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第三幕
第15話【追躡する闇】
しおりを挟む──重い。誰かにのしかかられている。痛い。絶え間なく、体の奥底に触れられている。うるさい。大勢の男の声がする。
嗚呼、喉がカラカラだ。水が飲みたい。
視界がぼやけて、はっきり見えない。体にまったく力が入らない。声も出ない。手足の感覚もなくなってきた。
みょうに寒い。急に静かになった。さっきまでの重さも、痛みも感じない。
ここはどこだ? 俺は何をされていた?
わからない。
目も耳も覚束無いうえに、次々と状況が飛んでいく。
ぼんやりした橙色の灯りが、かろうじて見える。行灯だろうか。どうやら薄暗い部屋に横たわっているらしい。
ずずり、ずずり、と音がする。濡れた頭陀袋を引きずるような音だ。この音を、俺は知っている。それが近づいてくるにつれ、酷く厭な気分になる。恐怖とも畏怖とも違う、虞。見たくない、知りたくないという自己防衛本能だ。
ぼやける視界に影が落ちる。呻くような呟きが降ってくる。繰り返し何か言っている。
『…………せよ……』
ずしり、と腹に重みがかかって臓腑が押しつぶされる。苦しい。
よく聞こえないが、俺に跨った男が同じ言葉を呟いている。
『……いせよ……愛せよ……』
愛せよ……。俺はその言葉を、幾度となく聞いてきた。長い間、それだけを言われ続けてきた。俺はこの状況、この光景を知っている。
厭だ。見たくない、聞きたくない。思い出したくない。
男が腕を振りかぶる。霞む視界の中で、何かが行灯の灯りを反射し、冱え冱えと光った。吐き気に似た悪寒とともに、なぜか強い安堵感が沸き起こる。その矛盾に、頭はますます混乱する。
『……赦して……くれ…………エンマ…………』
男は掠れた声で呟くと、勢い良く腕を振り下ろした────
と、そこで夕立は目を覚ました。荒い呼吸を繰り返す。汗でぐっしょり濡れた襦袢が背に張りついて、酷く不快だ。
既視感があり、異様なほど鮮明な夢だった。男が最後に呟いた言葉の意味は分からなかったが、己にとって途轍もなく重要なものだと直感していた。
酷い疲労を感じつつ体を起こし、額に手を当てて夢の言葉を反芻する。
「愛せよ……赦してくれ……エンマ……」
「くくっ……起き抜けに愛を乞いつつ懺悔するなど、みょうな真似をするようになったのう」
隣で書物に目を通していた閻魔が、にやりと笑って紫煙を吐いた。ここは白檀香に霞む閻魔の寝室、豪奢な天蓋付き寝具の上である。
「……ちげぇよ、懺悔なんてガラでもねぇ。最近、何度も見る夢で聞いたんだ。痛みも感触もやたらリアルで、見るたびに長く、鮮明になっていく気がする……」
閻魔はわずかに眉をひそめた。やはりかと内心、嘆息する。
夕立に起こっているのは心的外傷後ストレス障害、急性ストレス障害のひとつ、いわゆるフラッシュバックである。帝釈天に嬲られたことが引き金となり、夕立にとって最も陰惨な記憶が、夢という形で蘇っているのだ。
このような事態を予測していた閻魔は、あの日から毎晩、夕立を同衾させている。フラッシュバックは非常に生々しく、かつ鮮明に記憶を呼び起こすため、万が一、夕立がパニックを起こしても、即座に対処するためである。くわえて、過剰に高められた淫欲は、連日にわたる調整が必要だったのだ。
ふう、と溜め息とともに紫煙を吐き、閻魔は問うた。
「……して、どのような夢なのじゃ」
「まだ途切れ途切れなんだが……薄暗い部屋にぼんやりした灯り……。誰かにのしかかられる重さと体の痛み……それと、大勢の呻き声がしてうるさかった。そのうち急に静かになって、男が俺に跨って……何かぶつぶつ言ってたな」
「なんと言っておった?」
「さっきの言葉だ。〝愛せよ、赦してくれ、エンマ〟……くらいしか聞き取れなかった。覚えがある気はするんだが、今はまったく意味不明だ」
「……そうか」
閻魔はことりと煙管を置き、額を押さえる夕立を優しい手つきで抱き寄せた。汗で張り付く髪を梳いてやりながら虚空を睨む。
いつか、その生い立ちを夕立に伝えねばならないとは思っていたが、このような形で知らせるのは、あまりに精神負荷が大き過ぎる。すべての記憶が一気に蘇っては、例えどんな強者でも混乱をきたしてしまう。とはいえ、既に事態は動き出してしまった。長い時間をかけ、然るべき手順を踏むつもりでいたが、先日の件で台無しである。
しかし、肝心な部分はまだ奥底に眠っているはずだ。それだけは、何としても封じておかねばならない。そのためにも今しばらく、できる限り傍に置いておく必要があるのだ。
閻魔の指が頬を撫でると、夕立の体がふるりと揺れた。これもある種の後遺症である。長時間、解放を封じられていた欲は、反動でわずかな刺激にも容易く反応してしまう。閻魔は夕立の顎をすくい上げ、唇を触れ合わせながら囁いた。
「大丈夫じゃ、心配ない。どんなことがあろうと、わしがすべて受け止めてやる。なにも案ずる必要はないぞ、夕立」
「……すまねぇ……こんなていたらく……」
「そんな言葉は要らん。今は何も考えず、身を任せよ。ぬしはわしのものじゃ、誰がなんと言おうと手放さぬ。分かったな?」
「ああ……」
夕立は弱りきった表情で閻魔を見つめ、首を縦に振る。そのまま唇を重ね、角度を変えて幾度も口付け合った。普段より数倍、過敏な状態の夕立は、たったそれだけでぼんやりと瞳を蕩けさせている。閻魔の襦袢にすがりつき、荒く息を吐きながら甘い声を上げた。
「ぬしは必ずわしが守る。過去からも、未来からもな」
「ん……っ、信じてる……」
淫楽へ溺れる中で紡がれたひと言に、閻魔はただ困ったような笑みを浮かべるのだった。
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