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第三章 いつもと違う夏休み(3-1)

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 夏休みに入っても、僕たちは毎日登校して文化祭準備を進めていた。補習の連中も顔を出していたし、時間割がないだけで、授業のあった日とあまり変わらない生活だった。
 黄瀬川さんは文化祭委員として、軽音部と掛け持ちで時間ができた時に教室に来てくれた。
 美来も家庭科部の先輩達と衣装の相談をしながら、教室にも顔を出して脚本作りも手伝ってくれている。
「これ、どうぞ」
 美来と僕と三人でお昼を食べたあとで、遠野が熊のような体格に似合わないチェック柄の紙袋を取り出した。甘いにおいが漂う。
「何、お菓子?」
 美来が袋を開いて中をのぞき込む。
「あ、クッキーだ。いただきます」
 一口サイズでシンプルなクッキーだ。僕も一つもらった。サクサクとした歯ざわりなのに、口溶けが良く、甘さもちょうどいい。『ええとこのオヤツ』の味だ。
 美来がうなずきながら言った。
「へえ、おいしいね。手作りでしょ?」
「昨日作ったんだ」
 僕は思わず粉を噴きそうになった。
「え、遠野の手作り?」
「上手だよね」
 美来の感想に遠野の顔が輝く。
 美来がもう一枚口に入れた。うなずきながらさらにもう一枚食べた。
「あ、私ばっかり食べちゃった。おいしいから、つい、ごめんね」
 遠野、よかったな。
「これ、焼き加減が絶妙だね。初めてじゃないでしょ」
「うん、たまに作るんだ」
「粉もよくふるってあるね」
「ああ、三回くらいふるうよ。やっぱり仕上がりが違うだろ」
「そうなのよ。よくさ、クッキーの作り方教えてとか言われるんだけど、粉を三回ふるいなって言うと、面倒くさいとか言うやつばっかりで、あたしの方が面倒くさいよ。お菓子作りの超基本なのにね。無塩バターがないからって冷蔵庫にあるマーガリン使うとか、意味わかんないし。遠野君のこれはいいわ。ちゃんとしてるのが分かる。とにかく焼き加減が絶妙」
 二度も言った。よかったな遠野、美来のお眼鏡にかなったな。
 繊細な味わいが遠野のイメージにはまったく合わないが、確かにおいしい。手作りにありがちなナマっぽさとか、粉っぽさとかがない。美来の言うように、焼き加減が絶妙で、鼻を抜けていく小麦の香りがおいしさをふくらませている。
「これさ、キルシュ入ってるよね」
「すごいな、岩瀬さん、そこまで分かるんだな」
「あと一つなんか入ってるけど、それが分からない」
 美来は腕組みをして真剣に考えている。
 遠野がつぶやく。
「あ、あいじょうとか、かな」
「そういうのいらないから」
 美来の即レスが俺にも痛い。遠野、生きてるか?
「あーくやしい。わかんないや」
 美来はもう一枚口に放り込んでボリボリと音を立てた。
「ま、いいや。ねえ、あたしさ、来年のバレンタインにチョコ作ってくるから、遠野君はホワイトデーにクッキー作ってよ」
 遠野はフリーズしている。僕が横から助け船を出してやった。
「ずいぶん先の話だな。まだ夏だぞ」
「べつにいいじゃん。ねえ、遠野君」
「うん」
 遠野は鼻の下をこすりながらうなずいた。
「よし、対決だからね。負けないよ。ごちそうさま。じゃあ、あたし家庭科部に行ってくるね」
 テコ入れでバトル路線に変更されたお料理漫画みたいな展開だな。恋愛要素のかけらもないよ。
「よかったな遠野。あいつ喜んでたじゃん」
「ああ、俺、中学の時からお菓子作りをやっててさ。生徒会役員で集まる時によく差し入れで持っていってたんだ」
「へえ、そうなのか」
「女子って、お菓子好きだろ。話のきっかけにちょうどいいんだよ。おいしいお菓子は嫌われない」
 そんな計算をしてるのか、遠野は。ちょっと意外な気がした。
 他の女子たちが教室に入ってきた。
「あ、何かいいにおい」
「クッキーあるんだ。どうぞ」
「へえ、ちょうだい」
 遠野は紙袋をバリバリと裂いて机の上に広げた。女子たちの手が集中して、あっという間になくなった。
「おいしいね。どうしたの、これ?」
「作ったんだ」
「委員長が?」
 うなずく遠野を女子たちの賞賛の声が包み込む。
「すげえ、委員長、ヨメにしたい」
「マジうまいね」
「補習出てきてよかったわ」
「また作ってきてよ」
 クッキーのおかげで遠野が急にモテ始めた。こういう得意技があるやつはいいな。僕は人に喜んでもらえるようなことは何もできない。女子に受け入れてもらうために努力することもできない。
 クッキーを食べ終わった女子たちがいなくなって、僕は遠野に言った。
「僕は美来からバレンタインにチョコをもらったことはないんだ。よかったじゃないか。今から約束されてて」
「へえ、そうなのか」
 あんまりうれしそうではなかった。
「なんだよ、どうした?」
「やっぱりさ、滝沢と岩瀬さん、仲いいだろ」
「だから中学が同じだけで、そういう仲じゃないよ」
「べつに俺は滝沢を恨んでるとか怒ってるとかじゃないよ。でも明らかに二人の方が仲いいからな。うらやましいよ」
「あいつだって、そう言われるとすぐ否定するだろ」
「照れてるんじゃないかな」
「そんなことないよ。そもそも僕の方だって、美来のことをそんな風に思ったことないし。あくまでも話が合う仲間だよ」
「でも、正直、うらやましいよ。俺は岩瀬さんとあんな風に気軽に話せないからな」
「それは意識してるからだろ、好きだって。そういうときって緊張するじゃん」
 僕は黄瀬川さんと話すときの緊張感を思い浮かべた。僕は黄瀬川さんが好きなのか。
「それにさ、さっきお菓子作りの話で普通にしゃべってたじゃん」
 遠野が僕の方を見ながら笑みを浮かべた。
「普通だったかな」
「そうでなきゃ、美来もあんな約束しないだろ」
「まあ、俺なりに頑張ってみるよ」
 素直に応援しているとは言えなかった。言ったところで僕なんか何の役にも立たないと思う。せっかく友達になれたんだ。遠野にはそういう軽い約束はしたくはなかった。
 そのとき美来の顔が思い浮かんだ。でも、遠野の隣で微笑む姿は想像できなかった。
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