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あたしが康輔に素直になれないのには理由がある。
三年前、中一の秋、ちょうど今くらいの時期だった。
康輔と二人で下校しようとしていた時のことだ。
校門を出てすぐのところに水たまりがあって、あたしが一瞬立ち止まったら、つっかえた康輔が後ろからぶつかってきた。
あたしも靴を濡らしたくなくて踏みとどまろうとしたから、行き場のなくなった康輔が体を支えようとして、ちょうどあたしの腰のあたりに後ろから抱きつくような体勢になってしまったのだ。
さすがのあたしも、いくらはずみとはいえ、男子にそんなことされるとは思ってなかったからその時は動揺してしまった。
しかも康輔はあたしからなかなか離れようとしなかった。
『なにしてんのよ』
あたしは思わずひじを突き出して康輔を振りほどいてしまった。
振り向くと、康輔は鼻血をたらして立ちすくんでいた。
『ちょっと大丈夫?』
『あ、ああ』
康輔はぼんやりと突っ立っているだけで、鼻血を止めようともしていなかった。
あたしはとっさに鼻の付け根をおさえてやった。
『やらしいこと考えてたんじゃないでしょうね』
『ちげえよ、思いっきし鼻をぶつけちまったんだよ』
そのころはまだあたしと康輔は頭半分くらいの身長差だったから、ちょうどあいつの鼻があたしの後頭部にグニッとめりこんだのだ。
『おさえててあげるから、ティッシュ出してふきなよ』
『持ってねえよ』
『じゃあ、自分でおさえてよ。あたしの出すから』
康輔に自分で鼻をおさえさせて、あたしは鞄からティッシュを取り出した。
『ほら、鼻に詰めなよ』
『おう、サンキュー』
そのまましばらくあたしたちはその場にいて、鼻血が止まるのを待った。
そのとき、康輔がぽつりとつぶやいたのだ。
『おまえの髪の毛っていい匂いするな』
はあ?
『女子の髪の匂いかぐなんてヘンタイじゃん』
『しょうがねえだろ。鼻から突っ込んじまったんだからよ』
あたしはつい、言ってはいけないことをいってしまった。
『キモイよ、コースケ』
『なんだよ、ほめてんだろ』
『べつにそんなことでほめられたくないし』
売り言葉に買い言葉。
ただのはずみ。
だけど、なんか自分から引くに引けなくなってしまっていた。
『さっきもさ、抱きついてなかなか離れないし』
『しょうがねえだろ。目の前は水たまりで、二人ですっころんだら馬鹿じゃん』
引っ込みのつかなくなったあたしは、押すことしかできなくなっていた。
そしてあの一言を言ってしまったのだ。
『好きな女の子に抱きついてラッキーとか思ったでしょ』
それは無意識な一言だった。
自分でもなんでそんな一言を付け加えたのか分からなかった。
ただ単に、女の子に抱きついたと言うつもりだったのに、『好きな』という言葉が出てきたのが間違いだったのだ。
『べつにそんなことねえし』と、康輔はそれっきり黙り込んでしまった。
なによそれ。
否定するんだ。
ただ、それが、『好きな女の子』に対する否定なのか、『ラッキー』に対してなのかが分からなかった。
でも、それを聞くことはできなかった。
あたしは、急に怖くなったのだ。
ねえ、どっち?
どっちを否定したの?
もしかして、両方?
それもこわい。
それから黙ったまま二人並んで歩いた。
分かれ道の交差点で『じゃあな』と康輔が去っていくのを、あたしはただ見送ることしかできなかった。
聞きたかったんじゃない。
言いたかったんだ。
好きなのはあたしの方だって。
追いかけて、ぎゅって袖を引っ張って、振り向かせてちゃんと気持ちを伝えればよかったんだ。
でも、あたしにはできなかった。
猫背の康輔の背中をただ見ていることしかできなかった。
あたしには何もできなかったのだ。
その出来事以来、あたし達の間で、そういう話が出てくることは二度となかった。
お互いにそういう雰囲気になりそうになるのをたくみに避けあっていた。
その次の日だって、康輔はいつもと変わらない様子で『オッス』と言ってくれた。
まるでけんかしたことなんか忘れているみたいで、あたしも普段通り接していた。
康輔は忘れたふりをして、仲直りしようとしているんだなって思った。
だから、あたしもそれに合わせることにしたのだ。
居心地の良い関係を崩さないこと。
あのとき、それがあたしたちの間で、暗黙の了解事項になったのだ。
あたしは本当の気持ちを口に出してしまわないように気をつけるようになった。
出したら、その瞬間、終わりなんだ。
パチンとスイッチをオフにしたみたいに楽しい時間が終わる。
その時間すらなかったかのように、真っ暗な画面だけが残るんだ。
いやだ。
それは絶対に嫌だ。
あたしは康輔とずっと一緒にいたい。
あたしはね、康輔のこと好きだよ。
一緒にいると楽しいし、気軽にくだらないことを言って笑い合えるし。
康輔のことが好き。
言いたいことはたくさんあったし、正直に言えば良かった。
でも、どうしてもその言葉はあたしの口からは出せなかった。
声に出そうとすると喉が詰まりそうになる。
ものすごく息苦しい。
大事なことを言おうとすると、いつもそうなってしまうのだ。
そして、あたしはそのとき、気づいたのだ。
本当はずっと前から気づいていたんだ。
もしかして、これが恋なのかな……と。
ただの好きとは違う、もっと大切な気持ち。
その人のことを想うといても立ってもいられなくなるような熱い気持ち。
考え出すと止まらなくなる素直な気持ち。
本当は、ちゃんと分かっていたんだ。
でも、分かってしまった瞬間、とても恐ろしくなって、あたしはその正直な気持ちを心の奥に閉じ込めてしまったのだ。
見せて壊れたらどうしよう。
あたしの気持ちが壊れるだけならいいけど、康輔もあたしのそばからいなくなってしまう。
それが嫌だったし、怖かった。
いなくならないように康輔の手を握りしめていればいいのに、そんなことをした瞬間、振りほどかれたら悲しくなる。
だからあたしは康輔に確かめることも、康輔に素直な本当の自分を見せることもできなくなってしまったのだった。
逃げたのは幼かったあたし。
自信がないのもあたしの方だ。
康輔に飛び込んでいってありのままの自分を受け入れてもらう自信なんか全くない。
中一のあの日以来、あたしは気づかないふりをして自分をごまかし続けることにしたんだ。
でも、それは決して悪いことではなかった。
だって、そのおかげであたしたちはうまくやってこれたんだから。
これからだって、それでいいはずなんだ。
康輔がちょっと他の女の人に興味を示したからって、あたしにできることは何もない。
今までと同じ、これからも同じ。
それでいいじゃない。
それで……。
午後の休み時間に教室の窓から外を見ていたら、桜並木の奥の方から校舎に向かって歩いてくるジャージ姿の男子が目についた。
康輔だ。
猫背だから遠くからでもすぐ分かる。
体育の授業が終わったのかな。
茶色く色づいた桜並木がわさわさと音を立てた。
キンモクセイの香りが鼻をくすぐる。
くしゅん。
くしゃみで一瞬目をつむった。
目を開けたとき、康輔はもういなくなっていた。
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