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第七幕
第43話 【摔碗酒】
しおりを挟む十王省から戻った閻魔はまっすぐ自室へ向かい、灯りもつけずに酒を呷っていた。
ふう、と吐いた紫煙が消えると、そこにはいつの間にか羽衣石が立っている。眼鏡はしておらず、緑青の髪に隠れた目元は見えないが、悲愴な雰囲気が言葉よりも雄弁に胸中を語っていた。
ややあって、羽衣石はおずおずと口を開いた。
「……大丈夫、ですか……?」
問われた閻魔は再び深く紫煙を吐くと、虚空を見つめながら答えた。
「……うむ。案ずるな、ちと疲れただけじゃ」
「……もう、あまり時間が無いのですね……」
「ぬしには何でもお見通しか。まったく、大したやつじゃ。わしの見立てに狂いはないのう」
「……ええ……貴方はいつも、正しい判断をなさる……。間違うことなど、有り得ません……」
「くく……。有り得ぬ、か……」
自嘲的な笑みを漏らして盃を呷る閻魔に、羽衣石はかける言葉を失い、黙り込む。長い沈黙の後、ぽつりと閻魔が問うた。
「羽衣石よ」
「……はい……」
「此岸も彼岸も、不条理じゃと思わんか。心より慈しみ、愛で育ててきた唯一のものを、よりにもよって何故この手で壊さねばならん。あやつが何をしたと言うのじゃ。ただ生きることすら許されぬほどの業とは、いったい何なのじゃ」
「……それは……貴方が世の理を解し、秩序を保っているからです……。あの子の不幸は……より多く愛されたこと……。非凡なものに、平凡は寄り添わない……」
「嗚呼……厭じゃ、厭じゃ。どれほど心で否定しようと、大局では正しいと解ってしまう。なんとつまらん……呪われた性よ」
「……世の中の関節は、とうの昔に外れている……。結局、最後の仕上げは神がする……と、人の子も言っています……。現世も常世も、不平等こそ平等だから……」
「……反吐が出るわ……」
吐き捨てるように呟き、閻魔は目だけ羽衣石へ向けて話題を変えた。
「して、あやつはどこじゃ。まだ眠っておるのか?」
「……北殿に。先ごろ目を覚まし、真砂君がついています……」
「真砂か、ちと意外じゃったな。こんな時に陀津羅が離れておるとは思わなんだわ」
「……離れては、いません……。陀津羅君は……その……部屋の、外に……」
言い淀む羽衣石の様子に、真砂と夕立が何をしているのか容易に想像がついた。閻魔は額に手をやりながら嘆息する。
「やれやれ……真砂のやつめ、とうとう辛抱ならなんだか。しかし、こう拗れては、何から処せばよいか分からぬぞ」
「……概ね予想通り、と言えます……。僕は……陀津羅君がもっと取り乱す想定もしていましたが……かなり落ち着いているようです……」
「それはどうじゃろうなぁ。あやつは、言うなれば時限爆弾よ。ぬしらの予想もつかぬ時に爆発するやもしれんぞ」
「……確かにそうですが……それは、貴方が許さないでしょう……」
ふ、と閻魔は肯定とも否定ともつかない笑みを漏らした。
「まあ、陀津羅はともかく、真砂はぬしの予想通りに動いておるわけじゃ。ならば、わしは今しばらく休むとしよう。ぬしには引き続き、あやつらを頼むぞ」
「……承知しました……」
音もなく羽衣石が立ち去ると、閻魔は背もたれに体を預けて目を閉じる。これからなすべきことと起こりうる事象が淀みなく脳裏に浮かび、順序立てられていく。その冴えた思考の冷静と、やる方ない憤懣との矛盾が堪らなく不快で、閻魔は手にしていた盃を壁に叩きつけた。
◇
「永遠にこうして居られれば、どんなに幸せだろうなぁ……」
ひとしきり睦みあった後、真砂は夕立を腕に抱いてぽつりと零した。
「やめろよ、気色悪ぃ。何千人に言ってきた台詞か知らねぇが、俺には通用しねぇぞ」
「失礼な。お前の中じゃ俺のイメージ底辺みたいだけど、こんなこと言ったの初めてだからね。俺にだって、甘い余韻に浸りたい時くらいあるんだよ。まさに今がその時。生きてて良かった、まじで」
「あーそうかい。そりゃ何よりだな」
真砂の普段と変わらぬ軽口と陽気さに、鬱々とした気分が救われる心地がした。夕立は真砂の左腕をそっと指でなぞり、問う。
「腕、まだ治んねぇの? やっぱり俺の妖力じゃ、神の力には勝てねぇってことなのか」
「あー、いや、そう言うんじゃないさ。さっきのはただのセックス。妖気の補充はしてない」
「はあ?」
その言葉に、夕立は上半身を起こして真砂を睨みつけた。
「じゃあなにか? ひでぇ怪我してるくせに、治すどころか無駄に動いて回復遅らせただけだってのか? 馬鹿だ馬鹿だと思ってたが、ここまでの大馬鹿だったとはな。付き合いきれねぇ」
憤慨して立ち上がろうとした夕立を、背後から逞しい右腕が引き寄せ、抱きしめる。
「待てよ。心配してくれてんだよな、悪かった。怒らせる気はなかったんだよ」
「だったら何のつもりだ。俺は生きる努力をしないやつが大嫌いなんだよ。てめぇは影で頑張るやつだと思ってたが、とんだ勘違いだったぜ。見損なった、離せよ」
滅多にない饒舌に、いかに腹を立てているかがよく分かる。真砂はそんな夕立が愛おしく、優しい目と声で言った。
「なんだよ。やっぱり俺のこと、よく見てくれてるじゃん。お前の言う通り、俺は努力を見せたくないタイプなの。ただな、どんなに頑張ってもできないことはあるもんさ」
背後から響く深い声音に、夕立ははっとした。真砂の困ったような笑みを見て、予感は確信へ変わる。
「……やらなかったんじゃなくて、できなかったのか……。でも、なんでだ? 閻魔や五方神は普通にやってるぞ。お前くらい強けりゃ、そんなの簡単にできるはずだろ」
「んー、確かに俺はそこらのやつより強い。しかし神じゃない。いくら鬼神と言ったって鬼は鬼だ。弱肉強食の単純な話しさ。自分より格上の相手には、どうしたって敵わないんだよ」
「お前が俺より格下だぁ? そんなわけあるか」
「あるんだよ、お馬鹿さん。お前は自分を過小評価しすぎだ」
と、真砂は夕立の腹に回した腕に力を込め、強く抱きしめながら呟いた。
「……本当に弱けりゃ良かったのにな……」
その声があまりに痛切で、夕立は真意を問うことができなかった。
やがてするりと腕が離れていき、背に感じていた温みが消え失せる。それが今生の別れのような気がして、やけに寂しく感じた。
立ち上がって身繕いをしながら、真砂はいつものように明るい声を上げた。
「さて、そろそろ行くわ。ずっとお前を独り占めしてるわけにもいかんしな。いい加減、外で待ってる忠犬が可哀想になってきた」
「忠犬?」
真砂が扉を開くと、険しい表情の陀津羅が立っていた。
「……本当に不愉快な人ですね、貴方は」
「なんだよ、ちょっと待たせただけで怒りすぎだろ。名残惜しくってさ。あいつ、やっぱり最高だったぜ。お前も変な意地張らずに、素直にお願いしてみろよ」
「……下衆が」
二人は夕立に聞こえない程度の低い声で、そんなやり取りを交わす。意地の悪い笑みを浮かべる真砂を一瞥すると、陀津羅は夕立の元へ歩み寄った。彼らを二人きりにすることに若干の疑懼を覚えつつ、真砂は部屋を出ると後ろ手に扉を閉めた。
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