井守様? 井守様? この狭い穴の中で張り切って大きく成られても、全く見えませぬ。せめてその御姿を穴の外で見せて下さいませぬか?」

 ぬるぬるとする大きなイモリに、身体の自由を奪われながらも、ぎゅうぎゅう詰めの穴の中で定吉は必死に知恵を巡らせる。

「如何にも井守は外でこそその御姿を輝かせる」

 ぬるりと定吉の身体が自由を取り戻すと、するするとイモリは井筒まで伝い登ると、井戸の縁で立ち上がり釣瓶の滑車に手を掛けた。

「立ち姿、見せる井守が、照れ隠し」

「誰も川柳を捻って欲しいとは言っておりません井守様」

 定吉は一間はあろう巨大なイモリが、井戸端で首を傾げるのを見て歯噛みする。

「ああ! そうだ、井守様! そのまま長くて美しい尻尾をこちらに垂らして頂けませぬか? 是非その美しい尻尾に肖りたいのです!」

 巨大なイモリはぱかりと口を開け、驚きの表情を見せた後にもじもじと指を組み始める。

「そう言うのはいいので、早く……早く尻尾を……」

 戸惑いながらもそろりと垂らす尻尾に、定吉は力の限り抱き付いた。寒さでカチカチと鳴る歯と止まらない身体の震えから、体力の限界に近付いている事が定吉にも解った。

 一瞬力の奔流が尻尾を伝わり、歯を食い縛る定吉を井戸壁に叩きつける。

 ばたばたと暴れる尻尾を押さえ込む様に、がっしりとしがみ付いていると井戸の上からイモリが心配そうに覗いていた。

 定吉は暴れる尻尾から手を放し、井戸の中からイモリを見上げた。

「井守様、尻尾を切るのはイモリではなく、ヤモリで御座います」

 定吉の指摘に井戸の上のイモリは、ぱかりと口を開けて本気で驚いた様に目を見開いた。

「井守様、儂は本当に限界です……お願いです。助けて下さい」

 がくがくと足は震え、顔面は蒼ざめて、指は蝋細工の様に
白くなった定吉は、井戸の上にいるイモリに向かい手を合わせて拝み始めた。

 ざぼんと音を立てて、大きなイモリが井戸の底に舞い降りて、定吉の耳元で囁いた。

「井守の仕事は井戸を守る事、毒虫の死骸や塵などを喰らうが生業、御前も死ねば塵と成ろう。死ねば御前を喰らう事が出来る。井守は仕事を全う出来ると考えた」

 イモリはけくけくと顎を開き、大笑いをしているらしかった。

「井守様は井を守るのがお仕事、なれば、儂も限界ですじゃ、この寒さでもう我慢も出来ん、井戸を汚すは禁忌と知れど、死んで詫びを入れるしか無いだろて、井戸の守り手に喰わるるならば、この身は神に捧げられん」

 定吉の顔がふわりと弛緩して、井守の顔が大きく歪む。

「もう無理じゃて……」

 定吉の身体がふわりと浮いて、寝返りをうつようにごろりと転がった瞬間、じょろりじょろりと股座から小便が滲み出し、青い空の下で女房衆の悲鳴が上がった。



 女房衆の言い分では、酒に酔った定吉が井戸端で鼾をかいて寝ており、寝返りをうつと同時に小便を垂れ流した。との事、大きなイモリ等は何処にもおらず。酒に呑まれた定吉が井戸端で寝小便を垂れただけの事件となった。



 定吉が炎天下の下、井戸端の土の入れ替えを一人で行っている。井戸端を汚した罰として科せられた土の入れ替えだが、誰もが嫌がる重労働である為に握り飯程度の差し入れは受け取れる。入れ替えたばかりの土の上でどっかりと座り込み、差し入れの握り飯を頬張りながら、井戸の底で毒虫や塵屑を喰らう神の御使に思いを巡らせた。

「偶には美味いもんでも喰らうて下さい」

 柏手を打ち、米粒一つを井戸に放り込む。

 目を瞑りながら拝む定吉の足下を、ちろちろと白いイモリが走り去り、井戸の中に飛び込んだ。


 たっしぃん……
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