優しくて残酷な

水無瀬雨音

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 平凡な日常の中の幸せをかみしめていた、ある昼下がり。
 お嬢様が女学校に行っている間に、私は奥さまに呼び出された。聞かされた話は、私にとっては晴天の霹靂だった。
 平静を装ってはいたけれど、思わず何度も瞬きをしてしまう。
「ご婚約、ですか」
 お気に入りのカップでお茶を飲みながら、奥様は頷く。
「よいご縁がなかったけれど、卒業前にいいお相手が見つかってよかった」
 縁談がまとまったせいか、普段よりも機嫌が良い。
 顔色には出ていないと思うけれど、心の中はみっともないくらいに穏やかでいられなかった。
 婚約。お嬢様が。
 覚悟はしていたのに、自分でも不思議なほどに胸を衝かれた。
 それはいよいよ、お嬢様が誰かのものになってしまうということだから。
「貿易会社のご子息なの。写真でしか拝見していないのだけれど、なかなかの二枚目なのよ。今から孫が楽しみだわ。それでね、あの子は連れて行きたいと言うだろうけれど、真里亜はこの家に残ってちょうだい」
「ええ、と……」
 お嬢様と、もう今までのようにはお傍にいられない。それ以上望んでいなかったのに。傍にいるだけでよかったのに。
「あの子は真里亜に懐きすぎているでしょう? いつまでも真里亜に頼っていたら、嫁ぎ先でしっかりできないわ」

 それからの奥様のお話は、あまり覚えていない。


「失礼します」
 ようやく奥様のお話が終わった。内容は頭には残っていないのだけれど、奥様が終始上機嫌なせいか、話題が飛んだり同じことを繰り返したりと、延々とこの時間が続くのではないかと思った。
 奥様のお部屋から出ると、
「真里亜」
 そこには、腕組みをした修二様が立っていた。バンカラな修二様がそうしていると、活動写真のポスターのようだ。
「修二様」
「いいの? 姉上が結婚しても」
「何がおっしゃりたいのですか?」
 修二様は無邪気な青年だけれど、私の前では時折別の顔をお見せになる。私の秘めた気持ちを、この方には見透かされているようで、修二様とお話するのは居心地が悪い。
 私はそっと目を反らした。
「私がいいとか悪いとか言ったところで、どうにかなることではありませんから」
「それって、『本当は結婚してほしくない』って言っているように思えるけど?」
「……!」
 本心を暴かれて、私は反射的に修二さまを睨みつけてしまった。もちろん、主にする表情ではないから、すぐさま頭を下げる。
「……失礼いたしました」
「僕はいつものすました真里亜より、素のほうが好きだな」
 からかうような口調に、私は思わず悪態をついてしまう。
「……私は、あなたが嫌いです」
 あまりにも無礼な私を、修二様は叱ったりなさらなかった。ただ微笑んで、私の耳元で囁いた。
「僕も君が嫌いだよ。だけど、君が望むならいくらでも手を貸す。姉上のためにね」
 それだけ言い残し、修二様は立ち去った。
 「嫌いだ」と言われても、まったく傷つかなかった。先に言ったのは私だというのもあるが、基本的にお嬢様以外にどう思われてもかまわないから。
(……私が望むなら)
 私の望むことは一つだけ。お嬢様の幸せ。それだけだ。
 そしてそれは、私と結ばれることでは得られない。

 どれほど求めているのかなど、あなたは知る由もないでしょう。それなのにあなたはいつだって、無邪気に残酷に愛をささやく。
 私がお嬢様を想う感情は、好きだとか慕っているとかそんな簡単な言葉では言い表せない。お嬢様は私の恩人だからだ。
 物心ついたころには、すでに私は一人だった。名前も年も、家族がいたのかも分からない。
 スリや盗み、生きるためならばなんでもやった。死ぬのは怖かったが、辛いことばかりで楽しいことなど何もないのに、何のために生きているのか分からなかった。そこにあるのは虚無だけ。
 お嬢様と私が出会ったのは、十年ほど前のクリスマスだった。
 路地裏の隅で、私は薄い着物にぼろを羽織って座りこんでいた。ぼんやりと店先に並ぶ綺麗な品物を眺めながら。十二月の寒さは当然薄っぺらい着物だけではしのげず、私はがたがたと震えていた。
 その日は本当に寒く、しんしんと雪まで降り出していた。
(このまま死ぬかもしれない)
 それもいいかもしれないとぼんやりと思った。
 自分で死ぬのは怖いけれど、このまま生きていても楽しいことなどきっとないのだろうから。
「あら、お父様。あの子はこんなところで何をしているの?」
 不意にはつらつとした子供の声が聞こえた。
 声のする方に顔を向けると、可愛らしい女の子が私のほうを見ていた。着ている着物は上等そうで、見るからに裕福な家の子どもだった。きっとこういう子は、今まで何かを諦めたことなどなく、自分と一番遠いところに死があると思っているのだろう。
 通りすがりの金持ちに同情されることは、ままにあって慣れていた。彼らはいつもわずかな金を投げてよこして、またそそくさと通り過ぎていく。
 けれど女の子――お嬢様はそういった金持ちとは違った。目の前にしゃがみ込むと、私の薄汚れた手を労働など知らない真っ白な綺麗な手で包み込んでくれた。
「何をしているんだ。早く買い物に行くよ。不憫に思うなら、少し金を渡せばいいだろう」
「お父様。プレゼントはこの子がいいわ。連れて帰るから、私の世話係にしてちょうだい」
 わずかなお金を渡す人はいても、私を家に連れて帰ろうとした人は、お嬢様だけだった。
「ね? ね? お願いよ、お父様」
 頑ななお嬢様に、旦那様は困った顔をした。
「気の毒に思うのは分かるがね。こういう子は素性が分からないし、そのたびに連れて帰るわけには行かないよ」
「この子だけ。この子だけよ」
「……仕方ないな」
 困り果てた旦那様は、考えを曲げないお嬢様に根負けしたらしい。じっと私の目を見据えた。
「うちに来るかい?」
 私はこくりと頷いた。この生活から抜け出せるなら、なんでもよかった。
「じゃあおいで。しっかり働くんだよ」
 釘を刺すような旦那様の言葉に、再び私は頷く。
 よろよろと立ち上がると、お嬢様がご自分の外套を脱いで、私に羽織らせてくれた。彼女が凍えてしまうので拒もうとしたけれど、半ば無理やりに。上等な外套は、すぐに私を温めてくれる。
「あなたの名前は? 年齢は? お父様やお母様は? どこから来たの?」
 並んで歩きながら、お嬢様は矢継ぎ早に質問してきたけれど、私はそのどれにも答えを持っていなかった。
「分か、らない」
 久しぶりに発した声は、かすれてひどく聞こえづらいものだった。でもお嬢様は嗤ったりしなかった。
「多分私より少し年上かしら? 名前が分からないなら、私がつけてあげるわ。そうね……今日はクリスマスだから真里亜! あなたは真里亜よ」
 クリスマスに見つけた少女だから真里亜。名前の由来はそんな安直なものだったが、私は嬉しかった。私を見つけてくれたお嬢様が、嬉しそうに顔をほころばせていたから。
 そうしてお嬢様の“プレゼント”の私を見て、奥様や修二様、使用人たちは大層驚いた。毎日入浴できるようになり、清潔な衣服に飢えもなくなった。人間らしい生活になった私は、使用人としての技術や教養を教えてもらって、お嬢様の世話係となったのだった。
 私の大好きな純粋無垢なお嬢様。あなたに愛されている。世界で私だけが。唯一無二に。
 お嬢様の無邪気な愛のささやきに、どんなにか頷いてしまいたいことか。身を任せてしまえば、どんなに楽なことか。
 けれど、満たされた幸福感と愉悦は、一瞬にして深淵の闇に沈む。同性の私たちが結ばれるなどあり得ないからだ。ましてや主の娘であるお嬢様と、使用人の私が。

 お嬢様が眠りにつくまでのそれは、私たちの大切な儀式だった。
 寝息を立てないので、狸寝入りなのは明白で、必死に声をひそめるお嬢様が可愛らしくて仕方がなかった。恐らくお嬢様は起きていることが、私に気づかれていないと思っていることだろう。
 私の全てはお嬢様にささげているけれど、彼女の髪の毛一本すら私のものではない。だけれどこの時間だけは。この時間だけは、お嬢様の消え入りそうなかすかな吐息と白魚のような美しい手は、少なくとも私のものだった。
 お嬢様の吐息すらも、愛おしい。
 五分ほど、お嬢様の手を触るだけ。逢瀬というにはあまりにもささやかすぎる時間。それでも、これだけで十分だった。十分だったのに。
 子守歌が終わっても、今夜の私はお嬢様の手に触れなかった。ただ、ベッドの脇に置いた椅子に座ったまま、黙ってお顔を眺めていた。
「……今夜は、私の手に触らないの?」
 しばらくして、お嬢様が目を閉じたまま、私たちのタブーに触れた。
「……ええ」
 一瞬虚を突かれたけれど、私はごまかさなかった。
「私が、婚約したから?」
「お聞きになったのですね」
「結婚しても一緒に来てくれるわよね?」
 心配そうにお嬢様が問いかける。
 私を連れて行かないように、とまでは奥様はお話にならなかったらしい。
「嫁ぎ先にご実家の使用人を連れて行くのは望ましくありません。あちらには真里亜よりも優秀な使用人が、きっとたくさんいますよ」
「真里亜の代わりなんか、いるはずがない! 結婚なんか、したくないわ」
 体を起こして、私にしがみつくお嬢様。すがりつくようなお嬢様がいじらしくて、可愛らしくて。
 無責任にも、
「結婚なんかしないでください」
 と思わず言いそうになってしまった。
「……きっと真里亜が一緒でなくても、幸せになれますわ。お家柄もよく、凛々しいお顔立ちだと聞いております」
「いや! いや! 華族の娘だもの。家のために結婚しなくてはいけないことは覚悟していてよ。だけど、せめて真里亜が一緒でなくてはいやっ」
 お嬢様はいやいや、と激しく頭を振りながら、私の胸に顔をうずめた。
 涙で、メイド服の胸元が湿り気を帯びる。
 泣きじゃくるお嬢様を、私は一晩中抱きしめた。泣きつかれたお嬢様が、眠ってしまってもなお。


「真里亜、ちょっと僕の部屋に来て」
 お嬢様がお休みになったので、私は使用人部屋に向かっていたところ、修二様に呼び止められた。
「何でしょう?」
 怪訝に思いながらも、私は言われるがままに修二様のお部屋に入った。
 修二様はソファーにかけたが、私はドアの近くに立ったままでいた。修二様が私などに何かするなど思ってはいないけれど、念のため。
「姉上の婚約者のことだけど」
「やはりそのことですか」
 お嬢様の結婚は、あと数日に迫っていた。
 私もお会いしたお相手の方は、確かに二枚目で使用人にも物腰柔らかい好青年だと思う。何度か顔を合わせたり、手紙をやり取りしたりする間に、お嬢様も多少心を許されたようだ。それは思慕とは違うようだけれど。
「大分派手に遊んでるみたいなんだよねぇ。ほら見てこれ。僕の親しくしている女の子たちにも、手紙やプレゼントを贈ったりしているそうだよ。不貞行為もしているそうだけど、残念ながらそれは証拠が出せない」
 修二様は机の上に引き出しから取り出した手紙を、何通か広げた。それには軽薄な文章で、安っぽい愛がつづられていた。差出人は確かに婚約者の方で、筆致もお嬢様に見せていただいた手紙の筆致と酷似している。
「……修二様、不特定多数の女性と親しくされているのですか?」
「僕のことはいいじゃない。まだ婚約者がいるわけでもないし、面倒のなさそうな相手を選んでいるから家ではちゃんとした跡継ぎらしくしているだろう?」
 華族の跡継ぎとしてどうか、という懸念はあるけれど、確かにそれは私には関係のないことだ。
「もちろん、向こうもうちとのつながりは欲しいだろうから、姉上のことは本妻として大事にはしてくれると思うけれど、遊び癖はそうそう治らないだろうなぁ。割り切れればいいだろうけれど、姉上は潔癖な方だからね」
「旦那様や奥様でなく、なぜ私にお話になられたのですか」
 相手方の不貞を理由にして婚約破棄されたいのなら、使用人の私に言うよりも、旦那様たちに言うべきだ。
「あの人たちは、女遊びくらい目をつぶれと言うに決まっている。ただ一人の姉を思いやるくらいには、姉想いなんだよ。僕は。姉上を一番に幸せにできるのは、真理亜だと思っただけのことさ。これ。当座必要になるだろう費用はまかなえると思うよ」
 修二様は小さな鞄を私に差し出した。小さいのにずしりと重い。
「自分の目の届かないところで泣かれるくらいなら、一緒に地獄に堕ちたほうがいいと思わない? それが恋だろう」
「修二様……」
 恋だの愛だの修二様に説かれることがあろうとは、思わなかった。嫌いなはずの修二様の言葉だったけれど、確かにずしりと私の胸に響いた。
「ああ、後のことは気にしなくていいよ。僕の要領がいいことは知っているだろう? ただ、落ち着いたら手紙の一つでも書いて」
 私は無言のまま、頭を下げた。そして、修二様の渡してくださった金子を握って、お嬢様のお部屋へ走った。
 旦那様たちに、私を拾ってくださった恩義はある。面倒を残してしまう申し訳なさも。
 それでも私は、お嬢様と地獄に堕ちようと思った。
 
  
 閉めたカーテンの隙間から青白い月光が差し込み、お嬢様のお顔を照らしている。
「お嬢様。申し訳ございません。起きてください」
 すやすやと眠っているお嬢様を、気の毒に思いながらも耳元で話しかけて起こす。
「……んん。真里亜? 何なの、こんな夜中に」
 お嬢様が眠そうに目元をこすりながら、緩慢に体を起こす。
「なぁに?」
 あくびをかみしめながら、お嬢様が首を傾げる。
 時間はなかった。私はずばりと聞いた。
「覚悟はおありですか」
「なんの?」
 唐突な私の言葉に、お嬢様はぱちくりと瞬きを繰り返す。
「真里亜と地獄に堕ちる覚悟です」
 お嬢様は大きな目を見開いた。その目からはぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。
「あなたが、私の気持ちを受け入れてくれるなんて、思ってもみなかったから……」
 細い指で、涙をぬぐう。
「覚悟ならとっくに決めていてよ。それに真里亜となら、地獄だって天国だわ。あなたのいない世界のほうが、私にとっての地獄よ」
 迷わずそう言って微笑んだお嬢様は、この世界で一番美しい方だと、改めて痛感した。
「このままご結婚されれば、今までと同じように何不自由ない生活ができるでしょう。真理亜と一緒になれば、苦労をおかけすると思います。それでもすべてを捨てて、真理亜と駆け落ちしてください」
 お嬢様は返事の代わりに、私の頬に優しい口づけを贈ってくださった。
 小さいカバンに必要最小限のものだけを詰めると、そっとお嬢様の手をとって、屋敷を抜け出す。そしてしっかりと手を握ったそのままで、私たちは息が切れるまで、夜の街を駆けたのだった。



「ねえ真理亜、修二からお手紙がきていてよ」
「なんと書いてあるのですか?」
 見つからないように、お屋敷から離れたところで、私たちはひっそりと暮らしていた。
 縁あって私は小料理屋で働けることになり、店主のご夫婦のご好意で、そこの二階に住まわせてもらっているのだ。お嬢様はカフェの女給をしている。
 以前のような豊かな暮らしとは程遠いけれど、女二人でささやかに暮らすには充分だ。お嬢様はこの生活を楽しんでいるようだった。
 お家が傾いた、などと書いていなければいいのだけれど……。無責任にもほどがあるが、私はお屋敷が傾いてほしいなどとは露にも思っていなかった。
「ええとね……」
 旦那様や奥様が当然のことながら、当初たいそうお怒りだったこと。だけれど修二様とお嬢様の婚約者が仲良くなられたことで丸く収まり、問題にならなかったこと。そのため、旦那様たちのお怒りもなくなったこと。屋敷にも顔を出してほしいこと。
 簡潔に言えば修二様の手紙は、そのように綴ってあった。
「仲良く……お友だちになったということね。素敵だわ」
「そうですね」
 丸く収まったのなら、嬉しいことだ。お嬢様とご家族を断絶せずに済むのなら、当然そのほうがいいのだから。
「それより真理亜?」
 不服そうに口を尖らせるお嬢様。
 可愛らしいけれど、何がご不満なのか分からない。
「いつまで私をお嬢様なんて呼ぶつもり? それに屋敷を出て、もう主従関係はないのだから、かしこまった口調はやめてちょうだい!」
 とはいっても、十数年染み付いた呼び方と口調を変えるというのは至難の業だ。
よほど私は困った顔をしていたのだろう。ブスッとしていたお嬢様は、急にくすくすと笑った。
「ゆっくり変えてくれればいいわ。私たちの時間はたっぷりあるものね?」
 肯定のために私はお嬢様の唇を、ゆっくりとふさいだ。


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