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翌朝、自然に目が覚めて以前と同じように朝食を食べた。
お母さんの出汁巻き卵はこの世で一番おいしい朝のおかずだ。
「病院のもおいしかったけど、やっぱりうちのご飯が一番だね」
「あら、そう。それはよかったわね。しっかり食べられるのっていいことよね」
うれしそうに話すお母さんがあたしの顔をのぞき込む。
「学校大丈夫?」
「うん、平気だよ。無理はしないよ」
「遠慮しないで、具合悪くなったらすぐに保健室に行きなさいよ」
「うん、そうする。行ってきます」
「お薬持った?」
「うん、大丈夫」
いつもより五分早めに家を出た。
いつもの坂をゆっくりと下る。
空気がひんやりとしている。
事故で入院してから三週間近くが過ぎていた。
もうキンモクセイの香りはどこからも漂ってこなかった。
毎年ほんの二、三日くらいなんだよね。
短期間だけど、同じ時期に香る。
律儀って言うんだよね、こういうの。
あたしが花の名前をけっこう知っているのはおばあちゃんのおかげだ。
散歩の途中、あたしがどれを指さしても、これはキンモクセイ、これはシャクヤク、あれはサルスベリだよと花好きなおばあちゃんはなんでも教えてくれたっけ。
坂の途中、お地蔵様の前で立ち止まる。
おかげさまで、西谷かさね、戻って参りました。
今日のお地蔵様はなんだか寂しそうだ。
どうしたんですか、元気ないですね。
それはつまり、あたしがそういう気持ちだから、そういう表情に見えるってことか。
「元気ですよ、あたし」
声に出してつぶやいてしまった。
なんかちょっと恥ずかしい。
まわりを見回して、誰もいないことを確かめた。
よし、大丈夫。
では、行って参ります。
心の中でお地蔵様にあいさつを済ませて薄井駅に向かった。
北口の階段を上がって改札前に立つ。
ゆっくり歩いてきて、ちょうどいつもの時間だった。
なんとなく顔を知っている空港勤務のお姉さんや成田方面の高校に通う学生がどんどん改札を通過していく。
でも、南口の階段を上がってくるはずの康輔が来ない。
あたしが退院したってことを知らなくて、違う電車でもう行っちゃったとか?
連絡できなかったから、行き違いになっちゃったのかな。
あたしは反対側の階段を下りてみた。
南口ロータリーを見回してみても、猫背で横幅の広い男子学生の姿はない。
カバみたいに大きな口を開けてあくびしながら歩いてるんじゃないかと、もう一度見回してみたけどやっぱりいないようだった。
下り線に電車が到着するというアナウンスが聞こえてきた。
しょうがない。
行こう。
南口の階段を一段ずつ踏みしめながら改札口に上がる。
やっぱり康輔はいない。
鞄から交通カードを取り出す。
久しぶりに改札機にタッチする。
うまく反応するかちょっとだけ心配だったけど、機械はいつも通り反応してゲートが開く。
何も変わったことはないのに、緊張してしまう。
あたしのまわりをどんどん人が追い越していく。
人の流れに乗るのって、こんなにも大変なことだったっけ。
ホームに下りる階段がちょっとこわい。
いつもは康輔と駆け下りてるのに、今日は一人だからかな。
ちょうど滑り込んできた電車のいつもの車両に乗る。
いつものようにドアのところに立つ。
でも、康輔がいない。
他の乗客は見覚えがある。
向かい合わせに立っているはずの康輔だけがいない。
ドアが閉まって電車が動き出す。
印旛沼が輝き、背景に似合わないオランダ風車の横を通り過ぎる。
いつもと変わらない車窓を眺めているのはあたし一人だ。
ゆるいカーブで減速した電車が軽く揺れる。
汚れた窓ガラスが白く輝く。
そこに映っているはずの康輔がいない。
考えたくないことばかりが思い浮かぶ。
康輔がいない。
すれ違って会えないとか、そういうことじゃなくて、もしかして……。
いないの?
八重樫康輔っていう男子高校生なんて、どこにもいないってことなの?
どういうことなのよ。
ねえ。
まわりの乗客はいつもと同じ顔ぶれだ。
事故の前と変わらない人たちだ。
スマホをいじる人たち。
反対側のドアにもたれかかって単語帳をめくっている高校生。
隣の人にもたれかかりながら居眠りをしているおじさん。
やっていることまで事故の前と変わらないのに、康輔だけがいない。
まわりの人たちはあたしが三週間ほどいなかったことに気づいてたかな。
顔見知りの乗客に尋ねてみたかった。
あたし、いつも猫背の男子高校生と一緒に乗ってましたよね。
あたしがいない間、その彼は一人で通学してましたか。
でも、そんなことを聞いたら気味悪がられるだろうな。
顔に変な汗がにじみ出てくる。
乗り物酔いのような感覚がこみ上げてきて、あたしは考えるのをやめた。
心臓が駆け足を始める。
待ってよ。
そんなに焦らなくても大丈夫だから。
落ち着かなくちゃ、ね。
自分に言い聞かせようとしても、自分の体が言うことを聞いてくれない。
ハンカチでぬぐっても汗が止まらない。
どうしよう。
吐きそう。
康輔……。
助けて、康輔。
笹倉駅に到着してドアが開く。
外から吹き込んできた風に汗が冷やされて、体が自然に震え出す。
他の乗客に押し出されてホームに降り立つ。
改札口へ向かう人波から外れてあたりを見回してもやっぱり康輔はいなかった。
まるでシャワーを浴びたばかりみたいに髪がぐっしょりと濡れている。
通りがかりの人の視線を感じる。
あたしはスマホを見ているふりをしながらハンカチで汗を拭い続けた。
下り電車が発車して行ってしまうと、向かい側の上り線ホームに人がずらりと並んでいる。
全員から弓矢を射られているみたいで視線が痛い。
どちらにしろ、あたしには逃げ場がないようだった。
額に張りついた前髪をかき分けながらあたしは一人歩き出した。
改札口を出て階段を下りたところで声をかけられた。
「かさね、おはよう」
ミホだった。
「え、どうして? 待っててくれたの?」
「待ってないよ。いつも来る時間同じだったじゃん。だから今の電車だろうなと思ってさ。あたしもさっき着いたばっかり」
待ち合わせをしようと事前に連絡していたらあたしが遠慮すると知ってて、内緒で待っていてくれたんだろう。
気をつかわせてごめんね。
わざわざありがとう。
でも、それを言ったら、せっかくの好意が台無しになるんじゃないのかな。
あたしは出かかった言葉を飲み込んでしまった。
その瞬間、胸の奥をかきまわすような感覚が沸き起こってきた。
康輔にしてきたことと同じだ。
言うべきことを言わなくて、言えばよかったと後悔するいつもの悪い癖だ。
やっぱり言わなくちゃと思ったときには、駅の階段を上がる人たちがあたしたちを邪魔そうによけていたので、ミホが歩き出していた。
あたしはその背中を追いかけながら、全然違う言葉を口にしていた。
「ていうかさ、こっちに来ちゃったら、ミホ坂道往復じゃん。朝からいい運動だよね」
ミホの家は笹倉城の丘をはさんだ駅の反対側だから、二十分くらい早めに出てきたんじゃないだろうか。
「でしょ。もうダルダル。脚パンパン。体育休みたいよね。知ってる? 今日からマラソンだよ」
あたしが入院している間に授業内容も変わったようだ。
「ぐあ、マジ? ま、あたしは見学だけどね」
ミホが軽く振り向きながら手を広げた。
「いいなあ……とは言えないか。早く体調戻るといいね」
「ホントはもうなんともないんだけどね」
「そうなの? 良かったね。でも無理しない方がいいよ」
「うん、ありがと。ありがとうね、ミホ」
やっと言えて、あたしもほっとした。
「大事なことだから二回言った?」と笑ってくれる。
「うん」
「素直だね、かさねは」
「素直だよ、あたし」
いつも康輔と歩いていた武家屋敷の坂道を今日はミホと一緒に歩く。
やっと言いたいことは言えたけど、でもやっぱりあらためて康輔のことを聞くわけにはいかない。
これ以上迷惑も心配もかけてはいけない。
あたしの妄想ということで終わらせるしかないんだ。
滑りやすい坂道を一歩一歩しっかりと踏みしめながら上る。
竹藪からワッて飛び出してきてくれないかな。
『だまされただろ。ずっと隠れてたんだぞ。ドッキリだぜ』なんてね。
いくらあいつでも、そんなセンスのないイタズラしないか。
ため息しか出ない。
そんなあたしの様子を見て、ミホが心配したらしい。
「大丈夫? 疲れた?」
「ううん、平気だよ。ここさ、前に滑ったことがあってね」
「そうだよね。苔なのかな。こっちは北側で日陰だもんね。うちの方の坂はね、こんなに滑りやすくはないよ。こんなに急じゃないし」
「へえ、そうなの」
少しミホの息が荒い。
「なんか、坂がきつすぎてアキレス腱伸ばす運動してるみたいだよね」
膝に手を当てながら歩いている。
あたしの方は慣れているせいか、病み上がりのわりにそれほど苦しくはない。
でも、そういえば、高校受験の時に、康輔が文句を言ってたっけ。
『マジかよ、この坂。おれ、毎日通える気がしねえよ』
『受かってから文句言いなよ』
『受かる気もしねえし。落ちたら無駄じゃん。このまま帰りてえよ』
運良く受かってからも、入学して最初の頃はずっと文句を言ってたっけ。
あれが幻だったなんてことはあり得ない。
でも、今、康輔はいない。
あたしだけ、ここにいて、康輔がいない。
康輔に何があったんだろう。
康輔がいなくなるような何か重大なことが起きた。
それがなんなのかは分からないけど、存在していた人がいなくなるほどの何かがあったんだ。
あの自動車事故?
でも、それならそれで、いなかったことにはならないはずだ。
ニュース記事によれば事故で死んだわけではないらしい。
でも、だからこそ、なんでいなくなったのかがまるで分からない。
ミホの様子からしても、いなくなったというより、最初から存在しなかったことになっているみたいだし。
もう一度ミホに確かめてみたい、聞いてみたいと思いつつ、出てきた言葉はただの軽口だった。
「マラソンの準備体操にちょうどいいじゃん」
「よくないよ。かんべんしてよ」
二人で笑っているうちになんとか坂を上りきる。
そこは勾玉神社、あたしが巻きこまれた事故現場だ。
あの時は突然記憶が途切れたんだった。
パチン!
夜中に停電したみたいに真っ暗になったのだった。
今、初めてその場所に戻ってきた。
冷静に神社の様子を眺めている自分が他人のように思える。
なんだかドローン撮影されたドラマのセットを見ているみたいだ。
鳥居がなくなっていて、康輔にそっくりだった左側の狛犬もブルーシートで覆われている。
右側のだけは無傷で残っていた。
勾玉様のゆるキャラが描かれていた七五三予約の看板もバラバラになって境内の片隅に積み上げられている。
ひどい状態なのに、自分が巻き込まれた事故だという実感は意外とわいてこなかった。
病院でお父さんから事故の話を聞いたときもそうだった。
あまりにもショックが大きすぎて、現実として受け止めきれないのかもしれない。
「ねえ、ミホ、狛犬も壊れちゃったの?」
「うん、そうだよ。車は本殿の手前まで行っちゃってたんだって」
そうか、そんなにひどかったのか。
でも、あの最後の瞬間の記憶はある。
康輔があたしに向かって腕を伸ばしてくれたこと。
今思えば、あれはあたしを守ろうとしてくれていたんだ。
だからおそらくあたしはひどい怪我をしなくてすんだんだろう。
『何かにくるまれていたみたいに』というのはそういうことなんだろう。
でも、じゃあ、なおさら康輔はどうしたの?
康輔がいなかったら、あたし、死んでたんだよね。
康輔のおかげで助かったんだよね。
だったら、康輔がいないのはおかしいじゃない。
いない人に助けてもらったって、なんだか意味分かんないよ。
どこかに絶対いるはずだよね。
だとしたら、いったいどこにいるの?
考え込んでしまっていたせいで、ミホがまた心配していた。
「大丈夫? やっぱり見ると怖いんじゃない?」
「ううん。意外となんともないよ」
「よかった。倒れたら背負っていかなくちゃならないかなって心配してたんだから」
「あたし、軽いから平気だよ」
「どれ、背負ってやるよ」とイケメンモードのミホが中腰になる。
思いっきり背中に体を預けると悲鳴が上がった。
「いや、マジ、ムリムリ」
「ちょっと、ひどーい」とあたしはよけいに体を預けた。
「いや、マジで無理だって、ホントホント」とミホが笑い出す。
そりゃそうだよね。
高校生だもん。
幼稚園の子供じゃないんだし。
ふと、自分が情けなくなる。
心は幼いまま体だけ大きくなっちゃったのかな。
もっとしっかりしなくちゃな。
あたしは起き上がってミホに手を貸してあげた。
「ごめんごめん。調子に乗っちゃった」
「まあ、いいってことよ」とミホも調子を合わせて立ち上がる。
「ミホがイケメンだったら良かったのに」
「いやいや、イケメンでも持ち上げられないって」
「あ、それ、マジでひどいじゃん」
「いやでもさ、お姫様抱っことかって、どんだけマッチョじゃないとできないんだろうね。うちらには無理じゃん」
「え、持ち上げてもらうのが? あたしはそんなにポッチャリさんじゃないよ」
康輔にはペタンコだってからかわれてたし。
でも、今はその話題を出しても、また『誰?』って言われちゃうんだろうな。
手をはたきながらミホが微笑む。
「体重はオーケーかも知れないけど、イケメンを捕まえるのが無理。うちらの学校、イケメン絶滅区域だから」
「悲しいこと言わないでよ」
「それが運命ってものさ」と、ミホが片目をつむりながら決めゼリフっぽく言う。
あたしは思わず吹き出してしまった。
「さっきからそのしゃべり方、イケメン設定?」
「どこにもいないから、セルフサービスになっております」とミホが笑う。
「じゃあ、お皿を返しに行くのくらいは手伝ってあげるよ」
「かさねの返しって、たまに意味が分からないよね」
「返しだけに?」
ミホのおでこが赤くなる。
「うわ、気がつかなかった。めっちゃ恥ずかしい」
浮き出た汗をペタペタとぬぐっているミホを眺めながら、あたしはふと、康輔だったら支えてくれたかなと思った。
無理矢理背中に飛び乗ったら怒るかな。
猫背の背中に頭を乗っけて『康輔大好き』って言ったら許してくれるかな。
想像の中の康輔は返事をしてくれない。
こちらを向いてくれることのない丸い背中に向かってあたしは何度も問いかけていた。
ミホが手で顔をあおぎながらスマホを見た。
「おっと、学校行かなくちゃね」
「うん、そうだね。久しぶりなのに、遅刻したらまずいよね」
あたしたちは神社を出て学校に向かった。
「そういえばさ、この前の実習でね……」
歩きながら、休んでいる間に学校で起きたことをミホが教えてくれた。
みじん切り千本ノックから、クレーム・ブリュレ黒こげ事件と、ころころ話題が移っていく。
久しぶりの、いつもの調子だ。
ここにはいつもの日常がある。
でも、康輔だけがいない日常だ。
友達の話にうなずきながらあたしは康輔のことを考えていた。
今のこの状況が理解できない。
康輔はいなくなってしまったの?
康輔なんて、元からいなかったの?
あたしの妄想だったの?
そんなはずはないよね。
ずっと康輔と一緒だったじゃん。
あんなに完璧な妄想を思いつくほどあたし頭良くないし。
三年分もずっと夢を見ていたの?
そんなはずないよ。
でも、だとすればやっぱり康輔はいなくなってしまったことになる。
もう一度ミホに確かめたいけど、あたしがどうかしてしまったんじゃないかと心配させてしまうだろうから、それはできない。
もう何度同じことを繰り返して、元の場所に戻ってきてしまったんだろうか。
ミホの話にぼんやりと相づちをうっているうちに、学校に着いてしまった。
下駄箱で靴を履き替えるとき、あたしはチラリと後ろの棚を見た。
いつもの場所には、康輔の名前も上履きもなかった。
なんか想像通りだったので逆に驚かなかった。
やっぱり……。
「どうしたの?」
ミホがあたしの視線の先を見ている。
「え、べつに」
「なんだっけ、康輔君だっけ?」
とっさにごまかしたつもりだったけど、友達には見抜かれていたらしい。
「え、ああ、病院であたしが話したこと? ううん、ちがうよ」
あたしが否定すればするほど、勘のいい友達にはばれてしまう。
「康輔君、普通科だったの?」
「違うよ。ただちょっと後ろを見ただけ。なんでもないって。ホントにごめん。笑っちゃうよね、アハハ」
「他の人なら、分かるかも」
「だから、違うって!」
つい、声が大きくなってしまった。
しまったと思ったときは手遅れだった。
「ごめん」
ミホが固まっている。
あたしが言わなきゃいけない言葉なのに、先にミホに言わせてしまった。
「ご、ご……ん」
声がかすれてしまった。
もっとちゃんと謝って、心配かけないようにしたいのに、全然言葉が出てこない。
あたしはいつもこうなんだ。
かんじんなときに何も言えなくなってしまう。
ちょうど登校してきた同級生があたしに声をかけてくれた。
「あ、西谷ちゃん、久しぶり。学校来ても大丈夫なんだね。良かったね」
「うん、ありがとう」
ミホがうつむいたまま一人で教室に向かって歩き出してしまう。
別の同級生も何人かやってきて、あたしを囲んでみんな温かい言葉をかけてくれる。
あたしはこんなに恵まれているのに、大事な友達を傷つけて何もできないでいる。
せっかくあたしの話を真剣に受け止めてくれていたのに、あたしは突っぱねてしまった。
予鈴が鳴ってみんなと一緒に教室に向かう。
同級生に囲まれながら、あたしは先を行くミホの背中を見ていることしかできなかった。
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