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第三十九話
一縷の望み
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小彩が斑鳩宮に旅立ってから何日過ぎただろうか。私は今日も甘樫丘に登り飛鳥の都を眺めている。ここ数日の冷え込みで一気に紅葉が進んだ山々が真っ赤に燃えているようで美しかった。
何度目の秋だろうと指を折りながら数える。記憶が正しければ四度目の秋だ。随分と長い間、飛鳥で過ごしている。もはや現代を生きていた自分の存在すらも疑わしい。
私は瑪瑙の髪飾りを袖の下から取り出した。実は難波津の海岸で林臣に石の裏に刻印を入れて欲しいと頼んでいたのだ。数日前にようやく仕上がった石が再び私のもとに返ってきた。熟練の彫刻師もこの細かい文字に苦戦を余儀なくされ大変な作業だったと、林臣が嫌味たらしく言ってきたので、私は睨みを効かせ彼を震え上がらせた。もちろん冗談だけど、こんなやりとりも幸せだった。
“Rinshin
&
Touka”
この刻印をお願いした時、林臣は眉をひそめ私と文字を交互に見つめては「このミミズの這ったような字はなんだ?」と聞いてきたが、説明するのも面倒だしそもそも理解などしてもらえないだろうから、「二人の愛を永遠に誓う文字よ、まぁおまじないみたいなものね」とだけ伝えた。彼は再び文字を見るとフンッと鼻をならし、けだるそうな顔をしながらも手にした瑪瑙の石を大切そうに袖の下にしまった。
あの時はアルファベットが分からない彼に対し妙な優越感に浸ったが、今は彼が一生この文字を読めないと思うと切なさが込み上げた。
私は刻まれた二人の名前を見つめた。
このまま時間が止まって欲しい…
私は髪飾りを耳の少し上につけると、近くにあった小さな切り株の上に座った。遠くに薄っすらと生駒山が見える。斑鳩宮はもう少し西だろうか?私はしばらくその光景を眺めたあと目を閉じた。
カサッカサッ、カサッ、、、
沈んだ心のせいか、誰かが近づく足音にも気が付かなかった。
「わっ!!」
「キャ―――」
突然聞こえた背後の大声に私は悲鳴を上げた。振り返り際に足元に置いておいた籠をひっくり返した。中から苦労して拾い集めた栗がボロボロと転げ出た。
「燈花、私だよ」
顔を上げて見ると、林臣がいたずらそうに笑っている。
「はぁ…林臣様脅かさないで!!」
妙に頭にきた私は思わず彼に向かい声を張り上げた。彼も予想外の私の反応に驚いたのか目を丸くさせポカンとしている。
「そんなに怒る事か?まさかそなたがそんなに驚くとは思ってなかった…」
彼が地面に転がった栗を拾いながら私の顔を覗き込んだ。寂し気な彼の瞳に思わず目をそらした。彼は何も悪くない…
「すまなかった」
林臣はそう言うと優しく私を抱きしめた。
「…いいえ、私が悪いのよごめんなさい。なんだか心の余裕がなくて…あなたの役に立てなくて辛いわ…」
自分の無力さに私は唇を噛みしめた。涙が頬を伝う。
「と、燈花どうしたのだ。最近のそなたはどうも様子がおかしいぞ、いつもこの丘に登っては斑鳩方面を眺めているだろう…まさか、山代王様が関係しているのか?」
「ち、違うわ…」
慌てた私が誤魔化すように言うと、林臣は冴えない顔をしプイッとそっぽを向いた。
小さなすれ違いはもうここから始まっていたのかもしれない…
数日後、ようやく小彩が斑鳩宮から戻ってきた。庭門の外に荷馬車が止まると体格の良い男達が数人降り、荷台から大きな袋の荷物を降ろし始めた。
男達の横で指を差しながら合図を出している小彩の姿があった。元気そうな彼女を見て安堵した私は急いで門へと向かった。私の呼び声に気がついた彼女は振り返ると笑顔で駆け寄ってきた。
「燈花様、ただいま戻りました」
今までの彼女とはどこか雰囲気が違う。久しぶりに会う彼女は美しく輝いていた。髪は綺麗に結い上げられ、小さな金の花があしらわれた簪で止められている。太陽の光に照らされたおしろいはキラキラと輝き、桜色の頬紅が血色の良さを際立させた。
「小彩、あなた随分と見違えたようだけど…」
私がしげしげと彼女を眺めて言うと、
「えぇ、そうなのです。このような身分不相応な格好をしてしまい、恥ずかしいです…」
小彩が、橙色の美しい絹の衣の袖で恥ずかしそうに顔を隠した。
「いいえ、とても美しいわ」
「ありがとうございます。もったいないお言葉です」
小彩は再び顔を赤らめ照れくさそうにうつむいた。
「あっ、それよりも長旅で疲れたでしょう?中に入って休んで、すぐにお茶をいれるから」
私が屋敷の中に入るように促すと、丁度庭門をくぐる林臣の姿が見えた。
「林臣様、ただいま戻りました」
近づく林臣に向かい小彩が頭を下げた。
「今帰ってきたのか?ご苦労だったな。ゆっくり休みなさい」
林臣はそう言うと私に目くばせし、帰ってきたよというように頷いた。私が小彩の手を取り屋敷の中に向かおうとすると、
「ところで徳多は戻ってきたか?」
林臣が突如足を止め振り返り小彩に尋ねた。
「はい、私共よりも数日早くに斑鳩宮を去りました」
「ふんっ…おかしいな。私のところに最初に報告にくる手はずだったが…燈花少し休んだらもう一度朝廷に行ってくる。帰りが遅くなるかもしれないから、私の事は待たなくても良いからな」
「えぇ、わかったわ」
林臣は顔を横に振ると屋敷の中へと入っていった。
「さ、小彩、部屋の中に入りましょう」
「はい。燈花様、百済の茶葉をもらってきたのです。とても芳醇で貴族しか飲むことができない高級なものだそうです」
小彩が嬉しそうにはしゃいだ。恋する乙女のようなテンションにつられ、私の心も一気に軽くなる。彼女の太陽のような明るさに助けられた私は、
「そうなの⁈では早速飲んでみましょう」
と大袈裟におどけてみせた。私達は顔を見合わせ笑いながら部屋へと戻った。
茶葉から上品な花の香りが漂っている。口に含んだ瞬間、ほのかな果実のような甘みとまろやかさが広がりため息をついた。
「わぁ、本当に美味しいわ。なんの茶葉かしら…香りが上品だけど独特ね」
「はい、斑鳩宮は百済から持ち込まれた食材や貴重な品が沢山あり本当に興味深いものでした」
小彩が興奮しながら言った。
「楽しかった?」
「はいそれは、それは、本当に幸せな日々で…あっ、ここでの生活が嫌とかそういう意味ではないのです…」
彼女は慌てて両手を振ると、きまりが悪そうにうつむいた。
「もちろん、わかっているわよ。その簪も使節団の方々から頂いたの?」
「あっ…これは…」
小彩は髪に挿さった簪に手を当てると口ごもった。
「これは、今回の同行のお礼にと頂きました…」
「そう、…その衣も?」
「はい…」
「…そう。よく似合っているわ」
私が言うと、小彩は顔を赤らめうつむいた後、再び顔を上げた。
「それと燈花様…また、近江皇子様のお屋敷の給仕の仕事を頼まれ、しばらくあちらのお屋敷に住みたいのですが構いませんか?」
小彩がこんな風に願い出てくるのは初めてだ。今まで自分の事など後回しだった彼女が、私に懇願している。きっと彼女の正直な心からの願いなのだろう。叶えてあげたい。私は彼女が安心するように大きく頷き答えた。
「もちろん大丈夫よ、猪手もよく手伝ってくれるし全く問題ないわ」
「良かった!ありがとうございます!本当に感謝いたします!」
小彩は両手を胸にあてながら小刻みに跳ね嬉しそうに微笑んだ。彼女の喜ぶ姿を見て心が温かくなった私は、気になっていた話を切り出した。
「それと…今回の斑鳩での話なんだけど…滞在中の出来事を何でもいいから話してくれない?」
「はい、私は宿の厨房でおもに働いていたので詳細はわかりませんが、他の給仕の人達から聞いたお話しでよければ、信憑性はわかりませんが…」
「それでも構わないから教えて頂戴」
彼女の好奇心が集めた情報量と記憶力に感謝だ。私は茶を注ぎ直すと彼女の前に深く腰掛けじっくりと話に耳を傾けた。どんな些細な事も聞き逃したくなかった。話を一通り聞き終えた私は、また思い出した事があれば、すぐに伝えて欲しいと彼女に告げ部屋を下がらせた。
一人になった部屋で再び思う。この運命を避けられないと分かってはいても、ひょっとしたら山代王と林臣の二人を救う方法があるかもしれない。せめて日本書紀で語られている二人の残酷な結末だけはなんとしても避けたい。
この夜、浅い眠りのせいか何度も何度も寝返りを打っては目が覚めた。暗い天井を見つめては林臣が隣に居ない事にため息をもらす。彼が自宅に帰らない日なんて頻繁にあるが、この晩私は妙に寂しくて切なくて、彼の寝顔を思い出しては胸を痛めた。
数日後、小彩は近江皇子の屋敷に向け再び出発した。彼女の乗った馬車を見送りながら胸がざわついていた。しばらく彼女と会えなくなるのが不安なのか、なぜか今生の別れのような気もして漠然とした不安に襲われた。
彼女が近江皇子と鎌足の側で仕える限り、何かの事件に巻き込まれる可能性がある。一抹の不安を覚えたが、彼女の強い願いを奪う事は出来ない。私は彼女が馬車に乗ったあとも、十分に気をつけるようにと、母親のようにくどいほど念を押し、馬車が見えなくなるまで門の横で見送った。
板蓋宮では、宝皇女のもとに軽皇子、近江皇子、鎌足、秦氏、豊浦大臣、林臣、古人皇子などの歴史に名を残すそうそうたるメンツが集まっていた。
「徳多から話は聞いた」
宝皇女はため息まじりにそう言うと豊浦大臣を横目で見て苦笑した。
「毛人とも話し合ったのだが、もう一度山代王の説得を試みようと思う。私がまだ健在なのだから時間をかけ説得にあたっても文句は言うまい。古人皇子もまだ年若いしな」
「しかし姉上、帝の座をかけて山代王様はいまにも宮廷に乗り込んできそうな勢いですが…」
軽皇子がすかさず口を挟んだ。
「ふんっ、大袈裟だな」
宝皇女が鼻で笑うと、
「いえ、軽皇子様のおっしゃるとおりです。山代王様は先帝の時に即位を見送っています。しかも茅渟王様を亡くされてから気性が荒くなり、最近はなおさら皇位をめぐる争いで気が立っておいでです。正直何をするか分かりません。強行的に帝の座を奪いに来る可能性も否定できませせん」
秦氏が深刻な眼差しで口を挟んだ。
「ではどうしろというのだ?私が永遠に帝に君臨すると宣言するか?」
「そうではありません…むしろこの機会に古人皇子様の即位を進めましょう」
「なに?そなた古人皇子の即位には反対だったのでは?」
「め、滅相もございません。次の帝は古人皇子様以外に考えられません。ただ、まだ皇子は年若く経験値や責任の重さを危惧しただけでございます。しかし帝や蘇我様の大きな後ろ盾がありますので心配不用だろうと考え直したのです…」
これを聞いた軽皇子、近江皇子、鎌足が一瞬顔色を変えじろりと秦氏を見た。豊浦大臣と林臣、古人皇子も不意を突かれたような怪訝な顔つきで彼を見た。
「ふ~ん、そうかどうやらそなたの考えを誤解していたようだ。毛人よどうしたものか?」
宝皇女が豊浦大臣を意味深な眼差しで見た。
「はい、帝がおっしゃったとおりまずはもう少し時間をかけて山代王様の説得に臨む方が良いかと…万が一にも血が流れるような無駄な争いを起こしてはなりません」
「同感だ。聞いたか秦?」
少し沈黙が続いたあと秦氏が
「はい、承知いたしました。では私がもう一度山代王様の説得を試みましょう」
と静かに答えた。
「私共も山代王様のもとを訪れてみます」
林臣も静かに後を追うように言葉をそえた。
「そうしてくれ」
宝皇女はやれやれというよう髪を手で整えると、鳥の羽を縁にあしらった団扇を手に取りくるくると回し小さくため息をついた。
話し合いを終えた軽皇子、秦氏、近江皇子、鎌足の四人が門前に寄せていた馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと走り出すとすぐに近江皇子が秦氏に向け口を尖らせて言った。
「山代王様が帝の提案を受け入れるとは到底思えません」
軽皇子、鎌足の二人も秦氏を見たが彼は黙ったまま外の景色を見ている。再び近江皇子が口を開いた。
「このままではたとえ山代王様が帝の座を諦めても古人皇子が即位してしまいますよ。そうすれば蘇我氏は更なる権勢をふるい我々を窮地へと追い込むでしょう。豊浦大臣のほくそ笑む姿が浮かび不愉快です」
近江皇子が悔しそうに舌打ちをすると、秦氏は彼に視線を向けることなく外の景色を見つめたまま答えた。
「これでいいのだ…策がある」
「策ですか?」
顔を上げた近江皇子が呆気に取られたような表情で秦氏を見ると、
「誰かこの中で、蘇我一族に通じさらに山代王様の信頼を得ている者を知っているか?」
近江皇子と軽皇子が顔をしかめて首を横に降る中、鎌足が静かに答えた。
「一人、その条件を満たす者を知っております」
「その者の口は堅いのか?」
「はい、恐らく私の頼みとあらば拒む事はないかと…」
「そうか、ではその者を斑鳩宮に遣わせよう。朝廷では刻々と蘇我一族により古人皇子の即位が進められていると、少し大袈裟に騒ぎ立てればいい」
「そんな、偽りの話を流しても良いのですか?」
近江皇子が不安気に答えた。
「実際、偽りの話でもなかろう。蘇我一族は水面下で必ず古人皇子の擁立を固めているはず、今の山代王様であれば、その話に過剰に反応し何か行動を起こすはず。ちょっと大げさな噂話を斑鳩宮で流せばいい」
「しかし、そんな事をしてしまっては大騒動が起きてしまう可能性が…」
「むしろ騒ぎを起こすのだ。そうすれば腰の重い蘇我一族も何らかの手段を取るだろう。争いの火消しは奴らに任せ、時が来た時にその責任を追及すれば良い」
「えっ?いったいどういう事なのかさっぱりわかりません…」
近江皇子が困惑気味に言うと、隣にいた鎌足が静かに言った。
「山代王様をわざと焚きつけて反乱を起こさせ、そのしりぬぐいを蘇我一族にしてもらうのです。そして時期を見て、彼らに全ての責任を追及、弾劾し我らの帝を擁立するのです。まぁ少し時間はかかりますが一番賢く手堅い方法かと…」
鎌足が秦氏をちらりと見ると、秦氏はフッと息を吐き薄ら笑った。二人のやり取りを前に近江皇子はまだ目を丸くしキョトンとしている。
「わ、我らの帝?」
突如目の前に座っていた軽皇子が軽く咳払いをし近江皇子を見つめ、口の端を上げ笑った。
「猪手、そこの薪を全部裏の小屋に運んでくれる?」
「はい、もちろんです」
驚くほど静かな日々が続いている。嵐の前のような不気味な静けさだ。
「いつも悪いわね、色々雑用を手伝ってもらってしまって、あなたも忙しいでしょうに…」
「いえ、お安い御用でございます。最近は若様が豊浦大臣様と朝廷の重鎮たちのもとをまわられており、私は用なしなんです」
猪手は苦笑いをしながら薪を手に取った。
「古人皇子様の件?」
「あっ?ご存知でしたか?そうなのです。古人皇子様の擁立の賛同を得る為に朝廷の群臣や地方豪族のもとをまわっております」
「そう…山代王様について何か知ってる?」
「はい、近日中に斑鳩宮に出向き山代王様と協議を持つそうです」
「話し合いってことよね?」
「はい、宝皇女様の命で帝の座を諦めるように説得しに行くのです」
「…良かった。そうなのね…」
林臣は相変わらず朝廷内の事をあまり口にしないので猪手に聞いて正解だった。私は軒先に干していた柿を取り外し縁側に座った。
今の所、彼が表立って恐ろしい計画をしているとは到底思えない。どうなっているのだろう?…もしかしたら日本書紀は事実ではないのかもしれない…
私は乾いた音を上げながら薪を割る猪手を見つめたあと、手に取った干し柿を一口かじった。
数日が過ぎた昼下がり、猪手が物凄い形相で門に飛び込んできた。
「猪手、どうしたの⁈」
ひどく動揺する彼を縁側に座らせたあと、急いで水を汲んで戻った。
「はぁ、す、すみません」
猪手は雑に水を受け取ると、ぐびぐびとたいらげた。
「何があったの?」
「それが、大変な事が起きてしまいました。さきほど都に山代王様が少数の兵を率いて到着したんです。明後日、山代王様を擁立する群臣と共に帝に謁見し即位の準備を強行的に進めるそうです。都中の古人皇子様を推す派閥の中で混乱が起き、大変な状況なんです」
猪手はびっしょりとかいた額の汗を拭いながらフゥフゥと大きく息を吐いている。
「山代王様が即位を強行していくってこと?でも林臣様が説得にむかわれたのでは?」
「はい、明後日斑鳩宮で協議されるはずでしたが…なぜか、斑鳩で古人皇子の即位の噂が流れ、それを信じた山代王様が憤慨し武装した兵を率いて都に来られたのです。なので今晩、旻先生のお屋敷で緊急の話し合いをする事になりました。必要な書簡を持ってくるようにと若様に頼まれ急いで帰宅したのです」
さっきまで真っ赤だった猪手の顔は今はなく、むしろ青ざめている。
「林臣様も今晩の会合には行かれるのね?」
「はい、もちろんです。大臣や官吏、近江皇子様や秦様、軽皇子様、豊浦大臣様もお見えになると聞いております」
「…そう…」
まずいわ…どうしよう…でも、迷っている時間はない
「猪手、どうしてもお願いがあるの。なんとか山代王様にお会いできるように早急に手配できないかしら?」
「えっ⁈山代王様にですか⁈」
猪手は驚いた様子で答えると顔を曇らせた。
「勘違いしないで。よこしまな思いではなく、私なりの方法で山代王様にお会いして話したいの」
「しかし、このような政の場に女人である燈花様を巻き込めません。若様からお叱りを受けてしまいますし…」
猪手はごにょごにょと言いながら頭をかいた。
「でも、万が一皇位をめぐる戦が起きてしまったらどうなるの?それこそ沢山の血が流れるかもしれないし、林臣様もただでは済まされないわ」
猪手は唇を噛みしめると強く拳を握りうつむいた。
「お願い、私もあの人の力になりたいのよ…」
しつこくお願いする私に根負けしたのか、猪手は覚悟を決めたような強い瞳で私を見て口を開いた。
「わかりました。保障は出来ませんが、今日このあと朝廷に出向き若様に必要な物を渡したあと、今晩使用する食材を取りに食糧庫に行くんです。そこで北上之宮の使用人に会える可能性があります…」
「良かった。いいのよ、ダメもとだから。すぐに山代王様あてに書簡を書くから少し待っていてくれる?書体を見れば私からの書簡だとわかるはず…」
「わかりました」
「あと、へたにあの人を誤解させたくないからこの事は内密にしてちょうだい」
猪手は少し困惑した顔をしたが、私を信頼してくれているのか黙って頷いた。
都の外れにある僧旻の邸では日没と同時に沢山の役人やら大臣達が屋敷の中へと入っていった。集まった男達の興奮する声が屋敷の外まで響き渡っている。
「では、どうされますか?私どものみならず、このままでは、皆様のご都合もさぞ悪くなるのではありませんか?」
興奮した甲高い声が部屋の中に響いた。皆がやれやれと頭を抱えている。
「全く…山代王様には、困ったものだ。あれほど帝からお言葉を受けたというのに突然兵を率いてくるとは…」
大臣の一人が言うと、
「きっと一歩も退かないという強い意志を表わしたいのでしょう…しかし随分と手荒に出てくるのですね」
隣にいた官吏が言った。
「もし山代王様が帝になった場合、今後の大唐、朝鮮諸国との外交に影響は出ないのでしょうか?」
若い官吏の男が言うと、
「百済との友好関係が破綻になることなど、ありえませんよね?」
また別の官吏の男も声を荒げた。
「待て待て、今は大唐や朝鮮諸国の話をしている場合ではない。なんとか山代王様には帝の座を諦めてもらわねばならんのだ」
年配の大臣らしき男がたしなめた。
「斑鳩の地に遷都などと馬鹿な事はないであろうな…あそこの土地は我が一族の管轄外だぞ…」
集まった男達が好き勝手に様々な事を口にしていると、遅れて来た豊浦大臣が重い足取りで部屋の中へ入ってきた。部屋は一瞬で静まり返り彼に視線が集まった。豊浦大臣は僧旻の隣に座ると口をへの字にして部屋の中を見渡した。
「みな待たせたな。今から帝の意向を話すのでよく聞いて欲しい」
ピンと張り詰めた空気の中、男達が豊浦大臣に視線を向けた。
「帝としては争いによる解決を望んではいないものの、山代王様の出方によっては多少の脅し程度の武力行使も検討する、まぁそうならない事を願ってはいるが…」
集まった誰もがこの差し迫る状況を認識し互いに顔を見合っている。この時、秦氏は部屋の片隅で冷ややかに見るだけで何も発言しなかった。
チュンチュン、チュンチュン、
鳥のさえずりが聞こえ空が白んできた。ようやく一晩中続いた会合も解散となり、みなが渋い顔をしながら足早に屋敷を去った。
秦氏が裏庭の水汲み場で水を飲んでいた徳多にこっそりと近づき耳元で囁いた。
「後ほど私を訪ねるように…」
「えっ⁈」
驚いた徳多が振り返ると、無表情の秦氏が目の前に立っていた。
「徳多よ、あとで内密に私の所に来てくれ。大事な話があるのだ、決して悪いようにはしないから安心しなさい。そなたの出世を保証しよう」
徳多は若干の疑いの眼差しで秦氏を見たが、彼の後ろに現れた近江皇子を見ると黙ってうなずいた。
一方、毛人と林臣の親子は馬を引きながら話をしている。
「父上、いっそのこと一度山代王様に帝の座を任せてみても…」
「林太郎、馬鹿な事を申すな!いくら知己の友といっても、政に関しては一歩も譲れぬぞ。蘇我一族の存亡に関わる大問題だからな。なんとしても、即位の話は阻止せねばならぬ。武力を使わずにすめば良いのだが…」
「はい…」
「林太郎、嶋宮で仮眠していくといい」
「いえ、一度自宅に戻ります。本日の朝議には参加しませんが午後から出席します」
「わかった。遅れるでないぞ」
「はい」
林臣は毛人に挨拶をすると、さっと馬にまたがり自宅のある甘樫丘を目指した。
ガタガタ、ガタガタ
冷たい秋風が部屋の中に一気に吹き込んだ。
「林臣様?」
目の前でやつれた顔の林臣が優しく微笑んだ。
「すまぬ、起こしてしまったか?」
「いえ、私もなんだか良く寝られなくて…疲れたでしょう?何か食べる?」
「いや、そなたの顔が見たくて戻ってきたのだ。さぁ、もう少し眠ろう…」
彼はそういうと私を再び寝かせ自分も隣に横になった。
「一晩中話し合いを?」
「あぁ、でも何も心配いらない。顔をみせて」
林臣はそう言うと両手を私の頬に当てた。彼のこわばっていた表情は穏やかになり、私を愛おし気に見つめる。彼のこんな瞳に見つめられるたびに自分が深く愛されていることに気が付く。
「さぁ目をつぶって…昼になったら起こしておくれ…」
すぐにスース―と寝息が聞こえてきた。相当疲れているのだろう、私の呼び声になんの反応も見せない。連日のように公務についている彼の体調が心配だった。私は彼の横顔をじっと見つめた。
なんて綺麗な横顔なのだろう、彼の少しカールの入った長いまつげをこんな風に横から眺めるのが大好きだった。
林臣は昼過ぎに起きると軽く食事を取り再び朝廷へと向かった。彼の体調が不安だったが、今日彼を屋敷に居させる訳にはいかない。山代王との約束の時間が迫っていた。彼に送った書簡が無事彼の手元に届いているならば、きっと姿を現してくれるはず。私は大慌てで支度を済ませると、門番の男に市に買い出しにいくと事付けをし屋敷を出た。
山代王に会えるだろうか?彼に最後に会ったのは今年の冬、橘宮で蝋梅を見ていた時だ。まだ一年たっていないというのに何年も前の事のように感じる。
朝廷の薬草庫にいくのは久しぶりだった。昔、人目を避け何度かあの場所で彼と密会した事を思い出し胸がツンと痛んだ。あの時の二人は婚姻関係にあったが今回は違う。けど彼との友情の絆は固いはず。聞き入れてもらえるかもしれない…そんな一縷の希望を胸に薬草庫に向け歩いた。
いつもは人で溢れごった返している都も静まり返っている。道の途中でも何人もの武装した兵とすれ違った。この事からも都の治安が良くない事がわかる。みな一瞬鋭い視線で私を見て通り過ぎる。
飛鳥川を越えると朝廷の敷地の周りを警護する兵の姿が飛び込んできた。普段朝廷の建物を警護する兵は数名しかいない。ものものしい空気の中、私は背を曲げ下を向きながら足を速めた。
なぜか槻木広場に入ったとたんに警護の兵も、通り過ぎる役人もまばらで静かになった。私は足早に倉庫の中に入ると柱にもたれて息をついた。
良かった…誰にも呼び止められなかった。薬草庫の周りでも医官も医女も見なかった。ホッと胸をなでおろし、数歩前方に歩いた所でドスンと何かとぶつかった。目の前で小男がゴローンと藁の床に転がった。
「イタタ…」
籠が床に転がり中から薬草と生薬が飛び出した。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
私は慌てて男の腕を持った。
「いやぁ…そそっかしい奴め…よく前を見なさい…」
「本当にごめんなさい、ん?」
壁の隙間から差し込んだ淡い太陽の光に玖麻のつぶらな瞳が光った。
「く、玖麻様ですか⁈」
私が驚き声を上げると、彼も目を丸くし大声を上げた。
「ええっつ?!こ、これは燈花様!!どうしてこちらに?!」
私は慌てて玖麻の体を支え直し、起き上がるのを手伝った。
「玖麻様、大変ご無沙汰しております。お怪我はありませんか?」
「あっ、はい。私の頭は石頭でとても頑丈なのでなんともありません」
玖麻が恥ずかしそうに顔を赤らめた。私は先日、林臣の怪我の看病を必死でしてくれたお礼をしていなかった事を思い出し彼に詫びた。玖麻はハハハッと笑うと、その後、林臣から希少な朝鮮の生薬が贈られてきたから礼には及ばない、とにっこり微笑んだ。彼には銀子よりも希少な生薬の方が価値があるらしい。
「それにしても、燈花様、なぜこちらにいらっしゃるのですか?何か急ぎ薬が必要になったのですか?」
「いいえ、そうではないのです。その、玖麻様…実は、ここで人と会う約束をしているのです…やましい事ではないのです、けれど私と会った事は内密にしていただけますか?」
私が胸の前で両手を合わせて言うと玖麻は何かを察したのか、
「あぁ~さようでございますか…燈花様の訳アリにはもうとっくに慣れました」
玖麻は皮肉めいたように言うと拳で口元を隠しながら声を押し殺し笑った。私の修羅場になぜかひょっこりと出くわし波瀾の人生ドラマを目撃しているのは彼が一番かもしれない。
「玖麻様には理由も告げてないのにいつも助けていただき、心苦しいです」
「構いませんよ。きっと深いご事情がおありでしょうから…私も昔、中宮様に本当に助けらました。生前の中宮様より燈花様によく尽くすようにと仰せつかっておりますので礼には及びません」
「玖麻様、本当に感謝いたします。ところで、この小屋は誰か来ますか?」
「いえ、ここ最近の都の情勢が不安定なので今日は医官も医女にも休暇を取らせております。私は数日前に百済から届いた薬草の状態が気がかりだったのでこっそりやってきたのです」
玖麻がポリポリと頭をかいた。
「では、今日はもう誰もきませんね?」
「はい、そのはずです。気になるようなら張り紙を戸に貼っておきましょう」
「助かります」
「それと、丁度良かった。この生薬ですが滋養強壮に非常に優れているのです。ぜひ林臣様に煎じられては?」
玖麻が床に落ちた生薬をいくつか拾い私に差し出した。
「良いのですか?」
「はい、もちろんでございます。林臣様がいつも貴重な薬を朝鮮半島より取り寄せて下さるので非常に助かっているのです」
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」
生薬を受け取ると玖麻は一礼し小屋を出て行った
どれくらい時間がたっただろうか、日が傾いてきたが山代王はまだ来ない。もしかしたら書簡を受け取っていない可能性もあるし、読んだとしても来ない?来られない可能性もある。来ないなんて考えたくなくて私は顔を横に振った。
すっかり山陰に入った小屋の中に壁の隙間から冷たい風が吹き込んできた。薄着で来てしまった事を後悔しながら体をさすっていると、
コンコン、コンコン、
誰かが戸を叩いた。ゆっくりと戸を開けると、目の前に冬韻が立っていた。
「冬韻…」
「燈花様、大変ご無沙汰しております」
丁寧な口調だが、どこか素っ気ないような事務的な挨拶にズキッと胸が痛んだ。まぁ当然と言えば、当然なのだけど何かを得る為に何かを手放す代償とはきっとこういう事なのだろう…
私は気を取り直し笑顔を向けた。
「冬韻、元気だった?」
「はい。燈花様もお元気そうでなによりです」
冬韻は口元に笑みを浮かべたものの目を合わせずにすぐに下を向いた。
「…や、山代王様はいらっしゃった?」
「燈花」
戸の向こうから山代王が顔を出した。
「冬韻、少し離れた所でまっていてくれ」
「承知いたしました」
冬韻が小屋を出ると、山代王がかわりに中へと入ってきた。あの頃の懐かしい日々が色鮮やかによみがえる。藁の匂いが更に当時の記憶を呼び起こした。
「燈花、元気だったか?半年ぶり以上だな…」
「はい、ご無沙汰しております」
いつもどおりの優しい眼差しの山代王だ。
「朝廷は今、混乱し物騒だというのに侍女も護衛も付けずに一人で来たのか?」
私は黙って頷いた。
「全く林太郎は何を考えているのだ…奴だから安心してそなたを託したのに…」
山代王が顔を歪め唇を嚙んだ。
「いえ、林臣様は関係ないのです。私一人の意思で来たのです」
「まったく、そなた相変わらず向こう見ずだな…で、急に私を呼び出すとはどうしたのだ?」
突如緊張に襲われ山代王の問いかけに答えることも顔を上げる事も出来ない。
「どうしたのだ?何か困ったことでも?」
固く握った手が汗ばんでいる。でも今こそ勇気を持って彼に向き合うタイミングだ。飛鳥時代にタイムスリップしてきた最大の目的を果たす為にもこの状況から逃げる事は出来ない。彼が皇位争いから抜ければ全てがうまくいき二人とも助かる可能性がある。私は唾を飲むと覚悟を決め顔を上げた。
「山代王様、無礼を承知で単刀直入に申し上げてもよろしいですか?」
「そこが、そなたの一番の魅力であろう?」
山代王が口の端を上げて笑った。彼のはにかんだ笑顔を見て胸が痛んだ。針が刺さるような痛さだ。今から彼があれほどまでに望んだ皇位の座を諦めるようにお願いするのだから。でもこうしないと彼にも林臣にも未来がない。もちろん私も例外ではない。私は深呼吸すると床に膝をついた。そして彼の足元に視線を落とし話を切り出した。
「僭越ながら申し上げます。山代王様、どうか次期帝になる事を諦めてください」
山代王は唖然とした表情で立ちすくんでいる。彼の顔からは笑顔が消え、驚きと戸惑いが浮かぶ。
「な、何を申すのだ…」
「山代王様、どうかお願いでございます。帝の座をあきらめて下さい」
私は再び言い額を床につけた。
「燈花、何を言い出すかと思いきや、政の話などとは…さぁ、起き上がりなさい」
山代王は優しく私の手を取り立たせた。
「そなたが、私がこれほどまでに帝の座を欲する理由を分かってくれる一番の理解者だと思っていたのに…」
彼はため息まじりに寂しそうに私を見た。彼の悲しみに満ちた深い瞳を見続ける事が出来なくて目をそらした。
そうだ…不可解な死を遂げた茅渟王様や父である彦人皇子の想いをこの人は決して忘れていない…そして過去に自分ではなく舒明天皇が帝に選ばれ苦汁をなめた日々も決して忘れないだろう…でも、このままでは山代王様の命が…
「それでも、どうしても諦めて頂きたいのです」
私は彼を見据えて語気を強めて答えた。一歩も退けない…私は唇を噛みしめた。山代王はしばらく眉をひそめ沈黙していたが、私を見つめると諭すように言った。
「帝の座は長年苦しみながら待ち望んだもの、そなたも知っているだろう?絶対に譲れない。それに、私の全てであるそなたの事もあきらめたのだ。宝皇女様や蘇我一族がなんと言おうと此度は一歩たりとも退けぬ。さぁ、燈花もう日が暮れてしまう。屋敷に戻りなさい」
「でも…」
「燈花、この話は終わりだ」
山代王が私の言葉を制してきっぱりと言った。私は黙ってうつむいた。
「冬韻に甘樫丘のたもとまで送らせよう。冬韻いるか!!」
山代王が戸を開けると馬のひずめの音と共に冬韻が姿を現した。私が馬に乗ってもまだ彼は背を向けたまま石のように黙っている。その後ろ姿が痛々しくて胸が痛んだ。でも、それでも…私は二人が助かる一縷の望みを持ちたい。崩れ落ちそうな気持を奮い立たせ私は背筋を伸ばしその場を去った。
薬草庫の裏戸口の横で隠れるように一人の医女が身を潜めていた。この日、偶然、薬草庫に用事のあった彼女は小屋の中の話し声に気が付き、壁の隙間から二人の様子を目撃していたのだ。山代王が去ったのを確認すると医女は固い表情をして静かにその場を去った。
何度目の秋だろうと指を折りながら数える。記憶が正しければ四度目の秋だ。随分と長い間、飛鳥で過ごしている。もはや現代を生きていた自分の存在すらも疑わしい。
私は瑪瑙の髪飾りを袖の下から取り出した。実は難波津の海岸で林臣に石の裏に刻印を入れて欲しいと頼んでいたのだ。数日前にようやく仕上がった石が再び私のもとに返ってきた。熟練の彫刻師もこの細かい文字に苦戦を余儀なくされ大変な作業だったと、林臣が嫌味たらしく言ってきたので、私は睨みを効かせ彼を震え上がらせた。もちろん冗談だけど、こんなやりとりも幸せだった。
“Rinshin
&
Touka”
この刻印をお願いした時、林臣は眉をひそめ私と文字を交互に見つめては「このミミズの這ったような字はなんだ?」と聞いてきたが、説明するのも面倒だしそもそも理解などしてもらえないだろうから、「二人の愛を永遠に誓う文字よ、まぁおまじないみたいなものね」とだけ伝えた。彼は再び文字を見るとフンッと鼻をならし、けだるそうな顔をしながらも手にした瑪瑙の石を大切そうに袖の下にしまった。
あの時はアルファベットが分からない彼に対し妙な優越感に浸ったが、今は彼が一生この文字を読めないと思うと切なさが込み上げた。
私は刻まれた二人の名前を見つめた。
このまま時間が止まって欲しい…
私は髪飾りを耳の少し上につけると、近くにあった小さな切り株の上に座った。遠くに薄っすらと生駒山が見える。斑鳩宮はもう少し西だろうか?私はしばらくその光景を眺めたあと目を閉じた。
カサッカサッ、カサッ、、、
沈んだ心のせいか、誰かが近づく足音にも気が付かなかった。
「わっ!!」
「キャ―――」
突然聞こえた背後の大声に私は悲鳴を上げた。振り返り際に足元に置いておいた籠をひっくり返した。中から苦労して拾い集めた栗がボロボロと転げ出た。
「燈花、私だよ」
顔を上げて見ると、林臣がいたずらそうに笑っている。
「はぁ…林臣様脅かさないで!!」
妙に頭にきた私は思わず彼に向かい声を張り上げた。彼も予想外の私の反応に驚いたのか目を丸くさせポカンとしている。
「そんなに怒る事か?まさかそなたがそんなに驚くとは思ってなかった…」
彼が地面に転がった栗を拾いながら私の顔を覗き込んだ。寂し気な彼の瞳に思わず目をそらした。彼は何も悪くない…
「すまなかった」
林臣はそう言うと優しく私を抱きしめた。
「…いいえ、私が悪いのよごめんなさい。なんだか心の余裕がなくて…あなたの役に立てなくて辛いわ…」
自分の無力さに私は唇を噛みしめた。涙が頬を伝う。
「と、燈花どうしたのだ。最近のそなたはどうも様子がおかしいぞ、いつもこの丘に登っては斑鳩方面を眺めているだろう…まさか、山代王様が関係しているのか?」
「ち、違うわ…」
慌てた私が誤魔化すように言うと、林臣は冴えない顔をしプイッとそっぽを向いた。
小さなすれ違いはもうここから始まっていたのかもしれない…
数日後、ようやく小彩が斑鳩宮から戻ってきた。庭門の外に荷馬車が止まると体格の良い男達が数人降り、荷台から大きな袋の荷物を降ろし始めた。
男達の横で指を差しながら合図を出している小彩の姿があった。元気そうな彼女を見て安堵した私は急いで門へと向かった。私の呼び声に気がついた彼女は振り返ると笑顔で駆け寄ってきた。
「燈花様、ただいま戻りました」
今までの彼女とはどこか雰囲気が違う。久しぶりに会う彼女は美しく輝いていた。髪は綺麗に結い上げられ、小さな金の花があしらわれた簪で止められている。太陽の光に照らされたおしろいはキラキラと輝き、桜色の頬紅が血色の良さを際立させた。
「小彩、あなた随分と見違えたようだけど…」
私がしげしげと彼女を眺めて言うと、
「えぇ、そうなのです。このような身分不相応な格好をしてしまい、恥ずかしいです…」
小彩が、橙色の美しい絹の衣の袖で恥ずかしそうに顔を隠した。
「いいえ、とても美しいわ」
「ありがとうございます。もったいないお言葉です」
小彩は再び顔を赤らめ照れくさそうにうつむいた。
「あっ、それよりも長旅で疲れたでしょう?中に入って休んで、すぐにお茶をいれるから」
私が屋敷の中に入るように促すと、丁度庭門をくぐる林臣の姿が見えた。
「林臣様、ただいま戻りました」
近づく林臣に向かい小彩が頭を下げた。
「今帰ってきたのか?ご苦労だったな。ゆっくり休みなさい」
林臣はそう言うと私に目くばせし、帰ってきたよというように頷いた。私が小彩の手を取り屋敷の中に向かおうとすると、
「ところで徳多は戻ってきたか?」
林臣が突如足を止め振り返り小彩に尋ねた。
「はい、私共よりも数日早くに斑鳩宮を去りました」
「ふんっ…おかしいな。私のところに最初に報告にくる手はずだったが…燈花少し休んだらもう一度朝廷に行ってくる。帰りが遅くなるかもしれないから、私の事は待たなくても良いからな」
「えぇ、わかったわ」
林臣は顔を横に振ると屋敷の中へと入っていった。
「さ、小彩、部屋の中に入りましょう」
「はい。燈花様、百済の茶葉をもらってきたのです。とても芳醇で貴族しか飲むことができない高級なものだそうです」
小彩が嬉しそうにはしゃいだ。恋する乙女のようなテンションにつられ、私の心も一気に軽くなる。彼女の太陽のような明るさに助けられた私は、
「そうなの⁈では早速飲んでみましょう」
と大袈裟におどけてみせた。私達は顔を見合わせ笑いながら部屋へと戻った。
茶葉から上品な花の香りが漂っている。口に含んだ瞬間、ほのかな果実のような甘みとまろやかさが広がりため息をついた。
「わぁ、本当に美味しいわ。なんの茶葉かしら…香りが上品だけど独特ね」
「はい、斑鳩宮は百済から持ち込まれた食材や貴重な品が沢山あり本当に興味深いものでした」
小彩が興奮しながら言った。
「楽しかった?」
「はいそれは、それは、本当に幸せな日々で…あっ、ここでの生活が嫌とかそういう意味ではないのです…」
彼女は慌てて両手を振ると、きまりが悪そうにうつむいた。
「もちろん、わかっているわよ。その簪も使節団の方々から頂いたの?」
「あっ…これは…」
小彩は髪に挿さった簪に手を当てると口ごもった。
「これは、今回の同行のお礼にと頂きました…」
「そう、…その衣も?」
「はい…」
「…そう。よく似合っているわ」
私が言うと、小彩は顔を赤らめうつむいた後、再び顔を上げた。
「それと燈花様…また、近江皇子様のお屋敷の給仕の仕事を頼まれ、しばらくあちらのお屋敷に住みたいのですが構いませんか?」
小彩がこんな風に願い出てくるのは初めてだ。今まで自分の事など後回しだった彼女が、私に懇願している。きっと彼女の正直な心からの願いなのだろう。叶えてあげたい。私は彼女が安心するように大きく頷き答えた。
「もちろん大丈夫よ、猪手もよく手伝ってくれるし全く問題ないわ」
「良かった!ありがとうございます!本当に感謝いたします!」
小彩は両手を胸にあてながら小刻みに跳ね嬉しそうに微笑んだ。彼女の喜ぶ姿を見て心が温かくなった私は、気になっていた話を切り出した。
「それと…今回の斑鳩での話なんだけど…滞在中の出来事を何でもいいから話してくれない?」
「はい、私は宿の厨房でおもに働いていたので詳細はわかりませんが、他の給仕の人達から聞いたお話しでよければ、信憑性はわかりませんが…」
「それでも構わないから教えて頂戴」
彼女の好奇心が集めた情報量と記憶力に感謝だ。私は茶を注ぎ直すと彼女の前に深く腰掛けじっくりと話に耳を傾けた。どんな些細な事も聞き逃したくなかった。話を一通り聞き終えた私は、また思い出した事があれば、すぐに伝えて欲しいと彼女に告げ部屋を下がらせた。
一人になった部屋で再び思う。この運命を避けられないと分かってはいても、ひょっとしたら山代王と林臣の二人を救う方法があるかもしれない。せめて日本書紀で語られている二人の残酷な結末だけはなんとしても避けたい。
この夜、浅い眠りのせいか何度も何度も寝返りを打っては目が覚めた。暗い天井を見つめては林臣が隣に居ない事にため息をもらす。彼が自宅に帰らない日なんて頻繁にあるが、この晩私は妙に寂しくて切なくて、彼の寝顔を思い出しては胸を痛めた。
数日後、小彩は近江皇子の屋敷に向け再び出発した。彼女の乗った馬車を見送りながら胸がざわついていた。しばらく彼女と会えなくなるのが不安なのか、なぜか今生の別れのような気もして漠然とした不安に襲われた。
彼女が近江皇子と鎌足の側で仕える限り、何かの事件に巻き込まれる可能性がある。一抹の不安を覚えたが、彼女の強い願いを奪う事は出来ない。私は彼女が馬車に乗ったあとも、十分に気をつけるようにと、母親のようにくどいほど念を押し、馬車が見えなくなるまで門の横で見送った。
板蓋宮では、宝皇女のもとに軽皇子、近江皇子、鎌足、秦氏、豊浦大臣、林臣、古人皇子などの歴史に名を残すそうそうたるメンツが集まっていた。
「徳多から話は聞いた」
宝皇女はため息まじりにそう言うと豊浦大臣を横目で見て苦笑した。
「毛人とも話し合ったのだが、もう一度山代王の説得を試みようと思う。私がまだ健在なのだから時間をかけ説得にあたっても文句は言うまい。古人皇子もまだ年若いしな」
「しかし姉上、帝の座をかけて山代王様はいまにも宮廷に乗り込んできそうな勢いですが…」
軽皇子がすかさず口を挟んだ。
「ふんっ、大袈裟だな」
宝皇女が鼻で笑うと、
「いえ、軽皇子様のおっしゃるとおりです。山代王様は先帝の時に即位を見送っています。しかも茅渟王様を亡くされてから気性が荒くなり、最近はなおさら皇位をめぐる争いで気が立っておいでです。正直何をするか分かりません。強行的に帝の座を奪いに来る可能性も否定できませせん」
秦氏が深刻な眼差しで口を挟んだ。
「ではどうしろというのだ?私が永遠に帝に君臨すると宣言するか?」
「そうではありません…むしろこの機会に古人皇子様の即位を進めましょう」
「なに?そなた古人皇子の即位には反対だったのでは?」
「め、滅相もございません。次の帝は古人皇子様以外に考えられません。ただ、まだ皇子は年若く経験値や責任の重さを危惧しただけでございます。しかし帝や蘇我様の大きな後ろ盾がありますので心配不用だろうと考え直したのです…」
これを聞いた軽皇子、近江皇子、鎌足が一瞬顔色を変えじろりと秦氏を見た。豊浦大臣と林臣、古人皇子も不意を突かれたような怪訝な顔つきで彼を見た。
「ふ~ん、そうかどうやらそなたの考えを誤解していたようだ。毛人よどうしたものか?」
宝皇女が豊浦大臣を意味深な眼差しで見た。
「はい、帝がおっしゃったとおりまずはもう少し時間をかけて山代王様の説得に臨む方が良いかと…万が一にも血が流れるような無駄な争いを起こしてはなりません」
「同感だ。聞いたか秦?」
少し沈黙が続いたあと秦氏が
「はい、承知いたしました。では私がもう一度山代王様の説得を試みましょう」
と静かに答えた。
「私共も山代王様のもとを訪れてみます」
林臣も静かに後を追うように言葉をそえた。
「そうしてくれ」
宝皇女はやれやれというよう髪を手で整えると、鳥の羽を縁にあしらった団扇を手に取りくるくると回し小さくため息をついた。
話し合いを終えた軽皇子、秦氏、近江皇子、鎌足の四人が門前に寄せていた馬車に乗り込んだ。
馬車がゆっくりと走り出すとすぐに近江皇子が秦氏に向け口を尖らせて言った。
「山代王様が帝の提案を受け入れるとは到底思えません」
軽皇子、鎌足の二人も秦氏を見たが彼は黙ったまま外の景色を見ている。再び近江皇子が口を開いた。
「このままではたとえ山代王様が帝の座を諦めても古人皇子が即位してしまいますよ。そうすれば蘇我氏は更なる権勢をふるい我々を窮地へと追い込むでしょう。豊浦大臣のほくそ笑む姿が浮かび不愉快です」
近江皇子が悔しそうに舌打ちをすると、秦氏は彼に視線を向けることなく外の景色を見つめたまま答えた。
「これでいいのだ…策がある」
「策ですか?」
顔を上げた近江皇子が呆気に取られたような表情で秦氏を見ると、
「誰かこの中で、蘇我一族に通じさらに山代王様の信頼を得ている者を知っているか?」
近江皇子と軽皇子が顔をしかめて首を横に降る中、鎌足が静かに答えた。
「一人、その条件を満たす者を知っております」
「その者の口は堅いのか?」
「はい、恐らく私の頼みとあらば拒む事はないかと…」
「そうか、ではその者を斑鳩宮に遣わせよう。朝廷では刻々と蘇我一族により古人皇子の即位が進められていると、少し大袈裟に騒ぎ立てればいい」
「そんな、偽りの話を流しても良いのですか?」
近江皇子が不安気に答えた。
「実際、偽りの話でもなかろう。蘇我一族は水面下で必ず古人皇子の擁立を固めているはず、今の山代王様であれば、その話に過剰に反応し何か行動を起こすはず。ちょっと大げさな噂話を斑鳩宮で流せばいい」
「しかし、そんな事をしてしまっては大騒動が起きてしまう可能性が…」
「むしろ騒ぎを起こすのだ。そうすれば腰の重い蘇我一族も何らかの手段を取るだろう。争いの火消しは奴らに任せ、時が来た時にその責任を追及すれば良い」
「えっ?いったいどういう事なのかさっぱりわかりません…」
近江皇子が困惑気味に言うと、隣にいた鎌足が静かに言った。
「山代王様をわざと焚きつけて反乱を起こさせ、そのしりぬぐいを蘇我一族にしてもらうのです。そして時期を見て、彼らに全ての責任を追及、弾劾し我らの帝を擁立するのです。まぁ少し時間はかかりますが一番賢く手堅い方法かと…」
鎌足が秦氏をちらりと見ると、秦氏はフッと息を吐き薄ら笑った。二人のやり取りを前に近江皇子はまだ目を丸くしキョトンとしている。
「わ、我らの帝?」
突如目の前に座っていた軽皇子が軽く咳払いをし近江皇子を見つめ、口の端を上げ笑った。
「猪手、そこの薪を全部裏の小屋に運んでくれる?」
「はい、もちろんです」
驚くほど静かな日々が続いている。嵐の前のような不気味な静けさだ。
「いつも悪いわね、色々雑用を手伝ってもらってしまって、あなたも忙しいでしょうに…」
「いえ、お安い御用でございます。最近は若様が豊浦大臣様と朝廷の重鎮たちのもとをまわられており、私は用なしなんです」
猪手は苦笑いをしながら薪を手に取った。
「古人皇子様の件?」
「あっ?ご存知でしたか?そうなのです。古人皇子様の擁立の賛同を得る為に朝廷の群臣や地方豪族のもとをまわっております」
「そう…山代王様について何か知ってる?」
「はい、近日中に斑鳩宮に出向き山代王様と協議を持つそうです」
「話し合いってことよね?」
「はい、宝皇女様の命で帝の座を諦めるように説得しに行くのです」
「…良かった。そうなのね…」
林臣は相変わらず朝廷内の事をあまり口にしないので猪手に聞いて正解だった。私は軒先に干していた柿を取り外し縁側に座った。
今の所、彼が表立って恐ろしい計画をしているとは到底思えない。どうなっているのだろう?…もしかしたら日本書紀は事実ではないのかもしれない…
私は乾いた音を上げながら薪を割る猪手を見つめたあと、手に取った干し柿を一口かじった。
数日が過ぎた昼下がり、猪手が物凄い形相で門に飛び込んできた。
「猪手、どうしたの⁈」
ひどく動揺する彼を縁側に座らせたあと、急いで水を汲んで戻った。
「はぁ、す、すみません」
猪手は雑に水を受け取ると、ぐびぐびとたいらげた。
「何があったの?」
「それが、大変な事が起きてしまいました。さきほど都に山代王様が少数の兵を率いて到着したんです。明後日、山代王様を擁立する群臣と共に帝に謁見し即位の準備を強行的に進めるそうです。都中の古人皇子様を推す派閥の中で混乱が起き、大変な状況なんです」
猪手はびっしょりとかいた額の汗を拭いながらフゥフゥと大きく息を吐いている。
「山代王様が即位を強行していくってこと?でも林臣様が説得にむかわれたのでは?」
「はい、明後日斑鳩宮で協議されるはずでしたが…なぜか、斑鳩で古人皇子の即位の噂が流れ、それを信じた山代王様が憤慨し武装した兵を率いて都に来られたのです。なので今晩、旻先生のお屋敷で緊急の話し合いをする事になりました。必要な書簡を持ってくるようにと若様に頼まれ急いで帰宅したのです」
さっきまで真っ赤だった猪手の顔は今はなく、むしろ青ざめている。
「林臣様も今晩の会合には行かれるのね?」
「はい、もちろんです。大臣や官吏、近江皇子様や秦様、軽皇子様、豊浦大臣様もお見えになると聞いております」
「…そう…」
まずいわ…どうしよう…でも、迷っている時間はない
「猪手、どうしてもお願いがあるの。なんとか山代王様にお会いできるように早急に手配できないかしら?」
「えっ⁈山代王様にですか⁈」
猪手は驚いた様子で答えると顔を曇らせた。
「勘違いしないで。よこしまな思いではなく、私なりの方法で山代王様にお会いして話したいの」
「しかし、このような政の場に女人である燈花様を巻き込めません。若様からお叱りを受けてしまいますし…」
猪手はごにょごにょと言いながら頭をかいた。
「でも、万が一皇位をめぐる戦が起きてしまったらどうなるの?それこそ沢山の血が流れるかもしれないし、林臣様もただでは済まされないわ」
猪手は唇を噛みしめると強く拳を握りうつむいた。
「お願い、私もあの人の力になりたいのよ…」
しつこくお願いする私に根負けしたのか、猪手は覚悟を決めたような強い瞳で私を見て口を開いた。
「わかりました。保障は出来ませんが、今日このあと朝廷に出向き若様に必要な物を渡したあと、今晩使用する食材を取りに食糧庫に行くんです。そこで北上之宮の使用人に会える可能性があります…」
「良かった。いいのよ、ダメもとだから。すぐに山代王様あてに書簡を書くから少し待っていてくれる?書体を見れば私からの書簡だとわかるはず…」
「わかりました」
「あと、へたにあの人を誤解させたくないからこの事は内密にしてちょうだい」
猪手は少し困惑した顔をしたが、私を信頼してくれているのか黙って頷いた。
都の外れにある僧旻の邸では日没と同時に沢山の役人やら大臣達が屋敷の中へと入っていった。集まった男達の興奮する声が屋敷の外まで響き渡っている。
「では、どうされますか?私どものみならず、このままでは、皆様のご都合もさぞ悪くなるのではありませんか?」
興奮した甲高い声が部屋の中に響いた。皆がやれやれと頭を抱えている。
「全く…山代王様には、困ったものだ。あれほど帝からお言葉を受けたというのに突然兵を率いてくるとは…」
大臣の一人が言うと、
「きっと一歩も退かないという強い意志を表わしたいのでしょう…しかし随分と手荒に出てくるのですね」
隣にいた官吏が言った。
「もし山代王様が帝になった場合、今後の大唐、朝鮮諸国との外交に影響は出ないのでしょうか?」
若い官吏の男が言うと、
「百済との友好関係が破綻になることなど、ありえませんよね?」
また別の官吏の男も声を荒げた。
「待て待て、今は大唐や朝鮮諸国の話をしている場合ではない。なんとか山代王様には帝の座を諦めてもらわねばならんのだ」
年配の大臣らしき男がたしなめた。
「斑鳩の地に遷都などと馬鹿な事はないであろうな…あそこの土地は我が一族の管轄外だぞ…」
集まった男達が好き勝手に様々な事を口にしていると、遅れて来た豊浦大臣が重い足取りで部屋の中へ入ってきた。部屋は一瞬で静まり返り彼に視線が集まった。豊浦大臣は僧旻の隣に座ると口をへの字にして部屋の中を見渡した。
「みな待たせたな。今から帝の意向を話すのでよく聞いて欲しい」
ピンと張り詰めた空気の中、男達が豊浦大臣に視線を向けた。
「帝としては争いによる解決を望んではいないものの、山代王様の出方によっては多少の脅し程度の武力行使も検討する、まぁそうならない事を願ってはいるが…」
集まった誰もがこの差し迫る状況を認識し互いに顔を見合っている。この時、秦氏は部屋の片隅で冷ややかに見るだけで何も発言しなかった。
チュンチュン、チュンチュン、
鳥のさえずりが聞こえ空が白んできた。ようやく一晩中続いた会合も解散となり、みなが渋い顔をしながら足早に屋敷を去った。
秦氏が裏庭の水汲み場で水を飲んでいた徳多にこっそりと近づき耳元で囁いた。
「後ほど私を訪ねるように…」
「えっ⁈」
驚いた徳多が振り返ると、無表情の秦氏が目の前に立っていた。
「徳多よ、あとで内密に私の所に来てくれ。大事な話があるのだ、決して悪いようにはしないから安心しなさい。そなたの出世を保証しよう」
徳多は若干の疑いの眼差しで秦氏を見たが、彼の後ろに現れた近江皇子を見ると黙ってうなずいた。
一方、毛人と林臣の親子は馬を引きながら話をしている。
「父上、いっそのこと一度山代王様に帝の座を任せてみても…」
「林太郎、馬鹿な事を申すな!いくら知己の友といっても、政に関しては一歩も譲れぬぞ。蘇我一族の存亡に関わる大問題だからな。なんとしても、即位の話は阻止せねばならぬ。武力を使わずにすめば良いのだが…」
「はい…」
「林太郎、嶋宮で仮眠していくといい」
「いえ、一度自宅に戻ります。本日の朝議には参加しませんが午後から出席します」
「わかった。遅れるでないぞ」
「はい」
林臣は毛人に挨拶をすると、さっと馬にまたがり自宅のある甘樫丘を目指した。
ガタガタ、ガタガタ
冷たい秋風が部屋の中に一気に吹き込んだ。
「林臣様?」
目の前でやつれた顔の林臣が優しく微笑んだ。
「すまぬ、起こしてしまったか?」
「いえ、私もなんだか良く寝られなくて…疲れたでしょう?何か食べる?」
「いや、そなたの顔が見たくて戻ってきたのだ。さぁ、もう少し眠ろう…」
彼はそういうと私を再び寝かせ自分も隣に横になった。
「一晩中話し合いを?」
「あぁ、でも何も心配いらない。顔をみせて」
林臣はそう言うと両手を私の頬に当てた。彼のこわばっていた表情は穏やかになり、私を愛おし気に見つめる。彼のこんな瞳に見つめられるたびに自分が深く愛されていることに気が付く。
「さぁ目をつぶって…昼になったら起こしておくれ…」
すぐにスース―と寝息が聞こえてきた。相当疲れているのだろう、私の呼び声になんの反応も見せない。連日のように公務についている彼の体調が心配だった。私は彼の横顔をじっと見つめた。
なんて綺麗な横顔なのだろう、彼の少しカールの入った長いまつげをこんな風に横から眺めるのが大好きだった。
林臣は昼過ぎに起きると軽く食事を取り再び朝廷へと向かった。彼の体調が不安だったが、今日彼を屋敷に居させる訳にはいかない。山代王との約束の時間が迫っていた。彼に送った書簡が無事彼の手元に届いているならば、きっと姿を現してくれるはず。私は大慌てで支度を済ませると、門番の男に市に買い出しにいくと事付けをし屋敷を出た。
山代王に会えるだろうか?彼に最後に会ったのは今年の冬、橘宮で蝋梅を見ていた時だ。まだ一年たっていないというのに何年も前の事のように感じる。
朝廷の薬草庫にいくのは久しぶりだった。昔、人目を避け何度かあの場所で彼と密会した事を思い出し胸がツンと痛んだ。あの時の二人は婚姻関係にあったが今回は違う。けど彼との友情の絆は固いはず。聞き入れてもらえるかもしれない…そんな一縷の希望を胸に薬草庫に向け歩いた。
いつもは人で溢れごった返している都も静まり返っている。道の途中でも何人もの武装した兵とすれ違った。この事からも都の治安が良くない事がわかる。みな一瞬鋭い視線で私を見て通り過ぎる。
飛鳥川を越えると朝廷の敷地の周りを警護する兵の姿が飛び込んできた。普段朝廷の建物を警護する兵は数名しかいない。ものものしい空気の中、私は背を曲げ下を向きながら足を速めた。
なぜか槻木広場に入ったとたんに警護の兵も、通り過ぎる役人もまばらで静かになった。私は足早に倉庫の中に入ると柱にもたれて息をついた。
良かった…誰にも呼び止められなかった。薬草庫の周りでも医官も医女も見なかった。ホッと胸をなでおろし、数歩前方に歩いた所でドスンと何かとぶつかった。目の前で小男がゴローンと藁の床に転がった。
「イタタ…」
籠が床に転がり中から薬草と生薬が飛び出した。
「ご、ごめんなさい。大丈夫ですか?」
私は慌てて男の腕を持った。
「いやぁ…そそっかしい奴め…よく前を見なさい…」
「本当にごめんなさい、ん?」
壁の隙間から差し込んだ淡い太陽の光に玖麻のつぶらな瞳が光った。
「く、玖麻様ですか⁈」
私が驚き声を上げると、彼も目を丸くし大声を上げた。
「ええっつ?!こ、これは燈花様!!どうしてこちらに?!」
私は慌てて玖麻の体を支え直し、起き上がるのを手伝った。
「玖麻様、大変ご無沙汰しております。お怪我はありませんか?」
「あっ、はい。私の頭は石頭でとても頑丈なのでなんともありません」
玖麻が恥ずかしそうに顔を赤らめた。私は先日、林臣の怪我の看病を必死でしてくれたお礼をしていなかった事を思い出し彼に詫びた。玖麻はハハハッと笑うと、その後、林臣から希少な朝鮮の生薬が贈られてきたから礼には及ばない、とにっこり微笑んだ。彼には銀子よりも希少な生薬の方が価値があるらしい。
「それにしても、燈花様、なぜこちらにいらっしゃるのですか?何か急ぎ薬が必要になったのですか?」
「いいえ、そうではないのです。その、玖麻様…実は、ここで人と会う約束をしているのです…やましい事ではないのです、けれど私と会った事は内密にしていただけますか?」
私が胸の前で両手を合わせて言うと玖麻は何かを察したのか、
「あぁ~さようでございますか…燈花様の訳アリにはもうとっくに慣れました」
玖麻は皮肉めいたように言うと拳で口元を隠しながら声を押し殺し笑った。私の修羅場になぜかひょっこりと出くわし波瀾の人生ドラマを目撃しているのは彼が一番かもしれない。
「玖麻様には理由も告げてないのにいつも助けていただき、心苦しいです」
「構いませんよ。きっと深いご事情がおありでしょうから…私も昔、中宮様に本当に助けらました。生前の中宮様より燈花様によく尽くすようにと仰せつかっておりますので礼には及びません」
「玖麻様、本当に感謝いたします。ところで、この小屋は誰か来ますか?」
「いえ、ここ最近の都の情勢が不安定なので今日は医官も医女にも休暇を取らせております。私は数日前に百済から届いた薬草の状態が気がかりだったのでこっそりやってきたのです」
玖麻がポリポリと頭をかいた。
「では、今日はもう誰もきませんね?」
「はい、そのはずです。気になるようなら張り紙を戸に貼っておきましょう」
「助かります」
「それと、丁度良かった。この生薬ですが滋養強壮に非常に優れているのです。ぜひ林臣様に煎じられては?」
玖麻が床に落ちた生薬をいくつか拾い私に差し出した。
「良いのですか?」
「はい、もちろんでございます。林臣様がいつも貴重な薬を朝鮮半島より取り寄せて下さるので非常に助かっているのです」
「ありがとうございます。では、遠慮なくいただきます」
生薬を受け取ると玖麻は一礼し小屋を出て行った
どれくらい時間がたっただろうか、日が傾いてきたが山代王はまだ来ない。もしかしたら書簡を受け取っていない可能性もあるし、読んだとしても来ない?来られない可能性もある。来ないなんて考えたくなくて私は顔を横に振った。
すっかり山陰に入った小屋の中に壁の隙間から冷たい風が吹き込んできた。薄着で来てしまった事を後悔しながら体をさすっていると、
コンコン、コンコン、
誰かが戸を叩いた。ゆっくりと戸を開けると、目の前に冬韻が立っていた。
「冬韻…」
「燈花様、大変ご無沙汰しております」
丁寧な口調だが、どこか素っ気ないような事務的な挨拶にズキッと胸が痛んだ。まぁ当然と言えば、当然なのだけど何かを得る為に何かを手放す代償とはきっとこういう事なのだろう…
私は気を取り直し笑顔を向けた。
「冬韻、元気だった?」
「はい。燈花様もお元気そうでなによりです」
冬韻は口元に笑みを浮かべたものの目を合わせずにすぐに下を向いた。
「…や、山代王様はいらっしゃった?」
「燈花」
戸の向こうから山代王が顔を出した。
「冬韻、少し離れた所でまっていてくれ」
「承知いたしました」
冬韻が小屋を出ると、山代王がかわりに中へと入ってきた。あの頃の懐かしい日々が色鮮やかによみがえる。藁の匂いが更に当時の記憶を呼び起こした。
「燈花、元気だったか?半年ぶり以上だな…」
「はい、ご無沙汰しております」
いつもどおりの優しい眼差しの山代王だ。
「朝廷は今、混乱し物騒だというのに侍女も護衛も付けずに一人で来たのか?」
私は黙って頷いた。
「全く林太郎は何を考えているのだ…奴だから安心してそなたを託したのに…」
山代王が顔を歪め唇を嚙んだ。
「いえ、林臣様は関係ないのです。私一人の意思で来たのです」
「まったく、そなた相変わらず向こう見ずだな…で、急に私を呼び出すとはどうしたのだ?」
突如緊張に襲われ山代王の問いかけに答えることも顔を上げる事も出来ない。
「どうしたのだ?何か困ったことでも?」
固く握った手が汗ばんでいる。でも今こそ勇気を持って彼に向き合うタイミングだ。飛鳥時代にタイムスリップしてきた最大の目的を果たす為にもこの状況から逃げる事は出来ない。彼が皇位争いから抜ければ全てがうまくいき二人とも助かる可能性がある。私は唾を飲むと覚悟を決め顔を上げた。
「山代王様、無礼を承知で単刀直入に申し上げてもよろしいですか?」
「そこが、そなたの一番の魅力であろう?」
山代王が口の端を上げて笑った。彼のはにかんだ笑顔を見て胸が痛んだ。針が刺さるような痛さだ。今から彼があれほどまでに望んだ皇位の座を諦めるようにお願いするのだから。でもこうしないと彼にも林臣にも未来がない。もちろん私も例外ではない。私は深呼吸すると床に膝をついた。そして彼の足元に視線を落とし話を切り出した。
「僭越ながら申し上げます。山代王様、どうか次期帝になる事を諦めてください」
山代王は唖然とした表情で立ちすくんでいる。彼の顔からは笑顔が消え、驚きと戸惑いが浮かぶ。
「な、何を申すのだ…」
「山代王様、どうかお願いでございます。帝の座をあきらめて下さい」
私は再び言い額を床につけた。
「燈花、何を言い出すかと思いきや、政の話などとは…さぁ、起き上がりなさい」
山代王は優しく私の手を取り立たせた。
「そなたが、私がこれほどまでに帝の座を欲する理由を分かってくれる一番の理解者だと思っていたのに…」
彼はため息まじりに寂しそうに私を見た。彼の悲しみに満ちた深い瞳を見続ける事が出来なくて目をそらした。
そうだ…不可解な死を遂げた茅渟王様や父である彦人皇子の想いをこの人は決して忘れていない…そして過去に自分ではなく舒明天皇が帝に選ばれ苦汁をなめた日々も決して忘れないだろう…でも、このままでは山代王様の命が…
「それでも、どうしても諦めて頂きたいのです」
私は彼を見据えて語気を強めて答えた。一歩も退けない…私は唇を噛みしめた。山代王はしばらく眉をひそめ沈黙していたが、私を見つめると諭すように言った。
「帝の座は長年苦しみながら待ち望んだもの、そなたも知っているだろう?絶対に譲れない。それに、私の全てであるそなたの事もあきらめたのだ。宝皇女様や蘇我一族がなんと言おうと此度は一歩たりとも退けぬ。さぁ、燈花もう日が暮れてしまう。屋敷に戻りなさい」
「でも…」
「燈花、この話は終わりだ」
山代王が私の言葉を制してきっぱりと言った。私は黙ってうつむいた。
「冬韻に甘樫丘のたもとまで送らせよう。冬韻いるか!!」
山代王が戸を開けると馬のひずめの音と共に冬韻が姿を現した。私が馬に乗ってもまだ彼は背を向けたまま石のように黙っている。その後ろ姿が痛々しくて胸が痛んだ。でも、それでも…私は二人が助かる一縷の望みを持ちたい。崩れ落ちそうな気持を奮い立たせ私は背筋を伸ばしその場を去った。
薬草庫の裏戸口の横で隠れるように一人の医女が身を潜めていた。この日、偶然、薬草庫に用事のあった彼女は小屋の中の話し声に気が付き、壁の隙間から二人の様子を目撃していたのだ。山代王が去ったのを確認すると医女は固い表情をして静かにその場を去った。
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